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『図書』12月号【試し読み】酒井啓子/興膳宏/川端裕人

◇目次◇

台南の風神雷神            井田太郎
男らしさ               畑中章宏
次の世代、子孫のために        藤原辰史
二度断られ、三度目は……       鷲巣 力
レプンクルたちの目的         中川 裕
架空の理想を積み重ねる        片岡義男
自分を愛せるようになる手助け     都甲幸治
虐殺の匂い、柘榴の香り        亀山郁夫
黒石、売り出す。           四方田犬彦
顔とアイデンティティー        時枝 正
翻訳詩アンソロジーの楽しみ      斎藤真理子
武士の魂は「おかざり」か?      橋本麻里
十二月の新刊案内
  
(表紙=司修) 
(カット=松下好)
 
◇読む人・書く人・作る人◇
”蝶々の羽ばたき” から世界を読み解く

酒井啓子

 コロナのせいで、外国に行けない。地域研究者にとって致命的だと思いきや、オンライン会議の発達で、毎日のように海外の研究者と意見交換ができる。これは、すごい。もともと治安上の問題で訪問できなかった紛争地の人たちと、顔を見ながら話ができる。ローカルとグローバルが、同じ場で対話する。

 国際政治の出発点は国と国との関係だ。国際経済には、多国籍企業のグローバルな活動がある。エリート外交官とか国際派ビジネスマンとか、エスタブリッシュされた人々によって世界は動かされていると思われがちだ。だが、実際にグローバルな流れを支えているのは、たくさんのローカルな普通の人々だ。海やフェンスを越える難民がヨーロッパ政治を揺り動かし、生活苦から焼身自殺した露天商の若者が、アラブ世界での広範な抵抗運動の発火点になる。ブラジルの蝶々がテキサスで竜巻を起こす、的な議論は一見荒唐無稽に見えるかもしれないが、イラクの片田舎の活動家とニューヨークの新進気鋭の社会学者と東京の一介の学生がオンラインでおしゃべりするのが当たり前になったコロナ禍の今では、途上国の片隅から世界が動くことも、十分当たり前にありうる話だ。

 そんな視座を実際の国際社会に当てはめたらどうだろう、と考えたのが「グローバル関係学」という発想である。世界は国家や個人が動かしているのではない。それらの間に張り巡らされた関係が変化することで、動く。シリーズ「グローバル関係学」が解明しようとするのは、一匹の蝶々の羽ばたきである。

(さかい けいこ・地域研究・イラク政治)

◇試し読み⓵◇

杜甫の作った冷やし麺
――「槐葉冷淘」の詩について
興膳 宏
 
 杜甫は代宗(だいそう)の永泰元年(七六五)五月、成都での生活を切り上げ、長江を下って、一時雲安(うんあん)に滞在したのち、翌大暦元年(七六六)暮春、夔州(きしゅう)(現在の重慶市奉節(ほうせつ)県、重慶市の東端)に至る。以後、大暦三年(七六八)正月まで、二年近くをこの地で過ごす。
 夔州滞在期はそれほど長くはないが、詩作は一段と数を増した。杜甫は成都を去って以来、持病である消渇(しょうかつ)(糖尿病)の悪化に悩まされ、詩中でもしばしば病状を訴えている。しかし健康状態に反比例して創作意欲はますます旺盛になった。ただ夔州時代の詩は、七律の名作「秋興八首」などを除けば、後世において必ずしも全てが好感を以て迎えられたわけではない。宋の朱熹の批判はその代表的なものといえる。
 朱熹は杜甫の詩を評して、「若いころの作はきめこまやかだったが、晩年には横逆(やりたい放題)で手が着けられない。思いつけば何でも韻を踏んで詩にしてしまう」といい、また「夔州の詩はくだくだしくて、以前の詩の良さに及ばない」ともいっている(『朱子語類』百四十論文篇下)。
 これは主として古体詩に関しての批判のように思われ、「くだくだしい」(原文は「鄭重煩絮」)と評するのは、その理屈っぽさが嫌われたのであろう。しかし、一方また生活の細部に視線を注ぐ理に勝った作風は、蘇軾や黄庭堅など宋の詩人たちには、朱熹とは逆に好感を以て迎えられた。確かに晩年の杜詩には宋詩の作風を導いたような特色がある。
 
 杜甫は夔州時代に稲作に本格的に取り組んだり、蜜柑の栽培を試みたりと従来になかった日常生活の営みを古体詩に詠じているが、いまここで取り上げる「槐葉(かいよう)の冷淘(れいとう)」と題する五言古詩もその一つである。題材となった「槐葉の冷淘」とは、槐(えんじゅ)の葉を細かく搗(つ)き砕き、その汁で小麦粉を捏ねて作った夏向けの食品で、句中にはその大まかな製法まで記されている。「淘」は「よなぐ」と訓じ、「水にひたして振り動かし、不純物を取り除く」こと(角川『新字源』)。こうした食物をあつかった詩、しかもレシピ付きの詩は、もちろんそれまでには例がなかった。詩は全二十句から成り、前半十句で製法と美味を描く。
 
