第3回 現代語訳 南方熊楠『十二支考』「馬に関する民俗と伝説」 松居竜五
絶滅した馬の仲間たち
前節の一部を修正しておきたい。最後の方で藤原広嗣の駿馬が無名だったよう記した。しかるにその後、『異制庭訓往来(いせいていきんおうらい)』の和漢の名馬を連ねた中に、本朝では聖徳太子の「甲斐黒駒」、太宰大弐弘継(だざいのだいにひろつぐ)の「土竜」とあるのを見出した。これに根拠があるとすれば、広嗣の「土竜」が、まずは本朝では、産地や毛の色によらない馬の名前として、最初に見えるものだろう。
それからもう一つ、紀州に砂鉄があることについて、従来記したものがないと書いた。ただしそれは和歌山県の分だけのことで、『紀伊続風土記』93には、砂鉄が牟婁郡(むろぐん)の三重県側の尾鷲(おわせ)に産するとある。盆石に添えるととても優美だそうだ。
さて、動物の分類には何か定説というものがあるわけではない。学者によって、それぞれ意見が異なっていて、どれが一番正しいということができない。さしあたってここでは、8年前に出た『ブリタニカ百科事典』に採用されているものによって説明してみよう。
哺乳動物は、中国のいわゆる「獣」に人類を加えたものに当たる。それを三つの群に分ける。第一の「単孔群」はオーストラリア辺だけに産する。第二の「有嚢群」はオーストラリアとその近くの島と、アメリカ大陸にだけ産する。第三の「有胎盤群」には、11の類が属している。
その11の類とは、「食虫など」、「手翅」(蝙蝠)、「皮翅」(インド諸島のヒヨケザル)、「貧歯など」、「齧歯(げっし)」(ウサギやネズミ)、「ティロドンティア」(現存せず)、「啖肉(たんにく)」(ネコや犬など)、「鯨鯢(げいげい)」、「シレニア」(琉球のザンノイオなど)、「有蹄(ゆうてい)」、それから「プリマテス」(「第一」の意味でサルと人)だ。
さらにその10番目の「有蹄」は10の類に分けられる。「挺鼻」(ゾウなど)、「ヒラコイデア」(イワダヌキの属)、「バリポダ」、「トクソドンティア」、「アンブリポダ」、「リトプテルナ」、「アンキロポダ」、「コンディラルトラ」(いずれも絶滅)、「奇趾」、「双趾」だ。
このうち「双趾」というのは、足の指が両足の中間線の両側に相対して並んでいて、キリン、鹿、牛、ヒツジ、ラクダ、ブタ、カバなどがこれに属している。「奇趾」というのは、その足の指のうちで、人間の中指に相当するものが左右対称で、その他のどの指よりも大きい。ここに「ティタノテリウム類」(絶滅)、「馬類」、「バク類」、「サイ類」の四つの区分がある。
馬類は、過去に多くの属があった。東西の両半球に広がっていたが、「馬」という一つの属を除いて、ことごとく死に絶えた。第2図のヒラコテリウムはヨーロッパと北アメリカに化石を産出する。始新世後期〔約3800万~3390万年前〕の馬で、前足に四本、後足に三本の指がある。これは現存の馬属の諸種の足の端に、指が一つだけあるのとは異なっている。こいつはキツネより大きくはなかったらしい。さまざまな有蹄獣の先祖と見なされているフェナコドゥスからもそう遠くないと言われているから、まずは馬類の中で、最も原始的なものだろう。
現存する馬と同属だけれども、過去に栄えて、今は化石となってしまったものも数多い。暁新世期〔約6600万~5600万年前〕に北アメリカに棲んでいた馬が数種あって、南アメリカにまで広がった。その化石は、今日アルゼンチンなどの荒野を駆け回る野生馬によく似ている。それで、この野生馬は南アメリカ特有のものと説く人もある。しかし、実は南北アメリカ大陸にいた馬属は過去に全滅し、今いるのは、ヨーロッパ人が新世界の発見後に持ち込んだ馬が逃げて野生化したものの子孫だ。
インドで化石を産出するエクウス・シヴァレンシスがアラブ馬の先祖で、ヨーロッパで化石を産出するエクウス・ステノニスが北ヨーロッパおよびアジアの小馬の遠い祖先だろうという。ただし、普通の馬と区別できないような化石が、ヨーロッパとアジアの暁新世期に出土するのを見ると、現存種の馬が最初にこの世に現れたのは、よほど古いことのようだ。
馬の種類を数えてみよう
さて現存の馬属の種類を数えてみよう。第一に「馬」だ。これには南北の別があって、「アラブ」や「サラブレッド」は南方種となる。その色は主に赤褐色で、しばしば額に白い星がある。眼の穴の前が少しくぼんでいる。北方種は色が主に黄色を帯びた暗褐色で、眼の辺にくぼみはない。北ヨーロッパの「ポニー」や、モンゴルの野生の小馬などがこれに当たる。
次にアジアの野生の「ロバ」。これは、耳は大きくも小さくもなく、尻尾は長い方だ。背中に暗褐色の筋があり、頭から尻尾まで通っている。これには二種類ある。モンゴルの「チゲタイ」と、その亜種のチベットの「キャン」は大きくて赤い。西北インド、ペルシア、シリア、アラビアなどにいる「オナガー」はオレンジ色からネズミ色がかっている。いずれも20頭から40頭くらいで群れて、砂漠や高原を速く走る。
オナガーは人を見ると驚いて走り、安全な場所で立ち止まる。振り返って追跡者を眺め、人が近づくとまた走る。何度となく、この「おいでおいで」を繰り返す。古代カルデア人は、まだ馬を用いることを知らなかった時代、オナガーを捕らえて戦車を引かせた。
『本草綱目』に「野驢は女真や遼東に産する。ロバに似てブチで尻尾が長い」と出ているのはチゲタイだ。「野馬は馬に似て小さく、今は甘州、粛州、および遼東の山中にもいる。その皮を取って皮衣とする。肉を食うと家畜の馬の肉のようだ。ただし地面に転がっても濡れない」という記述もある。これはモンゴルの野生の小馬(ワイルド・ポニー)で、一名をプルシバルスキーウマという。むかしの方が、今より生息地が広かったらしい。
中国最古の書とされている『山海経』には、「旄馬(ぼうば)は姿かたちは馬に似ていて、四つの関節のところに毛が生えている」と出ている。『事物紺珠(じぶつかんじゅ)』には「旄馬は脚に四つの節があり、毛が垂れ下がっている。南の海の彼方の地に産する」とある。今、しいてこのような動物に当てはめようとするとチベットのキャンだろうか。海抜1万4000フィート〔約4200m〕の極寒の高地にまで棲んでいるため、ヤクと同じように分厚い絨毯みたいな毛皮をまとっている。まさに「旄馬」と呼んで差しつかえないだろう。
シマウマもいるぜ
次にシマウマだ。「ゼブラ」と「クアッガ」と「ドー」と「グレビーシマウマ」の四種があった。が、ゼブラは絶滅しそうで、クアッガはすでに絶滅。ドーも本種は絶えて、変種だけが残っている。これらはみなアフリカ産で、虎のような縞があって美しい。
さて『山海経』には「杻陽(ちゅうよう)の山に獣がいる。その姿は馬のようで首は白い。模様は虎のようで赤い尻尾をしている。鳴き声は歌のようだ。その名を鹿蜀(ろくしょく)という」とある。その図はすこぶるシマウマに似ている。呉任臣(ごじんしん)の注によると、「『駢雅(べんが)』には鹿蜀は虎の模様をした馬と書かれている。明代の崇禎帝〔162~1644年在位〕の時、鹿蜀が得られた。呉爾臣(ごじしん)が詩を作ってこれを記念した」とある。
