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『思想』8月号 感情の歴史学

◇目次◇

思想の言葉………姫岡とし子
屈辱の政治――近代史における恥と恥をかかせること……………ウーテ・フレーフェルト
感情史の現在――最新の入門書を手がかりに……………森田直子
ナチ体制と「感情政治」――第二次世界大戦下のクリスマスを例に……………小野寺拓也
「体験」と「気分」の共同体――20世紀前半の伊勢神宮・明治神宮参拝ツーリズム……………平山 昇
恐怖――20世紀初頭のロシア軍事心理学における兵士と感情……………ヤン・プランパー
グローバル・ヒストリーのなかの啓蒙(上)……………ゼバスティアン・コンラート
戦後初期オーストリアにおける国民形成のダイナミズム――戦争犠牲者援護政策にみる妥協の論理……………水野博子
白球と平等を追い求めて――20世紀転換期キューバにおける野球と黒人……………山本航平
未完の問いとしての「ヘイドン・ホワイト的問題」……………岩崎 稔
 
 
◇思想の言葉◇
 
感情史とジェンダー
 姫岡とし子
 
  近代社会の黎明期から、女性と男性の抱く感情は本質的に違うと見なされるようになった。それにともない、女性と男性で異なる感情規範が誕生し、実生活でも、女性と男性は相異なる感情世界を生きることになった。それゆえ、歴史のなかの感情を取りあげるにあたってジェンダー間の相違に配慮することは不可欠である。また歴史的事象を感情という観点から考察する場合に、ジェンダーの視点を導入することによって、感情が歴史に及ぼした影響やそれによる歴史の変化過程をより詳細に読み解くことができる。

 歴史的に女性と男性の感情生活の違いが生じた理由について、構築主義をへた現在のジェンダー史、とくに西洋ジェンダー史の説明は、次のようなものである。すなわち、西洋市民社会の黎明期である啓蒙の時代に、男女の異なる特性を強調する言説が登場して男性/女性の二項対立的な差異が構築され、感情の違いも、その差異化の一環を成している、と。感情を含む男女の特性は、社会的・文化的に形成された歴史性を帯びたものであって、決して生得的なものではないのである。女性と男性によって異なる感情規範も、こうした差異化にもとづいて形成されている。しかし、この言説が登場した当時は、男女の感情の相違も、男女の特性の違いも、生まれながらの本質的な差異だと考えられた。また、それ以降の歴史においても、女性と男性は身体的にも精神的にもまったく異なる存在だという本質主義的な見方が圧倒的に支配的であった。

 その代表的なものの一つが、男性=理性/女性=感情という差異である。ここで想定されている「感情」とは、喜怒哀楽の激しさ、衝動的、情緒不安定、非合理的、感覚的、そしてヒステリックという意味さえも包含する、あくまで理性と二項対立的なものであった。それは、理性の意味するところの論理的ないし体系的思考や、善悪・真偽などの正しい判断ができない、というおおむね否定的な意味を刻印されているものである。感情史で対象となる感情には、さまざまな心の動きや心持ちなど、もっと包括的な意味の感情が含まれているが、理性との対比で女性の特性とされた「感情」には、非常に限定的な意味が付与されていたのである。

 しかし、市民層が独自な階層文化を形成しはじめた一八世紀後半は、「感傷主義」の時代と言われたように、感性の豊かさが評価された。共感や同情の賛美など、人びとを相互に結びつける感情に価値が見いだされるようになり、奴隷解放運動や慈善活動の推進要因となった。この時期に結婚相手の選択や婚姻生活における愛の価値が高められ、情愛にもとづく近代市民家族の形成が進んでいったのも、感情重視の表れの一つといえる。その社会的・文化的背景としては、市民層が真正かつ崇高な感情生活によって自らを、一方での儀礼的で真実味をもたず、上辺をつくろう貴族層と、他方での人間味に欠ける野卑な下層と差異化しようとしたことが挙げられる。西洋の非西洋に対する優越感が確立されていくこの時期には、西洋以外の住民に対しても、彼らが野蛮ゆえに洗練された感受性をもつことができないとみなしていた。この時期の感性に関して、階層や民族間での違いが強調されたが、ジェンダー間の区別は、一九世紀ほどには大きくはなかったのである。もちろん男性があまりに情動に左右されることには慎重だったが、それでも男性が涙を流すことも、感性豊かな人間性のあらわれとして、それほど否定的には捉えられていなかった。

