思想の言葉:精神分析と情動をめぐる断章 遠藤不比人【『思想』2026年9月号 特集|情動の哲学】
【特集】情動の哲学
共通なき共通感覚
──アリストテレス,内的触覚,共感覚
宮﨑裕助
命令と棘
──指導者と群衆をめぐるフロイトとカネッティ
山本 圭
情動,政治,「集団心理学」
──ボルク=ヤコブセン再読のために
柿並良佑
原初的な徒党
ミケル・ボルク=ヤコブセン/吉松 覚訳
欲望の主体と不安の情動
──欲望と享楽のあいだの情動論
片岡一竹
情念の帝国
マルク・クレポン/関 大聡訳
雲
──テロルおよびテロリズムが美学と結びうる関係について
サミュエル・ウェーバー/木村 稜+石原 威訳
精神分析と情動をめぐる断章
Ⅰ
『心の革命──精神分析の創造』の著者ジョージ・マカーリは、情動をめぐる理論化こそが、ジークムント・フロイトの心理学を真に「精神分析」と呼ぶに足る言説へと洗練させたことを強調する。同書は、フロイトが複数の先行理論を自らの文脈へと引用し、編集し直すことによって、精神分析に固有の理論的・臨床的射程を切り開いた過程を精密に読み解く。
一九世紀ドイツの実証的・生物学的心理学の特徴の一つは、光や音など外界から到来する知覚刺激が心の内部にいかなる影響を及ぼし、心がそれにどう反応するのかを計量的に測定しようとした点にある。マカーリによれば、フロイトはこの理論モデルを内在化し、刺激の源泉たる外界の位置に「無意識」を据え、それが意識に及ぼす作用の解明を精神分析の根幹とした。ここに浮上するのは、無意識に発する生物学的刺激の「量」が、いかなる過程を経て、意識における心的な「質」へと転化するのかという問いである。この問いに応答するための操作的概念こそ、フロイトにおける情動であった。
無意識の生物学的エネルギーは「欲動」と呼ばれる。情動は欲動を代表=表象すると同時に、その量を意識における質、すなわち意味へと変換する媒介的機能を果たす。フロイトが「翻訳」と呼んだこの過程において、情動は欲動の質的代表となる。したがって情動は、一方では生物学的な強度の痕跡を帯びながら、他方では言語化されうる心的内容へと接続される、境界的な心的現象として想定される。
初期のヒステリー研究において、情動は中心的な役割を担った。ヒステリーとは、抑圧された外傷的な欲動量の過剰が、言語化されぬまま身体症状へと転換される病態である。そこで用いられた「談話療法」は、外傷の過剰を患者が語りうるよう分析家が導くことを意味した。治療が奏功するには、情動が外傷本来の強度を保持しつつ、それを言語化可能な心的な質へと媒介しなければならない。情動は欲動そのものではないが、その生物学的量の残余を帯びている。過去の外傷の情動的強度が、かつてと同様の強さを伴って回帰し、それが言語化されたときにのみ、症状の緩和が期待される。ここに見いだされるのは、欲動の量を相当程度保持しながら、それを意味へと翻訳する情動の操作的かつ媒介的機能である。情動は、身体的強度と心的意味、無意識と意識、生物学と解釈のあいだを媒介することで、初期精神分析の臨床的楽観主義を支えていた。
しかし、フロイトの関心がヒステリーや神経症の治療から、より純粋なメタ心理学へと移るにつれて、情動概念も変容する。その転機を不可逆的に示すのが『快原理の彼岸』(一九二〇年)である。そこで提出された「死の欲動」は、人間の心が自己破壊を享受してしまうマゾヒズム的傾向を前提としていた。それ以前の臨床を支えた「快原理」によれば、心内の刺激量の増大は不快を、その減少と安定は快を意味する。外傷の情動的過剰を言語化によって緩和することは、したがって快に属する。ところが大戦後の「戦争神経症」は、この原理では説明しきれない病態を露呈した。患者は戦場の凄惨な体験を過去として想起するのではなく、それを身体的に再現し、反復強迫するからである。ここでは情動の媒介機能は著しく希薄化し、意味への翻訳に先立つ「死の欲動」の無媒介的な回帰が前景化する(そこに「メタ生物学」を読む評者もいる)。
この経験以後、フロイトの情動論は次第に「不安」へと収斂する。『制止、症状、不安』(一九二六年)において、不安は抑圧された外傷の回帰を予告する心的信号とされる。それは明確な対象をもたず、欲動的強度の直接的回帰に対する反応である。後期フロイトにおいて、欲動の無媒介性が前景化するにつれ、情動の臨床的価値は相対的に低下し、その概念は不安へと収斂していく。ここには、情動を意味への翻訳装置として捉える初期理論から、言語化を脅かす強度の到来を告知する信号として捉える後期理論への、決定的な転換が認められる。