ボクの考えでは、チゲタイは若い時は虎のような縞があり、シマウマに似ている。だから「鹿蜀」という動物がいると思ったのではないだろうか。『駢雅』のような後世の書が出た頃には、多少はアフリカのシマウマを見たりして書いたのだろう。
中国に限らず、日本にもシマウマが渡来したことがある。アストレー『新航海・旅行大全』3巻378頁に、ナエンドルフの次のような記録がある。
アビシニアの大使がシマウマ1頭をバタヴィア総督に贈り、総督はこれを日本の皇帝に贈りました。皇帝は返礼として銀1万両と夜の服30着を商会に与えました。これらを合わせると、なんと驚くべきことに、16万クラウン〔現在の価値にして約10億円〕に当たります。
これを読んで、そんなことが日本の書物にあるだろうかと血眼になって数年探したところ、最近やっと『古今要覧稿』509に『本朝食鑑』を引用した中に、このことが記されているのを発見しましたヨ。『本朝食鑑』はボクの蔵書にあるのだけれど、田辺にはないので『古今要覧稿』の中の引用をそのまま写そう。
近年、オランダより献上された全身白黒の虎のようなブチの馬がいます。馬役に命じて飼わせてみました。しかし騎乗しても、荷を乗せても、普通の馬ほどの役にも立たちませんでした。ただ色が美しいだけです。あるいは「ラバ」の類いかもしれません。
『本朝食鑑』は元禄8〔1695〕年に人見元徳が編纂したものだ。ということは、今から200年前にシマウマが本邦に渡来したことがあったとわかる。シマウマは馬ともロバともつかず、この二つの間にできた「ラバ」によく似ているので、ラバの類いかと推察したのは無理からぬところだ。『本朝食鑑』とアストレーを合わせて検討すると、この時渡来したのは、今は絶滅したドーの変種の「グラントゼブラ」という種だと思われる。
ロバは愚かじゃない
馬属の最後に連なるのが、家畜化されたロバだ。耳が長いので和名は「ウサギウマ」という。『清異録(せいいろく)』には「耳長公」という異名が出ている。諸外国での名を少し挙げると、英語で「アス」または「ドンキー」。ラテン語で「アシヌス」、ロシア語で「オショール」、ドイツ語で「エセル」、ヘブライ語でオスは「チャモール」、メスは「アトン」。アラブで「カマール」、トルコで「ヒマール」、梵語で「ラーサブハ」などだ。
ロバの頭は大きく、身体の大きさに比べて脚がとても痩せて短いから、速く走れない。ひづめの縁がきめわて鋭く、中底にくぼみがあって、滑りやすい地面を歩いたり、けわしい山腹の登ったりすることにも耐えられる。
一般的に、畜類に荷を負わせるにも向き不向きがある。馬は平原では好都合で、ゾウは藪や林に適している。砂漠ではラクダ、山や丘ではロバが最も役に立つ。ロバは荷を負って、ひどく荒れた道を歩いても、辛抱強くて疲れた気色を見せない。ニーブールがアラビアで見たロバは、身体が大きくて荒々しく、旅行用としては馬にも勝っていた。したがって値も高かったようだ。
どこの地方でも、大衆はロバを愚か者の代表のように言う。しかし実は、「本当の愚か者は馬鹿にはできないものだ」という言葉通りの存在だ。「わざと愚鈍なふりをして人間を笑わせるような、高度なユーモア精神を持っている」と、ウッドは述べている。メッカでは、ロバを愛玩して飼育することに努めた結果、ロバがとても賢くなった。飼い主の言葉をよく聞き分けるので、飼い主もまた、自分の食事を削ってでも、ロバに食事を与えるという。
プリニウスの説として、ロバは寒いのが嫌いなので、ポントス地方には生息していない。また他の畜類のように春分には交合せず、夏至に交わらせるという。バートンは、ロバは寒地では衰弱するとして、この言葉は真理だと言っている。ただしアフガニスタンやバーバリー地方〔北アフリカの沿岸部〕のように、夏が長くて、暑く乾燥さえしていれば、冬がいかに寒くても大丈夫とも言っている。
『史記』「匈奴列伝」には、次のように書かれている。
堯帝・舜帝の時代から、山戎(さんじゅう)などの民族が北方にいて、遊牧しながら移動している。その畜類のうちの多いものは馬・牛・ヒツジだ。奇畜としては、ラクダ・ロバ・「騾(ら)」・「駃騠(けってい)」・「騊駼(とうと)」・「騨騱(てんけい)」がいる。
「奇畜」とは、古代の中国人が珍しいと考えていたものを言うので、ここで言う「騾」とはオスのロバとメスの馬の雑種、「駃騠」はオスの馬とメスのロバの雑種のことだ。いずれも現在ではひっくるめて、日本語では「ラバ」、英語では「ミュール」と呼んでいる。しかし厳密に英語に訳すならば、「騾」は「ミュール」で、「駃騠」が「ヒンニー」に当たる。
「ヒンニー」の語源は、ギリシア語の「ヒンノス」とラテン語の「ヒンヌス」で、たぶん馬のいななき声を「ヒヒン」などという日本語と同様のものだろう。それからイギリスの田舎などでは、親しい間柄の人を呼ぶのに「私のヒンニーちゃん」と言う。錦城館のお富さんがボクのことを呼ぶようなもんだね。その場合は「駃騠」のことを意味しているのではなくて、蜂蜜の意味の「ハニー」から転訛した語だ。
さて残りの二つの「騊駼」と「騨騱」はよくはわからないけれど、どちらも「野馬」と注にあるので、前述したチゲタイやキャンやワイルド・ポニーといった連中のことだろう。この『史記』の文を見ると、ロバは中国よりも先に北方の異民族の間に、だいぶ古くから入っていた。
そんな寒冷地にたくさん繁殖したのは、その時々に野生の馬や野生のロバと混合して、土地に適合した雑種を生じたことによるのだろう。学者の説では、家畜のロバの原種は、今でもアフリカで野生種として生息している。ただし家畜とは異なり前髪がない。背と肩に筋があるヌビア産と、背と足に筋があるソマリア産の二つの流れがあるらしい。
馬とロバから生まれた「ラバ」
前述したように、現存する馬の種類は、「馬」と「チゲタイ」と「オナガー」と「グレビーシマウマ」と「ドー」(ただし本種は滅びて変種が残る)と「ゼブラ」と「ロバ」の七つだ。それに加えて、多少の変種もある。ただしこれらは、種としては別だけれども、とても近い関係にある。そこで、野生の時にどうしていたかはわからないが、飼い慣らしたり、閉じ込めておいたりすると、異種同士で交わって雑種を生む例が少なくない。馬とロバは身体の構造が最も隔たっているけれど、それでも簡単に交わってラバを生む。
『漢書』には、「亀茲(きゅうじ)〔現在の新疆ウイグル自治区クチャ〕の王が漢に朝貢し、帰国後に衣服や制度や宮殿を漢の風習に改めたが、ホンモノ通りにはいかなかった。外国人や西域の人がみな嘲って『ロバでもなし、馬でもない。亀茲王なんかはラバというものだ』と言った」とある。
