第6回(完結) 現代語訳 南方熊楠『十二支考』「馬に関する民俗と伝説」 松居竜五
馬類から化粧品や薬を作る
古代ローマ人は、ロバの乳を化粧に用いて、美白によいと信じた。
ところで、皇帝ネロの后だったポッパエアは、権謀術数に富み、淫虐はなはだしいものの、当時無双の美人だった。何かのはずみに、ネロが激怒して蹴ったら、打ち所が悪くて死んでしまった。ネロはこれを神と崇めて祭らせ、古今未曾有の香木を薪として積んで火葬した。ネロは死後もポッパエアを慕ってやまず、美少年スポルスが死んだ后にうり二つなのを見出して、去勢して女装させて公式に后とした……なんて話はすでにしたよね。
そのポッパエアは、ぜいたく三昧のあまり、たくさんのラバに金のくつを履かせた。また化粧に腐心して、新たに子どもを産んだメスのロバ500頭を飼い、毎日その乳に入浴した。そして少し日が経つと、すぐに新しいロバと取り替えた。ローマの婦女の全員がそのマネをするというわけには行かないので、化粧品屋の工夫で、ロバの乳を脂で固めて、鬢(びん)付け油のような板にして売ったという。
タヴェルニエの説として、東ヨーロッパのノガイ人は、馬肉や馬の脂を熱して金傷(かなきず)に付けて効果があるという。ローマ帝国の全盛時に、興奮剤として最も尊ばれた「ヒッポマネス」(馬が狂うという意味)は、考古学者も科学者もやっきになって研究しているけれど、今だにその正体がわからない。ボクも去年、イギリスの碩学から、「東洋にもそんな物はないかね」と問われて、いろいろと調べたけれど、手がかりも見出せない。
古書に載せられたヒッポマネスには二種類ある。一つはメス馬が色気づいた際に身体から出る粘液を採って、呪文を唱えながらさまざまな霊草と混ぜて薬とするものだ。ウェルギリウスの『農耕詩』3巻には次のように詠われている。
春風駘蕩(しゅんぷうたいとう)ってな日に、メス馬は欲情して身を焦がす。そして高い岩に飛び上がって、西に向かってやわらかな風を吸い込む。すると不思議や不思議。しばしば馬が風に孕ませられることがある。メス馬は狂おしくなり、高い岩山や急流の深い谷をものともせずに飛び越え、飛び越え、駆け回る。この時ヒッポマネスが馬の身体より流れ出るという。
パウサニアスの『ギリシア旅行記』5巻27章には、次のようにある。
オリンピアの神殿には、フォルミス・メナリウスが献納した二つの真鍮製のメス馬の像がある。その一つに、術士が魔法をかけた。すると、春の日だけでなく、何日何時、どんなオス馬でも、この像を見れば発狂し、手綱を切って主人から離れてこの像に飛びかかってやまない。あたかもなじみの美しいメス馬に再会したごとくに、激しくムチで打つなどの非常手段を講じなければ、引き分けることができない。
二種のヒッポマネスのうちのもう一つは、よく新産の子馬の額に生えているコブだ。これは色はなくて、イチジクくらいの大きさで、毒がある。子馬が生まれてから、このコブがあると、母馬がすぐに食ってしまう。そうしないうちは、決して乳をふくませない。村人は、手を尽くして母馬が食わないうちに、切り取って方士に売る。母馬がこれを嗅ぐと発狂するという。
これは「子馬の臭いを嗅いで発狂するほど母馬が慕っているので、そのコブを持つ人も他人から慕われる」という迷信から、媚薬として珍重したらしい。キュヴィエはこれに関して、「メス馬の羊水の中に時々ある石の塊で、獣たちの母が産後に胎盤を食ってしまうのと同様に、本能から食い尽くすのでしょう」と言っている。これら二つのヒッポマネスのうち、前者の液状のものよりも、後者のコブ状のものの方が強い効き目があるという。
東洋にヒッポマネスはあるのかな
この話は、中国の書籍には一向に見えないけれど、やや似た例はある。「青
(せいふ)」という虫は、極めて子を愛していて、人がその子を取って帰って、どれだけ隠しても、どれだけ遠く隔たっていても、母はかならず突き止めてくる。そこから考えて、「母の血を銭に塗り、子の血を別の銭に塗る。それからいずれか一方を留めて、一方を使うと相慕って寄り合ってくる」というのが高誘(こうゆう)や葛洪(かっこう)が考えた説だ。ただし『異物志』は、「この虫はオスとメスとが離れない。だから法術を使ってこれを制して、雌雄の血を銭に塗る。そして昼間に買物をすると、夜になって銭が戻ってくる」としている。
ユウェナリスの詩に、「カリグラ帝の狂死やネロ帝の諸悪は、いずれもヒッポマネスを使ったことから起きた。これらの大騒動も、帰するところは一頭のメス馬の身から出たものだ」とある。まあ中国でも、少女の最初の経血から化粧に使う「紅鉛鉱(こうえんこう)」ができるんだとか、幼い男女の尿から建築材の「秋保石(しゅうほせき)」を練るんだとか、バカげたことを言っているからね。新生児の胞衣を「混元毬(こんげんきゅう)」と称して、至高のおタカラとするなどというのもある。やんごとなき人の寵愛を受けようとして、この薬を高値で買って、服用して死んじゃった、なんて人もいるくらいだ。『五雑組』などにはそういう話が満載だよ。
先日の『大阪毎日新聞』に、近藤廉平氏が「強壮剤は人参が一番だあ!」という実験談を語っている。世界大戦のせいで、外国の薬品が輸入できなくなり、伝統の人参がたちまち評判を回復したようだ。実際に効き目があることは、ボクも知っているし、それを裏付ける三好博士の論文も拝読した。とは言え、長年にわたってこれを珍重してきた中国でさえ、強壮剤として乱用することの弊害を論じた人も多い。まあ「薬がないのは、名医に診てもらっているようなもの」ということで、なくて済む人は用いないのに限るんじゃないかな。
さて「東洋にはヒッポマネスの話はあるのかね」という質問に戻ろう。モンゴル人は、火急の用事が出来すると、10日間もろくに食事せずに馬に乗り続ける。その間、乗っている馬の静脈を切り裂いて、ほとばしる血を口の中に受けて飲み干して血を止めるだけだという。それで他の飲食なしに済ませるそうだ(ユール編『マルコ・ポーロの書』初版1巻229頁)。
こんな秘策があるからか、道教では「尹喜は穀物を避けて、三日に一度米の粥を食って白馬の血を啜(すす)った」(『弁正論』2)などと言う。また「黄帝は甘露を飲んで
(きょきょ)の干し肉を食べた」とある。「
」はオスの馬がメスのラバ〔ロバの誤りか〕に生ませた子のことだ。これはオス馬とメスのロバの混血である「
(けってい)」(前に書いたように燕王が蘇秦に食わせたもの)と同じく、至高の美味らしい。これらの他に、霊薬を馬から採ることは、道教の書には見えないようだ。
人間と自然をつなぐエロの世界
一昨年の大正5〔1916〕年12月の雑誌『風俗』に、林若樹君が「不思議な薬品」という一文を出している。その中で、本邦最古の医書である丹波康頼の『医心方』から、奇妙な処方の例が挙げられている。馬乳、白馬茎、キツネと犬の陰茎というようなものだ。
40年ほど前、ボクが本草学を学んでいた頃は、京阪から和歌山、田辺まで(ということはたぶん全国いたる所)の生薬屋に、馬、牛、猿、カワウソ、キツネ、タヌキ、犬、鹿、クジラ、また特にオットセイの「タケリ」すなわち陰茎をミョウバンで煮て固めて防腐して乾かしたのを売っていて、別段不思議とも思わなかった。ボクも有名な漢方医の先生の本草品を譲り受けて保存している中に、今でも多少残っている。製薬学としては貴重な参考資料なので、そのうち上京する際に携えて、東京帝大に寄贈しようと思う。
当時、大阪の大きな薬品店の番頭あたりに聞いた話では、こういう品には、それぞれ独特の香気がある。それを粉にして、もっぱら香水や鬢付け油に入れたということで、「媚薬」と言えば奇異に聞こえるけれど、取りも直さず芳香性の興奮剤だね。オスの動物がメスの心を引くために、身体から出す麝香(じゃこう)や霊猫香(れいびょうこう)やオットセイやワニの香などということになる。それを、未開人や半ば未開の人たちが強い効能を持つ媚薬だと尊重したり、欧米人もまた興奮剤として香水などに入れたりするわけだ。
およそ「媚薬」というものは、もともと医学と魔法が分かれていなかった時、半ば学問、半ば想像に基づいて盛んにおこなわれた。いや今だって、国内外の新聞を見れば、この類いのものが薬用と香料の両方入り交じったものとして使われていることがわかるよ。まあ、形が似ているものは、それぞれ互いにその力を及ぼすということで、類感呪術というヤツだね。
国文学の世界で「正典」とされる『土佐日記』では、筆者の紀貫之の一行が土佐を出てから、海上のタブー(斎忌)を厳しく守ることが描かれている。日数を経て、ようやく室津(むろのつ)に着いた時のことだ。
女たちはそれぞれ水浴をしようと、ちょうどよい場所に下りて行った……。何の葦影に託して、「ホヤ」の連れ合いの「イズシ」で「すしあそび」をする。思わず着物をまくって足が露わになった。
従来、この文章は難解だとされてきた。それを谷川士清(たにかわことすが)が『鋸屑譚(おがくずばなし)』で初めて解読してみせた。「ホヤ」は仙台などの海に多くて、科学上は魚類に近いものだけれど、外見はナマコによく似ている。イズシは「貽貝(いがい)」のスシで、南部の方言では「ヒメガイ」または「ニタガイ」という(『本草啓蒙』42)。漢字では「東海夫人」と名づけられている。
これらはすべてその形に基づいて、名が挙げられている。アワビを同じように見立てることは、喜多村信節(きたむらのぶよ)の『
