第5回 現代語訳 南方熊楠『十二支考』「馬に関する民俗と伝説」 松居竜五
インドの部民や神々と馬の関係
仏教の「八部衆」と呼ばれる神々のうち「天竜夜叉(やしゃ)」の次に、「乾闥婆」(ガンダルヴァ)がある。さらに最下位に「緊那羅」(キンナラ)がある。キンナラの神々は音楽を司り、美声の持ち主だ。男は馬の首に人間の身体でよく歌う。女は端正でよく舞い、ガンダルヴァの妻になることが多い。香山のキンナラの王が瑠璃の琴を演奏すると、一切の衆生が、仏の前であることをもはばからず、思わず立ち上がって子どものように舞うという。
ガンダルヴァの神々は「食香」または「尊香」と訳し、天上の音楽の神で宝山に住んで香りを守る。天神が音楽を奏でようとすると、この神々の相好がたちまち反応して崩れ、自ずと気づいて天に上って演奏する。また、幻術を使うことに長けていて、空中にガンダルヴァ城(蜃気楼)を現出させる。バラモン教の言い伝えに、この神々はインドラ(帝釈天)とクヴェラ(財神)に仕えていて、水と雲の精であるアプサラスを妻としている。女を好み、婦女を教化し、婚姻を司り、太陽の神の馬を使う。
ヒンドゥー教の法では、男女が儀式によらずに、即座に合意して結婚することを「ガンダルヴァ」と呼ぶ。ヒマラヤ地方では、王家の妻で、后よりも下で妾よりも上の者をこう呼ぶ。ガンダルヴァが、馬やロバに基づいて作られた神であることは、グベルナティス伯爵の『動物神話』に詳しく論じてある。
妓女が奏でる音楽を好み、享楽的な生活を送った者は、この神に転生するという。生前の施しの効用によって、諸天と同様に面白おかしく暮らすというのが仏説でゴザる。ボクもずいぶん田舎芸者のみなさんに「お布施」をしておいたから、ガンダルヴァに転生することは請け合いだ。何がさて、馬なみのパワーだというのが楽しみじゃあないですか。
インドでは、香具師や手品師や軽業師として、芸能で施しを受けながら乞食して回るガンダルヴァという賎民がいる。その妻はおうおうにして色気のある美女で、しばしば貴人の目に止まる。ヴォルテールに言わせれば、「『聖書』に神さまが自分に似せて人を作ったというのは大ボラだ。実は人が自分に似せて神を作った」ということになる。
その伝で行くと、むかし、ガンダルヴァの賎民が香具師や放浪芸人として遊行した際に、たびたび馬に教えて舞い踊らせた。そこで、その守護神を馬の姿として「ガンダルヴァ」と名づけ、香料や音楽や婚姻の神としたのだろう。こうした賎民の妻が結婚式の手伝いをすることも、インドその他ではよくあることだ。馬やロバは、「陰」の相であることが明らかなので、和合繁殖の象徴とされることが多い。
『五雑組』5によれば、宋の張耆(ちょうき)には42人の子どもがいた。その秘訣は、「姫や妾の部屋の窓が、すべて馬屋に面していた。馬が〇〇するたびに、並んでこれを見物させた。そこで主人が訪れると、懐妊しない者はなかった」ことにあるという(『日本書紀』「武烈紀」8年の条を参照)。
トルコのスレイマン二世は、ある日、睾丸を抜いたオス馬がメスと戯れるのを見て、宦官たちもタマを取っただけでは安心できないと思った。そこで、宦官たちの男根を切り尽くして、後世も代々、そのやり方を踏襲した。確かにその推察通りで、去勢された者が婦女をもてあそぶ例は少なくない(タヴェルニエ『トルコ宮廷閨房最新報告』28頁、1675年。アンシヨン『宦官の実態』206頁、1718年。『人性』8巻4号。緒方正清博士「支那および韓国の去勢について」)。
さて、キンナラ族も、もとは馬芸や歌舞をなりわいとした人たちだ。その女たちは自分たちより身分が高いガンダルヴァ族の妻となることを名誉とした。それはガンダルヴァの妻女が貴人に召されるのを名誉としたのと同じことだ。本邦によくあったのは、大工の棟梁の娘が大名の側室となったり、魚売りの娘が棟梁の囲い者となるような例だろう。いずれも、それを一種の出世と考えていたわけだ。
馬は恥辱を感じるか
プリニウスは、馬が血縁を記憶して、忘れないとする。たとえば、妹の馬は、自分より1年早く生まれた姉の馬に、母にも優る敬意を払う。また目隠しをして母といちゃつかせられたオス馬が、見えるようになってそのことを知ったとする。その際には大いに怒って、やらせた人をかみ裂くこともあれば、崖から飛び降りて自殺することもあるという(『博物誌』8巻64章)。
アンリ・エチエンヌの『ヘロドトスの弁明』10章では、16世紀のイタリア人、特に貴族の間の不倫が横行していることを非難されている。そしてその最後に、ポンタヌスの本から、畜類にも羞恥の念があるという例が二つ引かれている。一つは、メス犬が、その子が発情したのを見て、ひどくかみついて懲らしめたこと。もう一つは馬主から直接聞いた話で、仮装した自分の息子と交尾した母馬が、後でそのことを悟って、数日内に絶食して死んだことだ。
仏典にも『阿毘達磨大毘婆沙論(あびだつまだいびばしゃろん) 』119に、人が父母を殺すと無間地獄に落ちるが、畜生が両親を殺すとどうなるかという問いがある。「聡明なものは落ちるけれど、そうでないものは落ちない」というのが答えだ。そして次のように説明されている。「かつて聡明な竜馬がいたという。人はその馬をもてあそび、母と交合させた。馬は後にそのことを悟って、自ら去勢して死んだ」と。
『尊婆須蜜菩薩所集論(そんばすみつぼさつしょしゅうろん)』には、「馬飼いが頭に衣をかぶせた。メス馬にあてがわれたが、それが自分の母だとわかった。馬屋に戻ってから、自分をかんで死んだ」とある。今日もアラビア人などは、極めて馬の系図を重んじで、優秀な血統を落とすことがないように腐心している。それを考えると、たまたま母子を交配することもあるのだろう。そのアラビア人自身は、今日でも同族婚を重んじていて、従妹は従兄の妻になるものと決めている。そこで、妻を求める際には、まず従兄がいるかどうかを尋ねて、その許諾を受けなければならない。
近親婚と母系社会
