寺井龍哉 二〇二六年の与謝野晶子[『図書』2026年9月号より]
二〇二六年の与謝野晶子
今年の6月、東京の空は美しかった。
朝からの仕事に区切りがつくと、午餐の前に近所の公園に出かけて、木陰の長椅子で新聞を読む。すると、おそろいの黄色い帽子の幼稚園児たちが十数名、2人の保育士さんに連れられて、てんでに声をあげながら公園に入って来る。
園児たちの一行は広場を横切り、小さな石段を上がってゆく。見るともなく見ていると、ほとんどの園児が、2段目あたりでつまずく。気をつけてね、足元よく見てね、と保育士さんたちは真剣に声をかけるが、小さな園児たちは、ぱたん、ぱたん、と無防備に倒れてしまう。その横で、紫陽花がゆれている。
私は新聞に目を落とす。6月23日の沖縄全戦没者追悼式のことが出ている。高市早苗首相のスピーチの最中に「戦争反対」「憲法九条を守れ」などの声が飛んだ。首相は式典後、「今、日本は戦争をしていない」などと話したという。
1904(明治37)年2月、日露戦争が勃発した。
歌人・与謝野晶子の2歳下の弟、籌三郎も召集され、宇品港から大陸へ発つことになる。晶子が「明星」9月号に発表した詩「君死にたまふこと勿れ」は、「あゝをとうとよ、君を泣く、/君死にたまふことなかれ、」とはじまる第1連がもっともよく知られていよう。だがこの作品の核心は、次の第3連にある。
君死にたまふことなかれ、
すめらみことは、戦ひに
おほみづからは出でまさね、
かたみに人の血を流し、
獣の道に死ねよとは、
死ぬるを人のほまれとは、
大みこゝろの深ければ
もとよりいかで思されむ。
評論家の大町桂月は、雑誌「太陽」の文芸時評で、この部分は天皇のご聖断を非難するものだと攻撃した。
晶子はすかさず、「ひらきぶみ」と題する文章で桂月に反論した。そのなかに、私は「まことのなさけ、まことの道理」をこそ歌っておきたい、と述べる箇所がある。出征兵士を駅で見送る人びとが、「無事で帰れ、気をつけよ」と言うのと同じように、私の詩も「まことの心」を言ったものだ、というのである。
晶子はここで、「歌は歌に候」と断言する。「歌」は、街頭演説や雑誌・新聞の論説とは異なる、建前や常識にとらわれぬ言葉である、ということであろう。芸術的・文芸的な言葉の世界は、政治的・社会的な言論の世界とは別に、はっきりとそこに在るのである。
凶悪事件を題材に小説を書いたからといって、作者が凶悪だとは限らない。恋愛詩人は恋ばかりしているわけではない。日本国旗を汚したり引き裂いたりしたとしても、愛国心を持っていないとは限らない。作品の表層と、その背後の精神との関係は、単純ではない。「歌は歌に候」という言葉は、今なお、何度でもかえりみられるべきであろう。
桂月はその後も晶子を非難し、夫の与謝野鉄幹と平出修は、桂月の自宅を訪ねて談判におよんだ。桂月は、そのような感情を平時に言うのは構わないが、挙国一致で戦争に向かう今日、宣戦の詔勅に対して恐れ多いことだ、と言ったという(平出修「「詩歌の骨髄」とは何ぞや」)。
今野寿美『与謝野晶子』(岩波新書)は、大町桂月が「君死にたまふことなかれ」を社会主義の作品と見なしたことに、晶子は恐怖を抱いたのではないかと述べている。たしかに、「ひらきぶみ」の「平民新聞とやらの人達の御議論などひと言ききて身ぶるひ致し候」、「桂月様お許し下されたく候」などという記述には、そうした恐怖心が透けて見えるようだ。「平民新聞」は、幸徳秋水や堺利彦を中心とする社会主義結社の新聞である。
第一歌集『みだれ髪』で、恋に燃え、男を挑発する女性の身体や行為を大胆に詠み、数々の評論で鋭い社会批判を展開した晶子だが、その強気の表情とは裏腹に、すくなからぬ不安や恐怖を抱えていたらしい。今野の著書からは、社会の不合理を直視し、闘志を秘めつつ、一方で権力を恐れ、男への劣等感を抱きつづけた晶子の姿が浮かびあがる。
1910(明治43)年、明治天皇暗殺を計画したとして宮下太吉、管野すがら多くの無政府主義者、社会主義者が検挙され、翌年、幸徳秋水ら12名が死刑に処された。いわゆる大逆事件である。管野すがは、獄中で与謝野晶子の歌集を読みたいと望み、晶子は弁護士の平出修を通じてそれを知る。しかし晶子は、大逆罪を犯した女に著書を贈ることを恐れて、みずからの手で歌集を差し入れる勇気を持てなかった。結局、平出が晶子の歌集『佐保姫』を管野のもとに持参し、後日、管野から平出に礼状が届いたという。
1911(明治44)年夏、平塚らいてうが晶子のもとを訪れる。「青鞜社」設立に向けて、賛助員としての参加と創刊号への寄稿を依頼するためであった。四女を出産したばかりの晶子は下ばかり見てまともにらいてうの顔を見ず、小さな声で独り言のように、少しずつ話し、「女はだめだ、とても男に及ばない」などと言っているように聞こえた。それが何を意味するのか、この運動を貶するものなのか、それとも、だからこそ頑張れ、ということなのか、らいてうはわからないまま辞去するほかなかったが、その後、晶子が「青鞜」創刊号に寄せた詩「そぞろごと」は発起人一同を歓喜させた。「山の動く日来る、/かく云へど人われを信ぜじ。」とはじまり、「人よ、ああ、唯これを信ぜよ、/すべて眠りし女今ぞ目覚めて動くなる。」と結ばれる短い詩は、迫力に満ちている。
