小川哲 心の健康診断としての古典 ジョージ・オーウェル作『動物農場──おとぎばなし』
心の健康診断としての古典
ジョージ・オーウェル作『動物農場──おとぎばなし』
99歳で亡くなった祖母は、ヘッセの『車輪の下』が愛読書で、若いころから何度も読み返していたという。しかし、90代になってから読み直した際には「以前ほど面白いと感じなかった」と語っていた。80代のときは面白かったそうである。
まだ30代の僕には、80代も90代もあまりにも遠くの話で、その10年にどういう感性の差異が生まれるのか想像もつかない。とはいえ、時間をおいてひとつの本を読み直すことで、自分自身の考え方やものの見方の変化を感じることができる、という点には強く同意したい。かつて面白く感じなかった本の面白がり方がわかるようになったり、かつて感動した物語が陳腐に感じられたり、あるいは前提知識や時代背景を知らずに楽しめなかった本の行間に込められた著者の想いに気がつくようになったり、あるいは若くて不安定で未熟だったからこそ理解することができた感性を失ってしまったり。
古典を何度も読むことは、心の健康診断を受診することと言い替えることができるかもしれない。本は変わらない。変わるのは自分自身と、自分が置かれている世界だ。同じ文字列が、時間をおくことでまったく異なる感傷を呼び起こす。かくいう僕は、基本的に同じ本を何度も読み返さない(すでに知っている話をもう一度読むくらいなら、触れたことのない新しい話を知りたいという、ひどくありきたりな理由だ)。しかしいくつか例外があって、たとえばフィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』は30回くらい読み返したと思う。
オーウェルの『動物農場』は3回だ。
最初に読んだのは、20代前半の岩波文庫を読み漁っていたころだったと思う。次に読んだのは26歳の夏、SF小説を書いて小説家としてデビューしようと思い立ったときで、オーウェルのもう一つの代表作である『1984年』と一緒に読んだ。3回目に読んだのは39歳の夏──つまり今日だ。
最初に読んだのを半ば強引に「10代」ということにして、2回目を「20代」、3回目を「30代」としよう。記憶の限り、『動物農場』の3回の読書は、すべて違った体験を与えてくれた。名著は往々にして、読み手の心に応じて違った姿を見せるのである。
『動物農場』を最初に読んだころの僕は「純粋な読み手」だった。ただ本が好きで、自由な時間のほとんどを読書に費やしていた。誰に頼まれたわけでもないのに、岩波文庫を毎日一冊、日本文学と海外文学を交互に読むことを課していて、そんな中で『動物農場』に出合った。『1984年』はまだ読んでいなかったと思う。僕はオーウェルがどういう作家かも知らず、もっと言うと資本主義だの共産主義だの、そういった知識もほとんどない中で、動物たちが人間から独立する寓話として『動物農場』を読んだ。率直に言うと、当時は『動物農場』に対してあまりいい印象を抱いていなかった。寓話として読むには、主張と教訓が明確すぎる。文章は読みやすくて筋も明快なのだが、当時の僕にとって「わかりやすさ」はあまりポジティヴな要素ではなかった。中毒と言えるほど読書にハマっていた僕にとって、「面白い本」とは僕という人間では支えきれない不確かさを含んだ本を意味していて、そういった難しい本に対して精一杯頭を使い、自分なりの読み方を見つけだすことが何よりの喜びだったからだ。『動物農場』はあまりにもシンプルすぎて、拍子抜けをしたような気分になった。
2回目に読んだころの僕は「読み手と書き手」の中間にいた。職業小説家になることを志していて、自分で小説を書こうと足掻いていた時期だ。最初に読んだときと違っていたのは、本に対する僕の立ち位置だけではなかった。数年の間に、僕は小説だけでなくさまざまなノンフィクションも読むようになっており、資本主義と共産主義についても、第二次世界大戦から冷戦に至るまでの歴史的な道筋もある程度知っていた。著者のオーウェルが社会主義者であったことや、それゆえにソヴィエトという国の脅威について真剣に考えていたことも知っていた。端的に言えば、岩波文庫版『動物農場』の解説に書かれているような事実に関して、その意味が理解できる程度の知識を得ていた。それだけに、以前はただ「わかりやすい」と感じていただけだったさまざまなシーンが何を意味しているのか、たとえば都合の良い存在だと感じていたスクィーラーのモデルがモロトフであることや、物語上の役割がわからなかった「材木取引」が独ソ不可侵条約のパロディであることや、ピルキントン氏がチャーチルで、ラストの会合がテヘラン会談であることなどがわかった。「寓話にしては主張と教訓が明確すぎる」というかつての感想は、「そもそも主張と教訓を伝える手段として寓話が選ばれたのだ」と反転し、「主張と教訓を伝える手段として文学を選ぶことにどれだけの正当性があるのか」という問いに変わった。当時の僕は、オーウェルの脳内にほとばしっていた政治的主張が、どのような手つきで一級の文学作品に変えられているのか、そういう点に注視しながら読んでいたと思う。「面白い」とか「面白くない」とか、そういった二元論ではなく、「なぜこの小説が時代を超えて読まれているのか」という技術的な視点から『動物農場』を読んだ。
