動物から人間になるとき(谷川徹三と)‥‥‥1961年9月・俊太郎29歳
谷川俊太郎さんが、詩について、歌について、朗読について、絵本について、翻訳についてどう考えたか。谷川さんがもっとも精力的に活動していた時期の対談から約20本を精選した、『本当のことを言おうか 谷川俊太郎 精選対話』(全3冊)。
本記事では、第1巻に収録している父・谷川徹三さんとの対談を特別公開いたします。

たにかわ・てつぞう(1895—1989)
愛知県知多郡常滑町(現・常滑市)生まれ。哲学者。京都帝国大学文学部哲学科卒。1928年から65年まで法政大学文学部哲学科教授。63年から65年まで法政大学総長。『感傷と反省』(1925)、『東洋と西洋』(1940)、『平和の哲学 世界連邦政府運動のために』(1953)、『芸術の運命』(1964)、『こころと形』(1975)など著書多数。編集の仕事に『宮沢賢治詩集』(1950)、翻訳にジムメル『カントとゲエテ』(1928)、シュヴェーグラー『西洋哲学史』(1939)などがある。谷川俊太郎の父。
父と子と家庭
俊太郎 ぼくはひとりっ子なのに、子どものときにお父さんに抱かれた記憶なんかないよ。わりにかまってもらえなかったんだな(笑)。だけど、いつか、ぼくが大きくなればなるほどかわいいとかいってたそうだけど、たいていの親は、赤ん坊がいちばんかわいくて、だんだん憎らしくなる。それがふつうでしょう。お父さんのばあいは、赤ん坊のときは話がぜんぜんできない、年が大きくなれば、話ができるからおもしろくなる……。
徹三 私は、赤ん坊は動物と考えているんだよ。動物を馴らすようにしなければならないという意見でね。日本人は、だいたいにおいて、赤ん坊をあまりのさばらせすぎる(笑)。
俊太郎 子どものころは、ぼくが何かしてむずかるでしょう。すごく離れた書斎から、うるさいという声がとんでくるの。これが恐怖だったな。父親のイメージというのは、そういうところにあったよ(笑)。昼間はいつもすれちがいでしょう。夜は遅いし、いっしょに遊んでくれないし、ときどきどなる動物だと思っていたな。
徹三 両方とも動物……(笑)。
俊太郎 とにかく幼児のころ、ぼくが寝ちゃうと夫婦でダンスホールへ行ったりなんかしたでしょ。ぼくは夜中に目を覚ますといないでしょう、父親も母親も。子どもなりに孤独感を感じてさ、そのときに詩人的要素が養われたんじゃないかと思って感謝しているけれどもね(笑)。
徹三 俊太郎が完全に人間になったのは、詩を書きだすようになってからだろうね。
俊太郎 ぼくが父親というものを、子どもは子どもなりに感じていたけれども、もっと人間的に感じたのは、自分が恋愛をしてからですね。それから少し変わった。べつに父がそれについて何かいったということじゃなくて、そこでやっと男として同格になったので、少し理解できるようになったというところがあるんじゃないかな(笑)。それもほとんど完全に放っておいてくれたから、ぼくはたいへんありがたかったけれど。
徹三 自分のことを考えて、私も勝手にやってきたからね。おやじを困らせたほうだし、息子が少々おやじを困らせても、息子はとうぜん自由であっていいと考えたわけだ。
俊太郎 ぼくは、何かで親子関係みたいなことを書くとき、ぼくらの付合いは、君子の交り淡きこと水のごとしだ、というんですがね(笑)。友だちが父親と深刻に対立して家を出たというふうなことを聞くと、想像できない。逆にそういうふうなドラマみたいなものが父親と子どもの中にあるということが、うらやましいというんじゃないけれども、ちょっと自分にはないものとして興味を持つことがある。
徹三 ぼくの子どものときには、怪我をすると、父親母親の前に手をついて謝ったものだ。「身体髪膚これを父母に受く、敢て毀傷せざるは孝のはじめなり」というわけでね。そういう雰囲気に反発したね。それで私の家庭はわりあい自由になったのかもしれない。
