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イメージボードでよむ宮﨑駿の世界

田中純  生ける水晶体[『図書』2026年11月号より]

生ける水晶体

 

 本誌『図書』2026年3月号の表紙に掲載された、宮﨑駿の手になる「腐海の森とユパ」の絵を見て、すぐに連想するイメージがあった。1930年代にナチ政権下のドイツを逃れて来日し、桂離宮を高く評価したことで知られる建築家、ブルーノ・タウトの建築ドローイングである。それもとくに第一次世界大戦でドイツが敗れた直後に刊行された、『アルプス建築』(1919)や『宇宙建築師──交響楽のための建築劇』(1920)といった作品集に収められた幻想的な建築物の数々だ。しかし、「腐海の森とユパ」が描き出しているのは、致死的な瘴気を放ちながら繁茂する巨大な菌類なのに、それが建築に見えるとはいったいどういうことか。

 「幻想的」と述べたように、タウトの建築ドローイングは実際に建てられた、あるいは、これから実現する建造物を描いたものではない。それは、戦争と敗戦後の混乱のなかで、現実の建設機会をほとんど失っていた建築家が、だからこそ爆発させたユートピア的なヴィジョンだった。もともと色ガラスという素材を特別に重視していたタウトは、たとえば『アルプス建築』では、アルプス山脈のいたるところにガラス建築を建て、自然の山地と人工物を一体化させ、さらには地表をガラス建築で埋め尽くし、ついには惑星の数々をガラス建築で覆う空想にまで達している。原画は鉛筆とペンによるドローイングで、その一部に水彩で着色が施されている。わたしの連想の発端は、『風の谷のナウシカ』のために宮﨑が描いたイメージボードのタッチや色調が、タウトのこうした幻想建築ドローイングに似て見えたことだった。

 だが、それだけではない。『宇宙建築師』という謎めいたタイトルの画集は、副題にあるように、建築物を主人公にした一種の音楽劇の絵本である。幕が開くとゴシック様式の教会が現われ、その複雑な細部装飾が錯綜の限界に達して崩壊したのち、その塵は宇宙空間に散乱する。何もなくなった大地に雨が降ると、植物のように建築物が芽吹き、その中心にガラスのクリスタル・ハウスが生長して花開く──それは人間がいっさい登場しない、自生して変化し生長する、植物のような建築群によるドラマなのである。タウトの描く建築物の形状にはそんな植物的な性格が宿っている。描画のタッチと相まって、わたしには腐海の森がそうした建築物に見えたのだ。

 タウトの発想の根源には戦争体験があった。彼は戦中、戦場での大量死を契機に死者祭祀と墓のあり方を根本から問い直し、遺体を腐植土化して「死者の庭」に用いること、そこにガラス建築を建てることを構想した。この2つの着想を重ね合わせるとき、戦死者の遺体からガラス建築が植物のように芽生えるイメージが浮かび上がる。また、地球全体をガラス建築で埋め尽くすという構想は、世界規模にまで拡大した戦争に代わる全人類の事業として、膨大な犠牲をともなう、いわば「世界建築」の提唱だった。それが人間の生死を度外視し、建築の自動的増殖を夢見ている点からは、反ヒューマニズム的で荒唐無稽な幻想にも見えるだろう。だがそこには、未曽有の大量死をもたらした世界大戦の直後だからこその、生と死をめぐる極度に緊張した想像力の運動があり、それがガラス建築の演じるドラマ、いやいっそ、大規模な祝祭のようなヴィジョンを生んでいた。『宇宙建築師』が「建築物アニメ」のような絵本であったことや、建築ドローイングなのに、タウトの描く建築物のイメージがつねに浮遊感をもって運動状態にあること──当時のタウトは実際に、タイム・トラヴェル映画の構想を抱いていた──もまた、わたしが宮﨑とタウトを結びつけた要因だった。

 映画『風の谷のナウシカ』で、腐海の最下部では老いた木々が枯死して石化し、柱のように林立している。この木々は大地の毒を体内に取り込み、きれいな結晶に変えたのち、死んで砂になる。そこでは植物が鉱物と化している。このあたりにも、腐海の森とガラス建築との接点があるだろう。腐海とはいわば、惑星規模の「死者の庭」なのである。

 思想家エルンスト・ブロッホは、タウトのガラス建築に触れた文章で、「根源的な建築象徴」とは、ピラミッドに代表されるエジプト的な「死の水晶体」とゴシック建築のような「生命の樹」の2つである、と論じている。ガラス建築ではこの2つが融合している。タウトにとって、光できらめくガラスのクリスタルは生と死を同時に宿した結晶体かつ生命体だった。『天空の城ラピュタ』の「飛行石」とは、光を放って重力に抗う力をもつ点ですでに、これに似た「生ける水晶体」ではないだろうか。だがさらに、大樹の根に抱えられてラピュタを浮遊させる巨大な飛行石は、腐海の森では融合していた植物と鉱物が分離しながらも離れがたいままに留まった、ジブリ・アニメにおける二重の「建築象徴」に見える。