庭雑録(いんていざつろく)』にも見える。さらに岸本由豆流(きしもとゆずる)が「何の葦影に託して」の「何」は「河」の誤写だという案を出したので、いよいよ意味が明らかになった。
つまり貫之は「男がするという日記を女もしてみせよう」と言っているように、終始、女の気持ちになって、おかしみを叙述している。ここも、水を渡るために足を露わにしたところ、思わず「ホヤ」の妻である「貽貝」やアワビのようなものの姿が、葦の影の間の水面に映った。まさに女にしか出せない滑稽味を表現しているとわかったということだ(『しりうこと』第5)。
さまざまな強壮剤と媚薬
さてむかし、わが邦で子どもが欲しい人たちが渇望した「肉
蓉(にくじゅよう)」というものがある。これは『五雑組』11に次のように紹介されている。
馬の群れの精液が地面に入って生じる。皮は松のカサのようだ。その形は柔らかくしっとりした肉のようだ……。これが陰の気を得ると、ますます強壮の性質を帯びる。これを採って薬に入れたり、粥を作って食べると、子どもができるようになるという。
また健康への効果がその百倍もあるという「鎖陽(さよう)」は、野生の馬あるいはミヅチ竜の精子から生じる。これも似たような伝説があると『本草綱目』に出ている。
ニクジュヨウは日本では産せず、従来は富士や日光の山々の「サムタケ」をこれに当てていた。金精峠(こんせいとうげ)の金精神がこれによって子を授けてくれるなどと信じて、「肉
蓉」の二字を略して「御肉(おにく)」と尊称した(『本草図譜』1、坂本浩然『菌譜』2などに図あり)。
本当のニクジュヨウは「御肉」と同じハマウツボ科に属しているが、別物だ。学名をフェリベア・サルサといい、西アジア、モンゴル、ズンガリアに産する。「鎖陽」はツチトリモチ科のシノモリウム・コクネシウムで、モンゴルの砂漠に生じる(ブレットシュナイダー『中国の植物学』3)。
いずれも、生態が菌類によく似た密生草だ。野生の馬が群れをなしている地域に産するから、馬の精液から生じたと言われた。キノコと同じように、一気に発生する。そこで「無夫之婦(むふのふ)」、つまり夫はいないのに子どもだけ生まれる、などという名が付いた。
ボクが中国を旅行した多く人から聞いたところでは、中国の内地で金もうけするには、媚薬とか強壮剤に限るらしい。現に日本をはじめ、南洋の諸地域からは、ナマコや「東海夫人」と呼ばれるイカ、アワビなどを、その種が絶えるまで採っては、中国に売り込んでいる。中国人は子どもを生むことを人間としての第一の義務と心得ているから、これらはそれを請け負ってくれる霊物だと確信されている。そこで、これほど重要な貿易品となったわけだ。
しかしこの点について、わが邦の人が中国人を笑うことはできないよ。江戸時代に毎年莫大な金額を外国に渡して買っていた薬品は、表向きは厚生のために必要ということになっていた。しかしその大部分は、長く続く太平の世に慣れて、やりたい放題の無数の人たちが、精力増強や回春のためのドラッグとして用いたものだ。それで素性も知れないようないい加減な品物に大金をつぎ込んだ。
たとえば中国から毎年、大量に輸入した「竜眼肉」という果物は、滋養強壮の妙薬ということで、部屋でゴロゴロしながらこればっかり食っていた貴族や金持ちが多かった。それが明治維新後になると、漢方医学が廃れて、一向にこの果物が売れなくなった。カビだらけになってどうしようもないので、大阪でも東京でも露天商にその効能を面白く弁じさせて、二束三文で売らせた。それでもさっぱり捌けなかったらしい。
ちょうど同じ頃、大阪のサメ皮を売る商店でも同様のことがあった。廃刀令以降はサメ皮がクズ同然の値段になってしまったからね。そこで、やむをえず、むかしは高価な貴重品だったサメ皮を、酢でトロトロに煮込んで、壁を塗るための材料として売った、というようなこともある。さしもの仙薬や宝玉のように尊ばれた品物も、いったん時世の変化があれば、こんな風にクソみたいに値段が下がるモンなんだよ。
ニッポンはだいぶ損をしているゾ!
江戸時代の日本では、刀剣を尊んだことに関連して、サメ皮を観賞することが多かった。『鮫皮精義』などの専門書もある。中国、ジャワ、インドシナ、インドなどの諸国の産品をおびただしく輸入しているけれど、ボクが以前調べてみたところでは、中でもペルシア湾のサメ皮が、日本では最も尊ばれていたことがわかった。
一方、タヴェルニエ『ペルシア旅行記』四巻一章には、「17世紀にペルシア人は、ヨーロッパとペグー〔現在のミャンマー・バゴー〕の銅を重んじた。しかし最も高く評価されたのは日本の銅だった」とある。これを合わせて考えると、日本の銅とペルシアのサメ皮を直接に交換していたら、どんなに良かったことか。しかし当時は両国の間に通商はなかったので、中間に立ったオランダ人たちに、みすみす莫大な利ザヤを取られてしまった。ボクはそのことが悔しくてならないよ。
さて人間にほれ薬があるなら、畜類にもそんな物があるはずだという想像から出た話がある。肥前の平戸から三里ほどの生月(いけずき)島に、古来、馬の牧場がある。かつて源頼朝の乗った名馬「いけずき」がここで生まれたという。里伝に、この島に「名馬草」があって、メス馬がこれを食うと、必ず名馬を産むと言われている。しかし絶壁に生えているために、馬がこれを求めて、よく落下して死ぬという(『甲子夜話』続編57)。その前文から推察すると、この場所はとても危険で、馬がしばしば足をすべらせることから出た話らしい。
話は戻って、ボクが外国にいた頃、明治維新の前の外国との通商とその商品について何度も調査したことがある。その結果、ほぼさっき述べた通り、媚薬とか閨房(けいぼう)〔寝室〕の薬とか、実際には緊急の役に立たない物のために、おびただしい金銀を外国に取られたということがわかった。そこで遅まきながら、なんとかその腹いせができないものかと、考えに考えて、一つの策に思い至ったので、紹介してみよう。
ボクは若い頃、真言宗の金剛界マンダラを見て、何のことかわからなかった。イギリス滞在中に、土宜法龍僧正から『曼荼羅私鈔』をもらって読みかじってみた。すると、「塔中三十七尊」を記した中に、「阿
(あしゅく)」、「宝生」、「無量寿」、「不空成就」の四仏が「嬉(け)」、「鬘(まん)」、「歌(か)」、「舞(ぶ)」の四菩薩を流出して大日如来を供養したとある(『内四供養(うちのしくよう)』。
これに対して、大日如来はこの四仏を供養するために「香(こう)」、「華(げ)」、「燈(とう)」、「塗(ず)」の四菩薩を流出した(『外四供養(そとのしくよう)』)。
このうち最後の「塗」については、「不空成就仏は、塗香をもって供養する。釈迦は現世に出て、衆生を救おうと、汚濁にまみれた世界に親しまれた。そして塗香を使って汚濁を清めた。そのために塗香をもって供養するのだ」とあった。これで、「香菩薩」は「焼香」、「塗菩薩」は「塗香」によって供養するという意味だということがわかった。
「塗香」というのは、ざっくり言うと、英語の「アングエント」unguentに当たる。医学上の立場からは「アンクション」unction、宗教上は「アノイティング」anointingと言うらしい。油脂やバターなどを身体に塗って、邪気を避けて病毒を防ぎ、また神さまのご加護を得て心身を清浄にする。
熱帯地方の人たちは、これを日常的に必要不可欠のマナーとしている。ブタの脂などを塗っているのを他の地域の人が笑うと、しっぺ返しに「オマエらはこれを塗らないから悪臭を放つんだ」とさげすまれてしまうのを、ボクも何度も見聞きした。それもそのはずで、裸で生活していると毒虫に刺されやすい。また気温が変わるごとに感染症にかかって発熱するような場所も多い。こういう塗料を追い追い改良して、さまざまな香料を加えて化粧品としたのが「塗香」で、諸宗教の威厳を増すための小道具としても用いられるようになったのだ。
ただし『ブリタニカ百科事典』11版1巻の「アノイティング」(塗油)の項目に、「どの宗教、どの人種の儀式でも、みなこれを用いる」としているのは誤りだ。わが邦にはこの習慣はない。仏教の修法として香湯に入浴することは聞くけれど、油脂などを身体に塗った話は聞いたことがない。
しかるに後世、髪を結う習慣が大いに発達して、「鬢付け油」ができた。付けるところは異なるけれど、その性質は「塗香」と兄弟みたいなものだ。材料や添加物に外国の品が多いことから推察すると、もともと外国の髪脂や塗香の習慣から転成したものらしい。しかし追い追い、西洋風の髪型がおこなわれるようになると、鬢付け油の利用は少なくなった。したがって、むかしのように種類も多くはないし、残った製品もずいぶん劣化してきている。
そこで、ボクは当時ヨーロッパに視察に来ていた商人たちに、次のように大いに勧めてみたんだ。
ここは一つ、災い転じて福となすで行こうじゃありませんか。鬢付け油に関する口伝や秘訣などが失われてしまう前に記録を残すべきです。さらに塗香を多く使っている国々の実態を視察して参考にして、極めて上質で高尚な塗香を作るんですよ。そうすれば、わが邦には「調香」という世界に冠たる芸術があることを示すこともできます。同時に、ブタや魚の脂なんかよりはずっと優れたものを至って安価に製造して、売り込むんです。むかし搾取された大金を取り戻すには、これしかありません!
