「旅立つことば」 リービ英雄さん×温又柔さんトークイベント
2019年9月7日
作家のリービ英雄さんと温又柔さんが、今年それぞれ新著『バイリンガル・エキサイトメント』(岩波書店)と『「国語」から旅立って』(新曜社)を刊行されたことを記念して、公開対談イベントをおこないました。じつは大学での先生と教え子という間柄であるお二人、大学時代のエピソードも交えつつ、「ことば」をめぐる気の置けない刺激的な会話が弾みました。話題はまず今年の改元のはなしから――。
令和のバイリンガル・エキサイトメント
リービさんはもともと『万葉集』研究から出発された方で、1982年には『万葉集』の英訳で全米図書賞を受賞、著書の『英語で読む万葉集』(岩波新書)はロングセラーになりました。中西進さんとも親交が深く、改元のときには取材が殺到し大変だったそうなのですが、令和について次のように思われたそうです。
リービ英雄 令和は結局「バイリンガル・エキサイトメント」っていうこと。(…)天平時代に漢文にすごく通じている日本の官人たちが集まって、そこで和歌を書いてみようということになって、そこから令和が来ているわけです。
『万葉集』はよく日本最古の和歌集といわれ、改元のときにもその点が強調されましたが、そこに収められた歌にはむしろ国語としての日本語という枠を超えた、複数の言語を横断する人たちの「多言語的(バイリンガル)な高揚感(エキサイトメント)」があるのではないか、というのがリービさんの見立てです。
温さんは、リービさんがそのように日本最古の文学表現である『万葉集』から刺激を受けて新しい日本語を書き、日本語の可能性そのものを突きつづけていることに感銘を受け、その仕事をどう受け継ぐべきか毎日考えていらっしゃるとのこと。温さんのデビュー作『好去好来歌』(『来福の家』白水Uブックス収録)には、山上憶良の歌がタイトルに用いられていますが、山上が朝鮮出身であるという中西進さんの説と、李良枝(イ・ヤンジ)の小説『由熙(ユヒ)』(講談社文芸文庫)が発想の源にあり、ともにリービさんから学ばれたのだそうです。
温さんは、リービさんがそのように日本最古の文学表現である『万葉集』から刺激を受けて新しい日本語を書き、日本語の可能性そのものを突きつづけていることに感銘を受け、その仕事をどう受け継ぐべきか毎日考えていらっしゃるとのこと。温さんのデビュー作『好去好来歌』(『来福の家』白水Uブックス収録)には、山上憶良の歌がタイトルに用いられていますが、山上が朝鮮出身であるという中西進さんの説と、李良枝(イ・ヤンジ)の小説『由熙(ユヒ)』(講談社文芸文庫)が発想の源にあり、ともにリービさんから学ばれたのだそうです。
温又柔 『万葉集』に視点があるような人から李良枝の越境性みたいなものを直接聞いちゃったんですね。(…)自分がどういう言葉で生きてきたか、自分が何語によって引き裂かれたり、何語によって自分が疎外感を抱いたりしてきたかを書いてしまえばいいんじゃないかってことは、やっぱりリービ英雄ゼミにいたからこそ掴めたテーマなのかなという風に思っているんです。
標準でないことばのおもしろさ
温さんの新著『「国語」から旅立って』は、台湾語と日本語のあいだで揺れながらことばを習得していく自身の体験を語り、「国」や「アイデンティティ」といった固定概念を繊細に解きほぐしていく大変魅力的な本ですが、最終章ではとくにリービさんのことが語られています。たとえば、リービさんの小説に出てくる「美國人」ということば――「美國人」は中国語で「アメリカ人」という意味で、中国語では「メイゴーレン」と発音します。しかしリービさんの小説では「メイゴーレン」ではなく「ビーゴーラン」とルビが振られている。これはじつは中国語ではなく台湾語の発音で、幼少期に台湾にいたリービさんの私的な体験が反映されたものです。また、その背後には冷戦時代の複雑な国際政治関係も透けてみえます。温さんはこの箇所に出会って興奮を覚えたそうです。
温又柔 日本文学を読んでいてこんな形で台湾語と遭遇する日が来るなんて思ってなかった(…)台湾、香港などで使われる繁体字というのがあるんですけども、それを日本語の中に混ぜ合わせて小説を書いていいなんてまったく思っていなかった(…)私小説なのに、こんなに、こんなにややっこしいおもしろさだっていうのか。
