思想の言葉:変容する魔術のラビリンス 鏡リュウジ【『思想』2026年10月号 特集|〈魔術〉の世界】
【特集】〈魔術〉の世界
〈巻頭言〉変容する魔術のラビリンス
──近年の研究動向によせて
ヒロ・ヒライ
──魔術研究の現在──
サービア教徒の正体
──クルアーンの謎からハッラーンの「異教徒」へ
ライアナ・セイフ/中西悠喜訳
熱,光線,神名
──アラビア魔術とイブン・アラビー派の伝統
中西悠喜
古代末期における魔術と神働術のあいだ
中西恭子
19世紀フランス・オカルティズムの動向
大野英士
──〈魔術師〉たち──
ルネサンスのダイモーン魔術
──マルシリオ・フィチーノとアグリッパ・フォン・ネッテスハイム
伊藤博明
パラケルススと占星術
──魔術師は星々を支配するか
村瀬天出夫
エッカルツハウゼンの魔術論
──霊の真なる現出
武内 大
──日常と魔術の狭間で──
19世紀のヴィジョン論
──黄金の夜明け団霊視理論の背景
江口之隆
歌はいつ魔術になるのか
──ゲッティ六脚韻文の全訳と,古代ギリシア呪歌における効力の担い手
藤村シシン
マギア・ミスティカ
鶴岡賀雄
オカルト思考の持ち主は「始まり」に兆しをみる。占星術では生命誕生の瞬間の出生ホロスコープに全生涯を透かしみようとするし、精神分析的な心理療法でも、「初回夢」といって、クライエントが最初に持ってきた夢に治療の全過程が象徴されていることがあるという。
このエッセイを書くにあたって急に想起されたのだが、僕にとって本格的な魔法魔術との関わり始まりはwasだったのではないかと思う。いや、高尚な呪文や略語ではない。単純なbe動詞の過去形のwasである。
幼いころからファンタジーとしての魔法・魔術の世界に惹かれていた自分が、本格的な近代魔術世界に触れたのは一一歳のころ、一九七〇年代後半である。当時大きなブームになっていたタロット占いを通してであった。妖しげなこの絵札に夢中になった自分は、すぐに国内での付録タロットだけでは飽きたりなくなり、「本格的」なタロットを親にねだった。手にしたのは現在でも最もポピュラーなタロットであり、一九世紀末英国で結成された魔術結社「黄金の夜明け団」の団員であった、A・E・ウェイトとP・C・スミスが制作したパックの複製である。
カラフルなカードを拡げ一通り触った後、勢い込んで同梱されていた小さなブックレットに手を伸ばす。まだ英語など全くおぼつかない自分だったのだが、「本物」の知識を得ようと辞書を片手に読もうとした。おぼろげな記憶だが、冒頭はA. E. Waite was…だったのだ。続くのはオカルティストだったかマジシャンだったか。いずれにしても、鏡少年が最初に引いた単語がwasだったのだ。isが過去になるとwasという全く異なる形になることを初めて知った。異文化の存在に目を開かれた瞬間でもあった。僕は意気揚々と、ペンでそのwasという活字の横に「であった」と書き込んだ。
ただし、ちゃんと辞書と格闘しながら冊子を読んだかと言えばそうではない。たぶん数ページめあたりで投げ出してしまったのだろう。(もしそこで読み続けられるくらいの努力家であれば、今頃はきっと本誌に論文を寄せられておられるような立派な研究者になれていたかもしれない!)
