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『思想』2020年11 月号 【特集】桐野夏生の小説世界

◇目次◇

【特集】桐野夏生の小説世界
思想の言葉………沼野充義 
桐野夏生とその時代――『OUT』『グロテスク』『メタボラ』について………白井 聡
神話から物語へ――『女神記』試論………田中貴子
『ナニカアル』の〈傷痕〉――戦争/植民の「記憶」と「記録」………坂元さおり
「バラカ」から「薔薇香」へ――忘却に抗う虚構の強度をめぐって………岩川ありさ
桐野夏生の「1972年」――『抱く女』『夜の谷を行く』『夜また夜の深い夜』 ………成田龍一
予定された損傷を疑う――『奴隷小説』『路上のX』と現代日本の帝国的暴力………内藤千珠子
『日没』,消えた文学空間への跳躍………西谷 修
 
 
◇思想の言葉◇
 
夜明けはいつ来るのか?――『日没』の問いかけること
沼野充義

 桐野夏生氏の新作長編『日没』は、現代日本を舞台としたディストピア小説、新たな収容所小説である。「エンタメ」分野の作家と見なされる主人公、マッツ夢井は、文化文芸倫理向上委員会(略して「ブンリン」)という政府機関らしいところから出頭を命じられ、事情がよく分からないまま、強制力を感じてその召喚に応じ、指定された千葉県の辺鄙な海辺の町にみずから出かけていく。しかし、主人公が連れて来られたのは、海の上にそそり立つ断崖のまぎわに建てられ、絶対に逃げ出すことのできない「療養所」で、そこに収容された作家たちは「正しい」小説を書けるようになるまで、矯正されていくのである。重苦しい主題を扱ってはいるが、素晴らしいページターナー、つまり一度読み始めたら最後まで一気に読み通させるような小説になっている。小説を読むことの面白さを久しぶりに堪能した。
 しかし、もちろん、ただ面白いだけの娯楽作品ではない。『日没』は、めりはりの利いた比較的単純な筋書きと人物構成に支えられているだけに、自意識過剰になってしばしば何が論点であるのか曖昧にならざるを得ないいわゆる「純文学」よりも鮮やかに、現代社会にとって喫緊の問題をいくつも私たちに突き付けてくる。いや、誤解を避けるためにあらかじめ強調しておきたいのだが、私は「エンタメ」「純文学」といった伝統的なジャンル分けはとっくに有効性を失っていると考えているので、ここで言いたいのは、そういった区分を超えて『日没』が本質的な問題を提起しているという意味で、本物の文学だということだ。
 
 新たな「収容所文学」
 狭い場所に閉じ込められた人間の極限状況を描く文学作品には、長い伝統がある。閉鎖空間の代表的なものは、牢獄と病院であろう。牢獄について言うならば、二〇世紀ではナチスドイツやスターリン時代ソ連の全体主義体制の勃興を背景に、牢獄の究極の形である強制収容所の経験を描いた作品が多く書かれることになった。
 そういった収容所での人間存在に共通する際立った特徴の一つは、人間から固有名が剥奪され(つまり個人の尊厳が奪われ)、番号で呼ばれ管理されることだ。ナチスドイツの収容所において、『夜と霧』のフランクルは被収容者一一九一〇四番となり、『これが人間か』のプリーモ・レヴィは一七四五一七という番号の入れ墨を腕に彫られた。ソ連のラーゲリ生活をフィクションの形で描いたソルジェニーツィンの『イワン・デニーソヴィチの一日』では、主人公はЩ-八五四となる。もっともこれは収容所には限らない。二〇世紀のディストピア小説の元祖とも言うべきザミャーチンの『われら』では、はるか未来の恐るべき「単一国」の究極の管理社会にあって人々にはそもそも固有の名前が与えられておらず、「魂」という不治の病を抱えてしまった主人公はД-五〇三である。桐野夏生の『日没』もこの伝統に連なっており、主人公のマッツ夢井は療養所ではB98となる。この小説に登場する他の作家たちにも共通していることだが、作家のもともとの名前にことさら奇妙に響くものが多いのは、それを剥奪されて番号に置き換えられたときの落差の大きさを強調する効果を狙ってのことだろうか。現代の日本で、いわゆる「マイナンバー」に対して根強くある抵抗の根底には、このように人間が番号によって管理されることへの恐怖があるのではないか。収容所の管理された空間では、言動がすべて監視され、密告の網の目が張り巡らされているものだが、その点でも『日没』は、古典的ディストピア小説『われら』やオーウェルの『一九八四』と共通している。
 文学における閉鎖空間のもう一つの特権的な場所、病院について言うならば、精神病室を舞台に、患者と医師のどちらが正常なのか次第にわからなくなってくる過程を描いたチェーホフの恐ろしい『六号室』や、結核にかかった青年が長期間サナトリウムに滞在し、世界の縮図のようなその場で成長していくというトーマス・マンの教養小説『魔の山』などがすぐに頭に浮かぶ。病院は単に病人を治療する場所ではない。社会に悪影響を与える恐れのある人物を隔離する場所としても機能するため、しばしば収容所と一体化する。旧ソ連時代に反体制活動家が心を病んだ人間と見なされ、精神病院に入れられたことはよく知られている。『日没』においても作家矯正施設は、社会常識に反した変態的なことを書く作家を隔離するための病院という側面を兼ね備えている。ここに登場する相馬という精神科の女医は、アウシュヴィッツの「死の天使」と呼ばれた医師メンゲレにも譬えられる人物で、主人公を「統合失調症」と診断し、治療されるべき存在というよりは、研究の素材として扱っている。スーザン・ソンタグは『隠喩としての病』で、病気が昔から社会の腐敗の隠喩として用いられ、特に近代の全体主義において病気は敵を口汚く罵るレトリックとして頻用され、病気はそこでは罰せられ、除去されるべきものとされたことを指摘しているが、『日没』における作家の病も同様である。
 
