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金ヨンロン 感受性を取り戻すための読書[『図書』2026年8月号より]

感受性を取り戻すための読書

韓国現代文学を中心に

 

感受性の現在

 昨年、韓国の本屋さんでキム・エランの短編集『アンニョン、と言った』(未翻訳、原著は文学トンネ、2025)を手に入れた。韓国現代文学を代表する作家の一人であるキム・エランの作品は、『走れ、オヤジ殿』、『外は夏』、『ひこうき雲』など多くが日本語に翻訳されている。

 早速読み始めたが、最初の短編「ホームパーティー」に出てくる「金融感受性」、「ローン想像力」という言葉に直面し、息をのんだ。ローンといわれると、誰かの保証人になって裏切られた経験や親の不仲を思い浮かべてしまう人と、それを上手く活用し、投資した親を見て育った人とでは、「金融感受性」や「ローン想像力」が異なるだろうと、自分自身は後者に属する人が発した言葉である。

 いうまでもなく、「感受性」と「想像力」は、これまで文学が大事にしてきたものである。他者の痛みを感じ取るために、他者の置かれた状況を想像することは、文学の存在意義にかかわっているからだ。キム・エランの新作は、そうした言葉に「金融」と「ローン」が合成され、真逆の方向で用いられるような事態、すなわち新自由主義の不気味な段階を告げているかのようである。

 とりわけ「感受性」に注目しながら、他の場面も紹介したい。短編「良い隣人」には、現在借りている家の契約がもう延長できないことを知らされた40代の夫婦が登場する。値上がりを続ける不動産市場の動向を不安げに眺めている二人は、結婚当時「私たちの始まりを隣人とともにしたい」という気持ちでユニセフに定額の寄付をしていたが、次の居場所を見つけられずにいる今やそうした余裕がない。

 妻の仕事は、読書指導である。彼女は、障害をもつ教え子に特別な愛情を注いでいる。しかし、その子の家族が新しい家を買って引越すことが分かってからは複雑な心境になる。「自分が思いやっていた対象が一人だけきらめく世界へ行ったためか」、それとも「見つめ合うのはいいけれど、見上げるのはいやなのか」と自問自答する彼女の姿は、感受性をめぐって重要な問いを発している。人は、いかなる条件のもと、いかなる範囲内の他者に対して、感情を分かち持つことができるのか、ということだ。自分の生活にある程度余裕があるという条件のもと、自分より他者が経済的、社会的に同等もしくは下とみなせる範囲内の他者にのみ心を寄せることができるとしたら、それは果たして感受性と呼べるようなものだろうか。

 続く場面で妻は、タイムマシンで過去に戻れるとしたらいつを選ぶのかと夫に聞く。夫は、躊躇なく、この家を契約する時期に戻って、無理をしてでも家を買っただろうと答える。けれども、妻が期待していたのは、子どもを流産した時点に戻ってその子を救いたいという答えだった。なぜこうなってしまったのか。確かなのは、いま夫婦が鈍感になっているのは、他者の苦痛に対してだけでなく、自分自身の痛みに対してでもあるということだ。

 住まいさえ見つかれば、ローンさえ返せば……。今抱えている困難さえ乗り越えれば、他者を考える余裕・・が生まれるかもしれない。しかし、そうしているうちに、自分が他者の苦痛の原因になっているかもしれない。いつの間にか自分が最も願わなかった社会を作ってしまっているかもしれない。リベラルで良心的な中間層が崩れつつある現在、取り返しがつかなくなる前に、私たちは感受性を取り戻すことができるだろうか、とキム・エランの小説が突き付けているのは、〈81年目の読書〉を通じて本エッセイで考えたい問いでもある。

 

感受性の場所

 そもそも感受性とは何か。辞書的な意味では、外部からの刺激を感じ取り、受け取る力をいう。それは能力とみなされ、豊かにもつことを求められている。

 逆に考えれば、外部からの刺激=出来事は、人々の感受性を試す、ということになりそうだ。出来事は、その渦中にいる当事者の気持ちを感じ取る能力が社会の構成員に備わっているかどうかを問うのである。そして感受性がなければ、出来事は繰り返される。

 2014年4月16日に起きたセウォル号事件は、韓国社会の感受性を問うた決定的出来事であった。旅客船セウォル号が沈没し、乗員乗客476名のうち、304名の死亡者と行方不明者が発生した。修学旅行中の高校生が多く含まれていた。かつて日本で運航していた古い船を繰り返し改造し、無理な運用を行い、救助すべき人々に「じっとしていなさい」と間違った指示をし、指揮体系の問題と政府の無能さを如実に見せた挙句、遅れた対応によって多くの人々が命を失った。それからも真相の究明は遅延され、二次被害を生み続けた。

 こうした言葉を失うような状況で、まだ何一つ明確にされていないリアルタイムにおいて、キム・エランをはじめとする小説家、詩人、様々な分野の学者たちが文章を綴った。2014年夏号と秋号の雑誌『文学トンネ』に掲載されたものが、同年10月に単行本『目の眩んだ者たちの国家』として刊行され、その4年後に日本語に翻訳された(矢島暁子訳、新泉社、2018)。

