『図書』8月号 【試し読み】兵藤裕己/原田宗典×原田マハ
◇目次◇
湯川秀樹,戦中から戦後へ……小沼通二
末法展始末記……橋本麻里
アメリカン・ジャーナリズムの仕事……若林 恵
熊楠が見出した体系のない学問……細矢 剛
ほとけの形見……桐谷美香
バッハ・炎上・リボーン……さだまさし
冒険者たち……柳 広司
安岡章太郎さん……加藤典洋
アナとかボルとか,私」とか「我々」とか……ブレイディみかこ
空白の時間……若松英輔
仮想と現実……齋藤亜矢
拒む女……三浦佑之
雨のなか,マリが赤のミアータを洗っていた……冨原眞弓
八月の新刊案内
(表紙=司修)
(カット=なかじままり)
◇読む人・書く人・作る人◇
後醍醐天皇の実像
兵藤裕己
建武の新政が二年あまりで頓挫したのは、かつては、歴史の流れに逆行したその「反動」性ゆえともいわれた。
たしかに南朝の重臣、北畠親房は、後醍醐の治世を「公家の古き御政(おんまつりごと)に返るべき世」と述べている。だが、「…返るべき」とは「返るはずの」という意味で、じっさいはそうではなかったということである。
たしかに南朝の重臣、北畠親房は、後醍醐の治世を「公家の古き御政(おんまつりごと)に返るべき世」と述べている。だが、「…返るべき」とは「返るはずの」という意味で、じっさいはそうではなかったということである。
後醍醐の念頭にあったのは、中国宋代の儒学とともに受容された中央集権的な官僚国家である。その施策は、官職の私物化や世襲制など、公家社会の慣行を否定するかたちで行われた。そんな後醍醐の王政(天皇親政)は、やがて足利政権の支配下で先例・故実を墨守するしかなくなった公家社会では、ひたすら負の過去として記憶されることになる。
たとえば、後醍醐の治世を「物狂(ぶっきょう)の沙汰」と評した三条公忠の発言は、一部の中世史家によって、その王権がいかに異常で、「異形(いぎょう)」であったかを強調する文脈で引用されたりする。それが「新政」によって既得権益を侵された権門層の発言であることが、なぜか見落とされているのである。
門閥や家柄の序列を解体してしまう後醍醐の王政は、近世幕末の危機的な政治情況のなかで、政治史の表舞台へ再度呼び出されることになる。
理念化された王政のシステム(いわゆる「国体」)が近世の身分制社会を相対化し、また現代の象徴天皇制へも引き継がれているしくみについては、新著『後醍醐天皇』(岩波新書)を参照していただければ幸いである。
(ひょうどう ひろみ・日本文学)
◇試し読み◇
〈対談〉旅する兄妹
原田宗典
原田マハ
やや黄色い熱を帯びた旅人
原田マハ(以下、マハ) 久しぶり。元気?
原田宗典(以下、宗典) 元気だよ(笑)。
マハ 兄妹といっても、大人になったらこういう機会でもないとなかなか会えないものですよね。普段からあまり話もしないし、まして兄の作品を面と向かって褒めることもない。でも――『やや黄色い熱を帯びた旅人』、素晴らしかったですね。これは日本中の若者が絶対読まなければいけないものだ、いまの時代に必要だと思った。身内だからあまりベタ褒めしませんけれども……。
宗典 ベタ褒めしているよね。大変お褒めをいただきまして(笑)。でもうれしいな。
マハ もちろんこれまでも「よかったよ」ぐらいは伝えることもありましたけれども。でもこれは今朝読み終わって、素直に思ったことだったし。兄は普段全然、私のことを褒めてくれないんですよ。私だって別に褒めないんだけれども、でも兄の文章はどんなことを書いても品格がある。すごく。
先輩の前で生意気なことばっかり言って恐縮ですが、文章が本当に美しいんですよ。私は圧倒されましたね。例えば最近の『メメント・モリ』とか、『〆太よ』もそうです。結構ひどいことも書いているのだけれども、何かいつも品格がある。
ブランクはあったけれども、兄は古今東西の本をたくさん読んで、長い時間をかけて自分にしか書けない文章というものを磨いてきた人、私の大きな道しるべです。それが言いたかったですね、きょう私は。
宗典 ありがとう。
マハ 何よりまず、実にいいタイトルですよね、『やや黄色い熱をおびた旅人』って。どういうふうにタイトルをつけたんですか。
宗典 タイトルは最初から決まっていたね。タイトルが決まらないと最後まで書けないんだよ。世界の紛争地帯を旅するんで、出発前に黄熱病の予防接種を受けた。それで「黄色い熱」。
マハ 兄貴がどこに行ったのか、そこで感じた戸惑いも感じられるタイトルで、まさに言い得て妙。出発は?