だが今野は、旺盛な評論活動を展開していた晶子だが、「青鞜」に評論は発表せず、もっぱら詩歌のみを寄稿し、集会にも一度も出向かなかったと指摘する。ことに平塚らいてうとの間には、国家や労働、男女の役割をめぐる考え方に、根本的な対立があった。ここでも、晶子には深いためらいがあったようなのである。
近代日本の歴史は、まことに戦争の歴史である。年表を開くたびに暗然とする。
1868年に戊辰戦争、73年に徴兵令が出て、74年に台湾出兵、77年に西南戦争、94年に日清戦争、1904年に日露戦争、18年にシベリア出兵、31年に満州事変、36年に二・二六事件、37年に日中戦争、41年12月に真珠湾攻撃からアジア・太平洋戦争が勃発し、1945年8月に敗戦である。1878年に生まれ、1942年に没した晶子の生涯は、そのただなかにある。
黒羽清隆は、1970年代の後半に、日本人の多くは、日本がかつてアメリカとイギリスに戦争で敗北したとは知っていても、中国に敗れたとは思っていないようだ、と書いている。しかし実際には、日本は1945年の7月時点で実に29ヵ国との間で戦争状態にあり、8月に米英中ソの四国によるポツダム宣言を受諾して降伏した(『日中15年戦争』)。そして今、21世紀も初めの4分の1が過ぎて、アメリカがあり、中国があり、ロシアがあり、そのあいだに小さく日本がある。日本人は、日本が多くの国々と戦争をし、その戦争に敗れたこと自体、忘れかけているように見える。
私たちが戦争をすれば、私たちは敵をひとりでも多く殺そうとし、実際に殺す。同時に、敵は私たちの味方をひとりでも多く殺そうとし、実際に殺す。第二次世界大戦におけるアジア・太平洋地域の犠牲者数は、総計2000万人以上と推計されるが、正確な数はなお不明である。昨年11月の朝日新聞の報道によると、林玲子氏による新たな調査で、日本人の戦没者数は約376万人と推計され、これまで政府が公表してきた約310万人という数字との間には、大きな開きがある。あの戦争が日本にとっていかなるものだったのか、その基礎的な情報さえ、整備の途上にある。それでも首相は、日本は今も、これからも、決して戦争はしない、とは言えないようである。
今野が『与謝野晶子』の「おわりに」で触れている「感冒の床から」は、スペイン風邪の流行期の1918(大正7)年に発表された文章で、多くの子どもを育てる晶子自身の生活環境から説きおこし、公衆衛生の必要性を主張し、さらには米騒動やシベリア出兵にも言及して、時の閣僚や東京市長に呼びかけ、直言するような箇所もある。
今野によれば、私的な実感から出発して大状況に説きおよぶのは晶子の得意としたところで、「私は此欄から原内閣の外相、内相及警視総監に御注意します」、「田尻市長にも責任があると思ひます」という激しい口調が空疎にならないのは、晶子の生活者としての実感が述べられたうえでの斬り込みだからであろう。
与謝野晶子がもうすこし強気であったら、と思う。歌は歌である、という主張をより強硬に打ち出せていたら、国民に「死ね」と言うことの不当性をもっと強力に説いていたら、「青鞜」の同人たちと理論的にも共闘できていたら、その後の日本は、現在の日本は、違う状況だっただろうか。流れる血は少なく、不当に抑圧される人々は少なくすんだだろうか。そんなことに思いをめぐらし、そしてたちまち、私が後世からの賢しらな視線を晶子に向けていること、晶子の恐怖やためらいを軽視する傲慢さに気づき、私はひとりで、あわててしまう。
いつのまにか昼が近づき、公園には近くの工事現場の作業員たちがやって来る。彼らは黙々と弁当を食べ、缶コーヒーを飲み、一心にスマホの画面を見ている。
園児たちはもう、園に戻ったのだろう。ぱたん、ぱたんと石段につまずいていた子どもたちは、今ごろ、幼稚園のテーブルで、甘口のカレーなど食べているところかもしれない。
私はふたたび新聞に目を落とす。「国旗損壊罪」というものがまもなくできるらしい。その記事を終わりまで読み、新聞を畳んで、私は石段のほうへ歩いてゆく。気をつけてね、足元よく見てね、という保育士さんたちの声が、耳によみがえってくる。そうだ、気をつけなければいけない。足元をよく見なくては。
ふと、私は、これから数秒後に、石段につまずいて、派手に転倒するような気がしてくる。右膝を強く打ちつけて、妙なところに手をついて、地面に腹ばいになる。その想像を止めることができない。
明るい陽射しのなかを、私の眼鏡がはじけとぶ。その横で、紫陽花は静かにゆれている。
(てらい たつや・歌人、文芸評論家)




