第4回 現代語訳 南方熊楠『十二支考』「馬に関する民俗と伝説」 松居竜五
またまたクソと小便の話
「ツノのある馬」の節で、秦の王さまが燕国の太子の丹に「カラスの頭が白くなって、馬にツノが生えたら帰国を許そう」と言った話を紹介したよね。それと似ているのが、西暦3世紀頃にユダヤ人のベン・シラが集めたっちゅう動物物語の中に出てくるこんな話だ。
神さまが万物を創造し終わると、ロバが馬とラバに向かって、「他の動物はみな休みがあるのに、ボクたちだけが絶えず働かなきゃならないなんて、不公平極まりないよ。だから多少の休みをもらえるように祈ろうじゃないの」と言った。しかし神さまは許さない。「オマエの尿で、水車を動かせるほどの川を作ってみろ。オマエのクソから良い香りが一面に漂うようにしてみろ。そうしたら、初めて休みとやらを与えてやろう」とのことだ。
それ以来ロバは、常に他のロバの尿の上に自分の尿を垂れ、クソするごとにかならずその匂いを嗅ぐんだとさ。
ボクはかつて『イタリア古典文学全集』(1804年ミナルノ版)に収めてある15~16世紀の物語に、「人が大便したらかならずそれを顧みるのは何故か」という論があるのを読んだことがある。しかし書名も詳細も覚えていない。古今東西、人はつねにこんなクセがあるんだかどうだか。
とは言え、牛は道中で他の牛の小便に出くわすと、かならず匂いを嗅いでから鼻をフンと吹いたり、ネコや犬は自分のクソや尿を探し出してまた垂れ加えたりする。またことわざに「紀州人のつれションベン」などとも言う。とすれば、生まれつき人も畜生も、類似のクセがあるというのが本当のところなのだろうか。
関連して思い出すのが、ベロアル・ド・ヴェルヴィルの『上達の方法』39章にある話だ。
アルザスのある地方の婦女は、威厳を重んじる余り、7日に一度しか小便をしない。火曜日の朝ごとに、身分に応じて隊伍を組んで、泉へと向かう。各々、定められた場所に位置して、おびただしく、かつ快活に、粛々と膀胱を空にする。その尿が集まってついには川をなして流れが絶えない。イギリス・ドイツ・フランダース諸国の人たちは、その水を汲んで最上級のビールを造る。しかし女房たちは、「これは小便を飲んでいる理屈になるじゃあないですか」と言って嫌う。
こりゃまたずいぶん思い切ったホラ話だね。ただ、むかしわが邦でも、摂津で美酒ができる所の川の上流で、牛や馬の皮を水にさらしていた。それをやめると翌年から酒の質が悪くなったという。また紀州有田川の源流で高野山の坊主たちが便をする。それでこの川のアユが特に肥えて美味なのだ、などと伝えている。多少は因果関係があるのかもしれんね。
いくつか落ち穂拾い
ついでに、ここまでに書き落としたことを二、三述べておこう。馬で海を渡った例は、源頼信、佐々木盛綱、明智光春(ただしこれは湖水だが)などが、日本では有名だ。中国にはあるのだろうか。ヨーロッパでは、中世イギリスのハンプトンのビーヴィス卿の例がある。
この人は、ダマスカスの土牢を破って逃げる時、追いかけてくるサラセン軍の猛将グランデールを殺し、その乗馬のトランシュフィスを奪って海を渡った。城にたどり着いて食事を求めたが、城の大将が与えてくれない。そこで大立ち回りをするうちに、名馬は大将に殺され、ビーヴィスは大将を殺した。そして大将の妻に食事を出させ、毒味をさせた後にたらふく食って去ったという。
12世紀にスペインのユダヤ人アルフォンシが書いた『聖職者の訓戒』には、ラバがロバを父としていることを恥じて隠し、母方の父が立派な馬だったことを誇るという話が載せられている。まあ、これは昨今の日本で成金や成り上がり者の息子が、父のことを語るのを恥じて、母はさる大名の落胤(らくいん)だとか、公家の末裔だとか、系図を誇ったりするようなものだね。
13世紀の末にイタリアで出た『百の物語』91にはこんな話がある。
