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小森はるか お地蔵さんは待っていてくれる[『図書』2026年10月号より]

お地蔵さんは待っていてくれる

 

 旗野秀人さんと初めてお会いした日のことはよく覚えている。渋谷にある映画館、ユーロスペースだった。1992年に完成した映画『阿賀に生きる』が16ミリフィルムニュープリントで20年越しの全国ロードショーを迎える、そんな封切りの日。

 私は旗野さんのことを何も知らなかった。『阿賀に生きる』をDVDで観て感銘を受け、製作関係者の話を聞きたいと思い立った。たまたま見つけたニュープリント作成カンパ集めのチラシに、連絡先が載っていてメールしたのだ。肩書きには「阿賀に生きるファン倶楽部代表」と書かれていた。『阿賀に生きる』の感想や、監督の佐藤真さんの著書を読んだこと、いま映画制作で悩んでいることなど、自分の話ばかりの長いメールを送った記憶がある。「この日にユーロスペースに来られますか?」と、すぐに短くお返事をいただいた。

 旗野さんがその時私にコピーして持ってきてくださったのは、佐藤真さんが亡くなる前、旗野さんに送った最後の文章だった。こんな大切なものを出会ったばかりの学生に渡していいものだろうかと、私ですら思った。次にはカバンからお酒が出てくる。これから映画が始まるというタイミング、旗野さんは舞台挨拶にも立つはずなのに、まず乾杯しようという。上映後は打ち上げがあるから、そっちが本番だよと誘ってくれた。一緒に来ていた友人まで「あなたも来ていいから」と言われ、なんだかよく分からずついていったら、本当に関係者しかいない公開初日のめでたい席に参加させてもらうことになった。恐縮しながらも贅沢な時間だった。旗野さん流に大変もてなされていたのだと、後から気づいた。なんでそんなことまでしてくれるんだろう。いや、旗野さんの網に引っ掛けられたともいえる。佐藤真さんも、『阿賀に生きる』に関わった人たちもみな、こんな風に阿賀から引き返せなくなったんじゃないかと思う。

お地蔵さんは待っていてくれる 小森はるか 01
ⒸKomori Haruka

 旗野さんは新潟県阿賀野市(旧安田町)で大工の三男として生まれ、家業を継いだ。阿賀野川中流域に位置するこの地域でも、新潟水俣病の被害者が出始めたことをきっかけに、20代の旗野さんは患者の掘り起こしに奔走する。当時、水俣病の症状があっても患者とは認定されない人たちが続出していて、「安田未認定患者の会」も同じ状況だった。旗野さんたちは行政不服運動を10年かけて行うも、誰一人認められない。もう裁判しかないという段階で、旗野さん自身は相手の土俵で争うことの限界を感じていたという。支援に努めながらも、一方で違う切り口での闘い方を模索し続け、患者さんたちの生活史をガリ版刷りで残していく。こちら側にも土俵をつくるため、記録して伝える「文化運動」という在り方に辿り着いたのだった。「水俣病」という言葉の出てこない、水俣病患者たちの聞き書き集は『あがの岸辺にて』という美しいタイトルだ。

 それから数年後、助監督になりたての佐藤真さんが、ひょっこり新潟に現れて旗野さんと出会ってしまう。「水俣病という言葉を使わなくても、この囲炉裏話をそっくりそのまま撮れば立派な映画になる」。旗野さんの口説き文句に、二人は意気投合した。酒好きなところも気が合ったらしい。そして素人ばかりの若き映画スタッフたちが、阿賀野川のほとりに住みながら3年かけて『阿賀に生きる』はつくられていった。水俣病の被害者像を当てはめずに、水俣病になった人たちがいきいきと川と共に生きる姿を活写した映画は、完成を迎えると当時としては異例の劇場公開されたドキュメンタリー映画として話題になり、世界各地で上映され、地元でも愛された。

 

 けれど旗野さんが映画をつくりたかったのかといえば、そうでもない気がする。「たまたま佐藤さんに出会ったから映画だった」と語る。映画を鑑賞者に届ける営みとも、社会運動の手段とも何か違う。映画に写されたじいちゃんばあちゃんたちのことを、かっこいいとか、面白いとか、どんなことでもいい。何か感じて記憶する人が一人でも増えればいい。私の勝手な解釈だとそういうことが旗野さんにとっては最も大事なのではないかと思う。その人が水俣病の患者であるから、ということでも、もはやなさそうだ。

 旗野さんの近くにいる機会が増えてわかったのは、患者さんではなくても高齢の友達や旗野さんファンの若者たち、近くにいる家族や遠くに住んでいる支援者、誰であろうと困っている人や元気のない人がいたら放っておけない性分。その人が少しでも楽になることをしてあげようとする、それと同じなんじゃないか。じいちゃんばあちゃんたちを観て鑑賞者が喜び、それを見てじいちゃんばあちゃんたちが自分を誇らしく思える場をつくる。旗野さんのいう文化運動は、誰かのそばに寄り添う人が一人でも増えるための場づくりだと、私は思う。大事なのは文化でも運動でもない。映画のために映画をつくっているような自分からしたら、その切実さにはかなわない。だから旗野さんのことを撮りたいと思った。最初からというより段々とそれに気づいた。困っている人のそばに居てあげる、旗野さんだから成せた支援の形と、そんな人が現代にいることに希望を感じるから、伝えたいのだと。

