6 すべてが曖昧な世界――トルーマン・カポーティ『遠い声、遠い部屋』
(村上春樹 訳、新潮社、新潮文庫、2026年)
「男性らしく」「女性らしく」という圧力
小さいころのことを思い出してみてください。たまたま公園で会った。それだけの理由で、近所の子どもたちとすんなり遊んでいたのではないでしょうか。もちろん幼稚園生のころも、女子とか男子とかの性別で、なんとなく人は分かれているんだということは知っていました。それでも、そうしたものはそこまで決定的ではなく、一緒にしゃべりたいときにはしゃべり、笑いたいときには笑う。そんな感じで暮らしていたのではないでしょうか。
けれども、小学校に上がるあたりからはっきりと状況は変わってきます。親や周囲の人々、あるいは友人たちから、女子は女性らしくあれ、あるいは男子は男性らしくあれという圧力が徐々に、しかし確実にかかりだすのです。女子なんだったら、あまり人の悪口など言うべきじゃない。ましてや他人に暴力を振るってはいけない。男の子とばっかり外で遊ばず、屋内で他の女の子たちといるように。そして男子だったら、いつも部屋の中で本を読んだり、女子とおままごとをしたりしているのではなく、外でボール遊びなどをしてきなさい。
こうした、女性や男性はこうあるのが当たり前、という枠をいつ、どこで誰が作ったのかはわかりません。けれども気づけばそうした言葉が周囲に浸透してきて、我々をじわじわと追い詰めていきます。多くの人は、そうしたものに前向きに、あるいはいくらかの諦めとともに従っていくでしょう。けれども、どうしてもそのとおりにはできない人もいます。トルーマン・カポーティの長篇『遠い声、遠い部屋』に登場する少女のアイダベルもその一人です。
見知らぬ土地の人々
舞台はアメリカ南部の田舎です。幼いころ両親が離婚し、ずっと母親と暮らしてきたジョエルは、その母親すら病気で失ってしまいます。いったんはエレン叔母さんに引き取られるものの、彼の実の父親だと名乗るミスタ・サンソムから、一緒に住まないかと手紙がきます。貧しいエレン叔母さんがその知らせにホッとしているのを見て、ジョエルは父親のもとに向かうことを決意します。ここは自分の居場所ではない。ならば、まったく記憶にない父親と住むほうがまだましだろう、というのがその理由でした。こうして、トラックやラバの荷馬車を乗り継いでたどり着いたのが、スカリーズ・ランディングという邸です。
人里離れた邸の周りには、村と呼べるほどの人数すら住んでいません。近くに住んでいる子どもは、フローラベルとアイダベルの双子の姉妹ぐらいです。この姉妹が驚くほど対照的なんですよね。フローラベルはいわゆる昔の田舎の少女で、親の言いつけもきちんと守り、家の中のことに興味があるといったタイプです。けれども、アイダベルは全然違う。いつも男の子と遊んでいて、とっくみ合いの喧嘩なんかも日常茶飯事です。言葉遣いも荒々しく、ときおり大人に厳しく注意されます。
第二次世界大戦より前の時代の話ですから、女の子は女らしくあれ、というのは当時、普通の考え方ですね。そして、その普通を疑う人などいない。しかし、アイダベルはジョエルにこう言い放ちます。「自分が女の子だなんて考えたこともないよ。そのことは忘れないようにしな。さもないとあたしたちは友だちにはなれないからね」(『遠い声、遠い部屋』新潮文庫、194ページ、村上春樹訳、2026)。すなわち自分は女の子ではない、と彼女は言っているのです。ならば男の子だと思っているのでしょうか。それも違います。「あたしはね、何があっても男の子になりたいんだ。そうしたらあたしは船乗りになり、それからまた⋯⋯」(同195ページ)。つまり、男の子になりたいと思ってはいるが、いまだ男の子ではない存在、なのです。
アイダベルの性のあり方はとても不安定です。と同時に、この不安定さにはなにか懐かしいものを感じます。幼いころ、男の子になりたいとか女の子になりたいとか、我々はもっと自由に考えたりしていたのではないでしょうか。言い換えれば、男女どちらかの性を選ぶということは、一般的に考えられているほど自然かつ簡単なものではないのではないでしょうか。
