【対談】「食べものから社会を考える」 斎藤幸平・平賀緑[『図書』2026年9月号より]
今年4月に平賀緑さんが『お金儲けしない経済学』(岩波ジュニア新書)を刊行されました。この本は「食べもの」を切り口に現代社会が直面している課題を考える意欲作で、『食べものから学ぶ世界史』(2021)、『食べものから学ぶ現代社会』(2024)に続く三部作のひとつです。
そして斎藤幸平さんも同じ時期に『人新世の「黙示録」』(集英社)を刊行されました。どちらも発売後に大きな話題を呼んでいます。
今の資本主義経済の状況に危機感を抱いておられるお二人に、食べものから見えてくる現代社会の課題やこれからの私たちの暮らしのあり方についてお話しいただきました。

「商品化」された食と農
平賀 人はもともと身の回りの自然環境から自分たちが食べるものを自分たちで作っていました。けれども産業革命以降、工場労働のために都市に多くの人びとが流入し、農村で食べものを生産する人びとと都市で食べものを購入する人びととに分かれてしまいました。「食べもの」が、お金を出して購入する「商品」になっていったのです。
その後、資本主義の発展に伴って食べものの商品化が進み、現在のグローバル社会では、たとえば小麦や大豆、トウモロコシなどは投機の対象である「金融商品」になっています。
私は、現代の食料危機や気候変動、パンデミック、紛争、貧困などは、やみくもに経済成長を追求してきた資本主義の行き詰まりによるものだと感じています。その行き過ぎた資本主義の課題を身近な「食べもの」を通して解明したいと思ってきました。
前二著では、産業革命から1970年代頃までの資本主義経済の成り立ちや、現在の食や農のグローバル化、金融化について考察し、今回の本では企業任せでも国任せでもない、人びとによる〈共〉のしくみについて食べものから考えました。
斎藤 食べものは身近なものですが、毎日食べているものがどこから来ているか、どのように作られているかなどについて、私たちはあまり関心を持っていません。
身の回りには食べものがあふれてフードロスが社会問題になる一方で、たとえば、コメの価格が安くて農家の人たちの生活が厳しいとか、食料自給率が低いなど、豊かさの裏にいろいろな問題があります。
『お金儲けしない経済学』は、食べものがテーマではありますが、食べものだけに捉われず、様々な経済の枠組みに言及しながら、より広い意味で多様な経済の姿を具体的に描いていると思いました。
私たちが当たり前の経済と考えているものが、歴史的にかなり特殊なもので、いかに一面的であるか、そして、それが様々な歪みをもたらしているということが読者に伝わるものになっていると思います。
平賀 英語圏では、2008年のリーマン・ショック以降、資本主義の課題について盛んに議論がなされていました。当時、食料価格の高騰もあって、食べものや農業の問題への関心が高まっていました。
『食べものから学ぶ世界史』を執筆する時に、斎藤さんの『人新世の「資本論」』を読んで資本主義について勉強させてもらいました。
新刊の『人新世の「黙示録」』では「恒久欠乏経済」ということを書かれていたことが印象的です。「自国優先主義の奪い合いと環境劣化による欠乏の時代には、グローバル市場への依存は、大きなリスクになる」「すべてが頻繁に不足するような未来がやってくる」と警鐘を鳴らされています。
食料は欠乏する物の代表だと思います。
気候変動や紛争によって、今まで当たり前のように手に入れることができたものが入手できなくなるという危機感は、多くの方が感じているのではないでしょうか。食べものというのは、生きるために本当に必要ですから、限られた資源が欠乏に向かっていく経済の中で、食べものの欠乏がますます重要課題になっていくと思いました。
食料危機に対応するために、北の国の資本などが途上国の広大な農地を買いあさっているという話も耳にします。そして小麦や大豆などの食料が金融商品として取引されるようになっている。そういう意味で、食と農の金融化という問題も大きいと思っています。
もう一つは、「民主的な計画経済」ということが気になりました。
令和の米騒動の状況を見ると、フードマーケットにおける供給と需要の量と価格ばかりに注目している商品市場経済だけでは行き詰まる。生産者も食べる側もそう感じていると思います。
食べものなどは必要とされる量に基づいた計画的な経済も必要だと思っていましたので、「民主的な計画経済」という考え方は重要なポイントだと思いました。
気候変動の問題はますます深刻に
斎藤 私は一貫して、気候変動の問題が非常に深刻だと警鐘を鳴らしています。けれども、ここ数年、気候変動の問題に関する議論や運動は世界的に停滞しているように感じます。
たとえ議論が停滞していても、とにかく二酸化炭素が排出され続けて気候変動がどんどん進行していきます。