お地蔵さんは待っていてくれる 小森はるか 02
ⒸKomori Haruka

 旗野さんへ映画をつくりたいと正式にお願いし、新潟に引っ越して撮影を継続させてもらった。日本海側に住むこと自体が初めてで、太平洋側とはまた違う冬と夏の厳しさを知り、雪解け水でいっぱいになる阿賀野川の春に癒された。旗野さんの暮らす地域からは車で20分ほどの町に住んだので、頻繁にお会いできるようになった。一生分の宴会をしたといってもいいほど阿賀への来客があれば寄り合う。新潟以外へも全国各地、あらゆる愉快な現場に同行させてもらって録画データは溜まっていった。しかし文化運動の裾野が広すぎて、映画には収まりきらないんじゃないかという不安は頭から離れなかった。人が集まってただ楽しそうにしている場は、映像としては文化運動とは何かを語ってくれない。本当に楽しく笑っているだけだ(そこに意味があるのだけれど)。インタビューをお願いしたこともあったが、旗野さんを言葉でわかりやすくしようとするために聞いているみたいでしっくりこなかった。佐藤真さんたちはどうやって『阿賀に生きる』を映画にできたんだろう。観れば観るほど不思議だった。あの映画の中には旗野さんの心象が映っている。

 『阿賀に生きる』公開から30年近く時間が経ったから写せないということもあったと思う。付き合ってきた患者さんたちはあの世に逝かれ、患者会で元気な方は現在一人。旗野さん自身も歳をとり、コロナ禍の波を受けて家業の店じまいを決断した時期。私が撮影できたのは旗野さんの人生の中でも「閉じてゆく」場面に偏っていた。何回目かの編集版を、いつも相談にのってもらっている編集者の清田麻衣子さんに観てもらったとき、旗野さんが死んじゃう時のことを思って寂しくなった、という感想を伝えられた。それはすごく良くなさそうだ。旗野さんが元気なうちに残さなければという気持ちを、形にならないものを形にするための理由にしていたのかもしれない。勝手に背負って余計なプレッシャーにもなっていた。清田さんはその後に「旗野さんも死んじゃうけど、私も死ぬし、小森さんもいつか死んじゃうんだよ」という話をしてくれた。旗野さんも、旗野さんを知っている人たちも、みんな居なくなった後に何が残っていくんだろうか。旗野さんの文化運動が何をこの世界に残してくれたんだろうかと考え始めたら、視界が開けていった。

 

 清田さんに指摘をもらってから改めて素材を見返した。その時の編集版では旗野さんが一人で作業している場面をラストにしていたが、何か違う終わり方を探してみる。全く使っていなかった小学生への授業のシーンが目に留まった。

 毎年新潟県上越市から阿賀野市へとはるばる小学生たちがやってきて、新潟水俣病についての課外授業を受ける。旗野さんが今も現役で続けている仕事の一つだ。旗野さんは必ず、阿賀野川の土手の下に建立したお地蔵さんの前に連れて行って話をする。1995年に13年半続いた裁判が和解決着を迎えた時、裁判が終わったのに地域の中での分断は終わることがなく、みんなが仲良くするにはどうしたらいいのか、と旗野さんは悩んでいた。昔、つつが虫病という流行り病の供養のために立てられたお地蔵さんがあり、集落のみんなが変わらずに大事にしている姿を見て、その隣に新しくお地蔵さんを建てようとひらめいたのだという。阿賀野川の石でつくったお地蔵さんを熊本県水俣に贈り、水俣から運んだ石で阿賀のお地蔵さんをつくった。阿賀と水俣のお地蔵さんは、互いに向かい合うような方角に建てられており兄弟地蔵と呼ばれる。その物語を絵本にして自費出版し、旗野さんは今も子どもたちに読み聞かせる授業を行なっている。映画や文を残す人はいると思うが、お地蔵さんを残そうと思う人はそういないんじゃないかと思う。

お地蔵さんは待っていてくれる 小森はるか 03
ⒸKomori Haruka

 上越から来た子どもたちも事前学習で絵本を読んでいた。「あの絵本は本当にあった話なの?」と驚きながら、にぎやかにお地蔵さんの居る場所に向かって土手沿いの道を歩く。お地蔵さんに群がる子どもたち。順番に手を合わせたり頭を撫でたりして、一人ひとり去ってゆき、最後に2体のお地蔵さんだけが残る長回しのカットがあった。自分で撮っておきながらすっかり忘れていた。子どもに未来を押し付けることはしたくないが、その場面を見ていたら、お地蔵さんを撫でた手の感触は、水俣病のことを忘れても記憶の中に残っていくだろうと思えた。旗野さんがいなくなっても、お地蔵さんがいる限り、阿賀に生きた人たちに誰かが寄り添い続けている未来を想像した。言葉ではなく映像で伝える意味を、やっと感じられた瞬間だった。発表の間際であったがラストシーンをがらっと変えて完成。題名は文化運動の原点である聞き書き集から拝借して、『春、阿賀の岸辺にて』とした。

 実は旗野さんには「完成は俺が死んでから」と言われながら半ば強引に押し切って作らせてもらったのだが、完成版をお見せすると「爽やかな映画」と評してくださった。幸い今年も各地で上映を続けられている。

 先日嬉しい出会いがあった。京都で映画の研究をしている大学院生から連絡をもらった際、ラストシーンに出てくる小学校の出身だと書き添えてあった。映画の最後、あの土手沿いの道が登場すると、ほとんど忘れていたけれど、帽子を被ったおじさんに連れられて同じ道を歩いた記憶が、身体の中に蘇ったのだという。旗野さんは子どもたちに向かってこんな風に話していた。「みんなが大人になっても、お地蔵さんは待っていてくれると思います。背中の文字が消えても、みんなの記憶の中に残っていれば、いつかお地蔵さんの話ができると思います」。旗野さんの仕掛けたとおりに、文化運動の裾野は広がりながら続いていきそうだ。

(こもり はるか・映像作家)


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