――お宅はたいそう近代的で自由なご家庭とうかがっていますけれど。
徹三 (記者に)私と家内とは一種の友だち付合いですからね、そういう点じゃひじょうに昔は珍しがられたものですよ。いっしょに、しょっちゅうつながって歩いて、バーへ行ったりなんかしてね。(俊太郎に)おもしろい話があるんだよ。結婚して郷里へ帰ったときに、お母さんが、私のことを徹三さんとそのころ呼んだろう。田舎で自分の旦那さんをそういうふうに呼ぶということは、そのころ大正年間じゃ考えられなかったんだね。鯉江の叔母が、「多喜さん、おまえさん徹三さんというのはみっともないからおよしよ」。そうすると安田の叔母が、「いや、そんなことは構わない、浄瑠璃だって伝兵衛さんというじゃないか」(笑)。二人の大叔母のあいだに大論争があったんだ(笑)。
俊太郎 ぼくの育った家庭は、自由な個人の集まりとしての家庭のよさというものがあったと思うけれども、ぼくのいま考えているような、考え方の単位としての家庭というものはなかったという感じがする。ぼくが家庭のイデーというのは、日本の家とはぜんぜん違ったものだけれども――たいていリベラルな考え方をする人は、人間をギリギリの最小単位にしぼれば個人だというでしょう。ぼくは最小単位にしぼれば、男と女だと思うんだ。そこから家庭の観念も生まれてくる。お父さんなんかぼくが生まれたころというのは、いわば家庭で三人で楽しく過ごすことよりも、自分の仕事のほうに情熱があったでしょう。
徹三 そう。
俊太郎 ぼくはその点ちょっと違うんだ。自分の仕事ももちろん大切だけれども、むしろ妻と子と三人で生きていくということのほうが大切なんだな。そう思うと同時に、そう思っている自分に疑問を感ずることがあるけれども……。女性観というものにも出ていると思うけれども、ぼくのほうがフェミニストだよ、おそらく。自分が生きていく命の流れみたいなもののなかで、女の人のやさしさとか大きさを、大きく評価しているんじゃないかと思うな。ぼくはおそらく女の人がいなければ生きていけないし、だから男だけで仕事を達成しようみたいなことは、あまり考えていないところがある。口じゃうまいこといっているけれども、お父さんは、うちではじつに暴君なんだから(笑)。
徹三 そういう点はやはり時代の影響というものを受けているね。明治生まれのものは、心では優しくいたわろうと思いながら、ついガミガミいったりして(笑)……。しかし、私は二十代の終わりに「孤独」というエッセイを書いたことがあるが、そのなかに孤独=アインザムカイトにたいしてツワイザムカイト、「一人でいること」にたいして「二人でいること」ということをいった。ぼくはずいぶん長いあいだ漂泊したが、(記者に)漂泊から立ち直って落ちついたのは、家内と会ってからですよ。そういう点でぼくは家内との出会いに感謝しているんですけれどもね。「一人でいる」生活が生活の土台として自分にはどうしてもなくてはならぬ、しかしその「一人でいる」生活を現実の生活のうえで支えるものは、「二人でいる」ことだというふうに思ったのですね。こういう若いころの気持ちはその後長いこと忘れていたが、六十をすぎてから、もう一度その気持ちがひじょうに切実になってきた。老夫婦の気持ちというんでしょうが、そういうところは俊太郎の考え方に近いかもしれない。
青年期に影響を与えたもの
徹三 俊太郎の子どものころは、この子はエンジニアにするんだと私はいってた。
俊太郎 いかんせん、数学の才能はゼロだったわけだ(笑)。小学校のとき、つづり方なんかすごく下手だったけど、むしろ絵のほうがうまかったね。
徹三 そう、色の感覚はなかなかよかったね。私は俊太郎が詩人になるとは思わなかったけれども、ひょっとすると絵描きになるかもしれないと思ったよ。私自身絵が好きだから、絵描きになるならそれでいいと思っていたんだけれども。しかしいちばんしたかったのはエンジニアだね。ぼくは機械というものは、こわすことはできるけれども組み立てることができない。そういう才能はないから……。