ボクは以前『風俗画報』で、泉州に二十数年前までは、年頃の娘に良縁がない時は、さしあたってその叔父に嫁がせるという地域があったという記事を読んだことがある。つまりこれは、系統を重んずるということから来ている。国史をひもとけば、少なくとも鎌倉時代の末までは、日本人、特に貴族の間に近親婚がおこなわれたことがわかる。中国では近親婚をしないことがよく知られているが、『春秋左氏伝』や『史記』などには、貴族が兄弟姉妹と通じて事件になった例が少なくない。これも、古代に近親婚の結婚を尊んだことの名残りだろう。
アイリアノスの『インドの記録』によれば、ヘラクレスが老いた時、娘が一人いたが、適当な結婚相手がなかった。そこで王の血筋が絶えるのを恐れて、自分でその娘を妻にしたとある。フレイザーの『アドニス・アッティス・オシリス』2版39頁によれば、古代ギリシアの王には、自分の娘を妻とした例が多い。まったく根拠となる事実なしに、こうした話は生まれないだろう。また、ことごとく邪淫の念からおこなわれたこととも思われない。
そもそも王家が母系のみを重んずる国では、王の后が真の王権を有している。王は単にその夫というだけの理由で崇拝されているに過ぎない。したがって、王冠が赤の他人の手に移らないように、王はなるべくその姉妹を后とした。例えば、エジプトの美女王クレオパトラは、二人までその兄弟を夫とした。それと同じ理屈で、后が死ねば、そのおかげでやっと地位に安んじていた王の冠は、娘の夫に移るはずだ。だから后が死んでも王がなおその地位にいたいと欲すれば、自分の娘と結婚して、二度目の后として立てる他ないというのが正論だろう。
本邦にも、古代に母系を重んじた例が、国史に現れたものとして存在する。今は詳述しないが、一、二の例を挙げておこう。『古事記』には、天孫降臨の際に従い参った諸神が列挙されている。「アマツコヤネノミコトは中臣連(なかとみのむらじ)などの先祖だ」などという中に「アメノウズメノミコトは猿女君(さるめのきみ)の先祖で、イシコリトメノミコトは鏡作連(かがみつくりのむらじ)の先祖だ」と書かれている。これに対して、本居宣長は「この二柱の神は女なのに、子孫があるのは疑問だ」と言った。しかしそれこそが、母系で続く氏があった証拠だ。
『古語拾遺』には、アメノウズメノミコトは「猿女君の遠い祖先だ……、今は男女にかかわらず、みな『猿女君』という名を用いている」とある。つまり子孫代々、男女ともに父の氏ではなく、母の氏で通したということだ。
『東鑑』文治元年〔1185年〕の源義経の都落ちの条に、その母の常盤御前の話がある。御前がみさおを破って平清盛に仕えて娘を設けたのは、三人の子の命乞いとしてしかたのないことだろう。ただ、清盛の寵愛が衰えた後は、亡き夫である源義朝の跡を弔いそうなものだ。しかし、よく「三十で後家というわけにも行かないさ」と言うように、一条大倉卿長成(ながなり)に嫁いで、侍従良成(じじゅうよしなり)を生んだ。良成は異父兄である義経と生死をともにして同行したことが書かれている。
『曾我物語』には、兄の曾我祐成(すけなり)が異父兄である京の小次郎を訪ね、父の敵討ちについて語る場面がある。この京の小次郎というのは、曾我兄弟の母が、父と会う前に、京の人と親しくしていて生まれた子どもだ。これらは、いずれもその頃まで母系を重んじた古風が残っていた証拠だ。
柳田国男氏によれば、かつて越前のある神官の系図には、十数代の間、女から女に相続したという朱線が引いてあった。そして夫の名はそれぞれの女の右に傍注として記されていたという(『郷土研究』1巻10号)。八丈島の島民が、母系を重んじたことはよく知られているところだ。
母系社会の方が自然じゃないかな
『春秋左氏伝』には「男女が同じ姓だと、子孫が増えない」とあって、これを学問的にも正しいと思っている人が多い。しかし、釈迦やキリストなどを生じた名門の家系で、同姓で結婚した祖先があった者は少なくない。植物などでも、一つの花の中のおしべとめしべが交わって、それだけで繁殖していくものもある。ハコベなどはこのやり方で全盛を続けているようだ。もし近親婚が、絶対的に繁殖力の乏しいものであるのなら、最初の動植物たちは同族だったわけだから、どうしてこんなに無数の子孫が生・ま・れ・た・の・で・しょーか。
それからインドで一夫多妻の家の妻と一妻多夫の家の妻とが、父系と母系の優劣について大議論した話を読んだことがある。うーん、面白かったのに、よく思い出せないなあ。ただし、母系を重んずるには、また根拠となる確固とした理屈があって、女はいつ誰の種を孕むか、自分ですらわからない場合がある(仏教では、これがわかるのが「非凡の女」なんだとさ)。普通に夫の子と認められていても、実は誰の種かが判明しない場合も多い。
だから姓氏を重んずる中国でも、「田恒(でんこう)は斉の国の女子で、身長が7尺〔この時代は約160センチ〕以上の者を選んで後宮に入れた。後宮には100人いた。外来客でも家臣でも、後宮に出入りすることを禁じなかった。田恒が死んだ時には、70人以上の男子がいた」という。つまり、フレデリック大王が身体の大きい男女を配偶させて、兵を強くしようとしたのと同じことだね。大きい子を多く生みさえすれば、実際は誰の種でもかまわないという了見だ。
これは例外としても、戦国時代の末期のわずか10年内に二つ続けて、不義によって生まれた子が王になった。楚王の后が生んだ黄歇(あつ)の子が楚の王となり、秦王の后が生んだ呂不韋(りょふい)の子が秦の王となった件だ。そこで魏では、「婦人を制御することはできない」ということになって、景湣(けいびん)王に「姓によって王になるとは限りません」と告げた。すると王は顔色を変えた。そして「チンもまた、五代続けて同じ家系を保てるかどうかわからんゾ」と答えた(『史記評林』46と78、『広弘明集』7)。
それに対して、誰の種であるにしても、どの女が身ごもって生んだかということは、明らかに知ることができる。だから、ある人の母は誰、そのまた母は誰と、母系の方がいたって確かだと、そちらの論者は主張する。これを考えてみると、本当の祖先崇拝とは、母系を重んずることであって、そういう人たちだけが家系を誇ることができるはずだ。アマテラスオオミカミ(天照大神)が女神であるのはオカシイなどという論の方が、よほどオカシイというものだね。