さらに、同時にマレー人などのために、「サロング」(腰巻き)を安く美麗に作って持ち込めとも説いてみた。ま、そんなことは誰も聞かんわね。「孔子さまも時勢には勝てません」というヤツだ。
その後10年ばかりしてから、サロングに関しては、輸出を試みた人がいたと聞いた。しかし塗香のことは、いまだに誰も気がつかないんだろうね。手を出した人がいるとは聞いたことがない。
西洋人は香りがワカラン
さて「無用の用」ということで、媚薬にもさまざまな種類がある。中国では吉丁虫、日本では玉虫やオシドリの思い羽を、婦女が身に帯びたり、鏡箱に入れたりする習慣がある。これらの生きものも媚薬で、はなはだしいものは劇薬として、ヒッポマネスのように人を殺すものもある。
いずれも美しい虫を身につけている人の容姿が艶やかになるとか、もっこりした根菜を食べると精がつくなどという、類感呪術に基づいて大いにおこなわれた。しかし今日では、いろいろ経験した結果、表面ばかり似ている物同士の間には、かならずしも何かの縁や感応力があるわけでもないとわかった。そこで、こうした媚薬はお笑い草となり、未開の社会以外では使われなくなった。
とは言え、芳香を特徴とする媚薬は、実際に人を興奮させる力がある。だから回春薬としては利かないとしても、興奮剤として適宜用いれば、和悦享楽の効能はかならずある。だいたい光線とか音響とかとは異なり、香りと味は数値で計測しがたいから、今日の科学では十分にわからない。したがって、欧米人は「嗅覚と味覚の二つは、視覚と聴覚の二つよりも劣等でございます」とか、「香りと味は、絵や彫刻や音楽のように、あまねく一般に示すことができませんね。だから芸術にはなり得ないのです」とか言う。それは、わが邦の香道や茶道を知らない者の言い草で、一向に話にならない。
また動物のうちのあるもの(たとえば犬)は、嗅覚がはなはだ精密だ。人間も未開民族や、他の感覚を失った障害者は鼻で多くのことを理解するから、鼻のニブい者ほど上等民族だなどという。だけどこれは、たとえばビーバーのような動物は平等社会だから、君主政治の方が上等だなどと言うのに等しいんじゃないかな。それと同時に、アリや蜂のような昆虫は君主制だから、平等社会の方が上等だとも言い得ることを忘れた暴論でしかないんだよ。
若い頃の竜樹は壮大にヤラカシた
竜樹菩薩は、寛平年間〔889~898年〕に出た藤原佐世(すけよ)撰『日本国現在書目録』に、『竜樹菩薩和香方』一巻と出ているように、香道の祖とされている。それもそのはずで、この大士ほど、香りから大騒動を引き起こして、その結果、大きな感化を受けた者はない。『法苑珠林』53には、竜樹の経歴が次のように語られている。
南天竺国の、バラモンの階級の大富豪の家に生まれた……。若い頃から名が知られていて、ほしいままに諸国を渡り歩いて、天文、地理、占星術、と精通していない分野はなかった。友が三人いた。みな容姿端麗の秀才だ。一緒に議論して次のように結論した。「天下の道理と正義は、この世の神秘を悟ることにあるっ。深遠なる思想を究明することにあるっ。知識と理解を広げていくことにあるっ。オレたちはこんなことは、すべて極めたゾ。これ以上の楽しみをどこに求めるべきかっ」。
またこんな風にも言った。「世の人は心のままにハメを外した生活をしておるっ。そして欲望を満たすことだけを追い求めておるっ。もちろんそれは、この世の最高の快楽ではあるっ。だからみな一緒に姿を隠すクスリを求めるべしっ。それができれば、目的は達せられたも同然だあーー」。それを聞いて、一同は「いいぞ。その通りだあーー」と叫んだ。そこで方術の使い手のところに行って、姿を隠す方法を学ぼうとした。
方術師は思った。「コイツら四人の若いバラモンは、ちょっと頭が回るからと、相当いい気になって他人を見下しとる。今は方術を学びたいから、下手に出てワシに教えを乞うてきた。じゃがコイツらの研究もかなり進んで、あとはこのアブナい術を残すのみじゃ。これを教えてしまえば、ワシなんか見向きもしなくなるじゃろ。しばらくは例のクスリだけ与えておいて、この術は教えないでおこう。クスリが切れたらかならずやって来るから、また長いこと先生づらができるはずじゃ」。
そこで学生たちにクスリを一粒授けて、次のように告げた。「キミたち。このクスリを使ってみなさい。まず水にこれを溶いて、まぶたに塗ったら、姿を隠すことができるようになるよ」と。それで先生の話を聞いて、学生たちがこのクスリを溶いた時、竜樹はその香りを嗅いで、すぐにそれが何かがわかった。そして成分を分析してみたところ、少しも間違うことがなかった。そこで先生に詳しくその結果について報告し、成分は七十種からできているとして、その名と量を当てた。
先生は聞いて驚愕して、「なんでそんなことがわかったんだ」と問うた。竜樹は、「先生も知っておいた方が良いと思いますが、クスリというものは、各成分にそれぞれ固有の香りがあるんですよ。これがわかれば、特に不思議なことはありませんよ」。先生はその言葉を聞いて、「こんな学生は初めてだ」と思い、次のように考えた。「こんなのはかつて聞いたこともない。こんな人と出会えたのは僥倖だ。術を惜しんでいる場合じゃないぞ」と。
そこでその術について、全てを四人に授けた。四人がそれを使ってこのクスリを調合したところ、自分で自分の身を隠して自由に行動することができるようになった。そこで連れだって、王さまの後宮に入った。宮中の美女はみな襲われて、百余日の後、懐妊する者が多く出た。そこで王さまに何があったかを話して、罪を免れることを乞うた。王さまはこれを聞き終わって、たいそう不快に思った……。
その時、ある家臣が王さまに進言した。「だいたいこういうことの理由は二つ考えられますな。一つは怪異、一つは方術です。細かい土をすべての門の中に置いて、守衛に人の出入りを禁じさせるのがよろしいかと。もしこれが方術であれば、その足跡がかならず現れます。怪異であれば、きっと足跡は残りません。人であれば兵をもって退治し、怪異であれば、祈祷して退治しするのがよいでしょう。王さまはその計略を採用し、言われた方法を使って実行させた。すると四人の足跡が、門から入るのが見えた……。王さまは勇士数百人を動員して、刀を空中に振るわせて、三人の首を斬った。
しかし王さまの近くの七尺〔約2.1m〕以内には、刀が届かない空間があった。竜樹は身を潜めたまま、王さまの側に立っていた。ここまで来て、やっと悟ることになった。「ワタシは自分から苦を求め、徳に背いたふるまいをしてしまった」と。そして自分に誓った。「もしこの窮地を脱することができたら、すぐに仏門に帰依して、出家の法を受けるしかない」と。その後、世を捨てて山に入り、一つの仏塔に至った。そこで現世の愛欲を断ち切り、出家して仏道を修めた。九十日で世界のあらゆる経典を読み、そのすべてを記憶した。それから竜宮に入って、深奥の経典を得て、大乗仏教の祖となって大いに仏法を興したという。
中国では、線香を焚いて人事不省に陥らせて盗みをおこなうヤカラがいるんだよ。それと同じで、ここに出てくる「身を隠す香薬」というのは、特異な香りを放って、守衛を不覚にして宮中に入ったものだろうね。
香りの文化は深いなあ
日本の戒律宗の祖である鑑真は、唐からたくさんの薬物を持って来た。失明後もよく匂いを嗅いで真贋を判断し、火葬の時には不思議な香りが山に満ちたという。元興寺の守印(しゅいん)という人は、法相と倶舎(くしゃ)を兼学した名僧で、不在中に来た客が誰だったかを、鼻で知ることができた。勝尾寺(かつおうじ)の証如(しょうにょ)は、行った先の家に不思議な香りを残し、臨終の際には香気が一面に漂った。その他、名僧や名人には、生前や死後に、身体から妙香を出したという伝が多い。それは、その人たちの香道のたしなみが深くて、生前からちゃんとその用意をしていたからだろう。
木村重成(きむらしげなり)などのように、決死の出陣の際に、香で身を薫じた人も多い。はなはだしいのは平定文(たいらのさだぶみ)の話だ。容姿は言語に尽くしがたく、「人の妻や娘でもそうなのに、まして宮中に上がる人たちは、この人に言い寄られない者はなかった」(『今昔物語』)。しかるに、本院の侍従にだけは、思いを遂げることができなかった。その人の欠点を見つけて、思いを断ち切ろうと考えたけれど、何一つ欠点があるとも聞かない。そこで、その排泄物を捨てに行く箱を奪ってみた。するとチョウジの煮汁を小便、ヤマイモに香を合わせたものに筆の軸を通して大便に擬してあった。その用意の細かさに感じ入り、「何としてもこの人に会わなければすまされない」と思い迷い、恋い焦がれながら死んだと見える。