 表現はどこまで自由なのか?
 『日没』で主人公を始めとする多くの作家たちが異常ないしは危険と見なされ、施設に収容されるのは、彼らが権力側の設定した基準からはずれた暴力や犯罪を「あたかも肯定するかのように」描いているからである。療養所長は主人公に「自由には制限がある」「それが社会の常識」であり、文学の創作もヘイトスピーチと同様に規制されなければならない、と主人公に言い聞かせるのに対して、主人公は文学の虚構は自由であり、そもそも文学的創作ではないヘイトスピーチとは違う、と反論する。スリリングで手に汗を握らされる議論だ。おそらく多くの読者が主人公の肩を持つのではないかと思うが、慎重に考えてみると、事はそれほど単純ではない。ヘイトスピーチがいかに許しがたいものであったとしても、ヘイトスピーチと芸術的表現の間に明確な線を引くことは難しい場合が多く、ヘイトスピーチの全面的規制は結局、言論の自由の制限と国家的管理につながりかねない。『日没』はまさにそのジレンマをついている。ヘイトスピーチを法的に、つまり国家的に禁止すべきだとする世論の圧力は、今後表現者たちにはますます扱い難い両刃の剣となっていくことだろう。
 創作の自由を主張する主人公に対して、国家権力を代弁する立場の所長は「社会に適応した作品」すなわち「正しいことが書いてある作品」を要求する。作家は政治には口を出さず、政権批判などは止めて、「心洗われる物語」を書くように、と促すのだ。これはあながち突拍子もない非現実的な空想とは言えないだろう。折しも、発足したばかりの菅政権が、政府の政策に対して批判的な六人の学者を、日本学術会議会員に任命しないという事件が起こったばかりである。しかし、表現や良心の自由に対する権力の乱暴な介入に対して抗議するのは当然であるにしても、文学的創作そのものに即して、表現はどこまで自由なのかという問題を考えると、やはり事はさほど単純ではないように思う。
 一例を挙げれば、ロシア出身の亡命作家ウラジーミル・ナボコフに有名な『ロリータ』という小説がある。十二歳の少女をハンバートという四十歳近い男がかどわかして性的関係を結び、車でアメリカ中を連れ歩くという行動は、「社会常識」からすれば現実の人間には到底許されるものではない。それではフィクションの中ならば、無条件に許されるものだろうか。実際、『ロリータ』は現代の古典とされる作品であるだけに、アメリカの大学では授業でも取り上げられることがしばしばあるが、その場合、学生から、あるいは学生の父母たちから抗議を受けることがあり得るのだ。そういった抗議に対して、「これは美的価値を追求した芸術作品なので、そういった常識的なモラルを超えたものだ」と単純に突っぱねることは、難しい。そこで、「ハンバートの不道徳な悪事は結局破綻に終わり、彼は罰せられているのだ」といった論法に訴える必要が出てくる。もっと洗練された形では、アメリカの哲学者、リチャード・ローティが、ナボコフは精妙な書き方を通して、他者の不幸に対して一貫して無関心なハンバートの残酷さをあぶりだしているのだ、というナボコフ擁護論を打ち出している。しかし、結局のところ、それでは芸術を否定する勧善懲悪に陥ってしまうのではないか、という疑念は拭えない。ナボコフの小説が優れたものであるとしたら、それはどうしてなのか、という問題に、私たちは送り返されることになる。
 