俊太郎 とにかく、電灯のコードが戸棚にはさまっているから電気が流れないんじゃないかというんだから、あれには驚いたね。二十世紀に生きている人間として(笑)。
徹三 自分にないからかもしれないが、なんとなく、体の大きい丈夫なエンジニアというものは、生活者としてはいちばん安全だしね。安全な生活者にしたかったのだね。
俊太郎 ぼくの子どもはまだ赤ん坊だけれど、できれば理科系統に進ませたいと思いますね。それはぼくのコンプレックスのあらわれだろうな。エンジニアはたいへんな景気だそうだ。詩人にはしたいとは思わないね(笑)。みんな親というものは、子どもに望みをかけるものなんだね(笑)。
徹三 しかし私は、どこまでもコンモン・ピープルとして子どもは育てるという方針で、特別の学校にはやらなかったし、才能教育なんていうのは反対だった。それで、文字通り裏の学校へ入れたわけだ。
俊太郎 ぼくは裏の学校にやられたということはたいへんよかったと思う。ひとりっ子でひ弱く、自分本位で人付合いの悪い子どもになる環境にいたでしょう。それが少しでもすくわれたんじゃないかな、いじめっ子にいじめられたおかげで。
徹三 そうかもしれない。
俊太郎 ぼくが大学へ行かないといい出したとき、母は父親とぼくのあいだにはさまって困ったと思いますよ。直接にはいわないで、いつも母親を通していうんだ。ぼくは行かないといい、そっちは行けといい、だいぶあのころは愚痴をいっていたけれどもな。
――大学へ行かないというのはどういう決心だったのですか。
俊太郎 けっきょくなんていうのかな、束縛されるのがいやだったのね。高等学校というのがぼくらのころは、新制と旧制のかわり目で、学校は兵舎を改造したようなバラックで、先生たちは敗戦の混乱のなかで自信がなかったし、およそつまらなかったんですよ。いまのようなカレッジ・ライフ的な楽しさというものはまったくなかったし、読みたい本も読めなかったし、数学とか物理とか、こっちはなんにも関係ないと思い込んでいたものを無理やりにつめ込まれるでしょう。それをとても不合理だと思ったのですよ。もっと自分が読みたいものや、感じたいものがいっぱいある時期に、そういうものを感じたり読んだりしないでいるのはまずいと思った、ぼくとしては。
徹三 俊太郎が学校をいやがったころにおもしろかったことは、体操がいやだ、体操なんか一列縦隊に並ばされるのは堪えがたい、といっていたね。自分の息子としてこれはちょっと困ったと思いながら、一人の青年として、その感じがおもしろいとじつは思った。俊太郎とはちょっとちがうけど、お父さんもその年頃、漂泊時代があった。学校にぜんぜん出ないで、芝居へ行ったり、寄席へ行ったり、旅行に出たり、文字通り漂泊だね。精神の漂泊でもあった。
俊太郎 学校の勉強がくだらないと思ったの?
徹三 学校の勉強がくだらないというよりも、もっと、つまりいろいろなことが、何をしてもおもしろくない。意味がないように思う。いったい人生というものはどういう意味をもっているのか。生きるに値しないものじゃないか、そんな問題をただくだくだ思っていたわけだ。しかし、学校に出なかったけれども、ある時期には図書館で夢中になって本を読んだりもしたね。そのころ、やっとまっくらな深淵をのぞくような気持ちからすくわれたのは、親鸞の『歎異抄』だった。『歎異抄』を読んで、深淵の底のほうで自分を受けとってくれる手があるような気がした。けれどもそれはまだ消極的な気持ちだったが、あるときたまたまホイットマンを読んで、これはむずかしいへんな字が出てくる詩なんだけれども、わからないところはわからないなりに、とにかく読んでいると大波のうねりのようなリズムね、あれがなにか生命の息吹きを吹きこんでくれるような気がして、ひじょうに力づけられたね。
俊太郎 ローレンスにそうとう傾倒したことがあったでしょう。それはいつごろ、やはり二十代?