いわんや、日本は養子や系図を買うなんてことが日常茶飯事の国だ。「藤原」なんて名字も、あやかって付けたものがほとんどだろう。まあ日本人の子孫に間違いないというだけで、いいんじゃないかな。サル田彦の子孫だとか、鷺坂伴内の子孫だとか、議論したってまったく言葉の無駄だね。
進化論から言えば、動物からの距離が遠いほど、人間としては上等ということになる。動物には祖先崇拝の念を起こすものが一つもないから、その点では、祖先崇拝をしている国民が、祖先なんかおかまいなしという国民よりは優等だ。したがってボクは祖先崇拝の重要性を、大体においては主張する一人だ。とは言え、今日の事情はさっき述べた通りだから、正真正銘の祖先崇拝は、今となってはおこない得ない。それよりもずっと重要で差し迫ったことは、いくらでもあるんじゃーゴザイマセンかね。
ともかく、近親婚と母系はかならずしも一緒におこなわれたものじゃあない。けれどもフレイザーが言ったように、母系を重んずるために、やむを得ず近親婚をおこなう場合もあるから、一緒にここで述べた。これらは二つとも、それぞれれっきとしたワケがあり、決して無茶苦茶な風紀の乱れではないんだよ。
さっき引用したように、親子の近親婚について、畜生が恥じて自害自滅したというのが事実であれば、ある動物に羞恥の念がある証拠としては有益だろう。しかし、これを例にして、近親婚をおこなったむかしの人を、畜生にも劣ると罵るべきではない。すでに挙げたヘラクレスの例のように、自分の血統を重んずる一念から、そのように行動した者もある。自分の血統を重んずるということからして、人間と動物の距離が大きいということも言えるのだからね。
ライオンとサルと馬
『大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)』には、「馬は獅子の臭いを恐れる」とある。『十誦律毘尼序(じゅうじゅりつびにじょ)』では、「獅子の脂を脚に塗ると、ゾウや馬などは驚いて走る」という。レヤードの説では、クルディスタンの馬は、ライオンが近づくと、見えもしないのに手綱を切って逃げようとする。そこで、さまざまな部族の長は、ライオンの皮を剥製にして、馬に見たり嗅いだりすることに慣れさせるそうだ。
菅茶山(かんちゃざん)によれば、オオカミはクマに負けるが馬を殺す。しかしクマは馬を恐れる(『筆のすさび』51章)。馬はまた、ゾウとラクダを恐れる(ヘロドトス1巻80章。テンネント『セイロン博物誌』2章参照)。モンゴルのポニーやラバは、ひどくラクダを恐れる。そこでラクダにはもっぱら夜に旅をさせて、昼間はラクダだけの宿に泊める(ヘッドレイ『暗黒のモンゴル紀行』54頁参照)。
『淵鑑類函』には、『馬経』を引用して、「馬は特に新しい灰を恐れる。子馬がこれに出くわすと死んでしまう」としている。『夏小正』には、仲夏の月〔陰暦5月〕に灰を焼くことが禁じられているのは、この月に馬が子を生むからだとある。
ベイカーの『アビシニアのナイル支流』には、著者が馬に乗ってライオンを銃で殺した時に、6ヤード〔約5.4m〕の近距離まで、悠々と進んだという話がある。その勇敢な馬は、ライオンとにらみ合っても退かなかったという。して見ると、生まれついての性格と訓練によって、他馬が怖がるものを恐れない馬もあるということだ。
『虎鈐経(こけんけい)』10巻に、「サルを馬のいる敷地内で養うと、患いを避け、疥癬(かいせん)を寄せ付けない」とある。それで、日本・中国・インドでは、みな馬屋にサルを置いている。『菩提場荘厳陀羅尼経(ぼだいじょうしょうごんだらにきょう)』には、馬頭神の鼻をサルの類のように描いている。その理由として、「サルが騒ぐと馬は用心して気が張るから健康だ」と聞いたけれど、馬の毛の中の寄生虫を潰してくれるなどの効果もあるのではないかな。
また上述のガンダルヴァ部族の賎民などが、馬とサルに芸をさせたので、その都合上、この二つの獣を同じ所に置いたという遺風でもあるだろう。1821年にタイに行ったイギリス使節のクローフォードは、タイの王様の白いゾウの小屋に、二匹のサルが飼われているのを見た。聞いてみて、ゾウの病気を予防するためだと知ったという。
人類による馬の利用の開始
有史以前の人々は、野生馬を多く狩って食用とした。そのうちに、しばしば後日の貯えとするために飼っておくようになり、飼い慣らして使うことができる性質のものということがわかった。試しに乗ってみると、快適で有用だ。そこで乗ったり、引かせたり、背負わせたりして、ついに人間社会に大いに必要不可欠な道具となった。今日では、道路が改善されて、汽車が発達したため、馬の必要性は以前ほどではないけれど、馬が全廃という日はちょっと来ないだろう。
古い記録としては、『呂氏春秋』に「寒浞(かんさく)が乗馬を始めた」、『荘子』に「黄帝は方明を御者として襄城(じょうじょう)の野原に至った」、『武経』に「黄帝は軍の両翼に騎兵を備えた」というものがある。古代カルデア人は、初めはオナガー〔ロバの一種。第3回参照〕を捕らえて、飼い慣らして戦車を引かせたが、後に中央アジアから馬が入ると、馬具を付けて使うようになった。ただし、それは上流階級のみのことで、一般に軍用はされなかった。
ところで邦訳『旧約聖書』「ヨブ記」には、軍馬が「ラッパの鳴るごとにハァーハァーと言い、遠くから戦を嗅ぎつけて」と訳されている。たしかに、ディズレーリの『文学の奇想』九版三巻には、ヨーロッパで出た『聖書』の翻訳がいかに卑俗かが示されていて、まるで洒落本のようなけしからぬ例も多いことがわかる。とは言え、たとえ原文にそうあったとしても、仮にも『聖書』は一大宗教の聖典だ。その日本語訳は典雅を旨として、滑稽本の文句に似た語など使わないように、念には念を入れなければイカンのじゃないのかね。それを「ハァーハァー」などとそのまま出すのは、無邪気なんだか無知なんだか。