これを受けてリービさんが引用したのは、アメリカの黒人作家ジェイムズ・ボールドウィンのエピソードでした。ボールドウィンが亡くなった後、彼の教え子たちにインタビューがなされたときのことです。
リービ英雄 たしか黒人の女の子がこう言った「ボールドウィン先生から初めて自分の黒人英語は、ちゃんと文学に書いていいってことを聞きました」。それこそ白人から見たら非常に乱れた汚い標準でない英語を、そのまま小説に台詞として書いていいなんてそれまで考えたこともなかった。(…)これは日本語およびその方言の問題にもつながるし、沖縄の問題にもつながる。
非標準的なことばを積極的に小説にもちこむこと――リービさんが日本文学に、英語だけでなく中国語や台湾語、最近はチベット語を取り入れて書かれてきたのは、このような感覚と通じる部分があるのではないかと思います。
非標準的なことばを積極的に小説にもちこむこと――リービさんが日本文学に、英語だけでなく中国語や台湾語、最近はチベット語を取り入れて書かれてきたのは、このような感覚と通じる部分があるのではないかと思います。
「国際的」であることの両義性
ただ、「バイリンガル」であることや「国際的」であることを手放しで称賛し、それをそのまま受け入れてしまってよいかというと、そこには単純には割り切れない問題もあります。温さんは日本社会や日本の文壇で自分が好意的に受け入れられていることについて、「本当にうれしいし、一人じゃないって思える」一方で、自戒もしていると語りました。
温又柔 難しいんですけど、とにかく私自身がそこに胡坐をかいちゃうとその先が見えなくなるというか、下手したら日本社会とか日本の文学の世界が求めている、そのおりこうな移民像の小説ばっかり量産してしまう人間に、なんかこう落ちぶれてしまったら怖いなっていう恐怖があるんですね。
リービさんはこの発言を受けて、「受け入れられるとか、受け入れられないなんていうことはほとんど考えてない。嫌だったらもう読まなくっていいっていうふうに言っている。(…)開きなおっちゃうんだよ。恐ろしいね(笑)」と、経験の積み重ねを感じさせるアドバイスをしつつ、多和田葉子さんのことばを引いて次のように応答されました。
リービ英雄 彼女(多和田さん)もよく言っているわけですが、何かの移民であるとか帝国主義であるとか人種差別であるとか貧困であるとか、そのためにドイツへ行ったわけではない。彼女が僕に言ったのは「わたしは根拠がない」。根拠がないと、ふつうの社会派的なことばで説明できるような根拠はないということになる。
複雑さを捨てないこと
私たちの世界が複雑であり、世界を記述するための主な手段がことばである以上、ことばをめぐって考えることはいつでも複雑で困難です。しかし、その複雑さを考えることをあきらめず、複雑さの由来を丹念に丁寧にたどっていけば、世界をべつの角度から眺めることができ、ときに大きな自由を感じることもできます。リービさんと温さんの本を読んでいて、またお二人の対談を聴いていて感じたのは、その視野を広げてくれる解放感でした。温さんのつぎのことばが印象に残りました。
温又柔 台湾の場合は台湾語なので中国語だし、そこに中国大陸の存在も出てくるし、日本語ともう一つのあいだで揺れているって言いたいのに、その「もう一つ」が曖昧なんですよ。二つじゃなくて、一つプラス何かっていうのが、私のやっぱり思考させられるきっかけというか。
そしてそんな温さんの書かれた本の魅力について、リービさんが端的に語ったつぎの一言もすばらしかったです。
リービ英雄 すごくいいなあと思ったのは、わかりやすいことばなんだけど複雑さを捨てていない。
対談ではほかにも安部公房や太宰治のことから、『ラストサムライ』や温泉のことまで面白い話に尽きなかったのですが、あまりにも長くなってしまいそうなのでイベントレポートはこのくらいで。
対談のくわしいようすは、新曜社さんのWebマガジン「クラルス」にアップされる予定です。お楽しみに!
(編集部N)