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小川哲 岩波文庫の倒し方

小川哲 哲学を破壊すること ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』

哲学を破壊すること

ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』

 

論理哲学論考 ウィトゲンシュタイン 著  野矢 茂樹 訳
ウィトゲンシュタイン 著、野矢茂樹 訳、青689-1、2003年刊

 

 おそらく本書は、ここに表されている思想──ないしそれに類似した思想──をすでに自ら考えたことのある人だけに理解されるだろう。──それゆえこれは教科書ではない。──理解してくれたひとりの読者を喜ばしえたならば、目的は果たされたことになる。

(ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』、9頁)

 

 大学で哲学の研究をしていたという話をすると、しばしば「哲学書を読むコツはなんですか?」と聞かれる。なんとなく哲学書を手にとってみたけれど、内容が難しすぎて理解できない──という経験を、それなりに多くの人がしてきたのではないかと思う。かくいう僕も、大学1年生のときにカントの『純粋理性批判』を読もうとして、その内容が理解できずに挫折したことがある。カントだけではない。レヴィナスやベルクソンなど、挫折した哲学書の数にはそれなりに自信がある。

 まあまあな数の哲学書(と呼ばれるもの)を読んできた身として、哲学書を読むことにコツなどはない、と高らかに断言したい。哲学に近道など存在しない──というのもそのとおりなのだが、もうちょっと親切に言えば、哲学書を読むために必要なのは(専門用語などの知識が必要な場合はあるのだが)、技術や読解力ではないと感じている。哲学書の内容が理解できないのは、僕やあなたの読み方に問題があるわけではなくて、著者が問いたいと思っていることに僕やあなたの興味がないからなのだ。

 哲学をする人(とりわけ哲学書を書く人)は例外なく「問い」を持っている。この「問い」は、当人にとって非常に切実で、何万字、何十万字という文字を費やしてでも考えなければ気がすまないものだ。

 「正義とは何か」「理想の国家は誰が統治すべきか」「知識と意見は何が違うか」──これらはプラトンが『国家』の中で問いたかったテーマだ。「神の存在は理性によって証明できるのか」「信仰と理性はどう違うか、そして両立するのか」──これらはトマス・アクィナスが『神学大全』の中で問いたかったテーマだ。「不確実な世界の中で、絶対に疑えないものは存在するか」──これはデカルトが『方法序説』で問いたかったテーマだ。

 哲学者は、こういった抽象的な問いに対して、自分の知識や経験、先行文献などを参照しながら、なんとか答えを出そうとする。その思考の過程に共感したり、ツッコミを入れたりしながら読むのが哲学書なのである。そもそも「正義とは何か」という問いに興味がない人が『国家』を読んでも、著者が何を言いたいのかわかるはずがない。ファッションに興味がない人にファッションの話をしたり、ゴルフが興味ない人にゴルフの話をしたりするようなものだ。哲学書を読むための必要条件は、著者が「問題だ」と思っていることを、読者である自分も「問題だ」と思うことにある。哲学書が難解なときは、まったく興味のないゴルフ雑誌を読んでいるのだと思えばいい。

 その前提を踏まえると、冒頭に引用した『論理哲学論考』の「序」の書き出しは、非常に当たり前のことを言っているのだとわかるだろう。ウィトゲンシュタインは、『論理哲学論考』を理解するための必要条件が、「ここに表された思想」を自ら考えたことのある人にだけ理解される、と宣言している。『論理哲学論考』を理解するためには、ウィトゲンシュタインと同じことを考えていなければならないのである。

 

 では『論理哲学論考』には、何が書かれているのだろうか。

 端的にまとめるならば、プラトンやトマス・アクィナスやデカルトが考えていた問いは──もっと言うと、僕たちが「哲学」という学問が扱うべきだと考えている問い(「幸福とは何か」とか「善とは何か」とか「意志とは何か」とか)は──すべてナンセンスである、というものだ。

 

 本書は哲学の諸問題を扱っており、そして──私の信ずるところでは──それらの問題がわれわれの言語の論理に対する誤解から生じていることを示している。本書が全体としてもつ意義は、おおむね次のように要約されよう。およそ語られうることは明晰に語られうる。そして、論じえないことについては、ひとは沈黙せねばならない。

(同書、9頁)

 

 『論理哲学論考』は「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」という結びの一文で有名だが、ウィトゲンシュタインの主張はかなり過激だ。僕たちが哲学だと思っていた諸問題は、「語りえぬもの」であり、「語りえぬもの」を語ろうとすることに意味はないのである。これはかなり変わった主張で、哲学の歴史そのものを「無意味だ」と一刀両断しているのである(「哲学が無意味である」と主張することもまた、哲学の一部だ)。これだけ過激だと、とてもカッコいい。少なくとも大学生の僕は感動してしまい、いろんな人に『論理哲学論考』を勧めていた。