さて、ペルシア、ギリシア、ローマの人たちも馬を重用した。ギリシア人は、特によく馬に乗り、馬上の競技を楽しんだ。しかしくつわと手綱はあったが、あぶみはなくて、裸馬や布の皮を着せた馬に乗った。プリニウスの説では、初めて馬に乗ったのはベッレロポーンだ。ペレトロニウス王があぶみと鞍を発明し、ケンタウロスが騎兵の初めで、フリュギア人は2頭の馬、エリクトニウスは4頭の馬に戦車を引かせ始めたという。
アーズアンは、「モーセの書によれば、フリュギア人などよりもはるかに前に、エジプト人が戦車を用いていた。しかし馬を何頭付けたかはわからない」としている。ピエロッティは『聖書』中に馬を記した例として、まず「ヨシュア記」に、「カナンの軍が多くの馬車でメロム水辺に陣を張った。ヨシュアは神さまの命に従って、敵の馬の足の筋を切り、敵の車を焼いて勝利した」とあることを挙げている。
元来、イスラエル人は山岳地域に住んでいたから、馬を使うことは多くなかった。モーセの契約にも、「王者は馬を多く得ようとするな。また馬を多く得るためにエジプトに帰ろうとするな」とある。しかるにダビデ王の時代になって、ゾバの王の千の車を獲た時、そのうちの百車分だけの馬を残しておいた。
ソロモンの王朝がヘブライ人の持ち馬をたくさん有していたことは、「列王紀略」上に、「この王の戦車のための馬屋が4000あり、騎兵は1万2000いた」とあるのでわかる。また「王は1400の戦車と1万2000の騎馬兵を有していた」とも言う。その後、王たちが馬を繁殖させることが盛んとなり、預言者たちがこれを批判したことがあった。今日でも、パレスチナのサラブレッド馬の持ち主は、皆ソロモン王の馬の嫡流だと誇っている。ヘブライ人は古くは馬を農業に用いて、ワラと大麦で飼っていた。これは今のアラブ人も同じで、鈴を馬に付けることもまた同じだ。
『新約聖書』にも馬は登場するが、キリストとその弟子が馬に乗ったことは書かれていない。一方、アブサロムやソロモンがラバに乗ったとある。これはモーセが異種の家畜を交わらせることを禁じた契約に反するように見えるかもしれない。しかし、今もパレスチナのアラブ人たちは、ラバを多く飼っているけれど、馬とロバを交配させてラバを作ることはしない。近隣から買い入れているのだ。そこから推察すると、古代のヘブライ人は、もっぱらラバを買って用いたらしい。
パレスチナの古伝に、ヨセフはその妻子をラバに乗せてエジプトに行こうとして、鞍を付ける際にラバに蹴られた。その罰で、ラバは永久に父母子孫なく、馬とロバの間に生まれて一代で果てる。また人に嫌われて、他の家畜のように主人の炉辺に近づけてはもらえない、とされている。
ロバは『聖書』では不潔とされているが、馬がなかった時代にはもっぱら重用されていた。そこで古くはロバと牛が一緒に畑を耕すのを禁じた。これは、ロバが力負けして疲れて弱ったり、ツノでつつかれたりするからだ。モーセの契約には、7日目ごとにロバと牛を休ませなさいとある。
天馬「ペガサス」登場!
馬に最初に乗ったとされるベッレロポーンは、本名はヒッポノオス。ギリシアのコリントスの出身だ。同郷人のベッレロスを殺したので「ベッレロス殺害者」を意味する「ベッレロポーン」と呼ばれた。そのことで故郷を去り、ティーリュンスの王プロイトスを頼った。その後の物語は以下の通りだ。
プロイトスの妻のアンテイアは、若くて美丈夫のベッレロポーンに惚れ込み、しばしば言い寄った。しかし受け入れられないので怨みに思い、逆に「ベッレロポーンさまから横恋慕されています」と、夫に告げ口をした。プロイトスは怒って、その舅のイオバテースに宛てて、隠語で「ベッレロポーンを殺してくれ」との依頼の手紙を書き、彼自身に持たせて舅に遣わした。イオバテースはこれを読んで、「ガッテンだ」とばかりに、ベッレロポーンを自滅させるためにキマイラを討伐させた。
キマイラとは、ライオンの首とヤギの胴と蛇の尾を持ち、火を吐くという怪物だ。まあ「鵺(ぬえ)」みたいなもんだね。この話よりも前に、地中海の大神のポセイドンが、馬や鳥の姿に化けて、醜い怪物女のメドゥーサを身ごもらせていた。勇士ペルセウスがその首をはねた鮮血から、空を飛ぶ馬ペガサスが生まれた。
ベッレロポーンは、「天馬ペガサスに乗りさえすれば勝ちだね」と悟り、アテネの女神の神殿に眠って金の手綱を授かった。そのお告げによって、ポセイドンにいけにえを献じて、その助けで天馬ペガサスが泉の水を飲みに来たところを捕えた。そしてこれに乗ってキマイラを倒した。さらにソリュモイ人やアマゾネスを征服したということで、羨ましいほどの武功だね。
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ベッレロポーンとペガサス さて、ベッレロポーンが帰路につくと、イオバテースの精鋭がこれを殺そうとした。しかし逆に鬼神のごとく、敵を殺し尽くした。イオバテースはそれを見て、尋常の人ではないと思い、国の半分を与えて、娘と結婚させた。それからティーリュンスに帰って、アンテイアを欺いてペガサスに同乗させた上で、突き落として海中に溺死させた。そこまでは、けっこう毛だらけなハナシですな。
しかしベッレロポーンは、こうした毎度の幸運におごって、天馬ペガサスに乗って天に上ろうとした。すると最高神のゼウスは、アブを放ってペガサスを刺させた。刺された天馬は狂奔してしまい、ベッレロポーンを振り落として自分だけが天に達した。さあベッレロポーンは地に墜ちて、ドッスン尻もちだ。以後、足が立たなくなったとも、目が見えなくなったともいう。
最後のところは、インドのマンドハタール王(頂生王,ちょうせいおう)の話に似ている。この王は、過去の成功体験から、自分の望みは何でもかなうと慢心した。そこで天に上ると、帝釈天が座を分け与えてくれた。それに飽き足らず、帝釈天を滅ぼそうと企てたが、たちまち天から落ちて死んでしまった(ラウズ英訳『ジャータカ』258)。