ラバがオオカミに「ワタシの名前は後ろ足のひづめに書かれていますよ」と言うと、オオカミはそれを読もうとした。そこでラバはその額を思い切り蹴飛ばして殺した。それを横目に見ていたキツネが、「やれやれ、字が読めると得意がっているヤツはバカだね。まるで人間みたいじゃないか」と言った。
世の中には「字を覚えるのは、人生の苦労の始まり」ということわざもあるくらいだしね。しかし字よりもいっそう苦労の初めとなるのが、色恋だ。ベン・シラも、「女は罪業の始まりだああ。女のために、人はみんな死するんじゃあああ」などと述べている。
女陰は生命と死の象徴
さて沖縄の首里の人、末吉安恭(すえよしあんきょう)君が、二月号に載せたボクの「不毛婦女」に関する説を読んで、報告を送ってくれた。あちらの方では、不毛のことを「ナンドルー」(なめらか)と俗称し、少ししゃれて「那覇墓(なはばか)」と言うらしい。琉球の墓は、女陰を象(かたど)っていて、普通はその上と周縁に、松やヤラブの木やススキなどを植えて茂らせる。しかるに那覇の近所の墓に限っては、多く樹木やススキが少なく不毛なので、こう呼ぶのだと。また「墓を女陰に象(かたど)るのは、生命の元に還ることを意味するのでは」とあった。
これはなかなかの卓見で、仏教でも次のように言う。
時に舎衛国(しゃえこく)に、僧侶と尼僧の母子がいた。夏の安居(あんご)の集まりで、母子はしばしば相対した。何度も会っているうちに、ともに欲心が起きてきた。すると母は、息子に対して「オマエはココから出てきて、またココに入るんだよ。別に悪いことじゃあない」と言った。息子は母の言う通りにしたが、それでよいか疑問を持った。するとブッダは「それは重罪じゃ」と言った。
まことに一休和尚が詠んだ通りで、「一切衆生が迷う道だが、すべての諸仏が通ってきた門でもある」ということだ。
1914年8月にイギリス王立人類学会から発行された『マン』誌には、ベスト氏の次のような論が載っている。
ニュージーランドの先住民であるマオリ族は、女陰に破壊力があるとして、これを「不幸の住所」と呼んで災難の象徴としております。女神のヒネ・ヌイ・テポが冥界を司り、死者の魂を治めているのです。それに対して、勇者マウィが立ち上がり、人類のために不死を求めようといたしました。しかしながら、陰道(タホイト)から女神の体内に入ろうとして殺されたと伝えられています。かなしいことです。とほほほほ。
産道は「死の家」と名づけられております。人はこれによって世に出てきて、労苦や病死を得る定めだからです。あるいは「女陰は人類の破壊者だ」とも言っています。これにつけて思いおこされるのは、ヒンドゥー教の女神のカーリーでしょうな。これは女性の力、つまり破壊の力の表象とされております。この力は、いつもは眠っているのですが、一瞬の刺激でたちまち激しく起きて、万物を壊してしまいます。ああおそろしや……。
ベストさんは、「この信念がどこから来たか、はなはだ不明瞭なのです」としているけれど、熊楠さんに言わせれば、そこまで難解じゃあないね。陰陽和合が果たされた後は、どれほど猛勢の相手だって、すぐに萎縮してしまう。だから「女陰には大破殺力がある」なんてことになったのさ。思うに、琉球の墓にしても、生命の元に還るという意味を兼ねて、死を表象するために女陰に象ったんだろうね。
そもそも生物学から見ても、心理学から見ても、生殖の営みとそれに伴う感触には、すこぶる死に近いものがある。伊藤仁斎(じんさい)は「死は生の極みなり」と説いたと聞く。それより後に出た『相島(あいしま)流神相秘鑑』という人相学の本には、「交接は死のさきがけで、人間の気力はここから衰え始める。だからソノ時には悲嘆の表情になるものだ」と説いている。まあいくぶんの理はあるだろうね。
神さまの価値はどこにあるのか
『日本書紀』1には、「イザナミノミコトが火の神を生む時に焼かれて死んでしまった。そこで紀伊国の熊野の有馬村に葬った」とある。『古事記』では、「ヒノカグツチノカミを生む時に御陰(みほと)が焼かれてお亡くなりになった」となっている。