たしかにラバは頭が分厚くて短く、耳は長くて脚は細く短い。ひづめは狭く小さく、尾の根元に毛がない。そのあたりは父のロバそのままだけれど、身体の大きさや顎や尻や毛や歯の様子は母の馬そっくりだ。声は父にも母にも似ていない。足並みのしっかりしていることと辛抱強さは父のロバの性質を受け継ぎ、心身壮健で勇猛なところは馬の性質を伝えている。なので荷を負うためには、良い馬にも勝る。
古代のギリシア人、また特にローマ人は、車を引かせたり荷を負わせたりするのにラバを用いた。しかし近世以降は、主に軍事輸送のために使われている。ただし、馬の父がロバの母に産ませたラバ、つまり「駃騠」はあまり役に立たない。プリニウスの説では、「愚鈍で教え甲斐がない」とされている。
プリニウスはまた、次のようにも言っている。
メスのロバが、オスの馬によって身ごもらされた後、次にオスのロバによって身ごもらされると、オスの馬の種は消えます。しかし、まずオスのロバによって身ごもらされ、次にオスの馬と交わっても、ロバの種は消えません。
何にしても、ラバはある点においては、父にも母にも優るので、国や仕事の事情次第では、馬やロバよりも必要とされています。けれどもラバの種は二代とは続かないので、その都度ロバと馬を交わらせて作らなければならないのです。
むかしブッダは、従弟のダイバダッタが阿闍世王(あじゃせおう)から毎日500釜の供養を受けて栄えているのを見て、詩句で僧侶たちを戒めた。そこには「バショウの木は実ると枯れる。竹も葦も実ると枯れる。ラバは身ごもっても死ぬ。志あるものは貧しくなるために自ら失う」とあった。その注釈としては、「ラバはもし身ごもると母子ともに死ぬ」とある(『大明三蔵法数(だいみんさんぞうほっすう)』19)。
『爾雅翼(じがよく)』には、「ラバの股には『瑣骨(さこつ)』というものがあって、離れて開くことができないので子が産めない」とある。『史記』の注には、「駃騠はその母の腹を割いて生まれる」とある。『敬斎古今黈(けいさいこきんとう)』3には、「ラバはかならずしもロバと馬の子ではない。ラバという一種があり、生まれる時にはかならず母の腹を割かなければならない」とする。これらはすべて、ラバのメスが子を産まないことについて、いろいろ空想して作った説だね。
『人類学雑誌』に、パプア人やヤミ人は、以前はヤギの出産の際に母の腹を割いて子を取り出していた。しかし、後に他所のメスのヤギが、腹を割かずに安産するのを見て、そのやり方をやめたと書かれていた。はるかむかし、中国北方の異民族の間にもそんな風習があった痕跡として、ラバの腹を割いて子を取ると言ったのではないだろうか。
『池北偶談(ちほくぐうだん)』26には、「仏典には三つの必然的な死が書かれている。人の老病、竹の結実、ラバの懐胎だ。しかるに康熙年間〔1661~1722年〕に、軍人の家にラバがいて、子を産んだが無事だった」とある。ラバのメスが他の馬と交配して子を産んだことは、時々話に聞く。しかし少なくともこの数千年の間、無数のラバが飼われる中で、オスとメスのラバの間で子が生まれた例があるかは極めて疑わしい。とりあえず「馬属の種の間では、現在では雑種の子は生まれるけれど、その子同士で繁殖することはできない」という『ブリタニカ百科事典』の記述を受け売りしておこう。
日本には馬はいつやって来たのか?
『ブリタニカ百科事典』にはまた、次のようにも書かれている。
ヨーロッパでは、有史以前の新石器時代に野生馬が多く、そのおびただしい遺骨が人類の遺跡とともに残っています。それを見ると、当時の人類は野生馬といえば狩りの対象で、肉も食っていたようです。その骨を観察したり、当時の人類が骨やトナカイのツノに彫りつけた図から推察すると、野生馬は小柄かつ身重で、たてがみと尻尾は粗かったようです。最近絶滅した南ロシアのタルパンという野生馬や、現存するモンゴルのワイルド・ポニーによく似ていたことがわかります。そうして、有史以前のヨーロッパ人は、その野生馬を飼ったりもしました。
それから今日に至るまでに、馬は人の手によってさまざまな地域に行き渡りました。地球上、人の住み得るところにはほとんどすべて馬がいます。飼育と交配と選抜の結果として、さまざまに異なる姿の、異なる種を生じさせています。またアメリカとオーストラリアでは、最初はヨーロッパ人が連れて来た馬が逃げて野生化し、大群をなして未開拓の荒野を縦横無尽に駆けています。
日本の馬のことは、貝原益軒の『大和本草』巻16にこう書かれている。
『旧事紀』には保食神(ウケモチノカミ)の目に、馬や牛が生じたとあります。『日本書紀』神代巻では、駮駒(ぶちこま)のことを言っています。つまり神代から馬はいたのです。
一方、二条良基の『嵯峨野物語』には、「馬は、むかし、唐の国から渡ってきた。その時は『耳の獣』と呼ばれた。とても貴重だったので、天皇の覚えめでたい大臣・公卿の他は乗れなかった。それで「良家」と書いて「馬人」と読むのだ」としています。私見としては、馬は神代からあったけれど、後代に唐から良馬が渡来したのではないかと考えます。
これに関して、『後漢書』「東夷列伝」には次のようにある。
倭国は韓の東南の大海の中にある。……その地はおおむね会稽郡東冶県(かいけいぐんとうやけん)〔現在の福建省あたり〕の東に位置している。珠崖郡(しゅがいぐん)〔海南島に置かれた郡〕に近く、そのため風俗が同じところが多い。気候は温暖で、冬でも夏でも野菜が育つ。牛・馬・虎・ヒョウ・ヒツジ・カササギはいない。
たしかに日本には、虎とヒョウはおらず、ヒツジは後世に渡来したけれど、今に至るまで多く増えてはいない。カササギは肥前・肥後・筑前・筑後には多いけれど、むかしもそうだったかはわからない。
貝原益軒が引用している『旧事紀』はアヤシいもんだと思うけれど、保食神(うけもちのかみ)の頭から牛や馬が生じたということは『日本書紀』「神代巻」にも見える。また「天斑馬(あまのぶちこま)」のことと、日子遅神(ひこじのかみ)が片手を馬の鞍にかけて出雲から倭国に上ったことが『古事記』に載っている(『古今要覧稿』509)。
そうすると、日本には「牛馬はいない」と書いた『後漢書』は、まったく信用できないように見えるかもしれない。でもこの本は、他の部分では史実に合ったことをたくさん載せているから、一概に疑うこともできない。地理の詳細はちょっとわかりにくいけれど、「珠崖郡」という地方に近くて、気候は温暖で、冬も夏も野菜が育つと書かれているような日本の地域や倭人の領地には、牛や馬はいなかったと判断してよいのではないだろうか。
その一方で、日本の古代の遺物に牛馬を飼育した証拠があることは、八木奘三郎君と中沢澄男君が『日本考古学』などで報告している。ただ『後漢書』「東夷列伝」には、「辰韓(しんかん)は秦人〔中国人〕が馬韓(ばかん)〔古代朝鮮の三韓の一つ〕から土地を分けて建てた国」で、「馬を乗りこなす」と特筆されている。つまり当時は朝鮮にも牛馬を用いない地域があったんだろうね。