 この過激な主張をするために、ウィトゲンシュタインは念入りに議論を進めていく。

 

 一 世界は成立していることがらの総体である。

 一・一 世界は事実の総体であり、ものの総体ではない。

 一・一三 論理空間の中にある諸事実、それが世界である。

 二 成立していることがら、すなわち事実とは、諸事態の成立である。

 三 事実の論理像が思考である。

 (同書、13、22頁)

 

 『論理哲学論考』では、このように箇条書きの連続によって議論が進んでいく。

 哲学の問題を、僕たちは頭で考える──つまり、哲学とは思考の中で行われるものだ。そこでウィトゲンシュタインは「思考の限界」を設定しようとする。哲学の諸問題が、思考の限界を超えているのであれば、そもそも僕たちがどれだけ考えても、意味のある答えを得ることはできないはずだ。

 事実とか事態とか論理とか、難しい言葉が序盤から展開されていくが、根底にあるのは「限界」について考えることだ。「思考の限界」がどこにあるのかを頭の中で考えてみる──しかし、そのことには大きな問題がある。「限界」を設定するということは、「考えられないこと」と「考えられること」の境界を引くことに他ならないのだが、「考えられないこと」を考えることができない以上、どこに境界があるのかは原理的にわからない。ウィトゲンシュタインは「思考の限界」を、「言語の限界」であると設定する。これがとても画期的な部分だ。『論理哲学論考』を初めて読んだとき、僕は素朴に「思考と言語は異なるもので、当然両者の限界も異なるはずだ」と考えた。僕が考えることは言語ではない。音やイメージや、もっというと言語化されていない感覚や概念も含んでいるはずで、「思考の限界」は「言語の限界」のはるか先にある──しかし、その僕の素朴な感覚をウィトゲンシュタインにぶつけようと思っても、どうやってもできない。自分が考えていることを口にしようとすると(あるいは紙に書こうとすると)、どうしても言語を使わなければならないからだ。僕たちが互いの意思疎通に言語という共通の道具を使っている以上、言語にできない僕の思考を、僕以外の人間に伝えることができないのだ。

 こうして、「思考の限界」という思考では辿り着けない問題が、「言語の限界」という問題に置き換えられる。そしてこの「言語の限界」を示すことで、言語の限界の外(命題的に語ることのできない場所)にある形而上学について語ろうとすることの無意味さを示しているのである。

 

 『論理哲学論考』が感動的なのは、「語りえぬもの」を語ろうとすることがナンセンスであると看破する一方で、「語りえぬもの」が存在し、それが僕たちにとって切実な問題であることは否定していない部分にある。

 

 六・五二二 だがもちろん言い表しえぬものは存在する。それは示される。それは神秘である。 

 六・五三 語りうること以外は何も語らぬこと。自然科学の命題以外は──それゆえ哲学とは関係のないこと以外は──何も語らぬこと。そして誰か形而上学的なことを語ろうとするひとがいれば、そのたびに、あなたはその命題のこれこれの記号にいかなる意味も与えていないと指摘する。これが、本来の正しい哲学の方法にほかならない。この方法はそのひとを満足させないだろう。──彼は哲学を教えられている気がしないだろう。──しかし、これこそが、唯一厳格に正しい方法なのである。

(同書、148―9頁。傍点は訳文ママ)

 

 この「示される」ことが重要なのだ。私たちは語りえることを語ることならできる。語りえるものすべてを語り、それでもまだ語ることのできない「神秘」に、「語りえぬもの」は存在している。形而上学について僕たちにできることは、語ることではなく、示すことだ。

 

 六・五四 私を理解する人は、私の命題を通り抜け──その上に立ち──それを乗り越え、最後にそれがナンセンスであると気づく。そのようにして私の諸問題は解明を行なう。(いわば、梯子をのぼりきった者は梯子を投げ棄てねばならない。)

 私の諸問題を葬りさること。そのとき世界を正しく見るだろう。

(同書、149頁)

 

 言語の世界の内側から言語の世界の限界を設定しようという『論理哲学論考』もまた、「語りえぬもの」であるわけで、この本で感じたこと、この本で理解した気になったものは、あくまでもこの論考によって「示された」のである。だから僕たちは「梯子を投げ棄てねばならない」。

 本書を執筆したウィトゲンシュタインは、すべての哲学的な問題を解決したと考え、哲学から引退して小学校の教師になる。その後、時を経てウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』の議論に疑問を抱き、哲学の世界に復帰する。気になった方は、本書とともに復帰後のウィトゲンシュタイン哲学にも触れてみてほしい。

(おがわ さとし・作家)


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