イザナミを葬ったという「花の窟(いわや)」または「般若の窟」は、俗に「オ○コ岩」なんて呼ばれている。高さ27間〔50m弱〕という岩に、女陰の形のくぼみがある。以前、そのあたりの地元の人々が、次のように言っていた。
『古事記』に、「イザナミの命は出雲伯耆(いずもほうき)の境の比婆之山(ひばやま)に葬った」て書いちゃあるんやけど、あれウソやで。論より証拠言うやないか。焼かれたアソコが化石になって、今もちゃんと残っちゃあるんやさかい、誰が何言おうと、有馬村のがほんまの御陵やで。せやから、その筋へねじ込んで、官幣大社にしたろか思うちゃあるんよ。
とまあ意気盛んだったけれど、どうなったかは、ボクは知らない。しかしこの古い言い伝えから、日本の上古にも「女陰と死の間には密接する関係があるらしいゾ」という想像がおこなわれたとわかるのが、学問というもののありがたいところだ。
末広一雄君は『人生百不思議』で、「日本人は西洋人と違って、神さまを乱造し、その価値も都合良く上げたり下げたりする」と言っている。現に、芸者や少女に私生児を生ませて、その母子ともにピンピン跳ねているのに、こともあろうに生ませた父というヤツが神として祭られている、なんてことがある。欧米人から見たら、桜よりも盆踊りよりも不思議な光景だろうね。
そのくせ森林を伐り尽くし、名山を丸ハゲにする。積み立てや寄贈の金額を標準として、神社を昇格させるなんてことも平気の平左だ。そのやり口で、生前はさしたる勲功もなかったようなヤツがなった新米の「神さま」とやらを、別格に上げたりしやがる。自分の趣味を満足させるために、国法を破って外国人に地図や禁制品を贈った者に位を与えるのと似たり寄ったりの悪行だね。いかに金銭本位の世の中とはいえ、神さままで金次第で出世するとは、何とも「神なき世」となったものだ。
ジョン・ダンロップは、中世末期のイタリアの役人たちが、争って残酷極まりない殺人を描くのに努めたことを指摘している。浮気した人妻の首に間男の男根をつないだとか、それをスープにして飲ませたとか書き立てているのだけれど、「残酷さもやり過ぎるとかえってバカバカしさがある」と評している。ボクに言わせれば、あんな奇観の岩を「基本財産」とやらに従って官幣大社にするのも、似たようなもんだね。「大社」と呼んでみたところで、本来の尊崇の精神を失って、神霊を侮辱するだけなんじゃあないかな。
ふたたび「カワラケ」の話
さっき紹介した末吉君というのは、生粋(きっすい)の琉球人だ。篤学の士で、ボクはこの人から知識を得ることが多い。不毛のことについて、彼に教えられて『松屋筆記』を見ると、次のように書いてあった。
「ひたたけ」ならびに「かわらけ声」について。無毛のことを「かわらけ」という。「ひたたけ」という語は『源氏物語』の他、多くのものに見られる。いずれも混乱しているという意味だ……。だから「混渾沌
」などの字をこう読んでいる。室町時代の雅楽の書である『体源抄(たいげんしょう)』10巻の「練習事」の条には、「少御前(ちいさごぜん)の歌声は、いわゆるかわらけ声で、愛らしさに欠け、ひどく耳障りなものでした。それにもかかわらず、調子ごとにどこか愛嬌があって、聞いていて面白く感じられたのは、彼女がもともと心賢く、さらに歌に力を込めていたからに他なりません。男女の陰毛がないことをかわらけとも言いますが、それも同様に、艶やかな気配が欠けているという意味で使われているのです」とある。
末吉君は、次のように言っている。
と言うことは、先生(ボクのこと)が、足利時代からこう呼ばれていたとおっしゃったのも、不思議ではありません。わが琉球語では、「乾く」を「カワラク」と言います。瓦の器を「カワラケ」と読むのも、「カワラク」器の意味かもしれません。人が不毛なのは、乾燥した土地に喩えることができますから、「カワラケ」は「乾く」の意味から出たと言えます。「阿婆良気(あばらけ)の島は七島と毛無島」という歌も、湿気がないことから来ているんじゃないでしょうか。