こんなのを読むと、むかしの日本人の香りに対するたしなみが格別だったことがわかる。今日の、便所に行っても手を洗わなかったり、朝起きて顔を洗わずコーヒーを口に含み、歯クソをすすぎ落として飲んでしまったりする西洋人とは、大違いだということを知っておかなきゃね。
ただし、とても古くに香の知識が発達したのは、まずアジアの大陸諸国だ。中国の『神農本草』には、早くも「香剤」が多く収録されている。『詩経』や『離騒』には、「芳草」のことがしばしば書かれている。亡き人を呼び出したり、仙人を招いたりするために名香を焚くという記録が絶えない。
1781年にビルマに滅ぼされたアラカン帝国〔現在のミャンマー西部〕は、最盛時には国中に十二の宮殿があり、十二の都市に分かれていた。それぞれの都市の知事は、毎年、良家で新しく生まれた女児を検査し、最も美しい者十二人を選ぶ。そして宮殿で養って歌舞を習わせ、十二歳の初めに王宮に送って、伝統的な試験を受けさせる。まず、娘たちを水浴させて、新鮮潔白な絹の衣を着せる。高い壇に上って早朝から日中まで立たせておくと、熱帯の国の強い日光に曝されて、汗が絹の衣に染み通る。
一々、それを新しい衣に着替えさせて、汗でうるおった絹衣を王さまに献上する。それには、事前にそれを着た本人の住所と父の名を書き付けてある。王さまは、一つ一つこれを嗅いで、汗の香りの良い娘は強壮なことがわかっているから王宮に入れる。良くない匂いのものは、その絹衣を家臣たちに渡す。家臣たちは、それぞれ王さまからいただいた衣に書き付けられた名の娘を妻として連れ帰った。だから、アラカンの王は、代々、美貌よりも香りが良い女を貴んだっていうことだ(ラムージオ『航海・旅行全集』1巻316頁)。
インドでは、女を身体の香臭によって四つの等級に分ける。最上はレンゲ、その次は他の花、次は酒、次は魚だ(ラ・メーレス仏訳『カーマ・スートラ』14頁)。愛の神であるカーマは、五種類の香り高い花で飾った矢を放ち、人に愛欲を起こさせる。その第一はキンコウボクの花だ。これは人の心をとろかしてしまう。だからこの花の下でパーティをおこない、青年の男女が歌い踊って誘い合う。
大日如来が「香」、「華」、「燈」、「塗」の四菩薩を出して、四仏を供養することは、すでに述べたよね。『維摩経』には、「聚香(しゅこう)世界に住む香積仏は、微妙な香りで衆生を教化する」とある。その世界の菩薩たちは、「娑婆(しゃば)と呼ばれるこの世界では、衆生があまりにも鈍感なので、お釈迦さまは説得力のある言葉を用いて伝道されているのです」と聞いて、あきれるという一段がある。最近の昆虫学では「アリは香りを出してコミュニケーションしていて、これは一種の言語のようなものだ」と主張する学者もいたから、まるで「聚香世界」みたいだ。
ともかく、こんなことを実行し、こんなことを記録してきた東洋人には、西洋人よりはるかに優れた香りの知識があった。自分たちにはわからないことを、「下等だね」とか「野蛮ですわ」とさげすんでいる現代の西洋の文化は、ある点では退化を始めているのかもしれないね。とは言え、以前はさっぱり取るに足りないように評していた日本の三味線が、音楽の最も発達したものの一つだと認めたり、日本の香道をわからないながらに立派な芸術と見る論者も西洋には出てきている。だから、西洋人はみんな揃ってアホってわけでもないらしい(『ブリタニカ大百科全書』11版、「芸術」と「音楽」の項目参照)。
もうちょっと日本における香道のハナシを続けるよ
古代の日本人は、もっぱら水で洗ったり水につかったりして、身を潔めた。しかし、香水や薫香などで身を調えたことは、あまりないようだ。
実は清浄の点から言えばそれが良いに決まっている。古代・中世のヨーロッパ人は、身体を露出することを罪として、むやみに香水を使って垢を増やすだけだった。身体を少しも洗わないどころか、聖人の伝記などでは、入浴しない年数を記して、多いほど尊いとしていたくらいだ。だから3世紀の疥癬(かいせん)の大流行などは自然の成り行きだ。「キュテーラやパーシヴァルやトリスタンやイゾルデなど、その当時は称揚されていた美男美女は、いずれも身体を洗ったことのない浮浪者みたいな人物だった」とミシュレは言っている。
日本に「調香」の知識が開けたのは、中国やインドの文物が輸入されたことに始まったようだ(『仏教大辞彙』一巻「香」の項目、久米博士『日本古代史』八二節「推古帝菟田野(うだのの)の薬猟(くすりがり)」の項目)。それが追い追い発達、改善されて、世界で最も精妙な香道となった。とは言え、調香の主な材料に、常に外国品が多かったことは、『薫集類抄(くんじゅうるいしょう)』などからわかる。いずれも日本ヘの移植ができないもののため、やむを得ないことだった。
ただ、「鉄漿(かね)」や「蓴汁(じゅんじゅう)」など日本で間に合う物は自国産を用い、だんだんと以前は用いなかったクジラの糞なども使われるようになった。『徒然草』には、「『甲香』というのは、タカラ貝に似ているけれど、小さくて口のあたりが細長く突き出た貝のフタだ。武蔵国金沢の浦にある。土地の人々はヘナタリと呼んでいるらしい」とある(『鎌倉攬勝(らんしょう)考』附録に図あり)。
その頃までは国産のものはないと心得て輸入品を用いていたけれど、ようやく右の地で探し出したものらしい。古人の苦労の跡を察すべしだ。「甲香」は、このヘタだけを焼けば悪臭がするが、いろいろな香と混ぜて焼くと良いニオイがするので、香合わせには必須だ。ベイカーの説として、こういうヘタは紅海にも産する。ある海藻とともにいくつかの香と合わせて焚いて、その煙で婦女の身体をふすべると、ネコにマタタビてな具合で男子が引きつけられて、寄って来るという。
ここまでは上流社会でおこなわれた「香道」の話で、絵で言えば「土佐派」とか「狩野派」といった四角張った部分になる。しかし鬢付け油の匂いに至っては、もっぱら中流・下流の社会を当て込んで作っていて、ちょうど浮世絵のようなものだ。下品と言えば下品だけれど、同時に人に感受される力も強くて、またわかりやすい。
鬢付け油というのは、口伝や秘訣などから考えてみると、南国の「塗香」と兄弟のように近い。だからボクは、鬢付け油を外国の国々の好みに応じて作りだして、売ってみたらどうかと人々に勧めてみたわけだ。その調剤のやり方について、さまざまに聞き書きしたり、考えてみたりしたこともある。
ところが、ボクの家系は代々長生きなんだけれど、父は、よせばいいのに一代で事業を興して、割合に早く世を去った。「ああ親父も金もうけしたりしなきゃあ死ぬこともなかった。金がカタキの世の中だ」と悟った次第だ。だからあいにくと、ボクはなるべく金をもうけないように工夫して生きていて、あまりもうかりそうな話をするのはイヤだ。とは言え、わが邦の人の視野はとっても狭くて、外国人に先鞭を着けられた跡をたどってばかりいる。ボクよりも先に書いている人が少ないので、「笑止千万」とばかりに、「すでに二十年以上前に、ボクが思いついていたよ」という昔話をしたまでだ。
さて、香料の出所には、実に思いもよらないものもある。マイヤーズ『人格および死後のその残存』(1903年)の第2巻9章附録には、精神に異常を生じた人が、頭頂部から二種類の香料を、望まれるままに出したという記事と解説がある。
ボクは「そんなことあるモンか」と思っていたけれど、9年前から7年前にかけて、毎年春になると血がのぼせ上がって、頭が腫れるという謎の症状が出たことがある。その時、伽羅(きゃら)木かヤギに少し似た不思議な香りの液が、絶えず出るようになった。人によって好き嫌いもあるだろうけれど、香油質のやや粘り気のあるもので、ボク自身はとても好きだった。医者は「タムシの一種ですな」と言って薬をつけたけれど、腫れは今になっても全治しない。香りのよい液の方は、三年きりで出るのが止んだ。
人や畜類の身体から出て、「塗香」として調合できる見込みがあるものは多いんだけれど、ここでは全部述べることはできない。ジャコウ鹿、ジャコウネズミ、ジャコウ牛、ジャコウネコ、ビーバーなどの体内から分泌する香りのことはよく知られている。それには遠く及ばないとしても、さまざまな獣の胆嚢(たんのう)や、胆石や、ペニスの乾物も、多少はその用に充てることができると言っておきたい。レオ・アフリカヌスは、アフリカのセネガルの人は、馬を得ると呪文を唱えながら、馬の全身に香料を塗ると書いている。
馬の殉死
昨年死んだイギリスの地主のマサム男爵〔第二代男爵サミュエル〕は、遺産が101万6150ポンド11ペンス〔現在の価値で約2000億円程度〕という大富豪だった。その遺言状に、「ワシが死んだら、競馬用の馬から馬車用の馬まで、飼い馬は残らず、けっして売却したり遺贈したりしちゃあいかんよ。かならず、ことごとく、ボ・ク・サ・ツ・シ・テ・オ・ク・レ」とあったという。