ツェツェスの説では、キマイラが火を吐きかけようとした時、ベッレロポーンはかねて矛先に鉛を付けておいた槍をその口に突っ込んだ。その鉛が溶けて、キマイラを焼き殺したという。また後世、天馬ペガサスは芸術の女神たちムーサのつかいだとされた。9人のムーサが、ピーエリアーの9人の女と歌比べをして勝った時、ヘリコーンの山が歓喜して、飛び上がるペガサスを地上に蹴り返した。するとひづめの跡から泉が湧き出た。その水を飲む人は、文才を発揮するという。その泉は「馬の泉」(ヒッポクレネ)と呼ばれている。
空飛ぶ馬は他にもいるゾ
インドでも、『リグヴェーダ』に載ったアグニの馬は、前足から「アムブロシアー」と呼ばれる神聖な香りと味を出す。アスヴィナウの馬は、ひづめの下から酒を出して、百の壷を満たすらしい。中国でも次のように言う。
易州の「馬跑泉」には伝説がある。唐の太宗が高麗を征服して、ここに駐屯した。馬が跑(あが)くと泉ができたので、このように名づけた。他にも「馬跑泉」が広昌県の南70里にある。宋の陽延昭がここに駐屯した際に、やはり馬が踠いて泉ができたという俗伝がある(『大清一統志』22)。
他にも日本や中国には、馬があがいてできた泉の話が多い(同書同巻。1900年の『N&Q』9集6巻所収の拙論「神跡考」参照。柳田国男君の『山東民譚集』1)。
『山海経』には、「天馬の姿は白い犬のようで、頭は黒い。肉の羽があって、飛ぶことができる」という。堀田正俊の『颺言録(ようげんろく)』に「朝鮮の天馬は、姿は犬のようで、うぶ毛が白ウサギのようだ」とあるのは、馬類らしくない。しかし、翼が生えた馬の古い図は中国にもある。『史記』などを見ると、「天馬」は外国産の最高の駿馬を指す称号だ。
仏教にも「飛馬」がいる。ただし「飛行することができる。また姿を隠したり、大きくなったり小さくなったりできる」と書かれているだけで、翼があるとは言っていない(『増一阿含経(ぞういちあごんきょう)』14)。ラウズが英訳した『ジャータカ』196には、ブッダが前世で「飛馬」だった時、鬼ヶ島で苦しんでいる貿易商を救ったことが書かれている。しかしその「飛馬」は、「全身が白くて、くちばしはカラスに似て、毛はムンジャ草のようで、神通力でヒマラヤ山脈からセイロン(鬼ヶ島)まで飛んだ」というだけで、翼があるとは言っていない。
しかし、『リグヴェーダ』にはすでに、「アスヴィナウは赤い翼のある馬で、これに海中からブフギウスを救い出させた」とある。だから釈尊が生まれるよりずっと以前から、インドには翼のある馬の話があったのだ。アリオストが記した「ヒッポグリフ」やハンガリーの「タトス」、古代ドイツとスカンジナビアの「ファルケ」は、いずれも翼があって空中を行く馬のことだ。
「海馬」つまり「タツノオトシゴ」のことなど
ギリシアの美術品で天馬ペガサスを描く際には、かならず翼がある。そこからリンネが思いついて付けた「ペガサス竜」(ペガスス・ドラコニス)という学名が、今でも通用している小さな魚類がいる。和名は「ウミテング」で、その姿は怪異だ。牛若丸の相手としていつも負けている「烏天狗(からすてんぐ)」にも似ているし、「応竜」という竜を描いた日本画にも似ている。英語では「シー・ドラゴン」(海竜)と呼ぶ。ボクもかつて生きた標品を獲たけれど、しばらくして死んだから、その生態についてはあまり詳しくない。
一方、「海馬」(英語でシー・ホース)は、和名「タツノオトシゴ」だ。「竜の駒」や「ミヅチの子」などとも呼ぶ。その頭は馬にとてもよく似ている。左右の眼はカメレオンのように別々に動く。コイツは海藻やサンゴなどに尾を巻き付けているのが絵に描いた竜みたいだ。至って子煩悩で、オスの尾の裏や腹の下に、卵を抱く袋または皮がある。その中で孵化した子どもは、自力で生活できるようになってから、初めて出ていく。
むかしの人は、このことに気づいていたのか、和漢ともに雌雄のタツノオトシゴを握ると安産するという。「母が愛されていると子どもが抱かれる」という理屈なのか、ボクの家の前に住んでいる人は、これを夫婦敬愛のお守りにしている。またボクには根拠がわからないけれど、フランス人のコンスタンタンの『熱帯の自然』には、性愛の女神ウェヌスが、この魚を愛していると書かれている。日本産やイギリス産のものは10センチもないけれど、熱帯の海にいるのは2フィート〔約60cm〕にもなる。
ヨウジウオ(楊枝魚)というのがいて、和歌山では「たたみ針」、海草郡下津浦では「ニシドチ」、田辺あたりで「竜宮のつかい」と呼ぶ。これはタツノオトシゴと近い属だけれど、尾を巻く力がない。オスの腹の下や尾の裏に子を抱くことは、タツノオトシゴと同じだ。カンガルーなどのオーストラリア産の獣たちも、腹の袋の中で子を育てるけれど、タツノオトシゴなどとは異なって、メスがその役割を勤める。ヨウジウオの多くは海産だけれど、和歌山などでは河に住むものもいる。かつて高野山の宝物に「深沙竜王」と札が付けられていたのは大きなヨウジウオで、その「王子」とあったのは小さなタツノオトシゴだった。
インドの経典では、「ダディアンス(馬頭鬼)は海中で霊なる香りを守り、ヴィシュヌは乳の海の中で馬の姿となる」という。『無明羅刹経(むみょうらせつぎょう)』には、「海の渚の中の神馬王は、8万4000の長い毛を持っていて、さまざまな動物がこれに取り付いて命をつないでいる」とある。『根本説一切有部毘奈耶』では、「天馬がバラカ海から出てきて岸辺の香稲を食う。この馬は、500の商人を尻尾とたてがみに取り着かせて海を渡り、その難を逃れさせた」とされている。この話の和訳は、『今昔物語』や『宇治拾遺物語』に出ている。『大乗荘厳宝王経』には、「この聖なる馬は観音の化身だ」とある。
本邦の俗に「ホンダワラ」のことを「神馬草」と呼ぶけれど、それはこの聖なる馬の長い毛に比して、学僧などが名づけたのかもしれない。波に揺れながら、枝や葉の間にさまざまな生きものを安住させているわけだからね。
それでなくても、「長いものと言えば、神馬の尻尾の毛、神子の袖、貴婦人の髪の毛だ」と『尤(もっとも)の草紙』にある。むかしは、神の乗り物として神社で飼っている馬の毛を、まったく切らなかった。それをこの藻類に関連付けて「神馬草」と呼んだのだろうか。ただし「馬の食べ物」の節で述べたように、ホンダワラで馬を飼ったために、名づけられたという説もある。この藻類の中には、タツノオトシゴやヨウジウオがたくさん住んでいる。