こんな風に「カワラケ」だらけの手紙だったよ。しかし伊勢の内宮の神事の歌の意味は、「阿婆良気は七島からなるといえども、近くの毛無島を合算すると八島になる」ということらしい。だから毛無と阿婆良気は別のことだ。
まあ、孔子も「老子さまにはかないません」と言ったわけで、ボクもこういうことは女の人に聞いた方がいいかと思い至った。そこで例のおなじみのお富さんに聞いてみたところ、その回答がまた格別だ。この大先生、いや仲居さんだけど、の説は以下の通りだ。
アンタはんは、言うたはりましたな。「アバラケという語は、亭を『あばらや』と読むように、荒れすさんでいるという意味じゃ。それだと毛がないのとほとんどおんなしじゃ。そやから不毛をアバラケ、そこから転じてカハラケと呼ぶようになったんじゃ」と。
それは二つの島の名を混同した誤解どすえ。毛無はつまりは「不毛」。アバラケは「マバラケ」のことや。これは疎(まば)らかでちょっとだけあるゆうことですやろ。それやと全くの毛無とはおんなじことやおへん。その「アバラケ」が、今では「カワラケ」となまったんですわ。アンタはん自身、二月号では「ムカシから何も生えてないのを「まんじゅう」と呼ぶ。これはかえって、特に凶ではない。少しだけ生えているのをカワラケと呼んで、極めて不吉とするのだ」なんて書いたはるやおまへんか。
うえーん、やり込められたよーーー。
そこで、はっと目が覚める気持ちで、家に帰って『伊勢参宮名所図会』の島の図を見てみた。するとはたして、阿婆良気島には、少し木が生えているように描かれている。お富さんは、伊勢の山田の出身だから、その言葉にはよりどころがあると思われる。
こんな風に婦女の不毛のことなど長々と書き連ねていると、よほど変わり者のように思われるかもしれない。しかし南洋の諸島では、婦女の秘所の毛を抜き去って、三角の形のいれずみを入れるという。あちこちのイスラム教徒は、みな毛を抜いている。その由来としてはすこぶる古く、衛生上の効果が著しいということもあるらしい。
だから、日本人もこれから海外に発展するのに従って、この風習を採り入れるべき場合だって、ないとは限らない? のではないか。したがって、ボクの望みを正直に述べておこう。ボクはカワラケに関する一切のことを調べ尽くして、国家に貢献しようと志しているのだああ~~。
馬は感情が豊かで記憶力もいい
ともかく、ここからは本気を出して、いよいよ馬の心理のさまざまな面を説いていこう。ロマーニズは次のように書いている。
馬には、虎やライオンのような大きな肉食獣ほどの智恵はありません。草食獣の中ではゾウの方が、大きな馬よりも賢いものです。ゾウほどではありませんが、ロバも馬よりは鋭敏です。しかし、その他の草食獣(牛・鹿・ヒツジ)よりは馬の方が、やや知恵があります。馬の情緒が、調教師次第で急に変化するのは、驚くべきことです。
馬を飼い慣らす方法は、世界中どこでも軌を一にしている。すなわち、暴れ回る奴の前二足あるいは四足をことごとく縛って横に寝かせる。しばらくは狂ったように荒れ回らせておく。次に、別段苦痛を与えるというわけではないが、ただただ、「とても人間様にはかないませんや」と悟るまで、さまざまに責め立てる。一度そのように悟ると、馬の心根はたちまち全く変わって、野生馬が飼い馬になってしまう。
時には野生に戻りかけることも、例がないわけではないが、簡単に制止することができる。たとえば南アメリカの荒野に生息する馬は、数百年間も人から離れたために、飼い馬が純然たる野生馬になったものだ。それすらガウチョたちがさっきの方法でうまく飼い慣らしてしまう。インドなどで、野生の象を飼い慣らすのも似たようなものだけれど、それは時間をかけて徐々にやることなので、馬の時ほどめざましいものではない。
また奇妙なことは、馬はひとたび気が動転すると、他の考えがまったく停止して狂奔する。石の壁に強打することさえ辞さない。他の獣も、あわて過ぎて正気を失い、自暴自棄になることはあるが、馬ほど激しいものはない。
