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『思想』11月号 カントという衝撃

◇目次◇

思想の言葉………飯田 隆

「カントに政治哲学があるか」という問いをめぐって ……………寺田俊郎
無限と性格 ――カントの遺稿の自由論 ……………城戸 淳
カントとコモンセンス……………小谷英生
欲望と道徳法則――ジャック・ラカンによるカント倫理学……………山蔦真之
カント義務論と「自己自身に対する義務」の問題……………御子柴善之
「表象にほかならないということ」――心の外へと向かうためのスアレス的方法?……………ヴォルフガング・エアトル
形而上学の「進歩」について……………山根雄一郎
純粋理性批判の秘密コード――理性批判とは何をすることであったのか……………瀨戸一夫
超越論的観念論と反応依存性――その反-懐疑論的帰結……………千葉清史
綜合的判断と実在性――カントによる分析的/綜合的の区別の成立……………檜垣良成
数理科学とカント哲学の可能性……………藤本 忠
新カント派と心理学――相互批判的関係とその結末……………ウーヴェ・ヴォルフラート
文化主義の帰趨――新カント学派の哲学と「文化主義」……………大橋容一郎
 
「カント」特集を記念して、特設ページを掲載しています。
ぜひ併せてご覧ください。
 
 

◇思想の言葉◇

虹と現象
飯田 隆
 
 『虹と空の存在論』という題で小さな本を書こうと思い立ってから,いつのまにかずいぶんと時間が経ってしまった.それでも,この間,何もしていなかったわけではなくて,この同じ表題で話もしたし,虹に関しては,英語ではあるが,それなりにまとまったものも書いている.というわけで,今年は少しがんばって書き上げたいものだと思っている.なぜ虹と空なのか.いくつかの理由の中から,ここでは二つ挙げておこう.

 まず,こうした現象を考察することが,哲学,とくに知覚の哲学というものが,いかに大地に縛り付けられたものであったかを,改めて認識させてくれるということがある.哲学において,知覚の対象として取り上げられるものは,たいていの場合,触れることのできないほど遠くにあるものではない.空,それから,虹や夕焼けのような空に現れる現象が,知覚の哲学で扱われることはあるのだろうか.あるのかもしれないが,私はあまり見たことがない.

 第二に,いま述べたことと矛盾するようにみえるが,空はともかく,虹は,哲学の歴史を通じて大哲学者とされる幾人かの人たちが共通に論じた主題である.アリストテレスがその「気象論」で与えた虹の説明は,その後二千年にもわたる期間,デカルトの,同じく「気象論」と題された論考が出るまで,標準的なものとされた.デカルトのこの論考は,有名な「方法序説」を冒頭にもつ,かれの論文集の中の一篇であるが,人類の歴史においてはじめて,虹の生じる原因を科学的に突き止めたものであり,この業績だけでもデカルトの名前は歴史に残るに十分である.

 虹についてのアリストテレスの説明も,また,デカルトのそれも,現在「哲学」と呼ばれる分野に属するものであるよりは,科学の領分に属する.デカルトは実際のところ,現代的な意味での哲学者であるよりは,「科学者」と呼ばれるのがふさわしいと私は思う.ただし,デカルトの時代にはまだ科学者のようなものは存在しなかったことは覚えておかなければならない.ガリレオも,デカルトも,また,デカルトの説明に欠けていた,虹の色に関する正しい説明を補ったニュートンのいずれも,当時の呼び方では,「科学者」ではなく,「哲学者」だったはずである.

 ライプニッツもまた,このような「哲学者」のひとりであったが,虹の科学については,かれらしくもなく,新しいものを付け加えたようにはみえない.その証拠に,虹についての科学的探究の標準的歴史を与えているボイヤーの『虹―神話から数学へ』(一九五九年)にライプニッツの名前は,ごくわずかの回数だけ,しかも,とくに虹と関連してではなく現れるだけである.しかしながら,狭い意味での哲学に関しては,ライプニッツほど虹を重視した哲学者はいなかったのではないだろうか.

 このあたりはすべて研究書からの受け売りにすぎないのだが,ライプニッツはしばしば,物質的事物が非物質的なモナドの集まりにほかならないことを,虹が大気中の水滴の集団と太陽からの光の相互作用であることになぞらえて説明しているという.虹は,ライプニッツにとって,物質界の説明のパラダイムである.突然現れては突然消えたり,近づこうとしても遠ざかるだけだったりという虹の特徴は,虹を「現象」と呼ばれるにふさわしいものにしている.しかし,デカルトが与えたような虹の説明は,虹のいわば本体が大気中の水滴と太陽からの光であることを示している.それゆえ,虹は,現象の中でも,夢のようなものとは違って,「よく基礎づけられた現象」である.ライプニッツの主張は,物体は,虹と同様の「よく基礎づけられた現象」であるということになるのだろう.ただし,物体を基礎づけるものが,水滴や光のような微細な物質ではなく,非物質的なモナドである点が,虹と違うところである.