もちろんこうした性の揺れは、保つのが非常に難しいものです。アイダベルが家族や他の大人たちから常に、女らしくあれと厳しく言われ続けるというのもその理由です。しかも自分の身体も意思とは関係なく変化していきます。着替えているアイダベルの身体を見て、ジョエルが驚くシーンがあります。「とはいえその胸は既に膨らみ始めていた。そして腰のあたりには、それが横に広がっていく穏やかな示唆が見受けられた」(同196ページ)。女性であれ、という命令はアイダベルの外からも内からもひっきりなしにやってきます。だからこそ彼女はいつも苛立っているのでしょうし、ときに突拍子のない行動へと駆り立てられもするのでしょう。
たとえばそれは、作品終盤に登場するアイダベルとジョエルの家出のシーンです。黙って自宅を抜け出し、近くの町に来ていたサーカスに向かった2人ですが、そこでアイダベルはミス・ウィステリアに恋をします。かつてサーカスに参加するまえ、ミス・ウィステリアはきちんとした家の娘でした。しかし、他の人々とは違って大人になっても身長の伸びない彼女は、自分に見合う相手を見つけられずに来たのです。体格も合い、話も合う相手は彼女にとって常に子どもたちでした。けれども彼らはすぐに大きくなってしまいます。そんなわけで、ミス・ウィステリアはずっと一人きりだったのです。
女性であり男性でもあるアイダベルが、子どもであり大人でもあるミス・ウィステリアに恋をするシーンは、とても切ないものです。そして、固い規範に縛られた一般の社会からかけ離れたこうした曖昧さは、この『遠い声、遠い部屋』という作品全体にちりばめられています。そもそも主人公のジョエル自身が冒頭から、少女のような見た目をしていると描写されます。「少年は顔立ちが良すぎたし、デリケートそうで、あまりに色白な肌をしていた。顔の造作のひとつひとつが繊細な正確さをもって形作られ、少女のような優しさが、そのとても大きな茶色の目を柔和なものにしていた」(同13ページ)。そしてトラックに乗せてくれたラドクリフという男性に、いささか男らしさが足りないと指摘されるのです(同20ページ)。そんなジョエルがアイダベルに強い友情を感じるというのは、自分と共通したものを見て取ったからではないでしょうか。
作者、カポーティについて
こうした曖昧さに満ちた世界を描いたトルーマン・カポーティとは、いったいどういう人物なのでしょうか。1924年にルイジアナ州のニューオーリンズに生まれた彼ですが、ほんの小さなころ両親が離婚してしまいます。母と息子の貧しい生活の中で彼は、アラバマ州に住む親戚のあいだをたらい回しにされました。そうした様子は感動的な短篇である「クリスマスの思い出」などでも扱われています。ようやく母親が裕福なホセ・ガルシア・カポーティとニューヨークで再婚し、正式にトルーマンがホセの息子になったのは1935年のことです。高校卒業後に発表した短篇「ミリアム」で一躍認められ、オー・ヘンリー賞を受賞しました。
そして1948年に、最初の長篇である『遠い声、遠い部屋』で彼はたちまち有名作家となります。その幻想的な作風は、そのころ主流だったリアリズムとはあまりにもかけ離れていたせいで、非常に目立つものだったようです。1958年の『ティファニーで朝食を』は有名な映画にもなりましたよね。作風を大きく転換したのは1966年の『冷血』で、実際に起きた殺人事件を丁寧に取材して書きました。彼はこの作品を自分の造語であるノンフィクション・ノベルと呼びました。カポーティの他の作品はけっこうほのぼのしている部分もあるのですが、この『冷血』だけはものすごく怖いですね。ニュー・ジャーナリズムと呼ばれるジャンルを切り開いた本作で、彼は完全なセレブリティとなりました。
しかしながら、その結果は良いことばかりでもありませんでした。カポーティは有名人にはなったのですが、薬物やアルコールへの依存が悪化して、徐々に書けなくなっていきます。さらに未完の長篇『叶えられた祈り』で、有名な友人たちの秘密を暴露すると、彼は仲間内からも排除される存在となってしまいました。結局、彼は1984年にロサンゼルスで生涯を終えます。きらびやかな才能を持ちながらも、いささか悲しい最期を迎えたと言わざるを得ません。
父親との出会い
さて、『遠い声、遠い部屋』に戻りましょう。はるばる遠い田舎までやってきて、果たしてジョエルは探し求めた父親に出会えたのでしょうか。これは何とも微妙なところです。もちろん彼は到着次第、父親の歓迎を受けるだろうと思い込んで、スカリーズ・ランディングにやってきます。しかしながら、待てど暮らせど父親は姿を表しません。いったいどうしたのか、と邸宅で迎えてくれたミス・エイミーとその従兄弟のランドルフに訊ねますが、誰も彼もが話をはぐらかします。この点ではジョエルにずいぶん親身になってくれる家事手伝いの黒人女性、ズーも同じことです。