徹三 いや、三十代だね。それまでローレンスというのは知らなかった。
俊太郎 ぼくが二十代の初めかな、ものすごくローレンスに傾倒したことがあるけれども。『現代人は愛しうるか』という本で、わからないところもいっぱいあったけれども、あれは、ぼくの青年時代の聖書みたいなものだったと思う。
徹三 私の高等学校時代、大正の初めというのは、日本じゃオーケストラというものは音楽学校だけでね。それも音楽学校だけじゃできないで、海軍軍楽隊とかいろんな人を寄せ集めてやっとできた。そのころ初めてベートーヴェンの第五シンフォニーを音楽学校で初演した。上演前からみんな大騒ぎをしたもんだ。ベートーヴェンというものには私もずいぶん感動したよ。そのころ第一次大戦後で、亡命音楽家がたくさん来たんだ。名もない音楽家だけれども、そのころの日本の水準としちゃやはりそうとうなものだった。音楽というものは、自分の中にかくれている欲望や感情を誘い出したり動かすという面をもっている一方、いろいろなことに悩んだり苦しんだりしてわけのわからなくなった精神に、ある秩序を与えるという面ももっている。その両方の要求を音楽というものは一ぺんに満たすものだ。あの時分、つまりはたち前後に、いい音楽をいまのようにじゅうぶん聴くことができたら、お父さんの漂泊というものはなかったのじゃないかと思う。そういう点じゃ、いまの若い人たちは幸せだと思うね。
俊太郎 逆にいうと、ぼくらはLPとか放送とか、聴こうと思えば無限に聴けるでしょう。今度はあまり音楽があふれ過ぎていて困っちゃうという面もあるね。ぼくはもの心ついたときにはLPはまだ出はじめたころだったけれども、レコードは豊富に聴けたわけ。ほんとうに音楽に淫しているといっていいくらい聴いたことがある。そういうときに、こんなに音楽ばかり聴いていいんだろうかということを深刻に疑問に思ったことがあったね。なんというのかな、音楽というものは、あくまで言葉とか論理とかに比べればひじょうにあいまいなものでしょう。そういうあいまいさというものが、あまり自分の体に影響を与えすぎるというふうな、考えることができなくなるくらい、音楽におぼれていたことがあった。
徹三 しかし、それはいいことだったと思うね。そういうふうにあいまいだということが、直接的だということなんだ。言葉でいいあらわしえないようなものだからね。
俊太郎 それはいまでもよかったと思うと同時に、だいたいマルキシズムなんかの洗礼をうける年ごろだったでしょう。そのころ、およそそういうものにいっさい触れずに過ごしたということは、後悔しているようなところもある。そういうものにぜんぜん触れなくて、かえってぼくという人間ができたという気もするけれども。ぼくは一歳の年からこの北軽井沢へ来ていて、ぼくの十代の終わりから二十代の初めにかけては、ほんとうにこういう自然の中にいるだけで生きていることはじゅうぶんだという感じ方をした。理屈でもなんでもなくて、自分がほんとうにそう感じることなんだからどうにもならなかったし、自分でそういうふうに感ずるということがいちばん大切だった。新聞やラジオは読みもしなければ聞きもしなくて平気だし、同じ年ごろの連中が大学にはいって破防法反対なんかをやっているときにも、ぜんぜんそういうものと無縁でいて平気だったわけだけれども、いまはこの土地に来ても、そういう自然の持っている慰めみたいなものに限界があるということをしきりに思う。
徹三 そのころは逆に、東京にいるとわりあい忙しい生活をしていて、一年のうちひと月なり、ふた月なりここで暮らすということは、私には一種の精神衛生にもなるし、自然をあらためて見なおすね。夜というものは東京じゃほんとうにはわからない。昔の人たちが夜というものにたいして恐れを持ったような感じ、まっくら闇のそういうものを、ここにいると感ずることができるし、また動物が火を恐れたり、人間が火というものをどんなに大切にしたかということも、ここにいると実感としてくる。それからちょっとしたことで――たとえば林の中だから蛾がたくさんくる、そんなものをひねって紙屑籠の中に入れるだろう。すると、いつのまにか中から這い出してきたりする。ときどきふっと無気味な気持ちにおそわれる。そうして獣や虫にまつわる昔の怪談ね、そういうものが実感としてくることがある。東京じゃぜんぜん考えられないようなある感情が、ここにいるとなにかひょいひょいと浮かんでくる。そういうことは私にとってもひじょうにいいことだね。