馬と竜の関係性
さて、日本・中国・アラビアなどに、竜が海から出てきて浜辺の馬に俊足の「竜馬」を生ませる話が多くある。馬の属でないものがメス馬に子を生ませるはずもないので、これは人知れず、野生の馬か半野生の馬が身ごもらせると見て間違いないだろう。とは言え、海の獣の中には、遠目には馬のように見えるヤツもいる。またさっき述べたように、海中には「飛馬竜」や「深沙竜王」や「竜宮のつかい」と呼ばれている魚もいる。
特に「海馬」つまりタツノオトシゴは、ここまで紹介した異名の他に、「竜宮の駒」または「竜の駒」とも呼ぶ。後者は『尤の草紙』に「速きものと言えば、雷神が乗るという竜の駒だ」とある。さらに「馬王」とか、「うみうま」とかの和名もある。ヴェネチアでも「竜」(ドラコネ)と呼ばれているほど、馬にも竜にもよく似ている(ゲスナー『動物誌』4巻414頁、フランクフルト、1604年版)。
むかしの人は、陸の上のあらゆるものには、かならず海の中にも対照となるものがいると考えた(テンネント『セイロン博物誌』73頁)。そこから推察すると、こういう異形の魚の父である海中の竜は、馬を身ごもらせることができるほど、馬属と近しい存在だ。その子供たちや親類であるこれらの魚たちが、半分竜だったり、半分馬だったりの相を備えているのは、それに見合うものと言うことができるだろう。オーストラリアの海にいる巨大なタツノオトシゴの一種は、特にそのあたりの事情を示唆している。
また『本草綱目』の「ノミ」の項目などには、「竜と馬とは同気質だ」として、さまざまに理由を挙げている。これも、まずはタツノオトシゴ、ヨウジウオ、ウミテングなどの竜と馬が折衷したような魚が、竜が住んでいそうな海中に少なくないのが一つの主たる理由だろう。漢の王充の『論衡』6に、「世俗では竜の姿を描くには、馬の首と蛇の尾としている」と出ている。「馬の首と蛇の尾」というのは、とりもなおさずタツノオトシゴの外見のようだ。唐の不空の訳による『大雲輪請雨経(だいうんりんしょううぎょう)』上には、「馬形竜王」が出てくる。
「竜」という想像上の動物が、極めて多くの原因から、さまざまな想像と実在する生物の混成によって生じたことは、すでに辰年の回で詳論した。ただ、馬と竜の関係性については何も説かなかったので、今ここで、ペガサスの話からのついでとして論じたワケだ。
半人半馬のケンタウロス伝説
プリニウスが「ケンタウロスが騎兵の初めだ」と書いていることは、すでに紹介したよね。これは、ギリシアのテッサリアの山林に住んでいた蛮族だ。全身が毛深くて、時々村を襲って婦女をさらった。しかし山中に住み慣れただけあって、食用の植物に詳しかった。
スミスの『ギリシア・ローマ人物事典』(1844年刊)666頁によると、ケンタウロスというのは「牛殺し」の意味だ。普通に前半身が人間、後半身が馬という奇形で、男とメス馬の間の種だという。よほどむかし、ギリシアの中でテッサリアの山の民だけが乗馬ができた時、他の民族はこれを半人半馬の怪物だと思った。
実は、テッサリア人がいつも乗馬して牛を追って捕らえるのは、今の南アメリカのガウチョ(カウボーイ)そのままの姿だったらしい。紀元前四世紀には、すでにこれを描いたケンタウロス座の名が書き留めてあるので、こういう誤解は、かなり古い時期に生じていたようだ。
スペイン人が初めて新大陸に攻め込んだ際に、先住民が騎兵を半人半獣の神と心得て、そのなすがままに滅ぼされてしまったことはよく知られている。それほどの恐れを引き起こした馬も、しばらく見慣れれば何ともなくなる。今度は南北アメリカの先住民ほど、荒馬を乗りこなす達人はいないというくらいに熟達した。
ダーウィンの『研究の航海』には、南アメリカの先住民が、幼子を抱えて裸で、裸馬を駆って走り去る様子が記されている。その姿は、古代ギリシアの勇士さながらだったということだ。またバートンは、北アメリカの先住民は、砂漠の中に天幕と馬を用いて生活していて、アラビア人とよく似たありさまだと述べている。
したがって、アメリカ大陸で新たに生まれた馬に関する習俗も少なくない。例えば、パタゴニアのテウェルチェ族は、メスの牛馬の腹を割いて胃を取り出し、その跡がまだ暖かい中に新生児を入れておく。こうすると、その子は後に乗馬の達人になるというのだ。この連中は、以前は歩いていたけれど、100年ほど前に北方から馬が伝わり、いつも乗馬してほとんど足で歩くことができなくなった。また人が死ぬと、馬と犬を殺す。以前は乗馬に最も必要な皮ぐつわを本人の死体と合葬した(プリチャード『パタゴニア中心部縦断』6章)。
「旧世界」であるユーラシアでも、馬を重んずる民族が、馬を殺して馬具とともに墓に供した例は多い。「南船北馬」の比喩の通り、モンゴル人などは厳寒の烈風吹きすさぶ冬に馬で3000マイル〔約4800km〕を駆けても平気でいる。それなのに、ひと晩だけ地面の上で寝ると、華奢(きゃしゃ)に育った旦那衆のように、すぐに風邪をひいてしまう。15マイルとか20マイル〔24kmとか32km〕も徒歩で行けば、疲れ果ててしまう(プルジェワリスキー『モンゴルのタングート国および北チベットの寒地』英訳1巻61頁)。そのモンゴル人と万里を隔てたパタゴニア人も同一の性質や風習を具えることになったのを見ると、同じ原因からは同じ結果が生まれると悟るべきだね。
馬上で用いる「ボーラズ」という武器
第5図の「ボーラズ」と呼ばれる道具は、1個から3個くらい石の弾を皮で包み、皮か麻緒を編んだ長ひもを付けたものだ。これを投げてアメリカ産のダチョウであるレアなどに当てると、たちまちひもがくるりと絡んで、鳥を捕らえる仕組みだ。16世紀のグアラニー族がすでにこれを用いていて、アルゼンチンのガウチョたちは、今日では銃よりもこちらを好んで使う。
パタゴニア人も、以前は馬に乗らずにこれを用いたけれど、今では馬上で使うようになった。それによって、むかしながらの道具は、その効力を大いに増すこととなった。サー・ジョン・エヴァンスの説に、スコットランドとアイルランドの有史以前の民が、こんな道具を使っていた証拠の品があるという。しかし、その他には東半球の人がこういう器具を用いた例は少ないようだ。