1917年のイギリス貴族ですら、こんな人がいる。古代文明の国々や、現在の未開地で、馬を人に殉死させているからと言って、あやしむには足りない。南米パタゴニア人の例については、すでに前述した。13世紀にモンゴルに旅遊したローマ・カトリック教会の僧侶プラノ・カルピニの記録には、次のようにある。
身分の高い人が死ぬと、天幕の真ん中に死骸を安置します。そして鞍を付けてあるオス馬とメス馬と子馬を、それぞれ一頭ずつ添えて葬るのです。別にオス馬を一頭殺して、その肉を食い、皮にワラを詰めて棒先に刺して立てます。こうすれば、死者が冥界にあっても、現世と同じように天幕に住み、母乳を飲み、オス馬に乗り、馬を飼って増やすことができると信じているのです。
今日でもシベリアのブリヤート人が死ぬと、その乗馬を殺したり、放ったりする。コーカサス人は、夫が死ねば、その妻と乗っていた馬に、その墓を三周回らせて、寡婦も馬も、他人のものなることがないようにする。これは、むかし、馬を殉死させていた時の遺風だ。
前述したように、仏教書には「人が父母を殺したら無間地獄に堕ちるけれど、畜生が両親を殺したらどうなるのか」という問いに対する答えとして、「聡明な者は堕ちるけれど、そうでないものは堕ちない」とあった。馬にとっては迷惑千万だろうが、その忠勤が他の動物に抜きん出ているから、特別の思し召しで主人に殉じて殺されるわけだ。タヴェルニエの『ペルシア紀行』4巻10章によれば、アルメニアの熱心なキリスト教徒が聖ゲオルグの祭りに一週間の断食をおこなう際、馬にも断食を強いた者がいたという。馬もありがた過ぎて、さぞいなないたことだろう。
ボスウェルが、ジョンソン博士に老衰した馬の処分法を訊いた時の答えは次のようなものだったと記憶する。
ニンゲンが飼ったものぢゃから、力が強い間、馬を働かせるのは問題ござらん。ぢゃが馬が老衰した際の処分は難しいのぉ。ただし、メス牛を飼って乳を搾り、ヒツジを飼って毛を刈った後、最後は殺して食ってしまっても異論はなかろうて。それと同じ理屈で言えば、まず馬を働かせ、その後苦しむことなく殺してやる。そして他の馬を飼ったり、牛やヒツジを飼ったりするための役に立てるということで、四の五のないはずぢゃ。もし馬を殺すのが、「ヒトのためになったのにヒドいじゃありませんか」と言う者がおれば、「牛やヒツジを殺すのもおんなじ理屈だぜ」と返してやればよいわけぢゃ。ま、なるべく苦しみは少ないように、ぢゃな。
これは中国で斉の宣王が、ヒツジをもって牛に代えた了見とはだいぶ違うようだ。しかし、ジョンソンさんの言い分も、それはそれで道理がある。馬を殉死させた人間の思惑も、だいだいジョンソンと同じで、犬、ヒツジ、馬、ブタ、すべて斉(ひと)しく人が飼った動物が人に殺されるのは当然というものだ。ただし、その功がやや軽いヒツジ、ブタなどは、毎度必要になるとたやすく殺され、すぐに忘れられる。それに反して、いったん大事あれば主君の命を救う働きをする良馬は、現世で優遇された報恩として、来世までもお供してさらに忠君を尽くせ、というわけだね。
生まれてくる子馬を地面に落とさないのはナゼ?
1307年刊行のハイトンの『東方史』48章に、「タタール人は殺人が罪悪とは思っていない。しかるに、馬がエサを食っている時に鼻ぐつわを脱がせずに、食事を自由にさせないのは、神さまに背く大罪としている」とある。タヴェルニエは次のように言っている。
ノガイ人は、飼っている馬には空腹や喉の渇きに耐えさせます。そのひづめを堅くして、蹄鉄が要らないようにします。土や氷の上についた足跡は、あたかも蹄鉄を付けているかのようです。ただし、こんな風に育て上げるのは難しくて、50頭の中のわずかに8頭、10頭くらいだけが成功するのです。旅に出る際は、良馬の他に2、3頭の凡馬も連れて乗ります。そして、ここぞと言う時以外は、良馬には乗りません。
アラブ人が最も馬を大切にすることについては、珍談が多い。たとえば、子馬が生まれる時に、傍らに立った人が手で受け取り、地上に落とさないようにするという。これに似たこととして、ヨーロッパで神木としたり、霊薬としたりしたヤドリギを切り落とすのに、白い布で受けて地面には触れさせない。「触れたらその効力がなくなる」という(グリム『ドイツ神話学』4版2巻)。
またツバメのヒナが、その母鳥にもらって腹の中に持っている不思議な石は、ヒナが土に触れないうちに取らなければ薬用に堪えないという。これについては、『ムセウム・ウォルミヌム』(ライデン、1655年)72頁でも、ボエチウスの『玉石論』(1609年初版)439頁でも、ともにプリニウスの『博物誌』37巻を引いている。だけどボクがプリニウスの書籍の全篇を何度通覧しても、一向に見当たらない。思うに、中世にそんな俗伝があったのを、プリニウスは博学で名高いから、「このくらいは書いてるよね」くらいの当てずっぽうで名を借りておいたらしい。邦人が一般に和漢書よりは正確だと思っているヨーロッパの書籍にも、こんなずさんなものがままあるので、孫引きは危険千万と注意しておきたい。
カンボジアの俗信にこういうのがある。
竹の梢に、ある特殊なランが寄生すると、その竹の幹の中に一つの小さな仏像が潜んでいます。尿でひたした布でその幹を巻いて、竹を割ると取ることができます。これを家に置いておくと、火災に遇いません。口に含むと、のどが渇きません。身につけておくと、傷を受けません。ただし、そういう準備をせずに割ると、その仏像は竹から地下に抜けてなくなってしまいます(エモニエ「カンボジアの風習と俗信の記録」『フランス領コーチシナ雑誌』16号136頁)。
こんな風に、土はさまざまなものの精気を吸い取るので、霊異の力も、時には自ずと地下に消え去ってしまうと信じられていた。そこで、駿馬の子馬もまた、地面に生み落とされるとその力が減ずるとしたというわけだ。
ところがパルグレイヴの『中央・東部アラビア紀行』10章には次のようにある。
アラブ人は子馬が産まれるところを抱き受けて地面に落とさないとか、主人と同席して飲食するとか言ってやがる。そんなに人と馬とが仲良しだなんて話は、みんなウソだね。
それは、今日の日本にやって来る外国人がこんな風に即断するのと同じじゃないかな。
吉野とか高尾とかいう教養のある遊女なんてものにはいっこうに出会わないじゃないか。人に大便を拭かせている貴族の大人なんていうのも見たことはないぞ。むかしからそんなものは、まったく日本にはいなかったんだろうね。
結局、現代の常識でむかしのことを疑うというのは、歪んだ見方なのでゴザイマスヨ。
アラブの馬は世界一
ピエロッティの『パレスチナの風俗と伝承の記録』(1864年)には、アラブ人が馬を愛重するありさまなどが、面白おかしく書かれている。とてもボクなんかの表現力の及ぶところではないけれど、その概略を訳出してみよう。
アラブ人は、家畜の中で馬を一番に貴びます。艱難にあっても栄華にあっても、人が最も信頼できるものとしているのです。その繁殖には特に力をそそいでいるのですが、それぞれの部族が自分たちの種馬を惜しんで、他の部族のメス馬と交配させないから、馬の種類の改善はなかなか進みません。
アラブの人たちが、馬、特にメス馬を愛好することは尋常ではなく、家族と同居させて、けっしてムチ打ったりしません。自分の手や衣服のたもとからエサを食わせ、話しかけたり言い聴かせたりする様子は、人間に対する時と異なりません。馬の方も、よく調教してあるので、手綱でつないでおかなくても逃げ去らないのです。呼べば、すぐにこちらの方に来ます。しかし、主人の許可なしに乗る者がいれば、主人の指示を見て、そのまま振り落としてしまいます。
インドでも、マラーター人は馬をよく飼い慣らす。主人を立って待たせて、数時間も石のように動かないようにさせる。かつて、周囲に人がいないので、主人を立って待っている馬を盗んで走り去る者がいた。主人は遠くからそれを見て、予定の合い言葉で指示を与えると、馬はたちまち止まり、盗人がどう焦っても動かない。やむをえずその馬を下りて、「膝栗毛(ひざくりげ)」つまり自分の足で走って去った(デュボアの『インド風俗誌』2)。さてピエロッティの文章は次のように続いている。
種馬やメス馬が病気になった時には、一家はことごとく心を痛めます。さしもの猛々しい性格のベドウィン族(アラブの中で最も勇猛な部族)も、その時ばかりは温和になり、馬が一回あえぐと、自分も一回あえぐほどです。かつて一頭のメス馬が難産したところに行き合わせたことがあります。その部族の首長は、これを自分の母のことのように、心を痛めていました。流涕(りゅうてい)して神の助けを祈ると、メス馬はこれに呼応するようにさらに呻吟していました。