 『目の眩んだ者たちの国家』の冒頭に置かれたキム・エランの文章を読むと、感受性の現在を問題視した前掲の小説が書かれるまでの過程が見えてくる。キムは、「ニュースで彼らの消息を聞くたびに、道を歩いていても、食事をしていても、掃除をしていても、下腹を殴られたように腰が抜けた。体の中からじわじわと湧き上がってくる悲しみではなく、突然襲いかかってくるような痛みだった」と述べている。「下腹を殴られたよう」な痛みは何ら誇張でも比喩でもない。傾いていく船を見ていた人々は、当事者の苦痛が、自分の身体を通じて、しかも激痛として現れるのを確かに感じたのである。出来事の外で他者の苦痛を眺め、悲しみを感じたのではない。生々しい感覚であった。だからといって、出来事の内にいたと言いたいのではない。家族を、友人の名前を叫び続けた人々と同じ場に居ることは不可能だ。

 重要なのは、少なくとも、こうした痛覚を感じられる場に居るべきであったし、居続けるべきであるということだ。キム・エランは、「もし私たちが他人の内部にまで入っていくことができないのならば、とりあえず近くに立ってみることが最初にすべきこと」であり、「その「近く」に立つために、時には脚が震えたり顔が赤くなったとしても、まずは立つだけ立ってみるのが正しいのではないか」と言う。「少しずつ相手との距離を縮めていって、「近く」から「すぐ隣」になること」、そのような「理解」「傾聴」「共感」を同時代の人々に求めるのである。他者の呻きが聞こえる距離で、その苦しみを感じ取り、こちら側の脚も震え、顔も赤くなるような感受性の場所が必要なのだ(前述したキム・エランの小説がセウォル号以後の、現在における「感受性」の行方を辛辣に描いていたことを想起してほしい)。

 セウォル号事件は、韓国社会に集合的トラウマをもたらした固有性をもつ出来事である。それはいうまでもないが、人々の安全より効率化を優先した新自由主義の体制下で起きた惨事において露呈した構造的暴力で、日本社会に翻訳され、引用され得るような出来事である。韓国文学の優れた翻訳家であり、精力的な紹介者である斎藤真理子は、『韓国文学の中心にあるもの』(イースト・プレス、2022)の中で、韓国社会と文学におけるセウォル号の影に言及し、キム・エランの文章を読みながら「東日本大震災の直後に津波の映像を呆然と見つめ、続いて福島第一原子力発電所の爆発のニュースに接したときのことが思い出される」と述べた。新自由主義を生きる私たちは他者の痛みを感受することができるのか、感受するためにいかなる場所に立つべきか、これらの問いは、国境を越えて突きつけられている喫緊の課題だ。

 

感受性を取り戻す

 〈81年目の読書〉として最後に紹介したいのは、チェ・ウニョンの小説集『ショウコの微笑』(牧野美加他訳、CUON、2018)である。収録されている小説は、日本で81年が1945年に終結した戦争からの経過を示し、そこに集合的トラウマの起点を見ているのに対し、朝鮮半島では、無数の集合的トラウマを作り続けた81年間であったことを示すようなものばかりだ。現代の舞台にふとした瞬間立ち現れる傷跡は、ホームステイに来た日本の女の子と日本語で話す祖父が植民地時代を喚起する形で(「ショウコの微笑」)、ドイツに滞在した時に親密な関係を結んでいたベトナムの家族が、戦争で韓国軍に家族を殺された痛みを抱えていたという形で(「シンチャオ、シンチャオ」)、朝鮮戦争以後、継続する反共主義のもとでスパイとみなされ、拷問を受け、死んでいった人々が身近な存在として登場するといった形で(「オンニ、私の小さな、スネオンニ」)、小説集に現れる。

 最後の2つの小説は、セウォル号を描いているが、とりわけ「ミカエラ」という短編が感受性の問題に深くかかわっている。しっかりものの娘は、自力でソウルの大学を出て職を得ている。そうした娘の目に映った父は、体が弱いのに社会運動に励んだ無謀な人であり、「今、この家を貧困に突き落としている張本人は、社会でも資本でもなく、父さん自身よ」と非難したくなるような存在だ。他者のために生きる父が無責任に見えるのである。この転倒した評価は、新自由主義を支える「自己責任」の呪縛から逃れられずいる娘(の世代)が、まずは自分に対して、次に身内に対して、といった形で責任を順序だて、他者を後回しにすること(の正当化)に慣れているためだ。

 しかし、父の「やっていることが金にならないからといって、彼を無能で価値のない人間だと断ずることはできなかった」母は、セウォル号事件に対して「心がやけどをしたように、ひりひりと痛んだ」し、被害者や遺族に対する人々の心ない言葉に「心が傷つくのだった」。母は、自分に他者を思う余裕があるかどうかなど計算しない。そうした余地はなく、他者の苦痛は、自分の胸を押しつぶすような確かな痛みとなる。そして小説は、「ミカエラ」という娘と同じ洗礼名を持つ被害者とその遺族を描き、両者が予言的に重なる場面で閉じられている。

 

 毎日世界中の戦争、紛争の報道を目にしている。すぐ近くにいる人々が経済的困窮、日常的差別に苦しんでいるのも知っている。何か根本的に間違っていることを、分かっている。だが、自分の足元も不安定な私たちには、他者を思いやり、構造的暴力を考える余裕・・がない。そうして感受性の場所が失われ、他者の痛みも自分の痛みも感じ取れなくなると、暴力は反復され、さらに深化していく。だからいま取り戻すべきは、余裕ではなく、感受性なのだ。

(きむ よんろん・日本近現代文学)

〈81年目の読書〉

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