さて、3回目である。今の僕が「純粋な書き手」として『動物農場』を読めば、3回の読書体験が美しい対称系になるのだが、残念ながら自分を「純粋な書き手」とする自信はない。2回目に読んだときと同じく、「読み手と書き手」の中間で読んだ。その上で、3回の読書の中で今回が一番「面白い」と感じた。こんなよくできた本に「拍子抜け」していたかつての自分が恥ずかしくなるほどに。
たとえば、第1章で「ぶた」の「メージャーじいさん」が、荘園農場で生活する他の動物たちに対して演説をする場面だ。
(前略)同志諸君、そういうわけで、わしらのこんなくらしのすべての災いが、人間どもの勝手な支配から発するものであるということは、水晶のように曇りなく明らかではあるまいか? 人間を追い出しさえすれば、わしらの労苦が生み出したものはわしら自身のものとなるであろう。ほとんど一夜にして、わしらはゆたかに、自由の身になれるだろう。それでは、わしらはなにをなすべきか? そうじゃ、人類を打ち倒すために、日夜、全身全霊をこめてはたらくのだ!
(『動物農場』14―15頁)
前提知識を持っていれば、ここで語られている内容が社会主義思想であることがわかり、それがわかれば「人間=資本家」という図式までわかる。そこから「メージャーじいさん」のモデルがレーニンであることまで芋蔓式にわかるのは、「同志諸君」という「ぶた」にしては大げさな呼びかけのおかげだ。ここで重要になるのは、仮に前提知識がなかったとしても、家畜たちが人間に反乱を起こすという話として、(たとえばチャペックの『R.U.R.』のように)理解できてしまう点にある。実際に、前提知識が不十分だったかつての僕も、この作品が「わかりやすい」と感じていたわけだ。オーウェルは人間によって搾取されている家畜の話とソヴィエトの歴史を絶妙なバランスで混ぜることで、10代の僕にも20代の僕にも読めてしまう寓話を構築していたのである。
ほかのものたちを教え、まとめる仕事は自然にぶたたちのものとなりました。ぶたは動物のなかでいちばん頭がいいとみんなにみとめられていたからです。ぶたのなかでもきわだっていたのが二頭のおすぶたでした。スノーボールとナポレオンというなまえで、ジョーンズさんが売りに出すために育てたぶたです。
(同23頁)
同様に、前提知識があれば「スノーボール」と「ナポレオン」がトロツキーとスターリンであることは一目瞭然なのだが、そうでなくてもこの二人の対立には普遍性がある。「スノーボール」が平氏で「ナポレオン」が源氏でもいいし、チェ・ゲバラとカストロでも、石田三成と徳川家康でも、スティーブ・ジョブズとジョン・スカリーでもいい。オーウェルが主張と教訓のために文学を使ったことは明白だが、もっと深い部分で、つまり歴史そのものに普遍性があるという事実が、歴史が寓話化されることそのものに普遍性が生じるという文学的な効果を支えているのである。そしてオーウェルは、その効果をよく知っていたからこそ、「わかりやすさ」と「政治的主張」を両立させることに成功したのではないか。だからこそ『動物農場』は時代も国も超えて広く読まれているのではないか。
30代の僕は、『動物農場』の背後にイスラエルとパキスタンを、アメリカとイランを、あるいはテレビ局と俳優を、出版社と作家を読み取ってしまうのである。
作中で、動物たちの憲法は「七戒」という形で明示されているのだが、このうちのひとつに「ほかの動物を殺すべからず」というものがある。「ナポレオン」が危険分子を粛清していくようになると、「ほかの動物を殺すべからず」には「理由なしには」という言葉が付け足される。このこと自体は、政治の堕落と言語の堕落を結びつけ、「ニュースピーク」を考案したオーウェルの重大な関心から生じたものだが、たとえ「理由なしには」を付け足さなくても、僕たちは同じ文章を異なるやり方で解釈し、異なる感想を抱くのである。
というのが、30代の僕が読んだ『動物農場』だ。
さて、あなたも自分の「心の健康診断」になる本を見つけてみませんか?
(おがわ さとし・作家)