12年前にイギリスのアリソン博士が世界中の唐竿(からさお)〔麦・豆類・粟などの脱穀に用いる農具〕を研究して、『唐竿とその種類』を著した。その続編を出すために、ボクにいろいろと質問の手紙を送ってきた。その中で「パタゴニア人は唐竿を武器にするんですよ」と言っているので、よく尋ねてみると、ボーラズのことを指していた。つまりボーラズのようなものはイギリスにはないので、かなり遠いけれど多少は似た点があるので、唐竿を当てたわけだ。
実は日本で言うならば、唐竿よりも鎖鎌(くさりがま)とともに使う分銅(ふんどう)が、ボーラズに一番似ている。かつて、陸軍中将の押上森蔵さんと文通した際、「鉄砲が初めて使われたのは、かならずしも一つの地方とは限らないんじゃあないですかね。それほど複雑な仕組みじゃないわけですし」という話をした。そのついでに、「分銅とボーラズが、それぞれ自前で発明されたのも、いい例じゃあないかと思うんですよ」と述べた。その後、押上さんはこの説を『歴史地理』にかいつまんで紹介している。
後に藤沢氏の『伝説』「播磨の巻」を見ると、その地方の古い記録を引いて、ヨーロッパ人が初めて日本に渡来した年から13年前の享禄3年〔1530年〕5月11日の、次のようなできごとを記している。
飾磨(しかま)郡の増位山の随願寺の会式(えしき)で、僧侶や在家が集まって宴たけなわの時のことだ。薬師寺の稚児の小弁が手ぶりで、桜木の稚児の小サルが詩歌で、座興をおこなっていると、争論が起きて小サルが打たれた。いつもこの美しい稚児に愛着していた寛憲という僧侶が、小サルを連れて立ち退いた。しかし小サルはついに水死してしまった。そこから山の俗衆と薬師寺の闘争となり、双方で82人が死んだ。
このために英賀(えが)の城が和平を取り持ち、武士を遣わしたが、その時に持たせた武具の中に「鎖鎌十本」があったと載っている。だからやっぱり分銅は、ボーラズとは別個にできたものだとわかるんだよ。
馬が使われ始めるといろんなことが起きるなあ
さて、馬が新世界に入ってから生じた、変わった習俗を一つ挙げてみよう。オーウェンの『マスクワキー・インディアン〔ママ〕の民俗』に、「馬踊り」という次のような内容の項目がある。
外部の商人が馬をたくさん連れてきた時、その中にインディアン〔ママ〕たちが「欲しくてたまらんなあ」と思うような良馬がいたとする。各々、その所望の馬を指して誉め、なんと「踊ってくれんか」とお願いをする。商人が承諾すると、彼らは大いに火を焚いて、片肌を脱いで車座に座ってタバコを吸う。商人一同は、ムチを執ってその周囲を踊り回り、インディアン〔ママ〕たちの肩と背を激しくムチで打つ。それでも彼らは平気で、どこ吹く風とばかりの体で喫煙し、静かに談話している。
15分から30分打ち続けて、声を立てる者がなければ、商人たちはそれぞれ約束した馬をインディアン〔ママ〕に与える。すると彼らは傷に脂を塗り、襦袢を着てその馬を乗り回して、自分の勇猛さを示す。この行事の間、あまりに激しくムチ打たれてガマンできないようなら、「悪い。ちょっと用事、思い出したわ」と言って立ち去ってもかまわない。しかし、もし眼を動かしたりして、少しでも痛みに耐えかねた徴候を見せると、大いに嘲笑される。特に婦女に侮られるという。
『日本書紀』7には次のようにある。
八坂入彦皇子(やさかのいりびこのみこ)の娘のオトヒメはとびきりの美人だった。又従兄に当たる景行天皇がそのことをお聞きになり、遠くからその家を訪ねられた。するとヒメは恥ずかしがって竹やぶに隠れたので、天皇は「泳(くくり)の宮」にいたコイをたくさん放って、遊びをなされた。そのコイが見たくて、ヒメが秘かに出てきたところを、留めてお召しになった。
しかるにこのヒメは常人とは異なっていた。「アタシはもともとエッチは好きじゃあないのね。今、天皇さまの命令だというから、しかたなく部屋に来たワケ。でもあんまり気分よくないナ……」と言って断った。そして「アタシより姉さんの方がいいヨ」と薦めた。それが成務天皇のおん母君であらせられる。
『夫木集抄』30の「読み人知らず」に、「ああ寝たいなあ。泳の宮の池に住んでいる、コ…イ…♡ が理由で、あの人に逃げられてしまったよ」とあるのは、このことを詠んだものだ。それと等しく、マスクワキー・インディアン〔ママ〕も、馬がいなかった頃には、こんなに痛い目に遭わずに済んだわけだ。
「謎肉」を食べた話
漢の時代の鄒陽(すうよう)が書いた上申書には、「燕の国の人たちは、蘇秦が他国から入ってきて、燕の大臣となったことを憎んだ。それで讒言したけれど、燕王は聞き入れなかった。それどころか、蘇秦をさらに優遇して駃騠(けってい)を食わせた」とある。この「駃騠」というのは、すでに説明した通りで、オスの馬がメスのロバに生ませた混血だ。日本ではちょっと見られないものだけれど、中国では特別待遇の大臣に賜るほどだから、その肉はとても美味らしい。
ローマでは、紀元前1世紀、文芸を奨励したことで知られているマエケーナースが、ロバの子を食べ始めた。当時はロバの肉が大はやりだったけれど、後には廃れた。その代わりに、オナガーや、現在もアフリカに生息している、ロバの元となった野生種を食用した。
プリニウスは、「ロバは、他のロバが死ぬところを見ると、ほどなくして自分も死ぬ」と言っている。中国では、明の時代の宮中で、元日にロバの頭の肉を食うことを「嚼鬼(しゃっき)」と言った。これは俗にロバのことを「鬼」と呼んだからだ。インドでもロバは鬼の類いとされている。死んだ人がロバの車に乗ると夢で見るのは、その人が地獄に落ちたことを示しているという。
劉若愚(りゅうじゃくぐ)の『四朝宮史酌中志(しちょうきゅうししゃくちゅうし)』巻20には、次のような記述がある。
近習たちは好んで牛やロバのゲテモノを食う。「挽口」というのは、すなわちメスの陰部のことだ。「挽手」というのは、すなわちオスの陰部だ。また「羊白腰」というのは、すなわち睾丸の肉だ。白いオス馬のタマにいたっては最も珍奇なものとして「竜卵」と呼ばれている。