 それが変化するのは、身分制に代わって近代市民社会が形成され、性差が社会体制や秩序形成の基盤となったフランス革命期からである。理性と感情は以前より対比的に捉えられるようになり、称揚された理性は男性性と結びつけられた。理性によって感情をコントールできる男性とは対象的に、女性は理性的存在ではないという意味で「感情的」とされたのである。その結果、女性は政治活動には不適格とされて、「すべての人間」の自由・平等が宣言されたにもかかわらず、選挙権は与えられなかった。ナポレオン戦争期にナショナリズムが高揚すると、男性の身体的かつ精神的強さの価値がますます高まり、心身の強靱さ/脆弱さが理性/感情と結びつけられ、剛健な男性は感情に打ち勝って自己をコントロールできるのに対して、ひ弱な女性は感情におぼれ、感情を抑制することができない、とされた。だからこそ女性の活動領域も、理性が要求される公領域には不向きとされ、家庭に限定されることになったのである。一九世紀には、男性の抱く感情、たとえば強い情熱や憤りは、物事に立ち向い、道を切り拓いていく原動力とみなされ、肯定的に評価された。類似の感情でも、女性の場合は、かんしゃく、気分、嫉妬などと解釈され、支離滅裂な行動しかできないことになる。

 皮肉なことに、そんな男性の活動の源泉とされた憤りが、時代が変った一九七〇年前後には、フェミニズム運動の感情的発火点となった。暖かい家庭の妻・母となることを強いられていたアメリカ女性たちの閉塞感から生じた、「女らしさ」からの解放へのパトス。学生運動で反権威主義を唱えながら仲間の女たちに補助的な労働を押しつけていた男たちに、会議の席で怒りのトマトを投げつけて反撃の狼煙のろしをあげたドイツの女たち。「母(=やさしさ)」かそれとも「性欲処理機(=便所)」かという女の性の現状に対する憤懣を、「便所からの解放」という言葉に込めて女のエロスを生きようとした日本のリブの女たちの情念。まだ健在だった女らしさ/男らしさの神話に対してつのっていた憤懣の炎は、世界各地で燃えあがり、フェミニズム運動へと結実していった。

 感情史の前提となる感情について、心理学や脳神経科学では、例外はあるが、感情は基本的に普遍的で非歴史的なものと捉えられている。ジェンダーは、そもそも生物学的決定論=本質主義に対抗して生まれた概念であり、性差の構築性を主張する。したがってジェンダー感情史にとっては、普遍的領域としての「感情そのもの」ではなく、社会・文化的背景と関連した感情把握が問題となる。ジェンダー感情史の重要な課題は、階層や民族の問題とも絡み合わせながら、ジェンダー化された感情や感情規範の形成と変化、またその個々人の感情体験への影響(=感情の歴史性)と、男女それぞれの感情生活と実際の歴史的変化との関連(=歴史の推進要因としての感情)を、言説と体験の両側面で明らかにすることである。

 ジェンダー史は歴史学のなかで一定の居場所を占めてはいるが、孤立しがちで、多くの歴史がジェンダー視点と無関係に叙述されている。しかし、人間の感情を扱う二一世紀の感情史は、もはや以前のように人間を男性で代表させることはできないし、そもそも一方の性で人間全体の感情は語れない。男女共通および男女それぞれの感情の歴史的作用、そしてその相乗効果によって歴史は推進される。その意味で感情史とジェンダー史は親和性が高い。感情史が、ジェンダーを組み込んだ歴史叙述への突破口となることを期待している。

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