逆に、千年ほど前にできた『寰宇記(かんうき)』には、「琉球にはヒツジとロバと馬はおらず、馬を乗りこなすということを知らない」と書かれている。これも馬がまったくいなかったというわけではなく、おおむねそうだったということなんだよ。
かつて、出羽の飛島(とびしま)に仙台の人が渡ったところ、80歳あまりの老婆が語ってくれたという。「世間には馬という動物があると聞いとる。生きているうちに一度、その馬とやらを見てから死にたいものじゃ」と(『艮斎間話(ごんさいかんわ)』上)。
20年あまり前までは、但馬(たじま)の因幡(いなば)地方では馬はきわめてまれだった。5歳くらいの子どもに「馬を知っているかい」と問うと、「顔が長くて4本足で、尻尾があって人を乗せるんだよね」と答えた。大きさを尋ねると、両手を2、3寸〔6~9cm〕に広げて示し、「大きいやつは下に車輪がついてるんだ」と答えた。絵や玩具の馬以外は、見たことがないからだ(『理学界』1月号、脇山氏の説)。紀州でも、日高郡の奥地などには馬がいない地域が多かった。また大和で、去年まで馬を見たことがない村があったと、8月8日の『大阪毎日新聞』で読んだ。
つまり最近でもこんな調子なんだよ。いわんや古代の飼育法も知らず、特に必要もなく、さらには斎忌(タブー)制度が煩瑣で、さまざまな動植物を嫌う習慣があった時代のことだ。牛や馬がいない地方が、わが邦には少なくなかったと考えるべきだね。思うに、わが邦の神代にいたという馬は、まず前述したような北方種の馬が大陸から伝わり、その後になって良馬を中国から輸入した。結局、貝原さんが言っているのが当たっているということになるわけだ。
なぜ馬とロバだけが飼い馴らされたのか?
『ブリタニカ大百科全書』には、こうも書かれている。
馬属のいろいろな種は、外形が著しく異なっており、心性もまた大いにちがいます。それぞれの種を解剖して、その脳を比較すると、たいていはよく似ています。それなのに、ここまで心意気がへだたっているのは不思議なことです。例えば、ロバが忍耐強いこと、馬が精悍なこと、ラバが頑強であることは、古くからよく知られています。
7、8種ある馬属のうち、馬とロバだけは、計り知れないむかしから人間に飼われて、大きな役割を果たしてきました。それなのに、他の種が人間にはなつかず、野生生活をこれまで送ってきたのは奇妙なことです。ただし、それは馬とロバの心性が、本来人間に飼われるのに適していたからなのか。はたまた、これらの種に関しては、人間が飼い馴らすための努力を長年辛抱強くおこなってきたけれど、他の種にはそこまでの尽力を惜しんだためなのか。そこは大きな疑問と言えます。
おそらく今日では、すでに馬とロバが、できるだけの役割を果たしているので、新たに他の種を調教して使わなければならないような格段の理由はないのでしょう。そのため、新種を飼い馴らすような努力をしなかっただけではないでしょうか。つまり馬とロバが、何千代にもわたってしつけられて、ますます有用さの度合いを加えているところに、いきなり「山出し」のゼブラやドーをどれだけ急いで仕込んだって、競争に勝てる見込みはまるでないわけです。
うーん、これはすこぶる名言だ。家畜のことだけでなく、人間の教育のためにも、大いに参考になるんじゃないかな。
とは言え、前掲のアストレーの書の3巻310頁には、ポルトガルの王様がゼブラ4頭に車を引かせたと記してある。イギリス人でゼブラを乗りこなした人がいるという話もある。古代カルデア人がオナガーに戦車を引かせたり、韃靼人がキャンを飼い馴らしたこともあった(マスペロ『文明の夜明け』英訳版769頁。ウッド『博物図譜』巻1)。また『史記』「匈奴列伝」に、匈奴の先祖が、馬とロバの他にいくつかの野生種を飼い馴らしたという記事があることは、すでに述べた。
してみると、馬とロバの他にも、ずいぶんモノになる種もあるようだ。にもかかわらず、馬とロバでこと足りるということで、それ以上家畜化に力を使わなかったということだろう。
その上、野生のロバやシマウマたちは、もっぱら肉を食ったり皮をはがしたりする目的で、容赦なく狩り殺された。そこで人を見ればあわてて走り去る。中央アジアや南アフリカの原住民が、ゾウやシマウマの数がとても多かった時代に、これを馴らして使うことを試みずに、むなしく狩り尽くしてしまったのは、その社会の発達をひどく妨げたことだと思う。
ツノのある馬
『ブリタニカ大百科全書』からさらに引用してみよう。
時として、家畜馬のひづめの側に、小さなひづめを持つ指が生ずることがあります。まれには、3、4本の指が並んで生じます。学者としては、馬の祖先には3、4本の指があったので、進化以前の旧態に戻ってこうなると説くのが通例です。しかし、きちんと調べてみるとそうではなくて、こういう多指の馬の足はヒッパリオンやアンキテリウムといった過去の馬が多指だったのとは異なっているのです。これは、手足が1本多すぎたり、指が6本あったりする人と同じで、奇形により生ずるものに過ぎません。
『甲子夜話』続編76に、両国橋の見世物として、6本足の馬を描いて看板をかけ、見世物としていたことが記されている。しかしこれは実は6本の足があるわけではない。図のように、本当の6脚ではなく、前のひづめに添って脚の延長のようになっているだけだ。羽州街道〔山形〕と三春〔福島〕を結ぶあたりに産するというけれど、図を見ると6本指と同じような奇形だ。第2図の馬の祖先が多指なのと比べると、かなり様子がちがうことがわかる。
それから同書巻11に、津軽あたりの3歳馬の左の耳に、長さ1寸9分〔約6cm〕くらいのツノが生えたとある。ツノは曲がっていて、黒くて堅い。ただし根本の方は柔らかく、右の方にも生えかけたツノが見えたという。『梅村載筆(ばいそんさいひつ)』には、義堂周信の詩が三句で同じ「難」という字の韻を踏んだ日本で初めての例だとしている。その詩は「馬の頭にツノを生ずることは難しくない。山の上に船を乗せることも難しくない。難しいといえば、難中の難ということが一つある。夕陽の門の外で人を待つことは難しい」というものだ。
文部省が刊行した『俚謡集』の伊賀阿山郡の木遣歌(きやりうた)に、「牛の上の歯に馬のツノ、師走のタケノコに寒なすび、山の上にあるハマグリや」とある。義堂の起句は、これと同じように馬のツノを、ないに決まったものとしているのだ。中国でも、燕の国の太子の丹が、秦国の人質だった時に「燕に帰りたいのです」と請うと、秦王〔後の始皇帝〕が、「カラスの頭が白くなって、馬にツノが生えたら許そう」と言った。そこで丹が天を仰いで嘆くと、カラスの頭が白くなり、馬にツノが生えたので、燕に帰ることができたという。
『和漢三才図会』68に、立山の畜生が原は、むかし、奥州の藤義丞という者が、ここでしきりに眠っていて、馬になった。さらにツノまで生えたのを、今に至るまで本社の宝物としている。『観瀾集(かんらんしゅう)』には、「大石家の馬は1本のツノを備えていた。伝承によれば、武田の勇士である上総介(かずさのすけ)の小幡信定が乗った馬に生じたものという……」とある。