 宮﨑と建築的想像力との関係を別の面から探ってみよう。『宮﨑駿イメージボード全集』には、「崩壊した宇宙船に寄生する町」ペジテなど、舞台となる土地を俯瞰した絵が多数含まれている(この「寄生」という言葉にも、先の建築象徴に通じる二面性が漂う)。ラピュタの全景図やパズーの住む鉱山町、ナウシカの風の谷などもそうだ。巻末のインタビューで鈴木敏夫が「宮さんの動きの凄さは平面なのに広さが分かるということ」と語っている点を敷衍すれば、宮﨑が描くどれほど局所的な動きのなかにも、その周囲の空間ばかりではなく、街全体にまで拡がるような「広さ」が内包されている。これは同時に、都市の全景を描いた俯瞰図のなかに、アニメで展開されることになる細部がぎっしり詰まっている、ということでもある。

 鈴木は宮﨑と共通する映像体験として、中村錦之助(当時)が主演した連作映画『新諸国物語』(1953―61)を挙げている。わたしはこの連作中の『七つの誓い』三部作を視聴した。これはヒマラヤ山麓と室町時代の日本を舞台にした時代劇仕立ての冒険活劇であり、フェイクな異国の書き割りと荒唐無稽なストーリーにもかかわらず、十分に見応えがあった。それは、登場人物たちが動き回る作り物の局所的な空間の連鎖が、中央アジアの架空のカラコジア王国に映画固有の実在感を与えていたからだろう。

 この実在感は、たんに視覚的な経験から生じるものではない。宮﨑は藤森照信との対談で、自分にとって記憶の場所は触覚にある、と発言している。昔触ったものの感触を思い出すと、それが糸口になって風景を思い出すと。そこで重要なのは、宮﨑が坂道の傾斜の記憶を語っている点である。傾斜の記憶とは身体にかかる重力の記憶にほかならない。宮﨑の作品で局所的なディテールの空間と街全体の広域空間とを繋いでいるのは、こうした重力の記憶を含んだ、触覚だけではない身体全体の感覚である。イメージボードに描かれた都市の俯瞰図で、まだ静止している全景のなかには、道を上り、谷へ下り、狭い通路を駆け抜ける登場人物たちの運動がすでに潜んでいる。見る者はそれを全身で追体験する。鈴木が宮﨑の「中央アジアへのこだわり」と呼ぶもののルーツのひとつが、少年時代に観た『新諸国物語』だったとすれば、宮﨑はそこから、作り物の空間の連鎖が架空の土地に実在感を与えるという方法もまた受け取ったのだろう。腐海の森やペジテといった土地の地形に、われわれが説得力のある空間的な実在感を覚え、ときに懐かしささえ抱くのは、そのためではなかろうか。

 宮﨑のこうした触覚的な身体感覚には建築家的なものがある。それはとくに重力の表現に関わっている。ナウシカをはじめとする主人公たちの飛翔を描くことは、すなわち、重力に拮抗する運動を視覚的に表わすことであり、重力に強いられた落下の描写とつねに表裏一体だからだ。

 そんな重力感覚を深く肉体化した建築家のひとりに、わたしが評伝を書いた磯崎新がいる。磯崎による画文集『百二十の見えない都市』に描き出された、「地中都市」「異物都市」「浮揚都市」「冥界都市」「蝸牛都市」「蜃楼都市」など、現実の都市と空想の都市とが入り交じった異形の都市イメージの数々は、磯崎に終生取り憑いた廃墟のヴィジョンから発している。この種のヴィジョンもまた、ペジテの全景をはじめとする宮﨑の都市イメージに通じていよう。

 磯崎の描く都市像はたんに綺想的なのではなく、宮﨑のイメージボードについて述べたような空間的広さと重力感覚をしっかり備えている。それは、磯崎が諸国を旅する際に携行したスケッチブックに描かれた都市景観や建築物、あるいは自作のアイディアが、どんなにラフであっても、身体化された空間の拡がりを感じさせることと同様である。「ジブリの立体建造物展」図録に収められた、すみずみまで作り込まれたアニメのなかの建造物のイメージよりも、イメージボードに比較的軽いタッチで描かれた空想上の都市のほうが、宮﨑駿の「見えない都市」をより如実に身体的に感じさせるのも、似たような感覚の働きによるのかもしれない。

 タウトの言う「宇宙建築師」とは、たんに宇宙に建てる者ではなく、宇宙=世界を建築として作り出す工匠(マイスター)のことである。磯崎はそれを「デミウルゴス(造物主)」と呼んだ。これらはいずれも個人を超えた創造力の寓意にほかならない。宮﨑の『君たちはどう生きるか』で、石の積み木を組み立てて「下の世界」の均衡を維持している主人公・眞人の大伯父は、いかにもデミウルゴスを思わせる。高畑勲がモデルとされる大伯父と宮﨑自身とのあいだには距離がある。だが、崩壊する「下の世界」からその世界の記憶と力を宿す小さな白い石を持ち帰った眞人──宮﨑の分身──は、その石を通じて、デミウルゴス的な創造力の一端を継承したのではなかろうか。

 その石とはおそらく、静止した紙面から重力をもつ世界を生成する、アニメーション作家という錬金術師的な「建築家」にとっての「賢者の石」──あの「生ける水晶体クリスタル」なのである。(人名の敬称は省略した。)

(たなか じゅん・芸術論、思想史)

[『図書』2026年11月号より]


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