たわいもないエピソードである。だが、今でもなお、このwasが喚起した強烈な感覚を思い出す。それは新たな言語に触れたという興奮だけではなかった。胸躍るような喜びと、ちょっとした失望と、そしてまた安心感が入りまじった複雑な感覚だったのだ。
この絡み合ったその感情を、四〇年近く立った今ならようやく説明できる。「魔術」との距離の問題だったのである。
ウェイトは「黄金の夜明け団」なる魔術結社の団員であり「魔術師」である。童話の中でも、遥か古代や中世の伝説の中でもなく、二〇世紀という現代において魔術を実践していたと堂々と書かれているのである。wasではあるがこのwasは今に限りなく近い。これは単なる占い遊びの雑誌付録ではない、今なお生きる本物の魔法の道具なのだ! 魔術師に憬れる少年の興奮は想像していただけるだろうか。
しかし、同時に失望も静かに広がっていった。彼はwas「であった」、過去形なのである。実際のカードとして触れられるほど近くの「今」であるけれど、それでも「過去」だ。魔力は彼方で死んでいるかもしれない。がっかりだ。一方で小さな安堵も感じた。もし魔法を今、自分が本当に使えると本気で信じたら、きっとおかしくなったと思われて、親からも友だちからも拒絶されてしまうだろう。何より、この「お利口な」僕が魔術なんぞにはまってはたまらない、だからwasでよいのだ、という感覚もある。最近読んだ英語圏での心理学者による占星術批判のネット記事で、「占星術は人類の知的遺産だが、それは博物館に入るべきもので、今の生活に応用するものではない」とあったが、まさにそんな気持ちだったのだろう。
つまるところ、魔術は今なお生きているのか、過去の遺物なのか、あるいはもし今と地続きなのだとしたらそれをいかに「生きる」ことができるのかという、少し大げさに言うと知的方法論的な問題を、自分事として直観的に感じたわけである。
内在的理解だとかエティックとエミックの問題だとか、大学や大学院でかじった用語を使えばこの問題をより精緻に論じられるのかもしれないが、学者ならぬ自分にはなかなかそれはかなわない。しかし、このwasが喚起した感情は今なお、魔術と深く関わる占いを生業にしている自分についてまわっている。それは、お前は占いを信じているのか、この近代、現代の中で占いを正気を保ちながら、きちんと論じることができるのか、という問いでもある。
一昔前までは、近代的な学問は対象を……そう、相手をまさに「対象化」、客観視しなければ成立しないとされていたはずだ。あまりに近いものは対象化しづらい。主観的になりすぎる。文学のかたちでは表現できたとしても学問的な形態はとりにくい。時間的、空間的に距離があるもののほうが論じやすいのは確かだろう。魔術という近代の科学思考とは異質な主題ならなおさらだ。時間的にも空間的にも遠いほうが安全だ。現代の魔術をアカデミアが扱うようになるのに時間がかかったのはそのせいだろう。
一九七〇年代に登場した、現代の魔術研究の先駆ジェイムズ・ウェッブやエリック・ハウら研究者が在野であったというのは、そのことと無関係ではあるまい。『オカルト』(1)で知られるコリン・ウィルソンも、学者というより作家であり、『イェイツ、タロット、黄金の夜明け』(2)で知られるあの碩学キャスリーン・レインもまた、大学での常勤職は持っていなかったようだ。
一九八二年に刊行された、我が国における画期的な現代魔術研究書『黄金の夜明け』(3)において、江口之隆は歴史研究者として、近現代の魔術を扱う難しさを述べている。魔術の体験を「主観的な体験にして自己欺瞞と片づけるのは」簡単だが、しかしこれが「団の歴史に抜き差しならない要因を有する以上」無視できない、したがって「当初よりふたつの価値体系の間に必然の二律背反を起こさざるを得ない」というのである。ここでいう「ふたつの価値体系」とは、オカルトと科学、非近代と近代のそれである。魔術を研究する者は、この二つの「価値体系」の断絶と非連続性の間、これまでの僕の言い方であればwasのスペクトラムの狭間に立たされ、多かれ少なかれ悩むことになるのだ。
江口は同書でブロディ・イネスを引きながら、魔術的諸力の実際の存否は重要ではなく、要点はそれが実在するかのように作動すると感じられる点だというプラグマティックな立場をとる。