アラブ人が馬にかけて誓うことはあまりありませんが、もし馬にかけて誓うと、たとえ命を失っても約束を違えません。筆者がベドウィンの男をボディーガードとして雇った際には、ただメス馬に誓わせただけだったのですが、どんな場合にも誠実かつていねいに勤め上げました。
血統付きの馬は、今はとても少なくなっています。父も母もともに血統付きではなければならないので、部族の首長か高名な人の証明が必要です。そういう証書と系図とお守りを入れた袋を、馬とともに売買して首にかけています。
アラブの馬は、すべて去勢していませんが、性悪のものは少ないです。また耳も尻尾も切りません。死ぬその瞬間まで、活発で勢力が充実しています。オス馬よりもメス馬が好かれる理由は、子馬を産んで利益になるからというよりは、メス馬がいななかずに、夜襲などの時に敵に覚られることがないからです。
アラブの馬の最も賞賛すべき特性は、動作がしなやかな点です。他にこれよりも美しかったり速かったりする馬の種がないわけではありませんが、これほど優雅で軽やかで、絵画のように動く馬はいません。10歩から12歩離れた壁を跳び越え、騎手の思いのままにどこでも駆け回る様子は、まるで見物人の喝采を求めているかのようです。
ここは熊楠さんから、ちょっと説明を付け加えておきたい。『千一夜物語』第47夜に、女性が9フィート〔約2.7m〕の溝を跳び越えたが、それを追った王子の馬が跳び越えられなかったという話がある。バートンの注には、「アラビアの馬は跳ぶことを習わない」とある。どっちが本当かは知らんけれど、とりあえずピエロッティが見たパレスチナのアラブ馬は、アラビア本土のアラブ馬とは、性質も技術も少し違うように見える。
アラブ人が好きな騎馬戦の遊びでは、叫び声や飛んでくる棒の中を駆け回る馬の動きが見事です。十分に戦争というものを理解しているように見えます。さて、本当の接近戦になると、動作は敏捷かつ迅速で、主人に敵兵の攻撃を避けさせる技術は、主人自身の武芸の腕に優っているくらいです。かつてベドウィン族を乗せた馬が、銃弾をかいくぐって走るのを見ました。軽く前脚を上げたり、尻を低くしたり、動くごとに頭と首を高くして、騎手のために弾丸を遮ってくれているようでした。
またしばしば、騎手が足をあぶみの皮に絡まれながら落馬するのを目撃しました。すると馬は、自分が動けば主人に危害を加えてしまうとわかっているので、たちまち立ち止まるのです。日射病で落馬した騎手の傍らに立って、馬が守っていたという例も聞きました。さらに自分自身、まっ暗やみの夜に、馬に乗ったおかげで道を探し当てて、遭難を免れたこともあります。
アラブの馬は勇猛ですが、兵士と同じように、女性や子どもや柔弱な市民も安心して乗ることができます。筆者の言葉をホラだと思う人もいるかもしれません。けれど、誰でもベドウィンの人たちの間でしばらく住めば、ウソではないことがわかるはずです。
アラブ馬を買う時の作法
『聖書』「ヨブ記」の軍馬を讃えた文句には、正しくアラブ馬の様子が表現されている。その文句とは次のようなものだ。
汝は馬に力を与えたか。その頸に勇ましいたてがみをほどこしたか。汝はこれをイナゴのように飛ばせることができるか。馬のいななく声の響きは畏るべきだ。谷を駆け上がり、力に誇って自ら進んで敵に向かう。危機にあっても笑って驚くことなく、剣に向かっても退かない。矢づつの音が真上で鳴っても、槍や矛がきらめいても、猛り狂って地面を一気に駆ける。ラッパの音が鳴り渡っても立ち止まることはない。ラッパが鳴るごとに「ハーハー」と言い、遠くから戦闘の匂いを嗅ぎつけ、将兵の大声やときの声を聞き分ける。
まあこの「ハーハー」がちょっといただけない直訳だというのは、前に述べておいた通りだ。さてピエロッティの説明を続けよう。
アラブ人はことにメス馬を重んじて、大金を見ても売らないことが多くあります。メス馬は、人よりもよく災難を察知します。風によって吹き去られたり、寄せ替わったりする砂の上に、人が認識できないような微細な徴候を見分けるのです。広大な砂漠の中で、人の住む天幕を探し当てます。荒野に混在するさまざまな音響を聞き分けて、敵の来襲が近づいていることを知ることもできます。そして、終日、飲食せずに休まず走って、主人を危機から救ったり、旅をまっとうさせたりするのです。
中でも最もメス馬を重んじているのは、ベドウィン族でしょう。彼らは、こちらがこれを買おうとして値段を聞いても、本気にしません。「ああ全部アンタのモンですよ」などという適当な返事をします。二度目に繰り返して聞いても、肝心なことは言わずに、いい加減なごまかし方で済ませます。三度目に問うと、怒りを隠しながら苦笑いして、「このメス馬を売るくらいなら、自分の家族を売りますぜ」と答えます。これは冗談でも何でもなくて、ベドウィンの習性として、愛馬という友と別れるくらいならば、よろこんで父や母を質に出すのです。
もし不幸にして、やむを得ずメス馬を売ることがあるとしても、国外に渡してから子が生まれないように手術をせずに手放すのは、ちょっと考えにくいことです。また買い手が代価を協議する前に、売り手の両親、一族、親友などが、その馬の売却に異議がないかを確かめる必要があります。そうしないと、代金を支払ってから後に難題が起きたり、その馬を盗まれたりするのです。
また売り手は、その馬が繁殖可能であることと、その体のどの部分に関しても他に権利を持つことになる者が一人もいないことの保証を取っておく必要があります。実はベドウィンは、大いに金に不自由した際などは、持ち馬の体のいろいろな部分を売って、当座の金を手に入れます。右前脚は誰それ、左前脚は彼それ、後脚はなにがし、尻尾はかれがし、耳はだれがし、みたいに一頭の馬を数人に売るのです。そしてその人々は、持ち分に応じて、その馬の労力や売却の利益を受けようと待ち構えています。
この習慣を心得ずに、メス馬を売り手一人の物と思っていると、その人に対価を支払った後に、その馬の耳とか尻尾とかの持ち主が現れることがあります。その持ち分の対価を請求されて支払わないと、すったもんだの騒動となります。そこで地方官に訴えても、「これは土地の習慣ですから、しかたないんですわ」と取り上げてもらえず、閉口することがあります。
また住んでいる地域をシメている部族連合の首長と懇意にしておいて、そのお墨付きを得ると格別です。さもなくメス馬の体のほんの一部でも自分方に保有せずに全部を売却した者は、いたるところで人に嫌われ、暗殺される怖れさえあります。そこで重罪の犯罪者同然に、その土地を逐電するしか逃げ道がありません。オス馬を買うのはメス馬ほど難しくはありませんが、それでもここまで述べたような作法を踏まなければなりません。ただし、以上は血統が純粋な駿馬を買う場合のことで、たいしたことのない馬を買うのは簡単です。
馬や馬の形で占う
ピエロッティは、メス馬がことに敏感に人の災難を予知したり、微細な足跡を認識したりすると言っている。これはメス犬がオス犬よりはるかに注意深く、どろぼう除けに最も適しているというのと同じことらしい。オス馬にもまた、こういう能力があることは、前にほぼ述べたところだ。
俗に、「一事が万事」と言うよね。あんまり厳密にものごとを考えない人たちは、一つの能力がある者は万能を持つように思うのが常だ。ここまで紹介したような能力が馬にはあることから、馬の関知しないようなことまで、馬に聞くようになった。こういうのを「ヒッポマンシー」(馬占い)と呼ぶ。
古代ケルト人は、特にこれを信じ、特別の白馬を、公費を用いて神の林の中に飼っていた。そして大事が起こると、これを神の車のすぐ後に従わせて、その動作やいななき声で神意を占った。サクソン人も、やはり白馬を神殿に飼っていた。戦争の前にはお祈りをしてから、神官がこれを引き出してきて、槍をさかさまに三列に立てたのを横切って歩ませた。その際、右足からまず踏み出せば勝利だが、左足をまず出せば敗北のしるしと見て、出陣を見合わせた(コラン・ド・プランシー『地獄の事典』4版242頁など)。
本朝でも、住吉大社は軍神を祭っているので、世の中に一大事が起きると、そこに飼っている神馬が見えなくなるという。享徳2〔1453〕年8月には、伊勢、八幡、住吉三社の神馬が同時に死ぬということがあり、応仁の乱の前兆だったと言われている(『和漢三才図会』74)。しかしこれは応仁の乱の14年も前のことだ。「前兆」と言っても、こんなに早く手を回されては、かえって役に立たないのではないかな。