しかし、正気の時の馬は、たしかに感情が豊かだ。やさしくなでられるとよろこぶ。他の馬が寵愛されると嫉妬する。同類で遊ぶのが好きで、狩り場に向かう時は勇ましい。虚栄の念もまた盛んで、馬具が美麗だと誇らしげだ。だからスペインで不従順な馬を懲らしめるには、荘厳な頭の飾りと鈴を取り上げて、他の馬に移して付けるのだと。中国では、馬にちなんで「驚駭(きょうがい)」と書く。『大毘盧遮那成仏神変加持経(だいびるしゃなじょうぶつじんぺんかじきょう)』には、「馬はどこにいても恐怖を思う」とある。これは、その驚きようが他の獣の比ではないことから来るのだろう。
馬の記憶はとても優れている。たとえば、アビシニアの馬が途中で乗り手とはぐれると、かならず前夜泊まった所に還ると、ベイカーは『アビシニアのナイル支流』に書いている。中国でも、斉の桓公(かんこう)が孤竹国(こちくこく)を討伐する際に、春に行って冬に戻ったため、道を失った。その時、管仲が老馬を放って、それについていくと、ついに道に戻ったという(『韓非子』「説林」上)。
ウエッジウッドがダーウィンに送った手紙には、ポニーを連れてロンドンに行き、8年間住んでいた。その後、地方の旧宅に帰ると、ポニーは道を覚えていて、前に住んでいた馬屋に向かったとある。ポニーは馬の小型のもので、種別が多い。高さは32インチから56インチ〔約80~140cm〕だ。紀州などでは見たことがないけれど、土佐駒、琉球駒や、薩摩の種子島の手馬などは、日本産のポニーだ。中国にも「果下馬」や「双脊馬」といって、高さが3尺〔90cm〕を越えないものがある。その中の名馬には、両方に背骨があるという。
『大清一統志』181によると、甘粛(かんしゅく)の馬踪嶺(ばそうれい)という峰は、険しくて道が通じていなかった。しかし馬がこの山で逃げたので跡を追うと、たちまち越えて行ったので、以来道が開けたと出ている。『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』には、藤原伊勢人が良い土地を得たので、観音を安置しようとした。貴船神の夢のお告げによって、白馬に鞍を置いて童子を乗せ、馬が行くに任せた。すると山の中の茅の上で止まった。その地に寺を建てたのが鞍馬(くらま)寺だということだ。
馬はとても「人間的」な行動をする
馬に憎悪の念が強いことは、バートンの『メディナおよびメッカ巡礼記』15章に、次のように書かれている。
メディナでとても困ったのは、毎晩一度、馬が暴れたことだ。たとえば一頭の老馬が秘かにつながれている鼻輪を滑らせて外し、カンガルーみたいに跳び上がり、かねて私怨を持つ馬を探し出す。そして両馬はしばらく頭を触れ合い、鼻息を荒くしてほえ回って蹴り合う。その時、第三の馬がまた抜け出て、意気揚々とあちこちを突き当たり回る。それからすべての馬が狂奔して、かみ合ったり、打ったり、叫んだりと大乱戦になった。
こんなに憎しみと怨みが強いためか、馬が人のために復讐した話もある(プリニウス8巻64章、『淵鑑類函』433「王成の馬」、『奇異雑談』下「江州下甲賀名馬の事」)。
『閑田耕筆』3には次のような話がある。
摂州高槻辺の6歳の男児が、馬を追って城下に出て帰ろうとした。雨が激しく、川がみなぎり、詮方ない状況になった。するとその馬が男児をくわえて川を渡してくれた。そして自ら先導して闇夜を無事に連れ帰った。そこで、馬を饗応して、翌日は餅を近所に配ったという。
こんな時は酒も出したはずだが……、あれ書いてないゾ。この話は、ちょっとウソのように思えるかもしれない。しかしロマーニズの『動物の知性』では、アメリカのクレイポール教授が『ネイチャー』に報告した、似たようなできごとが紹介されている。