 虹について論じた大哲学者の最後に来るのは,カントである.ただし,「論じた」と言うのは言い過ぎだろう.むしろ「言及した」あたりのところかもしれない.とはいえ,虹への言及があるのは,専門家しか知らないようなテキストにおいてではなく,『純粋理性批判』,しかも,これに挑戦するひとの大半が,そこまでは読むだろうと思われる「超越論的感性論」においてである.

 これは,「超越論的感性論への一般的註」と題されている部分の途中の「われわれは現象の間に,現象の直観に本質的に属しているものと(……)直観に偶然的な仕方でのみ属しているもの(……)を区別する」と始まる段落(A45-46/B62-63)である.ここでカントは,現象と物自体という区別が,かれが意図するような「超越論的な」仕方以外の仕方で使われることに注意を促しているが,そうした使い方の実例として挙げられているのが,虹である.ここで述べられているのは,だいたい次のようなことである.

 空に出ている虹は現象だが,その原因となっている雨の方は物自体だといった言い方があることをカントは認める.しかし,同時にかれは,この言い方は,現象と物自体という区別でかれが本来意図しているものではないことを強調する.虹の原因となっている雨滴も,それが経験される対象である限り,カントの意味では現象なのである.科学は,雨滴をさらに,その構成要素にまで分析して,それがどのような法則に従って,それがもっているような形をもつようになるかを明らかにするだろう.こうした過程は,さらに先まで続けることができる.しかし,こうした過程をどこまで続けようとも,それはすべて現象のなかでのことでしかない.

 ライプニッツは,現象から真の実在へと到達するためのモデルとして,デカルトによる虹の説明を用いる.それに対して,カントにとって,虹の説明は,ある現象を,より基本的な現象によって説明する際の典型的な方式を示すにすぎない.デカルトやライプニッツがその建設者のなかに数えられる物理学は,われわれが目にするような物体の基礎には,分子があり,その基礎には,原子が,さらにその基礎には,素粒子が,さらにその基礎には,……といった具合に進んできた.こうした過程を通じて,物理的にもっとも細密な記述が世界の真のあり方を与えるといった信念がはたらいてきたことは疑いない.

 『純粋理性批判』のこの箇所で表明されている考えは,こうした信念に冷や水を浴びせる効果をもつ.どれだけ描写を細密にしたところで,科学は,現象の外に出ることはできず,世界の真のあり方は現象のなかには示されないからである.
 なぜ現象の中にとどまらざるをえないのだろうか.カントがそう考えた理由について,私が何か言う資格はない.ここでは,私自身も納得でき,そして,たぶんカントがもったさまざまな考えのうちのどれかと関係があるかもしれない理由を挙げたい.

 それは,世界の中のある現象を,より基本的な要素によって説明しようとする試みはすべて,一般性をもつ何らかの法則を引き合いに出さざるをえないことから来る.ある物理現象を,その現象の構成要素のあいだに成り立つ物理法則によって説明する場合が,いちばんわかりやすい.その際に用いられる物理法則は,あらゆる時点と場所で成り立つものでなくてはならない.法則とは,そういうものであり,法則が一見成り立たないと見える事例はすべて,何らか別の法則の干渉によるものであって,法則がそこで成り立たないことを示すものではない.ところで,カントもよく知っていたように,ヒュームは,法則というものが存在するという信念を循環に陥ることなしには正当化できないことを示した.しかし,発見されるべき法則が存在するという信念なしには,科学的探究は意味を失う.したがって,科学によって明らかにされるのは,法則性という網をかけたうえで得られるものにすぎない.現象とは,こうした網にかかったもののことである.網をかける前がどうだったか,網からすり抜けるものが何であるかは,知りようがない.

 ライプニッツのように,より基本的なレベルが物質的なものでない場合でも,事情は変わらない.時点や場所への言及は必要ないとしても,別の何かに関して一般的に成り立つ法則なしでは,説明というものは成立しない.物理的法則の場合,世界が時間と空間に関して一様であるという信念が必要だったように,ここでも,法則がそれに関して一般的に成り立つ何かに関して一様であるという信念が必要になる.そして,その信念を循環に陥ることなしに正当化することはできない.ライプニッツは,神によって,こうした一様性を保証できたかもしれないが,これは,われわれが取ることのできる道ではない.

 虹と空について小さな本を書こうと思った,もともとの動機は,言語や論理といった「ちまちまとした」事柄だけでなく,ときには,スケールの大きなものについても考えてみたいということだった.だが,それが,これほど大きな話になるとは思わなかったのは,われながらうかつとしか言いようがない.
 
 

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