――俊太郎さんが最初の詩集『二十億光年の孤独』をお出しになったのは十九歳くらいでしたね。
俊太郎 初めは、新制高校の終わりのころに友だちに文学青年がいて、それに書けとすすめられて少し書いたのだけど、大学の試験勉強になって、「螢雪時代」とか受験雑誌を読まざるをえなくなったわけですよ。数学なんかはおもしろくないし、したくないから別のところを読もうとしてぺらぺらめくっていると、うしろのほうに投稿欄がある。見ると、下手な詩が並んでいるんだ。これなら書けるんじゃないかと思って、自分の欲求として詩を書きたいというんじゃなかったのですね、シャープペンシルをもらってやろうとか、賞金をもらってやろうという目的で書いたら、一席とか二席にはいった。調子にのって詩を書いているうちに、言いたいことがわかってきたというところがありますね。そのうちに東大に、初めから絶対に受からないということがわかっても、形式的には受けなければならないし、受けて、落ちて、どうにかして大学へ行かないですませようと思って、父を説得しなければならないわけですよ。そのためには、ある種の大義名分がなければならないでしょう。それで詩のノートをもってきて、自分はこういうものを書いているということを利用したのです。比較的その詩がうまかったらしくて、なんかうやむやのうちに大学にはいらずにすんだ。
徹三 (記者に)ぼくは学生のころ、フランスの象徴詩が好きでよく読んでいた。そのころの愛読書のひとつは、荷風の『珊瑚集』で、これはうまい訳だと思った。リルケのものを翻訳したこともあったし、だから俊太郎の詩でも、あるていど公平に評価できると思った。公平に見て、これは悪くないと思ってね、その中で私がいいと思ったのを三好達治さんに見てもらった。そうしたら三好さんがたいへん感心してくださってね。三好さんの紹介で、初めに「文學界」にその中のいくつかの詩がのって、それから詩集を出すようになったのですがね。それ以後だって、少しくらい遅れてもいいから、大学くらいは出ておけといったのだけど……(笑)。
コスモスと世界政府
徹三 俊太郎のコスモスの感覚というものはどういうものかね、はっきりしているようでしてないけれども。
俊太郎 ぼくのコスモスという言葉、やはりローレンスの影響もあると思うけど、人間の社会もその部分として含んでしまうような大きな宇宙ということなんですがね。コスモスというふうなものを感じ取れたのは、青年のころ、この北軽井沢の自然の中にいたからだと思うのですけれども、十代の終わりから二十代の初めにかけて、自分が自然というものと一体になっちゃっているような状態、一体になっている状態がそのまま生きるということで、そこで自分がほんとうに幸せで完全だったような状態があったんですよ。そのばあいは、自然というふうな言葉で人間と対立したものとしてとらえるよりも、コスモスという言葉で自分と自然と全部ひっくるめてとらえたいという気持ちがありましたね。無機物から進化してきた人間の生命も、地球という星も、空に散らばっている他の星も、全部むすばれているという一種の汎神論みたいなものがあった。そういうコスモスという言葉だけじゃ自分の現実がとらえられないと思い始めたのは五、六年くらい前からで……。
徹三 だんだん社会人になってきたんだな(笑)。
俊太郎 子どもができて、そういうものじゃ解決できないものがいっぱい出てくるでしょう。自然だといったんじゃどうにもならないものがいっぱいあるんだということがわかってきて……。さっきお父さんは子どもは動物だといったけど、ぼくは青年というのは獣だと思うんですよ。職業を持ったり結婚したりすることで、やっと青年は人間になってくるのだということを書いたことがあるけれども。
徹三 私はどこかで字を書くことを頼まれると、ときどきその言葉を書くんだが「人間とは常に人間になりつつある存在である」。だから人間がほんとうの人間になるということは、一生涯続けなければならない努力だと思っている。人間とは人間になりつつある存在だという言葉は、裏からいうと、人類というものはまだ完全に人間になっていないということでもあるし、一人ひとりを考えても、これこそほんとうの人間といえるものは稀だということでもあるのだね。しかしそれを否定的にいわないで、つまり人間はまだほんとうに人間になっていないのだ――戦争なんて野蛮なものがあるが、その点じゃ人類というものは若い動物で、多少とも人間らしくなってから十万年とはたっていないからね。