教授の友人が、トロントの近くの農家で働いていた。主人の妻の持ち馬は、まったくお役御免となり、遊民生活を送っていた。数年前に、妻が橋を踏み外して深い水の中に落ちたのを、近くの野原で草を食っていたこの馬が、この時とばかり走って行って、くわえて取り上げた。そして人が助けに来るのを待ったという。そのお礼として、こんな優雅な生活を送っていたわけだ。
それからずいぶんアヤシいけれど、馬が自殺や殉死をした話も少なくない。明の鍾同太子は、皇帝を諌(いさ)めたために、杖で殺された。その時のことだ。
太子は上訴する際に、馬をムチで打って出かけようとした。すると馬は地面に伏して起きない。太子は咆哮(ほうこう)して「ワタシは死を怖れない。オマエは何をするのだ」と言った。馬はそれでも何度も抵抗しながら行った。太子が死ぬと、馬は数回、長くいなないた後、やはり死んだ。(『大清一統志』199)
プリニウスは、馬が主人を失うと、流涕(りゅうてい)することがあると言う。たとえば、ニコメデス王が殺された時には、その馬は絶食して自殺した。アンチオクス王が殺されると、敵が王の馬を取り、乗って凱旋した。その馬は怒って断崖から身を投げ、乗った者とともに死んだという。
馬やロバと人間の知恵比べ
ロマーニズは、友人の持ち馬が性悪だという話を紹介している。この馬は、毛にブラシをかけてもらう際に、しばしば脚のひづめの後の、人の腕の近くに、手綱につけた木の玉を挟む。そしてそれを後ろ向きに強く投げて、馬の世話係に当てるのだという。
またロマーニズ氏自身の馬が、馭者が就寝した後に、うまく手綱から逃れて、容れものの栓を抜いて燕麦をすべて落とした。これは、もちろん馬自身が考え出したのではなく、馭者がいつもこうして燕麦を出してくれるのを見ておいて、夜食がほしいからと思ってその通りしたんだろう。この馬はまた、水が欲しい時に、管の栓を回したり、暑い夜に縄を引いて窓を開けたりしたという。
次に、1881年の『ネイチャー』誌から、片方の蹄鉄をなくした馬が、鍛冶屋の店先に立ったという話を紹介している。追っ払っても馬はまた来る。足を見て「ああこれか」と思い至った。そこで蹄鉄を付けてやると、「ふん、これで済んだか」という顔つきでしばらく鍛冶屋を見て、一、二度踏んで確かめてから、いなないて急いで馳せ帰ったらしい。
さらに同誌から引用しているのは、片目のメス馬が子を生んだ話だ。見えない眼の方に子馬が来ると、ややもすれば踏んだりぶつかったりするので、産まれて三、四か月で死なせてしまった。さて、翌年また子を生むと、その日から母馬はその子の居場所を見定めた上でなければ、身体を動かすことがない。そこで子は何事もなく、育つことができた。これは、最初の子が死んで、二度目の子が生まれるまでの間に、記憶と想像と考慮を働かせて、前の子馬が死んだことを顧みて、今度生まれたらこうしようと案じた結果だということになる。
さらにこうも言っている。小屋に子馬を入れて外から戸を閉ざして、内側にも横差しの懸け金をかけておくと、いつも子馬は戸外に出ている。これは不思議だと主人が窺うと、子馬はまず内側の方を抜いていななく。すると近所のロバが来て、鼻で外側の懸け金を上げて、2匹連れ立って遊びに行くのだ。まるで、おいらんと遊客の駆け落ちのようだったという。
アメリカのセントルイスのナイファー教授が、『ネイチャー』20巻に報告していることには、アイオワ市に住む友人のラバは、いつも納屋に入って燕麦を盗み食っている。庭の門が閉まっているのに変なことと吟味してもわからなかった。しかるに、ついに現行犯のところを見つけることができた。まず懸け金を上げて門を開けて出る。身体を回転させて尻で押してこれを閉じる。納屋に着いて戸のかんぬきを抜くと自然と開く。このラバの知恵は非凡だったから、今少し放っておいたら、こうして開いた門戸を閉ざして、夜の明けぬ間に馬屋に帰るくらいの芸当は苦もなくできたはずだ。しかし、その後は警戒が厳重になって、そこまでは及ばなかった……。