2024年には、パリ協定が目指している平均気温の上昇を1.5度未満に抑えるという数値目標を、単年では超えてしまっています。25年も、1.5度を超えることは間違いないでしょう。おそらく今世紀末までに3度、あるいはそれ以上上昇するような世界が、かなり現実味を帯びているということですね。
もちろん、温暖化を抑えるための様々な技術が開発されるでしょう。けれども、それが必ずしもみんなのために使われる技術になるかどうかは、歴史を踏まえても疑わしい。
私はもういろんな意味で手遅れだと思っています。私たちが当たり前だと思ってきたようなものを、もはや維持することができない時代に突入していく。
だから、もう思考のギアをチェンジしなくてはいけないところに来ていると思っています。
今までのやり方では守れなくなってしまったものはたくさんあります。たとえば生物多様性は非常に深刻なダメージを受けていますし、食料生産なども、気温が1度上がるだけで、生産性は大幅に下がるという指摘もあります。
そういう中で、私たちはどうするのかということを改めて考えなければいけない。
先日、私は南米コロンビアに行ってきました。コロンビアでは、「命のための経済」を進めています。
戦争もそうですけど、暴力による支配や環境破壊などに特徴づけられる「死の経済」から、人間以外の生物も含めたすべての命を守る、「命のための経済」をどうやって作っていくか、そういうことを真剣に考える必要があると思っています。
でも、それが日本にいるとなかなか伝わってこない。日本では、「経済を成長させて強い日本を取り戻す」というような形になってしまいがちです。
日本や欧米などいわゆるグローバル・ノースに暮らしている私たちが、「命のための経済」を志向するグローバル・サウスとどのように結びつき、そこからいかに学ぶか。そのような中から経済成長を目指すのではない、「お金儲けしない経済」というものを考えなくてはいけない。
命のための経済とは
編集部 「命のための経済」とは具体的にどのようなものなのですか?
斎藤 コロンビアは、これまで経済を化石燃料にかなり依存していました。
けれども、グスタボ・ペトロ大統領(当時)は脱炭素化を目指して、新たな化石燃料の採掘に向けた調査への許可を出さないという政策を推進しました。調査の許可が出ないと、実質的に新たに採掘ができなくなるので、やがて今の油田やガス田が枯渇して自動的に操業が止まることになります。
これまで、ベネズエラをはじめとする南米では石油資源を大量に掘って輸出し、その利益を国民に還元することで国民の支持を集めるという政策をとっていました。南米の社会主義が盛り上がった時代の、ある種の功罪だったわけです。
しかしながら、それでは環境破壊は止まらない。採掘によって先住民の暮らす地域が破壊されたりもします。石油だけでなくレアメタルなどの鉱物資源の採掘でも同様の問題が起きています。ペトロ大統領は、むやみに資源開発を進めるのではなく、人々の暮らしにとって重要なこと、たとえば、失業率を下げるとか、最低賃金を上げるなどの一般的な政策も含めて、労働者の生活改善と環境を守ることを両立させる政策を推進しました。
労働者の暮らしも命だし、地球環境も命です。そういうあらゆる命を包括して、「命のための経済」をコロンビアから始めて、それを南米全体に広げていく取り組みをしていました。
そしてそれは様々な社会連帯経済やオーガニックな活動、さらにブラジルの熱帯林を守る活動などとも結びついています。
これまでのような開発主義的な発展ではなくて、本当に人々が必要としていることに依拠するような新しい発展の仕方を模索しています。教育や医療、福祉を重視する社会のあり方への転換は、実質的に脱成長の経済と呼んでいいと感じています。
日本では小さな活動はありますが、なかなか大きな流れにはなりません。でも、世界でそういうものが既に出てきているわけです。
私は「命のための経済」、平賀さんのいう「お金儲けしない経済」をどのように実現していくかということを、よりマクロ的な視点から考えてみたいと思い、『人新世の「黙示録」』では、「民主的な計画経済」について論じました。
多様で柔軟な経済の形を
平賀 南米では、農業と生態学を融合させた実践かつ社会運動である「アグロエコロジー」の取り組みも活発に行われていることを私も聞いています。
いろいろな取り組みを紹介しながら、利益を追求し成長を目指すだけではない、多様な経済の仕組みがあるということをこれからも伝えていきたいと思います。
日本では強い経済が強い日本を創るというような考え方が根強い。また、市場に流通する商品だけを見て経済を論じるような考え方が強いです。でも、実はもっと多様で柔軟な経済の形がある。
たとえば、これまで主に女性が担っていた家庭における家事や家族のケアなど非営利の活動は、従来の経済学では無視されてきました。
また令和の米騒動のときには需要と供給のことが盛んに議論されましたが、商品として出荷されているコメの話しかしていませんでした。たとえば、コメ農家が親戚や知人に無償で配る「縁故米」に触れることはほとんどありませんでした。