 優れた文学とは何か?
 『日没』は、こういった問題を私たちに改めて――あまりに基本的な問題なので、普段やり過ごしてしまうようなことだ――考えよ、と迫ってくる。優れた文学とは、いったいどんな文学なのか? その問題に関連して、本書を通じて響いてくるのは、「エンタメ作家」と「ノーベル賞作家」の二項対立である。療養所長は「人が読んで面白がるコンテンツを作るヤツら」を「ただのエンタメ作家」と馬鹿にし、ノーベル賞作家とは同列には論じられないという。率直なところ、本書における「エンタメ作家」と「ノーベル賞作家」の対比には違和感を持ったことは書き添えておこう。確かに、かつて五木寛之が活躍を始めた時期には、「エンタメ」というのは汚れた差別的な言葉だったと彼自身が述懐しているし、筒井康隆・小松左京・星新一といった作家たちが現代日本SFを切り開いていたころ、SF界は「メインストリーム文学」から見ると「ゲットー」のようなものだと、SF関係者は自嘲的に嘆いていたものだ。そのような分類は先にも述べたように現代ではほとんど無効になっていると私は考えるし、「エンタメ作家」に対置されるべき「純文学」を「ノーベル賞作家」で代表させるのは極端な図式である。しかし、『日没』を読む限り、世間ではそのような見方がいまだに根強いということなのだろうか。そのような差別を跳ね返そうと、『日没』の主人公は不毛なジャンル分けを超えようとする。そして療養所側との議論のさなか、「良い小説」とは何かと問われると、読み手の側には立たない「自分に正直な小説」だと答える。小説のクライマックスとも言える。
 この見事な答を読んで私は、もうかれこれ二十年近く前、私自身が司会となってモスクワで行った日本とロシアの作家たちの座談会を思い出した(日本側は島田雅彦、多和田葉子、山田詠美。「日露作家座談会 火星にリンゴの花咲くとき――日本とロシアの作家の出会い」として、『新潮』二〇〇一年七月号に掲載)。そこではやはり作家は誰のために書くのか、という問題が提起され、アクーニンやソローキンといった現代ロシアを代表する人気作家たちが、本物の作家は読者のことなど無視して、自分のために自分の書きたいものを書くものだと、きっぱり、あたかも自明のことのように口をそろえて言ったのが印象的だった。それに対して、山田詠美が少し不服そうに、自分はやはり読者に読んでもらえなければつまらない、と反応し、ロシアと日本の立場の食い違いが鮮やかになった。
 ロシアのような、全体主義的な言論統制を経てきた国の作家たちは、「注文に応じて」書くことに対する警戒心が強い。「注文」は様々な次元から作家に降りかかる―国家によるイデオロギー的なものだけでない。売れる商品を求める市場の要請もあれば、読者の期待もあり、実際、読者に気に入られて人気を博したいという誘惑に負けて自分を曲げる作家も少なくないだろう。しかし、優れた作家はこれらすべての注文を跳ねのけなければならない、と言うのである。作家の創作の自由が奪い取られるという恐るべき経験に鍛えられて出てきた作家の姿勢である。それに比べると日本では、作家の自由は勝ち取るべきものではなく、もともと与えられているという感覚が(幻想に近いものだとしても)かなり強いのではないか。
 桐野夏生の『日没』は、決して絵空事ではない、近未来の日本に迫っている事態を重苦しい色調で描きだしている。その意味では「社会派」の警告小説なのだが、その一方で、小説についてのこのような本質論が打ち出されることによって、小説についての小説、つまりメタ文学としての力を獲得している。日没はこれから闇に向かう時間帯だが、この力があればこそ、夜明けはまたやって来る。必ず。

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