ベイカーの『アルバート・ニアンザ紀行』は、ヨーロッパでニブい男のことを「ロバ」と呼ぶが、エジプトのロバは計算がうまいとしている。谷の多い土地を旅すると、ラクダが谷底に落ちて荷物が散乱してしまう。それを防ぐために、谷に出くわす度にラクダの荷を降ろす。まずラクダを、次に荷物を通してから、また背負わせる。少し行って、また谷があると同じようにする。そんなことを何度も繰り返す。すると21匹もいたロバたちは、自分の思いつきで谷に出て、「止まれ」の号令を聞くと、揃いも揃って地面に伏して立ち上がらない。ラクダの荷を上げ下ろしする間に眠ってやろうという算段だ。砂の上に転がり回って、荷物をひっくり返したりして、すこぶる人手をわずらわせたということだ。
ロマーニズの書によれば、ニュー・オーリンズの鉄道馬車のロバは、鉄道を端から端まで5回走るとお役御免になる。すると4回走っても何もしないけれど、5回目を走り終わると、かならず鳴く。だからロバは「5」という数を計算することができるとわかる。ただし、5回走ると、厩舎の人が来てロバを連れ帰ろうと待ち構えているから、それを見て鳴くのかもしれない。その点は精査を要するということだ。
芸をする馬
1904年にベルリンで大評判だった「利口なハンス」という馬は、種々に不思議な芸を演じた。その人気から観客が大いに集まり、ついには警官が出動して、通行を制限する事態にまで及んだ。「今日は火曜日だけれど、一週間の何番目の日かな?」とか、時計を示して「今何時何分かな?」とか、見物人の人数やら、人の身長まで聞かれて、当たらないということはなかった。
当時、ストンプ教授がこれを実地検証した報告がある。その大要は次のようなものだ。
この馬を「考える馬」と呼ぶのは誉めすぎじゃ。思考力などは全くござらん。観察力も人には及ばんね。まあ持ち主が4年間も辛抱強く仕込んだから、一つ質問されるたびに、馬が「コックリさん」みたいにひづめで地面を叩いてその数を答える。その実は、何も考えておりゃせんよ。人の反応を見て取って、それで「ああここまでか」と止めるだけじゃ。当人も気づいていないような反応を細かく注意して見逃さないところだけは、まったくもって驚き入るがね。
それから12~13年前に、ロンドンの見世物小屋を流行らせた奇馬のマホメットというのがいる。この馬は、足し算と引き算をしてみせたり、観客を数えたり、人の年齢をほぼ当てたりした。そこで、ジョセフ・ミーハン師が親方から秘訣を聞いた。すると、親方がこの馬を見つめるとたちまち地面をひっかき始め、下を見るとたちまちやめる。また親方の音声の調子を聴き分けて、頭を下げたり振ったりするように仕込んだらしい。
そこから始めて、さまざまな珍芸を発展させたという。「ワタシの取り柄と言えば、この馬が天才だということを見出して、数年間は側で眠ってまで訓練したことでしょうナ」と親方は言ったそうだ。ミーハン師は、「羊飼いがヒツジたちを列にして追い入れる際、20匹過ぎるごとにひとほえする犬がおる。じゃから動物には数を知るものがいないとは、一概には言えん。じゃが『考える馬』のようなものは、馬に計算ができるという証拠にはならんね。むしろ、一種の目くらましと言うべきじゃ」と論じた。
世の中には、とても不思議なように見えて、実はこんな感じのつまらないことが多い。ボクが13~14歳の頃、中学校で級友が血を吐くまで勉強するのを見て、「そんなにまでして成績が一番になったところで、天下が取れるわけじゃあない。ボクはただ落第せずに無事卒業してみせる」と公言したけれど、はたしてそうだったよ。試験ごとに、どの科目も一番早く答案を出して退出して、昆虫を採って悠々自適だった。そのくせ、「勉強もしないのに試験に落ちないのは不可解」と、みんなに呆れられた。
これも、実は観察力が鋭かったからだ。10歳の時『史記』の講義を聴いていて、田忌という人物が大金を賭けて競馬をした話に感化された。この時、孫氏が田忌に教えて、自分の下等の馬を相手の上等の馬と勝負させ、むろんこれは負ける。次に自分の上等の馬と相手の中等の馬、自分の中等の馬と相手の下等の馬を勝負させて、二連勝して大金を得させた。