そういう、営利目的でないがゆえに「経済」から外されていた活動の価値を見直していくことが大切だと思っています。
斎藤さんのマクロ的なアプローチに対して、私はもっと身近なところから、一人ひとりがあちこちで動くアメーバのような活動に取り組んできました。
かつて香港や丹波にいた頃に、バイオディーゼルという、廃油からバイオ燃料を手作りする活動をやっていました。 その活動をネットで見た世界各地の人たちが自分の車をバイオ化したということがあります。小さな有機菜園の作り方も紹介して、それを見て家庭菜園を始めた人も多くいました。
草の根だけでできることは限られていますので、上からと下からと両方で変革を促していかないといけないとは思っています。
ただ、斎藤さんがご著書の中で提起されていた「民主的な計画経済」に関して、果たしてそれを担える人が日本にいるのだろうかという疑問があります。私はちょっと悲観的に思ってしまうのですが。
斎藤 私はもっと楽観しています。みんなが担える能力を持っていて、それは子どもを見ていれば分かります。
子どもは何もないところでも、自分たちで遊びを作って、ルールを作って、新しい遊び方を見つける。私たちはもともとそういう能力をたくさん持っているわけです。
今は資本主義のシステムの中で能力を発揮する機会が奪われているだけで、基本的にはその機会があれば、誰もが能力を十分に発揮できると思っています。
要するに、今の社会では、私たちが、何を必要としていて、どういうものを作りたいかということについて、自分たちで発言したり決めたりする機会を完全に奪われている。そういう中で、「自分たちで決めなさい」と言われてもそれは無理なわけです。
平賀 そのためにはやはり教育が大事ですね。
斎藤 今の教育制度にはいろいろ問題があるかもしれませんが、たとえそこで十分に学ぶことができなかったとしても、大人になってからでもいつでも学ぶことができるはずです。
重要なのは、機会があれば参加するというような人が、その機会を完全に奪われてしまっているということです。だから、経済を民主化していくことが本質的なことだと思うんです。
それには、資本主義的な道でもなくソ連的な社会主義の形でもない、みんなで決める「コモン」を進めていくことです。
資本主義的なものを保持したままでは限界があると思います。だから私は資本主義のシステムそのものを変えていかなければいけないと思っています。
コモンとコモンズ
平賀 「私」でも「公」でもない、人びとによる取り組みである「共」を「コモン」と考えて、今回の本の副題「食べものから考える〈共〉のしくみ」の「共」に「コモン」とルビを振りました。ただ、私は「コモン」と「コモンズ」の違いが未だによくわからないので教えてもらえますか?
斎藤 コモンとコモンズは違います。コモンズはコモンとして管理されている土地であるとか、ことであるとか、そういうモノや対象ですね。それに対してコモンというのは、私有とか国有・公営などというときの「私」や「公」と同じように、「共有」という所有のあり方をさすものと結びついています。そしてそれを可能にする能動的な市民のあり方がアソシエーションです。
人びとがアソシエーションを通じて、コモンと呼ばれる関係性を作り出すことで、コモンズと呼ばれる実際の共有地などが生まれてくる。
今の資本主義では、人と人がつながり合うアソシエーションがばらばらにされてしまっています。私たちは貨幣や商品を通じてしか他の人たちと関わり合うことができなくなっているのです。「私」という状態でしか他者と付き合うことができないから、私的な所有が生まれて、貨幣や商品が力を持つようになって、人々を振り回すようになっていく。
一方、かつてソ連では逆に官僚の力や国家の暴力装置を使って人々を管理していくようなかたちで国有化、国営化していった。
これもアソシエーション的な、自分たちで能動的に結びついたりしていく契機を欠いているので、人々の自由、平等、民主主義というのが十分に実現されてきませんでした。
「私(プライベート)」か「公(国家)」か、「自由市場」か「国家による計画」かという二項対立で私たちはずっと考えてきたわけですけれども、歴史的に見ればその間にある、違った形でのアソシエーションや共同体に基づいたものは行われてきましたし、今の社会においても存在しています。もっと言えば、家庭における家事とか家族のケア労働など、「私(プライベート)」にも「公(国家的なもの)」にも馴染まないような経済的な領域は本来たくさんあります。
『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?』(カトリーン・マルサル著、高橋璃子訳、河出書房新社)という本が話題になりましたが、女性が担ってきた家事労働や自然環境を守る農民の活動や先住民の暮らしなどが不可視化されてきました。