ようやくジョエルが父親に会えたのは、この作品も後半になってからです。しかしながら、ちゃんと会えたと言えるのかどうかは分かりません。なぜなら父親は全身が麻痺していて、完全なコミュニケーションなどとてもできない状況だったからです。「数語しかしゃべれなかったし(ボーイ、何故、親切、悪い、ボール、船)、頭を少し動かし(イエスとノー)、片手をなんとか動かせるだけだった(誰かの注意を引くためのシグナルとして、その手でテニスボールを落とすのだ)。すべての喜びとすべての痛みを、彼は両目で通達した。彼の目は夏の窓のように、ほんの時たましか閉じられることがない。それは常に開かれており、眠っているときでさえ凝視を怠らなかった」(同184ページ)。ほとんどALS患者のように体を動かせない父親について、銃で撃たれたからだ、とランドルフは説明しますが、それも本当かどうかわかりません。
もともとジョエルは男らしさを誇る家系の出身でした。南北戦争で勲功を立てた祖父、ノックス少佐が新婚旅行で世界一周したときのトランクを持ってこの邸宅にやってきたことからも、それはわかります。ならばジョエルは父親と会って、母親からは得ることのできなかった男らしさを巡る教育を受けたい、という気持ちもあったのではないでしょうか。けれどもそれは不可能でした。そしてまた、きちんと話し合うこともできない以上、そもそもこの寝たきりのミスタ・サンソムが本物の父親かどうかさえわかりません。生者と死者の間をさまよう彼は常に瞼を開けて、この世界を見つめているだけです。
ここで一つの疑問が思い浮かぶのではないでしょうか。ミスタ・サンソムが寝たきりであるなら、いったい誰が彼の名を騙ってエレンに手紙を書いてきたのだろう。そしてジョエルはその筆跡から、ランドルフの仕業だと見当をつけます。まんまるな、熟した桃のような顔をした彼は、おそらく30代半ばの青年です。ミスタ・サンソムが無理なら、せめてランドルフに「男らしい」父親役をやってもらえばいいのではないか。しかしこれは物語の途中で不可能だと判明します。なぜなら彼はジョエルに、男性に対してしか真の愛を注ぐことはできない、と告白するからです。
ランドルフの孤独な愛
かつてランドルフには、ドロレスという名の女性の恋人がいました。2人でスペインからフロリダに船で渡り、ニューオーリンズに落ち着いたあと、彼らはプロボクサーのペペ・アルバレスとそのマネージャーのエド・サンソムに出会います。このエドこそミスタ・サンソムなわけですが。ペペがドロレスをじっと見つめているのを見て、ランドルフの中で嫉妬の炎が燃え上がります。けれども驚いたことに、その嫉妬の対象はドロレスではなく、ペペでした。やがてその気持ちに気づいたドロレスは、ランドルフが男性しか本当には愛せないことを最初からわかっていた、と打ち明けます。
ランドルフは語ります。「そして愛は地理学とは無縁であり、境界というものを知らない。重しをつけて水底深く沈めたとしても、それはおかまいなしに水面までしっかり浮かび上がってくるだろう」(同218ページ)。当時のアメリカにおいて、男性の同性愛は社会的に許されない、まさに隠しておくべきものでした。けれども隠せば隠すほど、そうした愛はそれ固有の力で、水面にまで浮かび上がってきてしまうのです。
嘘と沈黙で密かに守らなければならない、しかし確実にそこにある愛情。社会においてそうした同性愛がひどく差別されたものであればあるほど、それを抱く人々は孤独にならざるを得ません。「ペペに対する私の愛は、ドロレスに対して抱いたいかなる感情とも違う、もっと強烈にして、また孤独なものだった。でも我々はおそろしいまでに孤立しているのだよ、愛しい坊や。そしてそれぞれに相手から隔てられている。世間の嘲りがあまりに熾烈なので、我々は自分たちの優しさを口に出したり、示したりすることができない」(同219ページ)。
廃ホテルに潜む隠者や、消滅を運命づけられた邸宅が登場するなど、華麗な文体で書かれた幻想的な作品として読まれてきた『遠い声、遠い部屋』において、ランドルフの言葉はあまりにリアルさに満ちています。こうした凝った創作技法は、ランドルフと同じくゲイであるカポーティが選んだ、隠しながら同時に示す、という文学戦略の一環なのでしょう。現代よりはるかにマイノリティに厳しい1940年代後半において、こうした書き方は社会で作品が広く受け入れられる上で必須のものだったのではないでしょうか。
