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【文庫解説】夢野久作 著/川崎賢子 編『東京人の堕落時代』より

今年没後90年を迎えた夢野久作。彼は「夢野久作」となる以前、『九州日報』記者時代に、関東大震災直後の東京に潜入しルポルタージュを連載しました。本書はそのさらに1年後に東京を再訪し、地方の視点から、震災後のショック・ドクトリンを描き出したものです。
以下、編者の川崎賢子先生による「解説」の一部を抜粋して掲載します。

 

 1923(大正12)年9月1日午前11時58分、相模トラフを震源とする海溝型地震が首都圏を襲った。マグニチュード7・9を超える大規模地震であり、相模湾岸、房総半島南部、東京では当時震度6と報告されたが現代の基準であれば震度7に達したのではないかとも推測されている。広範囲で建物が倒壊し、火災が生じた。内閣府が現在公表している資料によれば、死者行方不明者は10万5000人を数えるという。

 当時、夢野久作(1889-1936)は、まだこの筆名を使ってはいない。杉山泰道の名で『九州日報』の記者をつとめ、福岡の古賀胃腸病院に入院中であった。東京には父・杉山茂丸(1864-1935)と継母、妹らの家族が住んでいた。杉山茂丸主宰の結社の拠点である東京・築地の台華社は、震災で焼失した。

 杉山茂丸は、在野の立場から台湾、朝鮮半島、満洲経営策などに建言をし、単身渡米して米国の財閥J・P・モルガンに借款を申し込むなど、政界の裏面で縦横に暗躍するフィクサーとして力を発揮していた。インドのラス・ビハリ・ボースや中国の孫文らを支援する大アジア主義者でもあった。日本に亡命中のインド独立運動家K・R・サバルワルと養子縁組したともいう。芸能にも造詣が深くその芸論書『浄瑠璃素人講釈』は岩波文庫に収められている。

 夢野久作こと杉山直樹(長じて出家しやすみちと改名、号してほうえん)は、この破天荒な政治運動家・杉山茂丸の長男として福岡市小姓町に生まれた。父親が政治に東奔西走するうちに実母は離縁され、少年は祖父母に育てられた。茂丸は再婚すると東京に居を構えて、福岡の家族をかえりみることがなかった。後妻に子どもが生まれると、直樹の存在がうとまれることもあったようである。幼時からたしなんだ能楽にとどまらず、文学、美術に傾倒する文弱な直樹のありようは、茂丸の意に沿うものではなかった。直樹は旧制福岡県立中学修菟館に学んだのち一年志願兵として近衛歩兵第一聯隊第四中隊に入隊(1908年)した。慶應義塾に進学したものの二年で中退している。この進路の選択には、強権的な父親の意向がはたらいたと推測される。父茂丸は、福岡県粕屋郡香椎村の土地を大学中退後の息子に買い与え、直樹はそこで杉山農園の経営に携わることとなった。だが、家の重圧に耐えかねたか、放浪生活を送ったこともあれば、剃髪、出家し僧侶として修行、大和・吉野・熊野地方を行脚したこともある。

 1917年に還俗し、1918年鎌田クラと家庭をもった。『九州日報』への入社は1919年4月のことである。

 さて1923年9月2日関東大震災の報に接した彼は入院中の古賀病院の院長に300円を借り、『九州日報』特派員、杉山泰道として東京取材に出発した。

 陸路で大阪へ出たのち、近海郵船株式会社の震災救助船備後丸に乗船し、9月4日横須賀港に入港、5日に横浜に到着するが、港湾の壊滅で接岸できず、彼はここで上陸せずに、6日午前7時に海軍のランチで芝浦から焦土に上陸した。『九州日報』には、「杉山特派員」「杉山泰道」名義で、9月5日朝刊に始まり10月27日夕刊まで署名記事を寄稿している。

 第一信には「横浜港頭が不穏ならば決死隊を組織しようといふ議案が提出された」「船中の人々は一斉に武装的自衛の身支度に取り掛る。色々な戦慄すべき各方面の無電来り船中には殺気が漲る」と、震災後の在日朝鮮人や社会主義者を無差別に襲った虐殺の裾野をうかがわせる情報が記されている。「三等船客中に護身用として日本刀を携帯する者数名」(第三信)といい、同じく第三信には「横浜刑務所では囚人を解放したが、該囚人等は武器を提げて不慎の徒を平らげたと云ふ噂と、この一味に与したといふ説がある」ともいう。