『広益俗説弁』20に、「俗説では馬のツノは宝だという」と書かれている。これについて、ちょっと考察してみよう。『史記』の文帝12年〔紀元前169年〕に「呉の国にツノが生じた馬がいた」という。漢の『京房易伝(けいぼうえきでん)』に「家臣が朝廷を軽んじて政治がうまくいかない。すると妖馬にツノが生えた」とある。『呂氏春秋』には、「人が君子の道を失うと、馬にツノが生えることがある」としている。これを見ると、馬のツノは宝にすべきものではないように思われる。
『物異志』は「漢の文帝の時、呉の国にツノが生えた馬がいた。右のツノは3寸〔約7cm〕、左のツノは2寸〔約5cm〕だった」とする。これを比較するに、馬のツノはややもすれば、左右の長さが異なることがわかる。今でもまれにはあると見えて、ドイツあたりの馬にツノが生えたという記事を、数年前に『ネイチャー』で読んだけれど、詳細はわからない。
英語で「ホーンド・ホース」(ツノ馬)と呼ぶのは「ヌー」ともいい、羚羊の中の一つの属で二種類いる。南アフリカと東アフリカに産するけれど、前者の方はたぶんもう絶滅しただろう。牛と馬と羚羊を混ぜたような姿で、尻尾とたてがみは特に馬に近い。手負いのツノ馬に近づくのはすこぶる危険と、パターソンの『ツァヴォの人食い獣』(1914年)に述べてある。
両性具有の馬と血の汗を流す馬
古代ローマに、荒淫で有名なネロという皇帝がいるよね。ネロは、かつて揃いも揃って両性具有の馬ばかりを選んで、自分の車を引かせて、異観を誇った(プリニウス『博物誌』11巻109章)。その頃までのローマ人は、両性具有を不吉なものとして、生まれ次第に海に投げ込んでいた。でもその後、西暦1世紀には、両性具有をこの上なく優れたものとして、争い求めた。
男女の両方の最も美しい部分を合成して作り上げた両性具有神(ヘルマフロディテ)の像には、その頃の名作が多い(ド・ポウ『アメリカ先住民の研究』1772年、102頁)。ボクの記憶では、ローマ帝国の末期に至るまで、性欲を満たすために最も高値で売買されたのは、美女でも美少年でもなくて、比類ない容貌を持つ両性具有者だった。
皇帝ネロは、自分の生みの母を愛した。でも後にその母を殺して、家臣の妻を奪って后とした。その后が死んでからは追懐やまず、美少年のスポルスが亡き后にうり二つだというので去勢し、女装させた。そして民衆の眼前でスポルスと抱き合い、いちゃつく様子を見せつけて楽しんだ。まあ、エラく変わり者と言う他ないね。とりもなおさず自分の后が両性具有みたいなものだから、同じように両性具有の馬に車を引かせたということなのだろうか。
天野信景(あまのさだかげ)の『塩尻』巻53には、「男女の両方の性器を持つ人がいます。動物にもそういうことがあるのかと聞く人がおりました」と書いている。そして「ワタクシの領地である愛知郡本地村の村民の家には、両方の性器がある馬がいて、時々荷を負って来ます。見ると、何とも不格好に思われます」とある。その外見は、ネロが引かせた馬にはとうてい及ばないようだね。
プリニウスが言うには、「サルマタエ人が長旅をする際、出立の1日前に馬に断食させ、水も少ししか飲ませない。そうしておくと、1日に150マイル〔約240km〕走り続けることができる」と。これとよく似ているのが、滝川一益が北条勢と戦って負けた時のことだ。炎天下だったので馬が水を欲した。しかし川の水を飲ませて走った馬は斃(たお)れて死に、飲ませなかった馬は命を全うした。そんなことを聞くと、さすがのボクも、少しは飲む気がなくなるヨ。
『神異経』に「大宛国(だいえんこく)〔現在のウズベキスタン周辺〕の宛丘の良馬は、1日に千里を走る。日中になると血の汗を流す」とあるけど、怪しいなあ。とは言え、チュクチ人などのシャーマンの修行は、とても激しいものらしい。それで、時として苦しみのあまり、鼻血や血の汗を出すという(チャプリカ『シベリアの先住民』179~180頁)。あるいは、鼻血を塗って血の汗のように見せるともいう。
馬の食べ物
『本草綱目』には次のようにある。
馬がカンアオイの草を食べるとよく走る。稲を食べると足が重い。ネズミのフンを食うと腹が張り、乾燥した蚕と燻製の梅で牙を拭わなければ、ものを食べなくなってしまう。桑の葉があれば治る。イタチの皮をかいば槽(おけ)に置くと食わなくなる。ブタのかいば槽で馬を飼ったり、かいば槽に石灰を塗ったりすると堕胎する。サルを厩舎につないでおくと、馬が疲れない。
しかるにトルコでは、ブタの汚い匂いが馬を健康にするというらしい(ブスベキウス『トルコ旅行記』1581年版)。
馬の食べ物にも、さまざまに流儀が異なったものがある。タヴェルニエの『インド紀行』には、「ウンチミッタ地方あたりでは、毎朝、粗末な黒砂糖と麦粉とバターを練り合わせて、ろうのようなかたまりにして馬に呑ませる。その後に、口を洗って歯を清めてやる」とある。サウジーの『コモンプレイス・ブック』2には、パンで馬を飼った例がいくつか挙げられている。
『馬鳴(めめょう)菩薩伝』に次のように言う。
むかし、北天竺の小月氏国の王さまが、中天竺を攻めて3億金を要求した。中天竺の王さまは「わが国には1億金すらござらん」と返事した。すると小月氏国の王は「アンタの国内には、仏様が持っていた鉢と、弁舌に優れた僧侶があるだろ。その二つの宝を2億金の代わりにワガハイによこしなさい」と言った。
中天竺の王さまが躊躇していると、その僧侶は次のように説法した。「世の中というものは簡単ではございませんから、王さまは一国のみを治めておられます。それに引き換え、仏法は広くこの世の隅々まで伝えなければならないものです。ワタクシはこの世の法王たるべき身分でございますから、どこに行ったからといって、えこひいきしたりはいたしません」。
中天竺の王様はこれを聞いて感服し、鉢と僧侶を渡すこととした。それを連れて使いの者が小月氏国に帰ると、国の大臣たちが次のように議論した。「仏様の鉢はまことに貴重で、王様がこれを崇めるのはもっともじゃ。じゃが、あの破戒僧こそけしからんぞ。あんなありふれた坊主を1億金の代わりに受け取ったのは、とんだ計算違いじゃ」。
けれど小月氏国の王様は、もとよりその僧侶が無類の偉人で、弁舌爽やかで人間だけでなく動物をも感化する力があるのを知っていた。そこで並み居る人々の誤解を解こうと考えた。まず7頭の馬を5日間飢えさせた。そして6日目にあまねく内外の仏教僧と他教の学者を集め、その僧侶を招いて説法させた。すると一同、感服しない者とてなかった。
さて、説法の会場の前に7頭の馬をつないだ。馬は「浮流草」が大好物なので、これを与えた。ところが、馬たちはただ涙を流して説法を聴くばかりで、少しもエサを食う気がない。そこで、天下の人たちはこれが不世出の僧侶であることを知った。そして馬がその法恩を解したということで、「馬鳴菩薩」と名づけた。これにより、北天竺に仏法が広まった。