Ⅱ
ジャック・ラカンはセミネール『不安』(一九六二―一九六三年)において、いかにも彼にふさわしい二重否定を用い、「不安には対象がないわけではない」と述べる。ここに認められるのは、不安をめぐるフロイト理論の潜在的可能性を再び開こうとする、ラカン固有の「フロイトへの回帰」である。
この文脈で中核をなす概念は「対象a」である。構造主義言語学を介してフロイトを再編したラカンにとって、主体化とは、主体に先立つ言語の構造、すなわち象徴界に従属することである。意味がシニフィアン相互の差異と連鎖によって生成される以上、その連鎖に包摂されず、そこから脱落する領野として現実界が必然的に想定される。現実界とは、シニフィアンの体系に穿たれた欠如であると同時に、その体系が包摂できない過剰な外傷的残余である。外傷が言説化の不可能性によって規定される点で、ラカンはフロイトと軌を一にしている。
この欠如=過剰は、主体が直接遭遇できない対象である。エディプス的文脈では、それはたとえば、主体化以前に享楽されたと遡及的に想定される母の乳房として形象化される。根源的欲望は、到達不能な対象aとの遭遇を「幻想」の構造を介して実現しようとする。主体は対象aとの遭遇に失敗することによってこそ、それに出会ったと幻想する。欲望を持続させるのは対象の獲得ではなく、むしろ対象との恒常的なすれ違いである。対象aは欲望の対象であると同時に原因でもある。
不安が惹起されるのは、乳房の喪失を嘆くときではなく、むしろそれとの遭遇が予期されるときである、とラカンは講じる。この際、意味の領野を逸脱した過剰な「もの」との遭遇は外傷的であり、不安はその到来を予告する信号となる。この点でラカンはフロイトの延長線上にいる。しかし同時に、不安の対象を対象aとして理論化することで、ラカンはフロイトの信号=不安論を、主体の構造そのものに関わる存在論へと変形した。
フロイトにおける外傷の表象不可能性は、ラカンにおいて、対象aをめぐる否定神学的な存在論あるいは認識論へと練磨された。言説上は「ない」対象が、その「ない」という否定性によって、現実界における存在を逆説的に担保される。この否定性は単なる欠如ではない。それは、象徴界が完全な体系として閉じることを妨げると同時に、欲望を駆動し続ける過剰でもある。後年のセミネール『サントーム』(一九七五―一九七六年)は、この否定性の存在論をさらに洗練していく。
Ⅲ
言説化を逃れる情動的強度について、ラカン派の理論家ジョアン・コプチェクは刺激的な議論を展開している。主体の中核には、言説によって捉え切れぬ欠如=過剰がある。コプチェクによれば、近代の国民国家と資本主義の論理と倫理は、この意味論的空隙を埋めるため、「民族」や「国民」といったアイデンティティを主体がそこに補塡するよう強いる。そこで生じる情動は、根源的不安を解消してくれた国家に対して主体が抱く、一種の「負債」である。国家は主体に帰属の意味を与える一方、その意味を与えられたことへの情動的服従を要求する。
しかしこの議論が逆説的に示すのは、情動が近代の支配的言説へと完全には還元されず、そこに包摂され尽くすことはないという可能性ではないか。主体の中核に存する欠如=過剰は、国家や資本が与えるアイデンティティによって一時的に覆い隠されはしても、最終的に消去されることはない。むしろ、それを完全に充足しようとする企ての失敗が、支配的言説の限界を露呈させる。コプチェクは断じる。「否定性は資本主義が提供できぬ贅沢品である」。
この根源的な否定性は、資本の論理が市場のみならず社会全体を包摂し尽くしたかに見える新自由主義の時代において、批判的契機となりうる。情動は権力によって動員され、国家や市場への帰属を強化するが、同時に、その動員へと還元されない残余を宿す。その残余こそが、現在の秩序を唯一の現実として受け入れることを拒む契機となるかもしれない。
ここで想起されるのが、『残酷な楽観性』のローレン・バーラントが、レイモンド・ウィリアムズの「感情構造」を再読しながら、新たな情動論へと向かったことである。まだ十分に概念化されず、既成の政治言語にも収奪されていない感覚や気分のうちに、歴史的現在の亀裂を読み取るという課題は、精神分析的情動論とも交差する。マルクス主義と情動との関係は、主体を支配へと拘束する情動的機制と、支配への還元を拒む否定的残余との双方を問うものとして、あらためて論じるに値する。精神分析における情動の系譜は、臨床理論の歴史にとどまらず、現代の政治的・経済的秩序に介入するための思考の資源を、なお私たちに提供していないだろうか。