 地震と火災、それだけではなくその衝撃を受けて噴出した暴力と虐殺を、生きながらえたものを囲繞する屍と排泄物と焼尽のさまを、彼は五感を駆使してとらえようとした(「大東京の残骸に漂ふ色と匂ひと気分」『九州日報』1923年9月15日朝刊、16日夕刊、17日朝刊、3回連載、杉山泰道名義)。「人間の形をして生きて居ると云ふだけの表情」の「空虚な魂」「無感覚、無使命、無自覚の姿」でありながら、「一夜にしてローマを灰にしてしまつたネロの好奇心……それに数十倍した天の狂暴的大破壊の跡を千歳の一遇のものとしてのぞきに来た」「焼跡見物人」がそこに入り混じっていた。狂人にも遭遇した。根を断ち切られて浮遊する、文字通りマスとしての大衆が、暴力を容認して流動すること、どうかする拍子に暴力の担い手となりうること、震災の大量死がもたらした人間の変容をも、彼は目撃せずにはいられなかった。人間中心主義あるいは人間を進化の頂点に位置させるという階層秩序から、人間の理性や道義心を信頼するありようから、震災後の人心に触れた彼は脱落していったのである。

 長山靖生は、『九州日報』のライバル紙『福岡日日新聞』が10月9日付夕刊で、大杉栄や伊藤野枝らが消息を絶ったのちの、親戚や同志たちと官憲側との応酬について詳報していることに注意を喚起する(「SFのある文学誌 第96回 夢野久作②記者杉山泰道から探偵作家へ」、『SFマガジン』2024年10月)。杉山記者の沈黙はもどかしくもある。とうてい書きつくせぬことの重みを背負うが故の沈黙か、残虐を抽象化し概略化しやりすごそうとする欲望か、両義的である。

 「関東大震災時における朝鮮人虐殺という一句を頂門の一針として加え」ることで「東京人の堕落時代」の謎は解けると、平岡正明は、かつて説いた(「品川駅のレコードの謎――「東京人の堕落時代」」、『ユリイカ』1989年1月号)。たしかに記者がそれと書かなくとも目撃したことはじゅうぶんに読みとれる。それだけではなく記者自身のなかに暴発しかねない虐殺者の芽が胚胎していたことも、うかがわれるのである。それゆえに書いたこと書けなかったことがあるのだと、沈黙の領域を推し量るしかない。

 震災から一年後、記者は再び東京を訪れた。

 1924年9月1日、東京着、10月23日までには福岡に帰っている。「街頭から見た新東京の裏面」(杉山萠圓名義『九州日報』、10月20日連載開始、12月30日完結)、翌25年「東京人の堕落時代」(杉山萠圓名義『九州日報』、1月22日連載開始五月五日完結)を寄稿した。ちょうどこの前後、博文館の雑誌『新青年』の懸賞小説に杉山泰道名で応募した「侏儒」が選外佳作となっている(「侏儒」は杉山茂丸主宰の台華社の月刊機関誌『黒白』に「若い男女七人合作」の署名で、1925年10月から1926年2月まで連載)。小説家「夢野久作」の誕生は、1926年10月号『新青年』誌上の「あやかしの鼓」まで待たなければならない。畢生の大作「ドグラ・マグラ」もまだ形を成してはいない。

 「東京人の堕落時代」一連の記事は、杉山萠圓名義で発表されている。このころ、彼の文章は変貌の時を迎えていた。震災直後のもどかしい手探りと、震災一年後の饒舌と関東大震災のルポルタージュの過程で、彼のなかの「夢野久作」が覚醒し、「ドグラ・マグラ」の生成が駆動させられたというのが私の仮説である。いずれにしても、彼ほど深甚に関東大震災の影響を受け、その前後の帝都の変容だけではなく、「私」に生じた断層をもあわせて記録した文学者は少ない。

(続きは、本書『東京人の堕落時代』をお読みください)

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