これは僕が長らくとってきた立場ともかなり近い。心理学者カール・グスタフ・ユングの影響を強く受けた僕は、ユングが提唱した「心的現実」、Psychic Realityという言葉に救いを求めた。魔術や占いのリアリティは、夢や神話と同じように客観的な現実とは言い難いが、単なる主観や幻と切り捨ててよいものではない。それは「こころ」の次元においては現実なのだから、というわけだ。
これが、本誌をお読みのような哲学的思考に慣れ親しんだ方にとってはいかにも雑なロジックに響くであろうことは自分にも想像がつくが、少なくとも、この現代社会の中で魔術や占いを生きる自分にとっては、一つの議論の抜け道だったのは確かである。
そんな中、生きている魔術研究の潮目が変わってきたのは一九八〇年代後半から一九九〇年代であろうか。一九九二年、かの文庫クセジュにアントワーヌ・フェーヴルの『エゾテリスム思想』(4)が入り、九五年には邦訳される。現在、西欧で興隆している秘教研究の一般読者への宣言のようなものだろう。
また現代魔女研究の面では、ターニャ・ラーマンの『魔女の術の説得力』(5)が一九八九年に刊行されている。これは、ロンドンの魔女・魔術師の活動と魔術的現実認識の構築を人類学的に調査したものである。さらにロナルド・ハットンの現代魔女研究発祥についての金字塔『月の勝利』(6)は、一九九九年に刊行されている。
そこからのアカデミアにおける秘教研究、人類学的現代魔術研究の広がりと発展について、ここで網羅することはとてもできない。ジャーナリストのナット・フリードランドは、かつてオカルトブームの広がりをオカルト・エクスプロージョン(7)と呼んだが、オカルトと関わることで肩身狭い思いを(勝手に)していた自分からすれば、昨今はオカルトスタディ・エクスプロージョンが起こっているようにさえ見える。今後は現象学的・人類学的な方法論を用いた魔術の内在的理解が進むかもしれないし、今なお、時間的にも空間的にも遠くであったイスラム世界における魔術の理解も進むことだろう。
そしてもう一つ、ここで付け加えたいことがある。この情報社会の中で、そうした学問的成果は一つの過去の資産となり、進行中の魔術実践に確実に影響を与えていくであろうということだ。学問と実践は円環をなしていく。僕が子どものころに見たwasは過去と現在を、さらに言えば内的理解と客観的理解を分けると同時につなげるものでもあった。そしてそれはまた未来へとつながっていく。このwasは、かつて魔術師たちが言っていた異界とこの世界とを隔てる、薄いヴェイルのようなものなのだろう。このヴェイルを隔ててこそ、僕たちは魔術的現実を観察する。と同時にそこに参入する。霧のヴェイルをくぐり、螺旋の道を通って、きっと魔術の知と実践への探究はこの先に続いていく。
参考文献
(1) ウィルソン、コリン『オカルト』上下巻、中村保男訳、新潮社、一九七三年。
(2) Raine, Kathleen. Yeats, the Tarot and the Golden Dawn. New Yeats Papers 2. Dublin: The Dolmen Press, 1972.
(3) 江口之隆・亀井勝行『黄金の夜明け』(世界魔法大全1)、国書刊行会、一九八三年。
(4) フェーヴル、アントワーヌ『エゾテリスム思想──西洋隠秘学の系譜』田中義廣訳、文庫クセジュ、一九九五年。
(5) Luhrmann, Tanya M. Persuasions of the Witchʼs Craft: Ritual Magic in Contemporary England. Cambridge, MA: Harvard University Press, 1989.
(6) Hutton, Ronald. The Triumph of the Moon: A History of Modern Pagan Witchcraft. Oxford: Oxford University Press, 1999.
(7) Freedland, Nat. The Occult Explosion. London: Michael Joseph, 1972.