この「浮流草」のことは詳しくは伝わっていないけれど、水流に浮かんで、特に馬が好んで食う藻なんかじゃないかな。ホンダワラは一名「神馬草」という。神功(じんぐう)皇后が征韓の船の中で、まぐさがないので、この海藻を採って馬に与えたためにこの名がついたらしい(『下学集』下)。『能登名跡志』にも、この藻を義経が馬に与えたという俚伝が載せられている。
タヴェルニエの『ペルシア紀行』には、「バルサラでは草が乏しいので、魚の頭とナツメの種(デイツ)で馬を飼います」という。マルコ・ポーロの書には、「アラビアのユシェルという国は、世界中で最も乾いた地で、草木は少しも生じません。しかるに3・4・5月の間は小さい魚が莫大に捕れます。これを乾して蓄え、1年中家畜のエサにします」と見える。ここから推察すると、「神馬草」の伝説もウソではないだろう。
マルコ・ポーロはこうも言っている。
マラバールでは、肉と煮た米を調理して食べるので、馬がみな絶えてしまいます。また、いかに良い馬を持ち込んでも、生まれる子はつまらぬものばかりです。さて、この地は本来は馬を産しません。アラビアあたりの商人が、毎年数千の馬をこの国に輸入し、法外に儲けています。しかるに1年経つ間に、多くは死んで100頭も残りません。これは、この国の人が馬の飼い方を知らず、外国商人たちはこれを奇貨として、馬の医者がこの国に入るのを禁じているからです。
これらの外国商人たちは、インドに馬を運んで莫大に儲けたのだけれど、うまい話ばかりではなくて、ずいぶん危ない目にも遭った。たとえば、タナの国の王様は海賊とグルだ。そしてインド行きの船には多かれ少なかれ馬を積むときている。「馬さえオレに献上すれば、他の積み荷は一切オマエらにやるよ」と、まことに結構な仰せに、海賊どもは小躍りして外国船を略奪した。
ギリシアのディオメデス王は、自分の馬に人肉を与えた。しかしヘラクレスが奮闘してこの王を殺し、その死体を馬に食わせると、おとなしくなったという。わが邦でも『小栗判官』の浄瑠璃に、横山家の荒馬の「鬼鹿毛」は、いつも人をまぐさとして食ったとある(『新群書類従』5)。
「小栗判官」の細部は西洋ネタじゃないかな
前年の『早稲田文学』に、坪内逍遙博士が、舞の本や古浄瑠璃の「百合若物語」に関する論考を発表したと聞いた。「百合若物語」は、南蛮時代の宣教師たちが、古代ギリシアのオデュッセウスの話を持ち込んで、日本のことのように作り替えたという内容らしい。まだ手に入らないのでその論を拝読していないけれど、自分で調べてみるに、どうやら博士の見解は当たっていると思われる。
さて、そのついでに調べてみると、小栗判官の物語は、日本の史実を元にしているものの、西暦2世紀にヌミディアという国(今のアルジェリア)のアプレイウスという人が書いた『黄金のロバ』を、あちこち翻案した跡が少なくない。
たとえば、王女プシュケがエロスの神に別れた後、昼夜これを探し回ることに基づいて、照手姫が小栗判官を探し続ける部分を作ったのだろう。また女神ウェヌスがプシュケに七種の穀物が混ざったものを、短時間で選り分ける方法を教える場面がある。これに倣って、万屋(よろずや)の長が照手姫に7つの釜の火を絶えず焚かせて、遠方から七つの桶の水を汲ませ、7種類の買物を調えさせたわけだ。それから前述のディオメデスの人喰い馬を、人のまぐさを食う「鬼鹿毛」としたのだろう。
さらに勇士トレポレムスが、盗賊だと偽って盗賊の一味となり、捕らわれていた恋人のカリテを娼婦として売れと勧めたところは、照手姫が娼家に仕えることを連想させる。また、トレポレムスが毒の酒で盗賊の群れを眠らせ、女をロバに乗せて逃れる場面がある。これは、偶然に反対側の話に分かれてはいるけれど、横山が小栗の郎従を酔わせて殺すのと、小栗が鬼鹿毛に乗って逃げおおせるのに近似している。
もっとも、小栗判官の話の大要は『鎌倉大草紙』に載せた事実に基づいているので、むやみに改変するわけには行かなかったはずだ。『黄金のロバ』の模倣は、あちこち細かいところにとどまっている。それから、俗に「小栗の碁盤の曲乗り」などと伝えられているのは、前項のインドの知恵の馬がハスの花を踏んで歩いたことや、広嗣の駿馬が4本の足を合わせて1本の杭の上に立ったことを思わせる。
ツツジと同じ科に属するアセミまたはアセボのことを、『万葉集』では馬酔木(あせみ)と書いていて、馬がその葉を食うと酔って死ぬという。「すぐにつなげよ、玉田の横野の放れ馬は。ツツジの下に馬酔木の花が咲いているよ」と、源俊頼は歌にしている。(『塵添壒嚢鈔(じんてんあいのうしょう)』9、『夫木集抄』3)。紀州では、この葉の煮汁でダイコンの害虫を除く。これと同じく、ヒメシャクナゲ属に寄生する小木のラタンカットは北インドに産し、その若葉と種子は牛やヒツジの毒となる。
となると、日本の馬酔木もしっかり研究すれば、敵の軍馬を大量に殺すことのできるクスリとなるやもしれませんゾ。それで大もうけしたあかつきには、例の錦城館のお富の身請け話をター・ノー・ミー・マー・シー・ター・ゾーーーーー。
馬の寿命と性生活
ミッチェル教授の説に、馬やロバやシマウマは、一般に15歳から30歳まで生きるが、50歳に達した確かな例があるという。スコファーンの説では、スコットランドの言い伝えとして、犬の命を三つ合わせると馬の命、それを三つ合わせると人の命。それから鹿、ワシ、カシワと進むにつれて三倍ずつに増えるとあるそうだ。馬と鹿の間に人間がいるのが面白いね。
プリニウスの『博物誌』8巻66章に「馬は11か月の間身ごもって、12か月目に産みます」とある。『淵鑑類函』には『春秋考異郵』を引用して、「月の精が馬となった。月の数は12だ。だから馬は12か月にして生む」とある。これは東西で月の数え方が違うということだね。
プリニウスの続きはこうだ。
馬は春分に交配します。メスもオスも、どちらも2歳でよく交わりますが、2歳以上で交わった方が、強い馬を産みます。オスは33歳まで生殖力があります。かつて、40歳まで種馬の役割を果たした馬がいましたが、年老いた後は、人に助けられて、やっと前半身を起こすことができました。けだし馬ほど生殖力が限られた動物もまれです。そのためにメスとは時間を定めて遊ばせます……。
ボクが知っている限りでは、アメリカのインディアンもまたこの類で、他の諸民族に比べて交歓の数がとても少ないとよく聞く。プリニウスはまた、「馬は1年に15度もつがうことができない」とも言う。でもそれはオカシイんじゃないの。15回って多すぎるぜ。さっきは春分にしか交わらないと言っていたじゃーないですか。
日本でもその通りだと見えて、内田邦彦氏の『南総の俚俗』に、世界の初めに動物たちが神さまの前に集まって性交について聞いた話がある。