さてボクがロンドンで浜口担君と料理屋に行った時のことだ。ウェイターが持って来たメニューを見て、よくわからないけれども「甘いパン」という意味の「スウィート・ブレッド」と書いてあるのを注文してみた。いよいよ持って来た皿を見てみると、とてもパンには見えない。かまぼこのように円形で、豆腐のように真っ白で柔らかい。「こりゃパンじゃないぞ」と文句を言うと、「いかにもパンではございません。オーダー通りに、スウィート・ブレッドをお持ちしました」という答えだった。
それで二、三度、言い争いになった。店の主人は、ボクの気が短いことを知っているので、「ウェイターが聞きまちがえたのでしょう」と取りなした。そして皿を持って帰ろうとするのを気の毒がって、浜口君が「まあオレが引き取って食ってやろう」と言った。そして実際に口にしてみて、「不思議と美味いじゃないか」と、ボクに半分くれた。ボクも食べてみると、その味わいは絶品だ。「間違ったのはソッチのせいだけど、美味いものを食わせてくれたことは誉めてつかわすゾ」などと減らず口を叩いて逃げ帰った。
その主人とは仲が良いから、翌日、近所で出会った際に、「あれは全体、何で作ったんだい」と聞いてみた。すると「へへへ。メス牛の陰部ですぜ」との答えだ。辞書なんか見てみても、「スウィート・ブレッドはメス牛の膵臓などのさまざまな腺」と出ていて、陰部だとは書いていない。
ところが、帰国の際の船で同乗した海軍技師の金田和三郎氏もやはり、陰部だと聞いたと話していた。あるいは、俗語とか方言とかでそう呼ぶのかとも思うけれど、こんな田舎にいてはとうてい見当がつかない。だから、牛とロバの陰部が、明の宮中で賞翫されていたことのついでに、ここに報告しておいた次第だ。読者の中にも、西洋通の諸君は多いだろうから、ご高教を待ちたいと思う。
馬類の肉を食うこと
『周礼』には次のように書かれている。
料理人は「六畜」つまり6種の畜類を扱う。馬はその第一に位置づけられている。それから、牛・ヒツジ・ブタ・犬・ニワトリという順だ。「五穀」というのは麻を始めとして、黍(もちきび)と稷(うるきび)、それから麦と豆だ。これに稲と小麦と小豆を加えて「九穀」という。
とは言え、今日の中国では、馬肉や麻の実はさほど珍重しないよね。
秦の穆(ぼく)公の馬を野人が取って食った際に、穆公は怒らなかった。「駿馬を食って酒を飲まなければ体を害するらしいよ」と言って、一同に飲ませてやった。翌年、韓原の戦で負けそうになった時、前年に馬を食って酒をもらった者たちが、300人で加勢に駆けつけた。結果、大勝して晋の恵公を捕虜にした。
また晋の趙簡子(ちょうかんし)は2頭の白いラバをとてもかわいがっていた。ある人が重病で、「白いラバの肝を食わなければ死にますな」と医者が言うのを聞いて、そのラバの肝を取ってやった。後に趙簡子が翟(てき)の国を攻めた時、この者の一党がみな先を争って戦い、勝利に貢献した。「これこそ上は正しく徳をおこない、下はしっかりと力を尽くすという逸詩の言葉通りじゃ」と『呂氏春秋』「愛士篇」に出ておる。
本邦では古来、普通に牛馬を食うことを忌避した。しかし『古語拾遺』には、「白いイノシシと、白い馬、白いニワトリを、御歳(みとせ)すなわち収穫の神に献上して、その怒りを解く」とある。これは、次のような中国の風習に近いだろう。
貴州の紅崖山(こうがいさん)の深い洞窟の中から、時々ドラの音が聞こえる。諸葛亮がここに兵を駐屯させた。土地の人は、祭祀のたびに、黒牛と白馬を用いれば豊作だという(『大清一統志』331)。
あるいは、古代の日本でも、地方と部族によっては馬肉を食ったり神に献じたりしたのだろうか。琉球では、明治維新の前から、牛馬やネコの肉を魚屋で売っていた。婦女は特に馬肉を好んで、焼いて食べたが、本土の人に見られると大いに恥ずかしがったという(『中稜漫録』8)。モンゴル人は古来馬肉を食い、特に発酵したものを好んだ。また馬の乳で酒を造ったことは、中国人の他に、ルブルキスやマルコ・ポーロやプルジェワリスキーなどの旅行記に詳しい。
ブラウンの『プセウドドキシア・エピデミカ』3巻25章には次のように書かれている。
プリニウスとガレヌスは、ずいぶんと馬肉をけなし、また馬の血は大毒だなどと言っている。だけどタタール人は多民族よりずっと馬肉も食い、馬の血も飲むではないか。北方の寒地の人体だから無害だなんて言うのかね。ヘロドトスが言っているように、ペルシアは温暖な国だけれど、そこの人は誕生日のお祝いとして馬肉をふるまう。馬、ロバ、ラクダを丸煮にして食べて、「ギリシア人はこれほどの美食を知らないだろう」と哀れんでいた。だからどこの国で馬肉を食ったってかまわないはずだ。
メンツェルの『ドイツ史』1巻に、ゲルマンの僧侶は、馬をいけにえにしてその肉を食った。それで、馬肉を食わぬ者はキリスト教徒、食う者は異教徒と識別した。古代スウェーデンでも、キリスト教を奉ずる王様に、あえて馬肉を食わせて、棄教した証としたという。47~48年前に、パリが包囲された時、たくさんの馬が屠られた。しかし白馬の味はひどく劣るために殺されず、結果として長い間、パリには白馬が多かった(『N&Q』11集7巻109頁)。
マルコ・ポーロによれば、元の世祖は純白の馬1万を有した。そのメスの乳を、皇帝と皇族だけが飲む。ただし、祖父のチンギス・カンを助けて大きな勲功があったブリヤート部族は、皇族ではなくても特に飲用したという。1403~1406年の間に、サマルカンドのチムール朝に大使として遣わされたスペイン人のクラヴィホの記録に、チムールが諸国の使節を饗応する際には、炙った馬肉が出された。そこから脚を取って、腰と臀部を最上のご馳走として切って10の金銀の器に盛ったとあり、それを食べた様子が詳述されている。『周礼』で馬を「六畜」の一番目としたのも、このように貴まれたからだろう。(つづく)
(まつい りゅうご・龍谷大学国際学部教授、南方熊楠顕彰館館長)