やがてマルディグラの日がやってきて、ランドルフは舞踏会で伯爵夫人に扮装します。「最初、鏡の前に立って、その姿に私は慄然とする。それから恍惚となる。なぜなら私は実に美しかったから。そして後刻、ワルツが始まったとき、何も知らないペペは熱心に私にダンスを申し込む。そして私は、その狡猾なシンデレラは、仮面の下で微笑み、思う。ああ、これが本当の私であったなら!」(同223ページ)。祭りの日にすべての秩序はほどけ、青年は一日だけ美しい女性に変身します。そして心から愛する男性に求められるのです。もちろんこれが幻想だということはランドルフにもわかっています。それでも、ほんの一瞬だけは、すべてが現実から解き放たれてもいいではありませんか。
ここまで考えてきて、スカリーズ・ランディングという邸宅が、ある使命を帯びて存在していることがわかります。社会の中に居場所のない人々が、人里離れたここで身を寄せ合い、常識とは異なる一種の反社会を運営しているのです。その当主であるランドルフは、男性でありながら女性として愛されたただ一日の思い出だけを胸に、過去に浸りながら暮らしています。彼は30代でありながら、すでに未来を諦めてしまっています。そして、邸宅や荒々しい自然に何重にも守られながら、自分なりの愛や美の世界を保っているのです。
ジョエルの出立
そのことはジョエルも感じています。だからこそ、こんなふうに思うのです。「エイミーも、ランドルフも、彼の父親も、彼らはみんな今の時間の外側にいる人たちなのだ。まるで霊魂のように、現在という時のまわりをぐるぐると回っている。彼らがみんな夢のように見えるのは、そのせいだろうか?」(同188ページ)。しかもランドルフによれば、この家は昨年だけで4インチも沈下したらしい。それが本当なら、やがてこの邸宅は住人たちとともに永久に地中へと消え去ってしまうことでしょう。
そしてもちろん、居場所のなさはジョエルも同じです。頼れる身内を失ってしまった彼は、目の前の大人に見捨てられたらどうやって生きていけばいいかわからない、とまで思い詰めています。「ああ、そんなことになったら、これからいったいどこに行けばいいんだ? 見知らぬ土地に行って、きらきらの衣装を着た小猿を連れたオルガン弾きにでもなればいいのか? それとも盲目の子供辻歌手になるか、鉛筆売りの物乞いになればいいか?」(同80-81ページ)。だからこそ、たとえばミス・エイミーに対してすら、ジョエルはお世辞を言って彼女の好意を引き出そうとします。そこには当然、嘘も混じっていることでしょう。言ってみれば、彼にとって嘘や空想することは何より、自分の身を守るための道具であり、命を守る盾にすらなっているのです。
そうしたジョエルの不安は、人と言い争うことへの恐怖にも見て取れます。この邸宅において、彼はどうしてもランドルフと口論することができません。そうした途端にここから追い出されるかもしれないと思うと、結局は自分の意見をしっかりと打ち出すことができないのです。「というのは怒りは、愛よりもっと安全性を欠いたものに思えたからだ。自らの立場の安全さを知るもののみがその双方を手に入れることができる」(同313ページ)。喧嘩したら住む場所がなくなるかもしれない、という思いで生きなければならない子どもというのは何とも切ないですよね。
結局のところジョエルは、依存した存在でいなければならないこの場所から出ていくことを決意します。相変わらず寝たきりであるミスタ・サンソムに別れのキスをしたあと、彼は少年であった自分と決別するのです。「彼は立ち止まって後ろを振り向き、華やぎを欠いた降りゆく暮色を、自分が背後に残してきたその少年の姿を目にした」(同340ページ)。この作品最後の一文に本書のすべてが込められているということができるでしょう。自立した大人として自分の脚でどこまでも行く。たとえ愛する相手が男性でも女性でも、社会の圧力の前でひるまない。引きこもってしまったランドルフと自分は違うのだ。幻想的な作品である本書は、それにもかかわらず、読む者に力を与えます。カポーティの不思議と楽観的な声は、現在でも魅力的に響いています。
(とこう こうじ・アメリカ文学、翻訳家)