宗典 一九九七年六月にワクチンを打って、翌月出国したんだよ。旅をしたのは二一年前だけれど、記録を元に文章を書き始めたのは二〇〇〇年だったかな。三年ぐらい、どうしたらいいのかわからなくて。
マハ こういうことがあった、とか話だけは先にしてくれていたけど。
原田宗典氏
フィクションとノンフィクションのあわい
宗典 そうそう、旅をしたから話はもちろんあったんだけれども、それをどうしたらいいのか、最初すごく困った。詳しくつけた日記があったから、ありのまま日記として出せばいいのかなと思ったりしたけど、結局この旅の経験を小説にしたいっていう気持ちが強くて、チャレンジングだとは思ったんだけれども、ノンフィクションとフィクションのちょうど間ぐらいのところを狙えないかな、という考えに落ち着いていったんだ。
開高健さんが言っていたけれども、ノンフィクションとフィクションの狭間みたいなところを狙うとどっちつかずになって、どっちにも戻れなくなる。『やや黄色い熱を帯びた旅人』もすごく際どいところを狙っていたから、途中で止まっちゃったりしたと思うんだよね。
マハ 半分、私小説みたいな感じになってる。自分の体験したことに若干フィクションも入れながら書くということだから難しい。でも前に一度、二〇〇七年に芝居にしているんだよね?
宗典 お芝居は役者さんがやるものだから何とかなったんだよ。でも小説にするときに筆が止まった。アフリカからヨーロッパ、アジアと旅をしたけれど、ヨーロッパ編を書き上げた辺りで止まってしまった。手応えがなくなった。何か違うような気がして、しばらく――というか何年もの間、止まっちゃった。
マハ 私も例えば『楽園のカンヴァス』なんか、実は三〇年近く温めて書いたんです。一定の期間を経ないと書けないこともあるんだな、というのは最近わかってきましたけど。
宗典 でも短い時間で書くべきだったよ。志賀直哉でさえ二一年はかかっていないんだから。『暗夜行路』でも一七年(笑)。
マハ フィクションとノンフィクションのあわいを狙うんだから、もともと難しいところですよ。でも、これは普通行けないところを旅した経験が元になっていて、読者がそれを疑似体験できるという、フィクションならではの楽しみ方もある。そういう意味でフィクションとして成功していると思うんです。同時に、行った人でないと書けないリアリティがすごく出ているから、ノンフィクションでもある。
私も最近は何か書くとき、徹底的に取材をしていますけれども、自身がリアリティを持って書くことができないと、ただの絵空事(フィクション)になってしまうので、いかなるフィクションでもリアルな世界というものをどう生かしていくかということは課題かなといつも思いながらやっていますね。
戸惑いを見つけただけの旅
マハ 私、いまは多分兄貴とは比べものにならないぐらい旅をしたり、移動したりしているんですけれども、この本を読んで思ったのは、私の旅は兄貴がここに書いた旅と本質的に違う旅だな、ということなんです。
宗典 どういうこと?
マハ ジュネーブとパリ以外、私が一度も行ったことがないところばっかりだというのが一つ。そもそも旅の目的が正真正銘のジャーナリズムだな、という点も違います。
でも何より、主人公の驚きと戸惑いがすごくフレッシュにパッケージされていること。まったく古びていないでしょ? 旅から戻って二一年も経ったという時の流れを感じさせないほど、さっき帰ってきて書いたようにすごくフレッシュな感じがあった。そして土地のカルチャーの違いについてはもちろん、旅そのものに感じる強烈な戸惑い――なぜ自分は生きているんだろう、なぜここに来てこういう目に遭うんだろう、ということに対する生々しい戸惑い。
最近の私は旅慣れているから、正直なところ戸惑うことってほとんどないんですよ。だからこそ旅の戸惑いがあるということ自体、ちょっと羨ましく思いました。私が旅紀行を書いてもこんなふうに書けないと思った。私には戸惑いの感覚がもうないから。
でも旅って、戸惑ってもいいものなんですよね。大きな時間軸とか移動の中で、自分の小ささみたいなものを再確認するということも、人生においては多分大事なことで、それをこの本の主人公は体当たりでやっている。けれども半分、それは自分で望んでいるのではないと言っているようなところもあるじゃない?
宗典 実際「放り込まれた」という感じだったよ。旅って何か、子どもに返る感じがするじゃん。言葉も通じない、地図もわからない。何か新しいものを見てもいちいちハッとするし。
マハ 戸惑い続けながらも旅をして、何か最後に見つけたものというのはあったんですか?