神さまが、それぞれの種について、年に一期とか年に二期とかと定めると、みなかしこまって聞いていました。次に馬が神の前に進みました。神さまは「オマエは年にただ一期」と言うやいなや、馬は怒って神さまの面を蹴りました。次に人間が神の前に出ると、馬に蹴られた神さまは面倒に思って「オマエらは好きなようにやれ」と言って奥に隠れてしまいました。それ以来、人間だけは、時を選ばずにやりたい放題にしているのだとか。
さて、プリニウスはさらに言う。
メス馬は40歳まで毎年子馬を産むことができますが、たてがみを切ると性欲が消えます。子を産む際には直立します。新産の馬が生母を失った場合は、同じ群れの中で新たに子を産んだメス馬が世話をすることになります(これはネコも同じだとロマーニスも言っている。ボク自身、実際に何度か見たことがある)。
子馬が生まれて3日間は、土に口を触れさせてはいけません。気が荒いものほど、水を飲む際に鼻を深く浸します。シジア人はオスよりもメス馬を軍用としました。それは、尿をしながら進むことができるからだそうです。
アゼンスの城に80歳まで生きたラバがいました。かつて、お堂を建てる時に、このラバを免役したのですが、自ら進んでその工事を助けました。そこで城の民は喜んで、議論の結果、ラバがどの家の穀物を食べても、追い払うことはしないと決めたのです。
『朝野僉載(ちょうやせんさい)』に、「徳州の刺史(しし)であった張訥之(ちょうかんし)の馬は、色が白くて練り絹のようだった。年は80歳以上で、極めて肥えて健やか。脚どりも速くて確かだった」とある。また日本にもこんな話がある。
源範頼が肥後の菊池氏の軍功に感じて「虎月」を賜りました。この馬は、何世紀も生き続けて、永禄年間〔1558~1570年〕まで存命でした。その頃、大友義鎮の武勇は九州にとどろいていました。菊池氏は婚姻関係を結んで、累世の宝物を引き出物として贈りました。この馬はその第1番に挙げられました。義鎮はこれを受けて、逐語の板東寺村に置いて、田を与えて人を付けて養いました。
後に久留米秀包(くるめひでかね)が、その辺を受領して田を加増された際、文禄年間〔1593~1596年〕に500歳で死にました。1000人余りの郡民が、葬送の装いをして、野原に出て弔ったそうです(『南海通記』21)。
まずは、馬の中の「神仙」というべき存在だね。
オンナの話もさせてくれ
馬の話をすると、なぜか女のことを思い出してしまう。女にも、寿命が長くて、かつ美しさを保つ人がいる。『春秋左氏伝』に見える鄭の穆公(ぼくこう)の娘の夏姫(かき)は、陳の太夫の御叔(ぎょしゅく)の妻だった。60歳余りで、晋の叔向と再婚して子を生んだ。『烈女伝』には次のようにある。
夏姫は閨房の術に長けていた。そのために年老いても、まだまだ盛りを保ち続けた。3度、王后となり、7度、夫人となった。貴族や大臣たちはこれを争い、災いを得たり失意に沈んだりした。考えてみると、生涯のうちでおよそ9回も未亡人になっているので、関係した男はみな死んでしまったのだろう。『春秋左氏伝』には、その数は8人となっている。
ここに見えるように、夏姫は数々の夫に会って、100歳に及ぶまでなお非行を続けたという人だ。これは、閨房の術があるからだ。宇文士及(うぶんしきゅう)の『粧台記』の序にも、「春秋時代の初め、晋や楚の国にはあるウワサがあった。夏姫は道理を得たため、ニワトリの皮が三たび若くなったというのだ」と見える。これは、年老いた後はニワトリの皮のように肌つやがしわくちゃになるのが普通なのに、夏姫は術を使って3三度まで若返ったということだ(『類聚名物考』171)。
仏典で名高い得叉尸羅(たくしゃしら)の城の青蓮尼という人や、17世紀に長く艶名をとどろかせたフランスのニノン・ド・ランクローなども、似たようなことなんだよね。しかしまあ、話し始めると頗長(すこなが)、つまり「すこぶる長い」と来ているから、惜しいところだけれどやめておきましょう。
「霊物」と交わると非凡の子が生まれる
17世紀末の雑誌『アセニアン・マーキュリー』は、ボクが長いこと寄稿している『ノーツ・アンド・クエリーズ(N&Q)』の前身と言えるものだ。ある人が、そこに投書して、「馬の飼育係は、良種を選んで、いろいろと注意して、思うがままに改良しているよね。どうにかして人間も、その通りに改良できないものかと思うんだけど」と質問した。
それに対する回答の大要は、「そういうやり方は天賦の自由を奪うんじゃあないですかね。体格ばかり完全なものにしようと望んで、精神の勇猛さと貴さを失うことを顧みないってことになりませんか」ということだった。これを見ると、人種改良のための「善胎学」というのは、今日に始まったものではないようだ。古来、人間が馬の改良に注力してきたことを知っているほどの人は、かならず多少は人間も改良できそうなものと気づいたはずだ。
さて、西暦851年刊行というから、中国の暦では唐宣宗の時代の大中5年に当たる。アラビア人が書いた『インド・中国航海記』(レノー仏訳、120頁)には、中国の習俗がアラビアとは大いに異なることが記されている。「中国人は同姓とは結婚しない。それは他姓と結婚すれば、生まれる子がふた親に優るからだ」と。
こういう説は、古くからすで『春秋左氏伝』にあったと記憶している。こんなにまで近親婚を忌避した余勢からか、ひいては神鬼霊怪のもののけが婦女に生ませた子は、非凡の器となるという考えが生まれた。そのまた余勢で、馬までも霊物と交わると、最良の種が生じると想像するに及んだらしい。
『大唐西域記』1には、次のようにある。
屈支国(くっしこく)〔現在の中国新疆ウイグル自治区クチャ市周辺に存在した都市〕の東の境にある城の、北の天祠の前に、大きな竜の池がある。そこで諸竜が姿を変えて、メス馬と交わって竜馬を生ませた。竜馬は初めは制御しにくかったが、その子どもの代でやっと馴れて乗ることができた。この国が、良き馬を多く産出するのはこのためだ。
先達にこの話を聞いたところでは、「近き世に金花という名の王様がおった。この王様は政治や宗教に明敏な人で、竜をも感服させて、乗り物にしていたのじゃ。王様がまさに死なんとした時のこと。ムチが竜の耳に触れ、そのために竜はたちどころに潜って隠れてしまいおった。そのまま今に至っているという次第じゃ。ほっほっほ」だと。
城中には井戸がなく、その池の水を取っている。そこで竜は人に姿を変えて、婦人たちと会した。婦人達の生んだ子どもは勇敢で、脚の速さは奔馬に追いつくほどだった。このように次第に変化して、人々はみな竜種となった……。
アラビアの旧伝に、「インドの大王が人を海島に遣わし、王のメス馬をつないでおいた。海からオス馬が出てきてこれと交わり、ことが終わると殺そうとした。その時、王様の使いがわめき立てて、オス馬を海に追い込んだ。そしてメス馬を連れ帰って介抱すると、海馬が生まれたという」とある(ラングレー仏訳『シンドバッド航海記』、1814年、12頁)。
「霊物」の正体がわかったゾ!