「あの人の家の門に出入りしている小川の流れに馬がつまづいてしまった。あ、これは恋だ」という意味の歌がある(『俊頼口伝集』上)。人に惚れられると、その人の乗っている馬がつまづいてしまうらしい。だからボクなんかは馬に乗らないのがさいわいだ。もし乗ったら、たぶんずっとつまづき通しだからね。
『郷土研究』1巻8号の斎藤真氏の説によると、陸前の駒ヶ岳では、毎年消え残った雪が白い奔馬(ほんば)のような形になる。これを見て、その年の豊作・凶作を占う農夫もあるという。『著作堂一夕話』に載っている「富士の残雪で、宝永山のあたりのくぼみに人の形がある年は豊年で、見えない年は凶作です。これを農男と名づけます」とあるのに似ている。『郷土研究』同巻9号で見ると、陸中と秋田の境の駒形山も、毎年雪解け時に、八合目ほどのところに白馬が踊る姿が現れるらしい。むかし、神さまがここに乗り捨てた馬が、故郷を恋うて思い出して、いななくのだそうで、その形を見て農家が農事を占う。
イギリスの山に彫られた「ホワイト・ホース」
これと似たものとして、京都東山の大文字の送り火のように、人の手でできた壮観がイギリスにある。バークシャーの「ホワイト・ホース」というもので、海抜856フィート〔約260m〕の山の北の頂上より少し下に彫った、長さ374フィート〔約110m〕、深さおよそ2フィート〔60cm〕の巨大な馬の像だ。ただし『北窓瑣談』2には、次のようにあるので、大きさから言えば日本の方が勝ちのようだ。
「東山に7月16日の夜に立てる大文字の送り火は、中国にもないものだ」と孔雀先生〔清田
叟〕も書いておられます。横の一画が29丈〔約87m〕、左の画が49丈2尺〔約148m〕右の画が47丈7尺8寸〔約143m〕あります。筆者も如意ヶ嶽に上ってそれらの穴を見ましたが、たいへん広大なものでした。
イギリスのホワイト・ホースは、輪郭はたいへん粗末だけれど、地表の土を取り去って白土を露出させている。下の谷から眺めると、十分に馬が跳ねているように見える。
東山の大文字は、いにしえの北辰を祭った遺風だという(『嬉遊笑覧』10)。一方、この白馬像の由来はわからないようだ。西暦9世紀にアルフレッド大王がデーン人に大勝利した記念物だと言うのだけれど、実は西暦1世紀頃に始まるローマ人のイギリス占領よりも古いらしい。土地の人たちは、たびたび像の中に草木が生えるのを抜いてきれいにしている。以前は、祭りをおこなって、さまざまな競技をおこない、近隣だけでなくイギリス中から勇士が来集して、土地の勇士と競争したらしい。しかし60年足らず前に、何となくやめてしまったという。
熊楠さんに言わせれば、これは我が邦に多い「駒形明神」とか「駒形石」と同じことなのではないだろうか(『木曽路名所図会』「信州塩灘駅」下の項目。『山島民譚集』一参照)。つまり古代に馬を崇拝した遺跡ということだ。古代ヨーロッパの馬崇拝の例としては、ギリシアの海の大神ポセイドンや、豊穣の女神デメテルがあって、いずれも元は馬の形をしていた。またガリア人は馬の神ルディオブスや馬の女神エポナを崇めた。
ヨーロッパの諸国では、馬を穀物の精とする例が多い。これは、主に馬は農業に古くから使われたからだろう。またインドで夜明けの神とされるアスヴィナウは、太陽の神スリヤが、その妃のサンニアと、オス馬・メス馬に化けて交わって生んだものだ。三輪のロバの車に乗って、太陽神自身はカワセミ色の7頭の馬に一輪車をひかせて乗る。これと類似しているのがギリシアの太陽神ヘリオスで、光と火の息をする4頭の雪のように白い馬が引く車に乗っている(第6図)。第7図は、デンマーク古代の青銅器時代の青銅製の遺物で、馬が太陽の車を引いているのを示すらしい。その太陽に見立てた円盤に黄金をかぶせていて、美しいらせん状の装飾がある。
それにしても馬はなんで人間なんかに忠実なのかね?
『風俗通』には、馬を「一匹」と数える習慣についての説明がある。馬を測ると一匹という単位の長さだったためとか、馬が死んで売ると絹を一匹(二反)分、得たからとか、さまざまな説を並べている。そして「あるいは、馬は夜歩くときは目の前の四丈〔約12m〕を明るく照らす。そのため一匹という」とある。
それに劣らずアヤシい説が、西洋の俗間ではおこなわれていて、「馬の眼には物が大きく見えるんだよー。だから人間はみんな巨人のように見えて、従ってくれるんだよー」と言う人がいた。それに対して「どうしても人に従わない馬がいるのは、眼の水晶体が平らで物が大きく見えないからかねえ。だったらメガネをかけさせたらいい。ただし馬の眼に、もし物が大きく見えるというなら、何もかもみんな大きいはずだろう。物の間の大小の比率は普通と変わらないから、人はやっぱり他の馬よりは小さく見えるはずじゃあないんかね」と反論した人がいた(『ノーツ・アンド・クエリーズ』1916年6月24日号509頁)。
このことは、『安政三組盃(あんせい みつぐみのさかずき)』という講談の筆記にもある。ただし日本で伝えているのは、やや西洋の説とは異なっていて、奔馬の前に人が立ち向かうと、その人だけが馬の眼に非常に大きく見えるというものだ。だから、水晶体の何のという物理学上の話ではなく、心理学上のことだ。前に述べた通り、馬ほど心神喪失しやすい動物はないのと同時に、この短所がまた長所ともなって、眼前に立ちはだかった人を極めて怖れるあまりに、オソれ入って静まって落ち着くのかもしれないと思う。
田辺の町に、よく知られた「〇永」という名の変人がいて、数年前に五十余歳で死んだ。この人は、どれだけ荒れ狂う馬の前でもまったく恐れることなく進み出て、いつも過たずに静めることができた。死ぬ前に一度だけやり損なって、指をかまれた。この変人が年老いたために馬を制する力が衰えたのか、馬の性質にいろいろなのがあるのかはちょっとわからないけれど、なかなか面白い研究課題だ。
『新群書類従』5に収録された古い「小栗判官」の浄瑠璃に、判官の言葉として「畜生にはかなわぬまでも『せみょう』(宣命か?)を含めることができると聞く。ソレガシが『せみょう』を含めてやるから心安くしなさい」とあって、その「せみょう」の詞が出ている。そんな術が多少は利いたのだろう。
『甲陽軍艦』16巻に、馬の百のクセを直すためとして次のようにある。
左の首筋に指で「水」という字を書き、手綱をよく握って、不動のしばり縄のイメージを思いながら、馬の額に「卍」の字を書く。同じムチの先を持って、「従え」「かなえよ」と三回唱えて、「ギャーテー・ギャーテー・ハラソウ・ギャーテー・ボージーソワカ」と唱えて飼えば、いかなる狂馬も汗をかいてしまう。この方法は秘すべきものだ。
などと書いている。しかし、今時そんなことをすれば、こっちが狂馬と思われかねないだろう。
馬を祀る
この一篇の最初に、梵授王が命を救われた知恵の馬に、国の半分を分かち与えようとしたことを述べた。中国でも「人は死によって苦しみから逃れることができる。これを葬り、垂れぎぬを下げて、寝床とする。馬に勲功があれば、忘れてはならない。人であればなおさらのことだ」(『淮南子』)と言う。したがって、名馬のために廟を作って祀ったり、官位を与えたり、記念のために町を建てた外国の例を最初の方で紹介した。
本邦でも豊臣秀吉の「馬塚」(『摂陽群談』9)や、徳川吉宗の「馬像」(『甲子夜話』51)など、その例は多い。「馬頭観音」として祭ったものも少なくない。富田師の『秘密辞林』には、馬頭観音について次のように書いてある。
馬頭観音は明王にも観音にも属する仏さまです。馬の口は食べたものを残さないという意味と、飢えた馬は無心で草を食うという「大悲専念」の意味があります。さらに、慈悲の方便として大いに憤怒している姿を現し、その威光は日輪となり(前述の太陽神スリアのことを参照)、修行者の暗やみを照らします。そして速やかに悟りの境地に到達させるので、「迅速」という意味もあります。
今では世俗で馬の守護神として尊崇されており、馬の冥福のためには、その石の像を路傍に建てるようにと伝えられています。そもそも仏教には、「三獣」の喩えがあります。ウサギや鹿は、水を渡る時に自分のことしか考えませんが、馬は人を乗せて、自他ともに渡ります。そのように、声聞や縁覚よりは、菩薩のおこないの方が、はるかに功徳が勝るのです。
観音が人々を救った功績はことに著しいから、前述したように500の商人を救った天馬などを化身として、だんだんと馬はみな観音の眷属(けんぞく)ということになったわけだ。