宗典 いや、戸惑いを見つけただけだね、本当に。何で僕はこんなところに……と思いながらずっと旅をしていたよ。いまだに終わったような気がしない。「何で俺が」と思うような感じだったね。
マハ そもそもどうしてこの旅の話を受けたの?
宗典 「戦争と平和」に関わりながら活動する日本の青年たちを訪ねる旅をしませんか、ってテレビ局に請われたのが直接のきっかけだったんだよ。及び腰だったけど、自分でも「行きます」って返事した。でも「行きます」じゃなくて、行かされるんだな、とも思っていた。自分は何を見るのかな、きっと見せられるんだろうな、って旅を始める前から思っていたし。
原田マハ氏
アフリカ大陸で兄を思う
マハ それで最初アフリカに向かったんだよね。
宗典 うん、エリトリアから始まった。
マハ 私、すごく面白いことを思い出したんだけれども、実は全く同じ時期に私も黄熱病の注射を受けているんですよ。というのも、古くからの友人がNGOの仕事でジンバブエに行っていたんです。彼女に「ちょっと来ない?」と言われて、好奇心がとまらなくなってしまって。
そのとき私は森美術館にキュレーターとして就職してまだ半年ぐらい、そんなところで休みを取ったらかなりまずいことになるというところを、アフリカ彫刻の調査に行くというめちゃくちゃなことを言って、無理やり二週間の休みを取った。それで私も黄熱病のワクチンを打った。兄貴も黄熱病の注射を打ったと聞いて、お互いに「えー、すごいタイミングだね」なんて話をしたのを覚えています。
それからほぼちょうど同じタイミングで二人ともアフリカに行った。そこで具合が悪くなっちゃったんですよ。
宗典 死にそうになったんだよな。
マハ そう。ケニアで高熱が出た。夫と友人二人と行ったんだけれども、このままここで死ぬのかなと思ったときに、そういえば……と思った。そういえば今、兄貴が近くにいるんじゃないか。熱に浮かされながらずっと思っていたんですよ。今どこにいるんだろう、と。
すごい不思議な感じだったんですよね。兄妹がちょうどこのタイミングで……。
宗典 同じアフリカ大陸にいた。俺もアフリカのエリトリアでは具合が悪くなったんだよ。高山病。あれはすごい頭痛いから。
マハ 何千メートルぐらいあるわけ?
宗典 エリトリアは基本的に海抜二〇〇〇メートルとか、高いところなんだよ。それで寒いの。みんな長袖着ているんだ。紅海に面していて、ちょっと小高いところに上がって見渡すと、本当に「出エジプト」という感じ。そうしたら坂の下のほうから、羊を連れた、先がクエスチョンマークみたいになった杖を持ったおじいさんが、「モーゼよ」みたいな感じであらわれた(笑)。その人に道を聞いたりしてね。
マハ 信じられない。その人に道聞いたの?
宗典 だってほかに誰もいないんだもん。ある学校を探していたんだけれど、知らないと言われて。
マハ 結局、どうやって見つけたの?
宗典 その辺をウロウロしているうちに、帰りがけに見つかった。でも自分たちが知らないところって、世界にまだあるんだなという感じだよね。すごいところだよ。この人たちはこういうところで生きているんだ、と思ったら、思わず尊敬したね。
過酷な現実に潤いを見つける
マハ それにしても私は、この番組企画に原田宗典を選んだというテレビ局の人のセンスを感じますね。なぜ小説家に旅をさせたのか。紛争地帯に行くんだから、ドライに切り込んでいくと結構辛いところばっかりじゃない?
ジャーナリストや軍事専門家が行って書いたら、また全然違う形になっていたでしょう。だけれども作家である原田宗典がこの旅を書くことによって、どんなに殺伐とした紛争地帯にでも、砂漠にも、戦場にも、最後に潤いがちゃんともたらされているな、というのが私にはすごく救いだったんですよ。
文学的な潤いがもたらされていることで、この旅がただ辛いだけのものにはなっていないというのは、すごく思いましたね。もちろん救いの物語ではないかもしれないんだけれども、これは小説家・原田宗典の祈りなんだなというのは感じました。
宗典 いやー、よく読んでくれてるね。言ってほしいこと、全部言ってくれたね、今(笑)。
マハ 旅を通して一番印象に残ったことはなんですか?