しかしそれをたえず人間になりつつある存在だというふうに、肯定的に見たいという見方を私はしている。俊太郎のコスモスといっているものと私の世界政府の考え方には直接つながりはない。しかし問題をいつでも大きなパースペクティヴのもとで見ようとする傾向があり、政治の中へ直接はいっていけないのも、そういう傾向からきているし、世界政府というような考え方に魅かれるのもそれによるとすれば、俊太郎のいうコスモスへの感覚と無関係ではない。俊太郎の書くものには、詩でも散文でもどこかに哲学的といってよいものがあり、コスモスというような感覚も、それはまだ感覚的なものだけれど、ひとつの思想の方向を内包していると思う。
俊太郎 お父さんのいう世界政府論というもの、前はひとつの理想として同感だったが、いまになってみると現実的問題として理解できるようになってきていますね。
徹三 世界政府というものをよく空論だという人があるけれども、私はすぐ実現できるようなものじゃないと思うが、しかしけっきょく世界はそういう方向に動いていると考える。世界歴史の動きの跡をたどってみても、現在困難ないろんな問題はあるが、けっきょくこのほうにいく以外に世界の破滅をしないですませる道はないように思うね。いまいちばん危険なことは、たとえばアメリカあたりでも共産主義というものが悪魔の仕業でもあるかのような考えをマスコミを通して国民にひろく浸透させようとしている、そういう反共の精神を培うことによって、アメリカの立場から問題を切り抜けようとしている。これはもうひとつの世界が、あらゆる悪の根源を資本主義のせいにするのと同じように、あるいはそれ以上に、危険な考え方だと思う。そこから共産主義体制の防衛のためなら、戦争に訴えてもいい、自由を守るためには核兵器の使用も辞さないというような考え方が出てくるからだ。私は共産主義というものを、共産主義者のように今日の矛盾を解決する唯一の仕方だとは考えない。しかしひとつの仕方だと考える。だからそれを唯一の解決の仕方として宗教的信条のように信奉する考えには私はくみしないけれども、しかし、これを悪魔の仕業のように考えることでは、問題は少しも解決しない。共産主義に打ち勝つ唯一の方法は、共産主義者たちがげんに指摘しているような資本主義体制に含まれている矛盾というものを、できるだけ早くなくするということだからね。いずれにしろ世界政府というような形に行き着くのがもっとも自然だし、それ以外に全面的な破壊に陥らないですませる道はないというふうに私は考える。現在はたんなる理想にすぎなくとも、こういう問題をできるだけたくさんの人たちに考えさせたり、運動に参加させるということは意味がある。こう私は思っているのだがね。
俊太郎 お父さんは政治にはタッチしないという立場をずっと、世界政府のことをやっても、守っているわけで、ぼくも子どものときから知らず知らずのうちに政治というものを自分から離れたもののように考える癖がついてきた。戦後、ぼくは大学にもはいらなかったし、直接政治に関与する運動を何もしなかったから、いまでも政治というものは疎ましいと思う気持ちがあるのですね。それじゃいけないと思うし、もっと積極的に政治というものに加わろうという気持ちはとてもある。だけど、それはやはり谷川家の血につながってくるのだと思うけれども、ひとつの政治的信念というものをはっきりもつことができないのですよ。政治とは違う立場から政治を批評することはできるけれども、共産主義を信ずるとか、資本主義を信ずるとか、社会主義を信ずるとか、ひとつの信念のもとに行動することはどうしてもできない。ところがそういうふうに政治的信念をもたないで政治に関与するということは、みんなは非常にかんたんに攻撃するのね。日本のいわゆる文化人たちの弱味みたいなことをいう人もいるし。しかしそれはいちばんむずかしいことなんじゃないかと思うな。そういうあいまいさみたいなものを捨てて、こうするぞといって国会に突入するほうが、ある意味では楽だと思うのですよ。自分でも割り切れないあいまいさみたいなものを、ぼくは大切にするよりしようがないですね。そういう立場がなくなりつつある時代だからこそ、そういう立場というものを、どうにかして守りたいという気持ちはありますね。そういう立場で詩を書くと、思想がないといってやっつけられたりするけれども、政治的思想だけが思想じゃないと思っている。