資本主義の下では、お金儲けが経済の目的になってしまうけれど、現実にある世界はもっと多元的なのです。
そういう多元性に基づいた経済、つまり、お金儲けの原理を相対化していくようなあり方をどうやって作っていけるかということがコモンの課題でもあります。
成長型から脱成長の経済にしていくことが課題だともいえます。
顔が見える関係のコミュニティ
平賀 私の「コモン」の議論は大学で「非営利経済論」という授業を作るところから始まっています。営利経済に含まれないものを探っていくと、女性や自然などの領域が見えてきました。私はそれらの営みのことを「コモン」ということでまとめました。
学生たちは、「私(プライベート)」でないもの、営利企業じゃないものと言うと、すぐ「公(国家)」に行ってしまう気配があります。民間企業(私)が駄目だったら国(公)に任せればいいという発想です。ただ、それはどこか他人事なんですよね。私はコモンを、「私たち」、「自分たち」との思いも込めて「人びと」と言い替えたりしています。
他方では、コモンの領域を「みんなの」と言って、共有地を「みんなで所有する」とか「みんなで管理する」と表現する人もいます。でも、ここでいう「みんな」とは、知らない人まで含んだ「みんな」ではなく、顔が見える関係のコミュニティだと思うのです。コミュニティがあって、そのコミュニティが一緒に使うもの、目指すものがコモンズだという捉え方をした方がいいと思います。
『お金儲けしない経済学』のなかでは特にコモンやコモンズについて論じているのは一部分だけに見えるかもしれませんが、私は本全体でコモンやコモンズの話をしているつもりです。
斎藤 「脱成長」「お金儲けしない経済」というと、どうしても昔に戻るというような話になってしまうんです。コモンズというと昔の村落の入会地のイメージで止まってしまう。けれどもそういうことを言いたいわけではありません。端的に言えば、人々のつながりであるアソシエーションを作って、いろいろなものをアソシエーションで管理できるようにしていこうということだと思います。
そのためには、私たちの日々の振る舞いそのものを変えていかないといけない。そうしないと社会は変わっていかない。振る舞いを変えないままに制度だけを変えても、世の中よくならないと思うのです。
様々なものをいかにしてコモンにできるかと考えると、やはり食というものは大切です。平賀さんの本を読むと、食べものがどのように商品にされてきて、交換価値とか、利潤みたいなものによってそのあり方が歪められてしまっているかがよくわかる。それが進んだ先に、私たちは食べることや自然と関わることへの関心も失って無関心が蔓延していくということになる。
食をコモンにしていくことが、人間と自然の橋渡しになると思います。都会で暮らしていると、自然に触れる機会は少ないですが、その中で1日3回、自然に触れることができる瞬間があるとしたら、それは料理を作って食べたりする瞬間です。そこに有機のものや季節のものを取り入れていく。そして生産者と食べる側とのつながりを作っていくことも大事です。そういう小さなことが、非常に本質的なものになるのではないかと考えています。
身近な問題をきっかけにして
平賀 食料は農業問題、料理は家庭の「女子供」の問題と見られがちです。でもじつは、食べものって資本主義の根幹に関わっているということを、これからも伝えていきたいと思っています。
斎藤 岩波ジュニア新書には『砂糖の世界史』という名著がありますね。食料の問題は昔から植民地支配や資本主義の問題と深く結びついていて、今でもその構造自体は本質的には変わっていません。非常に重要であるにもかかわらず、平賀さんがおっしゃるようになかなかメジャーなトピックになりにくい。歴史的な視点から改めて捉え直し、それを踏まえて、新しい経済のあり方を示していくということが非常に大事だと思います。
さきほど「民主的な計画経済」について言及しましたが、やっぱりコメは主食なので減反とか生産量調整ではなくて、基本的には政府の大きな方針として、補助金もつけてもっと量を増やしてもいいのではないかと思います。
身近な問題である食べものから、たとえばコメ不足などをきっかけとして関心を持つ人が増えてくれれば、日本はもう少し良くなるんじゃないかなと思ったりもします。
これまでの、エネルギーとか食料の外国への依存っていうものが寄越してきた問題にも目を向けて、新しい経済を作っていく方向に舵を切ってほしいな。
編集部 お二人のお話を伺っていて「コモン」という言葉が強く印象に残りました。人と人とのつながりが希薄になっている社会のなかで、コミュニティのあり方やコモンの意義をあらためて考えてみたいと思いました。ありがとうございました。
(2026年5月、オンラインにて)
(さいとう こうへい・経済思想、社会思想)
(ひらが みどり・食と資本主義の歴史、食の政治経済)