宗典 どれも印象に残っているけど……戦争って、人を殺し合うことだけが戦争なんじゃないんだなと思ったんだよ。むしろ戦争って、殺し合いが終わった後のほうが大変なんだと思った。知らなかった。戦争って殺し合いのことだと思っていたから。でもそうじゃなかった。殺し合いが終わった後の戦争のほうが大変なんだ。
さっき「潤いみたいなものが最後にあるから救われる」って言ってくれたけれども、それを出すのはすごく大変なんだ。実際俺の旅したところに潤いなんかなかったのよ、全然。辛うじて感じられた潤いみたいなものを、やっとすくい上げた。旅に出る前は全部ちゃんと記録して、語り尽くせるだけ語りたい、書きたいと思ったけれども、それは無理だとわかった。
それでさっき君が言っていた潤いみたいなものが辛うじてあるところだけを切り取って何とか並べた。これ以外にもエピソードは山のようにあったけれども、潤いが残っているようなものはこれだけ。これぐらい。
マハ でもそれが小説家の役割だと、私は思うんだよね。兄貴じゃない別の人が行っていたら、潤いなんて多分見つけられなかったと思うんですよ。兄貴は何かあるはずだと信じていた。それをすくい上げるのは小説家の役割だと。それがこの旅に出た役割というか、ミッションだったんじゃないのかな。
宗典 そうだったね。そう思う。
マハ これも私はよく思うんですけれども、小説家に与えられた非常に大きな恩恵というのは、「残る」ということ、そして読み継がれるということなんですよね。文学に新聞報道のような即効性は何もないかもしれないんだけれども、何かが読み手の中にゆっくり浸透していく。そしてそれは何かを考えるきっかけになることがある。
だから多くの人にこの本を読んでほしい、読み継いでほしいと思いました。だって世界は二〇年たっても変わっていないんだもん。紛争は終わっていないということです。一九九七年にこういうことがあったというのを五〇年後、一〇〇年後の人が読んだときに、「人類って昔から同じようなことをやっていたんだね」となったら、それは非常に悲しい。けれどもこれは人類の知恵として残されていくべき文章じゃないかな、とも思いましたね。
宗典 どうもありがとう。久々にちゃんと話ができてよかったよ。
(はらだむねのり・作家)
(はらだまは・作家)
◇こぼればなし◇
先月、小社より刊行された『やや黄色い熱をおびた旅人』を記念して、原田宗典さんと、妹の原田マハさんによる兄妹対談が実現しました。これまで、このようなかたちでおふたりがお話されることはなかったということで、本号の「旅する兄妹」が初の兄妹対談になりました。
ふだんは顔をあわせてもあまり話もしない、また面とむかってほめるということもないというおふたり。どこか居心地のわるそうな、少し照れた感じの兄と、終始笑顔の妹との対談は、とても愉しいものになりました。お互いの旅の話は尽きず、紙幅の関係から掲載できなかったそのひとつをご紹介しましょう。
マハさんが何年かまえにシチリア島を旅行されたときのお話。英語を話せる現地の若者にドライバーをお願いして、友人の方々と大好きな映画『ニュー・シネマ・パラダイス』のロケ地、パラッツォ・アドリアーノを訪ねたのだそうです。その途中に、あの『ゴッドファーザー』で有名なコルレオーネの街がありました。その近くを通ったとき、ドライバーが「このあたりが映画の舞台になったところです」というので、「本当にギャングっているの?」と訊ねてみると、ドライバーは「その辺にいますよ」。
「嘘でしょ? どこ? どこ?」。拳銃を持った黒服の男たちがいるのかと周りを見回してみましたが、そんなギャング然とした人は見当たりません。「そこにいますよ」といわれて見てみると、羊飼いをしている人だったそうです。
マハさんが「いや、あれは羊飼いじゃないですか」と言い返すと、「映画のようなギャングの格好をしていたら目立つでしょう? シチリアのギャングはみんな羊飼いなんですよ」。ふだんは羊飼いを生業としながら、もしボスになにかあったときには「いざ鎌倉」ではないけれども、ギャングの格好になって集まるんだとか。「羊飼いのギャング」――なんだか一般的なイメージとはまったくかけ離れている感じです。
マハさんが作家として活動を始めたのは、兄の作家デビューからほぼ二〇年後のことでした。ご本人は、ご自身が小説を書くようになろうとは思ってもみなかった、と話されていましたが、少年時代から作家を志し、書き続けてきた兄の姿を間近にみてきたことが、その背中を押すことになったのでしょう。
本対談でも、「兄ではあっても作家としては先輩。先輩をまえに生意気なことばかりで恐縮ですが、文章が本当に美しい。圧倒されました。「ひまわり」の章もそうだし、「赤い花」の章も。「螢が」の文章も、ばーっと目の前に全部情景が現れて圧倒的でした。本当に美しかった」と話すマハさんからは、兄に対する強いリスペクトが伝わってきました。
そんな彼女の旅行記、『フーテンのマハ』(集英社文庫)も五月に刊行されました。個性際立つ兄妹それぞれの旅を読み比べてみるのも愉しいものでしょう。
本号の校了間際、西日本を襲った豪雨の報に接しました。被害に遭われたみなさまには心よりお見舞い申し上げます。