『水経注』には、「中神馬というものがいる。家畜の馬がこれと交わると、1日に500里行く駿馬を生む」とする。『大清一統志』には、「江南の金竜池は、深さは測ることができないほどだ。唐の時代の初めに、その中から1頭の馬が出てきて、朝は堤防をひた走って上り、夜は池の中に入る。尉遅敬徳(うっちけいとく)がこれを捕らえた」という(巻80)。
同じく『大清一統志』の350巻には次のように出ている。
『魏書』には、「青海は周囲が千里〔4000km〕余り。海の中に小山がある。毎年、冬になって氷結の後、良い放牧用の馬をこの山に置いておく。翌春になるとこれを収めると、みな身ごもっている。生まれる子馬は、竜種と呼ばれ、かならず駿馬が多い。吐谷渾(とよくこん)の部族は、かつてペルシアの馬を得て、この方法で海の中で育てた。それで一日に千里を行くような優駿が生まれた。世に青海と呼ばれている馬はこのことだ」とある。また『隋書』の「煬帝紀」には、「大業5年〔609年〕、馬の牧場を青海の渚に置いて、竜種を得ようとした。しかし効果がなくてやめた」という。
また59巻には、「陝西に竜の泉がある。毎年春には夜にメス馬を放って、この泉の水を飲ませる。すると、自然と懐妊する。子馬が生まれると、毛はなく立つことができない。フェルトの布でこれを包むと、数日内に毛が生える。3歳にならないうちに、大宛国産の名馬に匹敵するようになる」とある。さらに322巻には、「広西に竜馬の穴がある。言い伝えでは、濃霧の中に怪しいものがいて、馬を追って飛ぶように走っている。その馬が子を生むと、よく走る」という。
こういうのをひっくるめて考えてみるとですナ、およそ次のようなことかと。最初は放牧の馬と野生の馬とが判然と分かれていなかった。もしくは、放牧の馬がしばしば逃れて野生に還った。その時、湖の中の島や、遠く水を隔てた場所などで自活していたけれど、時には水を渡って牧場に戻ってくる。そして生まれたところの子馬たちが著しく良かったので、「海の優駿」とか「海馬」とか「竜駒」とか呼んだのじゃあないのかな。
野生の馬は人を嫌うので、簡単に人目にはとまらない。形を見せないものが放牧の馬を身ごもらせるので、「竜」という霊怪なもののせいにしたのだろう。つまり竜のいそうなところに、野生の馬が棲んでいるというわけだ。古く8尺〔約2.4m〕以上の馬を「竜」と呼んだのも、そのような界隈から起きたことのようだ。
熊野では、外部から隔絶した「ポツンと一軒家」のメス猫が、近所に1匹もオスがいないのに身ごもることがある。それで「これは交尾の結果ちゃうで。ホウキでなでたったら、オスおらんでも子ぉできるんやで」などと信じている人がいた。実は人間にとっては外部と隔絶していても、つがいを求めるメス猫は、それしきの崖や谷をニャンとも思いはしませんぜ。一心に走り回って、オス猫の情を受けて帰ってくる。「知らぬは亭主ばかりなり」ってなもんだ。ネコは木の股から生まれてくるとでも思いたいんかねえ。
そのように、馬が交合せずに身ごもって生むのを見て、初めは「人に見えないように竜と交わっている」と信じていた。それが追い追い、「竜の精を含んだ水さえ飲めば身ごもる」と思った。さらにはなはだしきは、女護が島の伝説同様に、「風に身ごもらせられる馬がいるそうだゾ!」となったということだね。
馬の歩き方、付けたり馬の酒飲み
ということでプリニウスは次のように言っている。
ルシタニア〔現ポルトガル〕のオリシポ城〔現リスボンにある〕あたりのメス馬は、西風が吹く時に西に向かえば身ごもります。生んだ子馬は、極めて速く走るけれど、3歳以上は生きられません。その隣邦のガリシアとアストゥリアス(現スペイン領)には、テルドネスという馬の種類があります。他の馬たちに異なって、同じ側の二脚を揃えて動かし、軽々と歩きます。一般に「四を踏む」という馬の歩き方がありますが、これに倣って教え込んだものだといいます。
熊楠さんに言わせれば、ラクダ、ラマ、キリン、ライオンは、同じ側の二つの脚を同時に進める。しかし、他の獣たちは、いずれも左右の脚が交互前後して行く。人もまた、走ったり歩いたりする時に手を振るのは、右手と左足が遠ざかる時に、左手と右手が近づく。右手と左足が近づく時に、左手と右足が遠ざかる。
馬もまたこの通りなのだから、生まれついてラクダ流の歩き方をする馬があったというのは眉唾ものだ。しかし、教えさえすればそのように歩くこともできる。シリア人は、こういう「ラファン体」で歩く馬を賞美し、右の前足と右の後ろ足、そして左の前足と左の後ろ足をつないで稽古させた。
もっとも、その技に長じた馬は、どれほど姿が醜くて、顔つきも悪かったとしても、すこぶる高値で売れる。人を乗せてこの方法の足並みで疾走すると、手に持っている盃の中の水がこぼれない。ダマスカスを出て、8、9時間でベイルートに着く。その距離72マイル〔約115km〕。その間、高さ数千フィート〔1フィートは約0.3m〕の険しい坂道を2度上下しなければならないとは、驚き入るしかないね。
『甲陽軍艦』16には、「馬にクスリを与えるのに、上戸の馬には酒、下戸の馬には水で飼うべし。馬の上戸は旋毛(つむじ)が下がっている。下戸は旋毛が上がっている」とある。つまり馬ですら、酒好きがおるっちゅうことだ。まして人だったら、なおさらじゃあないですか。プリニウスだって、「ラバが人を蹴るのを止めさせようとするならば、時々酒を飲ませればよいのです」と言っている。まことに名案だけれども、これはラバよりも人間の方に、もっとよく利くやり方だよ。
さらにボクは、かつてアイルランド人に、かの国で最も強く匂うタバコの煙を、ロバの鼻に吹き込んだ話を聞いたことがある。「それが眼を細くして、気が遠くなった顔つきで静まり返るんじゃ。どうやら大好物らしいぞ」とのことだった。バスク人の俗信に、ロバを打ち倒してその耳に口を接して大いに叫び、その声が終わらないうちに大きな石でその耳を塞ぐ。するとロバは深い催眠術にかかったようになって、1時間くらい熟睡して動かないという。
(まつい りゅうご・龍谷大学国際学部教授、南方熊楠顕彰館館長)