『天正日記』には、奉行の青山忠成の家来の馬が、浅草観音寺の境内に乾かしてあった干飯(ほしいい)を踏み散らかして、寺の者たちと争論となったとある。忠成の側では、「観音の一族である馬が、観音を信仰する僧侶たちの食料を踏んだからといって、とがめ立てはできないはずだ」とやり込めて閉口させたと出ている。
ヨーロッパと同じように、アジアでも馬を穀物の精とする例がある。インドのゴンド人やクル人は、穀物の精として、馬の神コド・ペンを崇拝している。二月の初午の日に、穀物の精であるキツネ神を、わが国では祭る(『考古学雑誌』6巻2号のボクの「荼吉尼天(だきにてん)」参照)。維新の前には、この日に観音も祀ることが多かった。スヴェン・ヘディンの説として、チベットの聖山であるカイラスに、午年ごとに参詣の群衆が訪れるが、これも馬と観音の関係からのことだろう(『トランス・ヒマラヤ』2巻190頁、1909年)。
さて北アジアの諸民族に尊ばれているシャーマンは、やや奥州の馬形の巫神(ふしん)である「オシラサマ」に似た馬頭の杖を用いて法術をおこなう。また霊馬に乗って冥界におもむき、ご神託を聴いて帰ってくると信じられている。わが邦でも祈祷に馬の像を用いたようで、『烏鷺(うろ)合戦物語』には、「寄りましが、今こそ寄ってくる。葦毛の駒に乗り、手綱をゆらゆらとさせて」という意味の歌がある。
中国人も、日本の禅寺でも、紙の馬を焼く。インドのビル人は、山頂の石塚に馬の小さな土偶を献ずると、死者の霊がその像の後の小さな穴から入ってくる。そして天国に駆けて行って、馬を土地の神に与え、軍馬を増やしてくれると信じている。こういうのはどれも、以前は馬を殺して死人に殉死させたり、神にいけにえとして供えたりした遺風だ。
馬の幽霊
もっぱら野生の馬を狩っては食っていた時代はさておいて、馬で田を耕したり、乗馬を習慣とするたくさんの人は、それでも馬を殺して食ったり皮を用いたりする。良心がとがめて気が晴れないというところから来ているのか、馬の幽霊の話は諸国に多い(『山島民譚集』一参照)。それがまた、ことごとく人の幽霊に似せて作られている。
例えば、インドのギルハという幽霊は、水に住んで人型で頭がない。アーヴィングの『コロンブス伝』には、頭のない幽霊が馬に乗った記事がある。むかしは4月24日の夜に、福井市内で柴田勝家勢の亡霊の行列があった。その大将は馬に乗って首がなかった(『郷土研究』2巻9号、寺門氏の報告)。それから、笠井氏の報告で知られるようになった「阿波の首なし馬」の伝説があって、これは盗人に首をはねられた馬の幽霊だ。
また古代スウェーデンの馬の怪物ネックは、青みがかったグレーの美しい馬として海浜に現れる。そのひづめが後ろ向きになっているのでわかる。人が知らずに乗れば、たちまち海に飛び入って溺れ殺してしまう(ケイトレイ『妖精神話』、ボーン文庫版、162頁)。これは「海のロバ」や「海の馬」などという名前が中国にもヨーロッパにもあるように、遠見ではあたかも馬のように見える海の獣たち(たとえばセイウチ)の脚が、ひれ状になって後を向いていることから言い出したのだろう。
しかし妖鬼の足が後ろ向きということは、さまざまな国で一般的だ。たとえば『大宝積経』13には「妖魅反足の物」、109には「地獄の衆生は、その足が反って後を向いている」とある。『傾城反魂香(けいせいはんごんこう)』の浄瑠璃では、「熊野詣りの亡者は、あるいは逆立ちしたり後ろ向きだったりする」とする。これは、今でもこのあたりでは言っていることだ。『嬉遊笑覧』8に、「予言をなす者は『後ろ仏』を持つ」という。『南インド民族誌記録』(1906年)には、ラカディーブ諸島のものだろうということで、足が後ろ向きに付いている祈祷師の像を載せている。
中国やインドでは、堤防を築くとか、勝利を祈るとかの目的で、馬を殺して沈めて祈ることが多い。日本にもその例があったのか、『近江輿地誌略』85には、「浅井郡馬川は洪水の時に白馬が出て、往来の人を悩ませる」という。『沙石集』や『因果物語』などには、馬を虐待してその霊に苦しめられた話が多い。だから、馬が悪鬼となって復讐するのも無理はないことだ。ヨーロッパでも、地獄の大侯爵であるガミギンは、小さな馬の形だと言う。馬の怪物ルー・ドラペーは、子どもを150人までその尻に乗せて去り、戻してくれないと言う。
以上のことから、馬頭観音が明王と観音の両部に属していて、ある時は温和、ある時は憤怒の表情であることの理由が考察できる。つまりこれは、半分は人を助ける馬の善き性格から、半分は馬の幽霊の悪しき性格から成っている。だから半分は菩薩で、半分は悪鬼として建立されたのだろう。
「ホニホロ」って何だ?
宮武外骨氏が出した『此花(このはな)』四枝に、紙のハリボテの馬を腰に付けて踊り走る図を三枚出して、「ホニホロ考」が書かれている。これは寛政年間〔1789~1801年〕の頃に流行り始めたもので、「上るは下るは」と名づけられたらしい。馬に乗った唐人または武者姿で踊るのを、一人が奇妙な声で「ソリャ、上るは上るは、雷の子だ。ホニホロ、ホニホロ。下るは下るは」とはやし立てた。
宮武外骨さんは「『ホニホロ』はオランダ語らしいから、この腰に付けた馬もオランダ渡来だろう」と言っている。ただ、この引用だけでは、こうした装飾や芸能を「上るは下るは」と呼んで「ホニホロ」と言わなかったのかがわからない。「ホニホロ」は単にはやし言葉らしいから、風を受けてふくらむ様子を「帆に幌」と讃えたということも考えられるよね。うーん、ボクは、馬に縁のある球技で「ポロ」というもの以外には、「ホニホロ」に該当するようなヨーロッパの言葉を知らないなあ。
ただし、この芸がオランダから来ただろうという推察は、ほぼ当たっている。と言うのは、むかし、イギリスの五月の祭典で大流行していた「モリス・ダンス」morris danceというものがある。そこで使われる「ホビー・ホース」hobby-horseという木馬は、頭と尻尾は木製で彩色し、胴は組み合わせて乗り手の腰に合わせ、下に布を垂れてその脚を隠すというもので、よく似ている。
これはもともとムーア人が始めた踊りで、スペインでは「モリスカ」と呼び、フランスでは15世紀におこなわれて「モレスク」と言った。イギリスへはスペインから伝わったらしく、16世紀に最もおこなわれた。ピューリタン〔清教徒〕が隆盛の際に、5月の祭典とともに禁止され、王政復古の後にまたおこなわれたが、いつともなく廃れてしまった。それをボクの知人の王立アンティカリ学会員などが、再興、いや三興しようと企てていたが、戦争でおじゃんになったらしい。
とにかく、「ホニホロ」という語を舶来のものだと思うなら、ヨーロッパの諸国語で「ホビー・ホース」(これは英語)を何と呼ぶかを調べてくださいね、好事家のみなさんたち。
古代中国のメリーゴーランド?
さて、スヴェン・ヘディンの『トランス・ヒマラヤ』には次のように書かれている。
チベットのタシ・ルンポの正月の祭りに、ネパール人が身体の前後に、灯籠を一つずつ付けて、歌いながら歩きます。前の灯籠は馬の首、後のは馬の尻尾を添えたので、あたかも火がともった馬に乗るような様子でした。
ここから見ると、このようなアイデアは、ヨーロッパ特有のものではなかっただろう。
似た例を一つ挙げておこう。30年前、ボクがアメリカにいた時、田舎周りの興行師が、美しい木馬を円形に並べて、機械で動かしていた。ぐるぐると駆け回ると同時に、馬の首と尻尾が交互に上下して、本当に走っている馬のようだ。子どもはもとより、年頃の男女がお金を払って時間を決めて、それに乗って楽しそうに騒いでいた。たぶん今では、日本にも入ってきているだろうね。
ボクにとっては、酒を飲むほどには面白くないので、その遊びの名前さえ聞かなかった〔熊楠旧蔵『太陽』当該箇所に「メリーゴーランド」と書き込み〕。ところが今年になって、ようやくこんな趣向も西洋独特のものではないことがわかった。『大清一統志』264巻を見てみればいい。『方輿勝覧』を引いて四川の「大輪山」を次のように紹介している。
いくつもの峰が輪のように取り巻いて並び、その姿はあたかも異形の人や怪しい鬼のようだ。あるものは車に乗って天蓋をさしかけ、あるものは礼服に高い冠をいただき、あるものは甲冑を身につけ、あるものは跳ねる馬のような姿をしているかのごとくである。その勢いが走る車輪のようであるところから、この名が付けられている。
今から700年も前の宋代に、すでにこんなアイデアが中国にはあったのかな。
(まつい りゅうご・龍谷大学国際学部教授、南方熊楠顕彰館館長)

叟〕も書いておられます。横の一画が29丈〔約87m〕、左の画が49丈2尺〔約148m〕右の画が47丈7尺8寸〔約143m〕あります。筆者も如意ヶ嶽に上ってそれらの穴を見ましたが、たいへん広大なものでした。