これを参考に思案の末、10科目のうちの「作文」と「講義」は得意だから満点に決まっている。総点数の5分の1を得れば落第しないという規則だったから、他の8科目の答えはすぐに白紙で出してしまい、「作文」と「講義」だけを速く片付けて、十分に安心して遊び回っていた。
その時の成績が一番とか二番だった人の、その後の人生を見ても、はたして国を取ったわけでもない。我ながら「先見の明があったなあ」と感じるよ。昆虫を採って悠々自適だった少年時代を思い出すだけで、今でも寿命が延びるような心地がする。世の中の教育家のみなさーん。このことをどう思いますかーー。こっちは「へへんのへん」てなもんだね。
馬のスゴ技
ヨーロッパで古来、最も有名な演芸馬は、シェイクスピアと同時代のスコットランド人バンクスが使ったモロッコだろう。この馬もまた、ひづめで地面を叩いて財布の中の金額やサイコロの目を数えて当てた。また親方が名指しにした人に物を渡したり、観客の中でも最も女好きの紳士を選び出したり、後ろ足二本で立ったり、跳ねたり、踊ったりした。
1600年には、モロッコはバンクスを乗せてロンドンのセントポール大聖堂のドームの屋根を越えたという。これはたぶん、地面からはしご乗りをしたのだろう。この頃の笑い話として、その時おびただしい群衆がこの馬を仰ぎ見た。ある人が大聖堂の中にいて、下僕に走って出て見てこいと勧めた。すると「下にこんなにたくさんのロバさんたちがいるのに、わざわざ足を運んで上の馬1匹を見るには及びませんや」と即答したという。「ロバさん」というのは、つまり「愚かな群衆」という意味だ。
バンクスはフランスに渡って、人気を集めようとして、「この馬は悪魔が化けたものだ」と宣伝した。すると群衆はこれを本当に悪魔の使いだと罵って、焼き殺そうとした。そこでバンクスはさっそく機転を利かせて、群衆の中から帽子に十字架を付けた者を選んで、モロッコに頭を下げて跪(ひざまず)いて拝むようにさせた。そして、「悪魔の使いはこんなことはいたしやせんぜ」と説いて、難を逃れたという。この前後には、馬が芸をして、魔物と疑われて火あぶりに処せられた例も少なくない。
日本では馬に乗って愛宕山(あたごやま)の石段を登ることを賞賛する。外国にもエラい奴がいて、1680年に一人で白馬に乗り、ヴェニスの波止場からサンマルコ塔の頂上まで600フィート〔約180m〕の長い綱を張って、そこを走って登った。途中で止まって、右手に持った槍を下げて、左手で旗を三度振って宮廷に礼をした。そしてまた走り登って、鐘塔に入って徒歩で頂上に上がった。そこで金の天使象に座って数回旗を振る。そして鐘塔に還って、馬に乗ってふたたび綱を走って降りた(ホーン『テーブル・ブック』540頁)。
プリニウスはシバリス城の軍馬が、いつも音楽に伴われて踊ったとしている。唐の玄宗は、400頭の踊る馬を左右に分けて、美しい衣と玉の装飾をほどこして、美少年の演奏とともに、芸をさせたらしい。その他、馬が音楽を好み、踊ったり、香料を愛したりすることがしばしば見える。バートンは、かつてアラブ馬が女人に接したまま身を清めなかった主人を拒んで乗せなかったのを見たという。
(まつい りゅうご・龍谷大学国際学部教授、南方熊楠顕彰館館長)

」などの字をこう読んでいる。室町時代の雅楽の書である『体源抄(たいげんしょう)』10巻の「練習事」の条には、「少御前(ちいさごぜん)の歌声は、いわゆるかわらけ声で、愛らしさに欠け、ひどく耳障りなものでした。それにもかかわらず、調子ごとにどこか愛嬌があって、聞いていて面白く感じられたのは、彼女がもともと心賢く、さらに歌に力を込めていたからに他なりません。男女の陰毛がないことをかわらけとも言いますが、それも同様に、艶やかな気配が欠けているという意味で使われているのです」とある。