 青青高槐葉 青青(せいせい)たる高槐(こうかい)の葉
 采掇付中厨 采掇(さいてつ)して中厨に付す
 新麺来近市 新麺 近市より来たり
 汁滓宛相倶 汁滓(じゅうし) 宛(あた)かも相い倶(とも)にす
 入鼎資過熟 鼎に入るるは過熱に資(よ)
 加飡愁欲無 飡(さん)を加えては無からんと欲するかと愁う
 碧鮮倶照筯 碧鮮 倶に筯(はし)を照らし
 香飯兼苞蘆 香飯 苞蘆(ほうろ)を兼ぬ
 経歯冷於雪 歯を経(ふ)れば雪よりも冷たく
 勧人投比珠 人に勧めては投ずること珠に比す
 
 およその意を説明すれば、次のようになる。
 高くそびえる槐の青い葉を摘んで、それを台所方に手渡した。ちょうど近くの市場から「新麺」とれたての小麦粉が届いたところで、それを絞りたての槐の汁や絞り滓(かす)の中に入れて混ぜ合わせる。「麺」は今のうどんや蕎麦の類、中国語でいう「麺条(ミエンティヤオ)」の意味ではなく、その原料となる小麦の粉末をいう。小麦粉を槐の葉の絞り汁と混ぜ合わせたあとどうするのか、それは説明されていないが、次の句に「鼎(なべ)に入れ」て煮ることが述べられているので、その前段階として、うどんや蕎麦を打つときのように、小麦粉を捏ねる作業のあったことは疑いない。要するにグルテンが固まって粘りが出るまで、両手でひたすら捏ねあげたはずである。十分に固まった小麦粉のかたまりを薄く伸ばして、手でちぎるなり、刃物で切るなりして、鍋に投入し、「過熱」とあるから充分に煮るのであろう。「鼎」は古代の器物のことだが、実際には鍋。そうしてできあがったものを水で冷却し、食卓に上せると、その美味なることお代わりをする間もなく、無くなってしまうのではないかと心配するほどだ。「加飡」は、たくさん食べること。
 できあがった料理は、槐の葉の鮮やかな青さが箸に照り映えて、さらに「苞蘆」とはアシの若芽で、それを炊きこんだ香り高い飯が添えられる。歯ざわりは雪よりも冷たく、人さまに勧めれば、予想だにしなかったご馳走として驚かれるだろう。「投ずること珠に比す」とは、明月のようにみごとな真珠でも、闇夜にいきなり人に投ずれば、思いがけぬことでびっくりするようなものだ。
 これに続く後段の十句は、いま引用を省略するが、こんな美味を自分ひとりで楽しむのはもったいないので、ぜひ長安の都におわす天子にも、ささやかな贈りものとしてお届けしたいという願望を述べる。天子も夕涼みの折りには、この味をきっと気に入って下さるだろう。
 
 杜甫がかくも嘆称する「槐葉の冷淘」とはどんな料理だったのか、もっと具体的なことが知りたくなるが、それについて詳しく考証したのは、近代の中国文学者青木正児(まさる)氏の「饂飩(うどん)の歴史」(『華国風味』所収、一九四九年)である。青木氏は「冷淘は我国の冷麦(ひやむぎ)のたぐひで、亦一種の切麺である」という。「切麺(チエミエン)」とは小麦粉を水で捏ねたものを薄く伸ばし、庖丁で細く切ったもの。そのもとづくところは、南宋末期に編まれた日用百科事典『事林広記(じりんこうき)』癸集五の記事にある。その箇所を訓読文によって紹介すれば、「槐葉の新鮮なる者を採り、自然汁を研(す)り取る。常法に依りて麺(むぎこ)を溲(ね)り、倍(ます)ます揉搦(しなやかさ)を加う。然る後に薄く控(おさ)えて縷(すじ)に切り、瀹(に)えし湯を以て之を煮る。熟するを候(ま)ち、冷水に投じて摝過(よな)ぎ、随意に汁澆(かけじる)を含めて供す。味既に甘美にして、色も亦た鮮翠なり」。緑鮮やかな冷やし麺のさまが髣髴とする。
 
 唐代の後を受けた宋代の詩は、その特色の一つとして、日常生活への密着度が高まったことがある。吉川幸次郎『宋詩概説』(岩波文庫)が説くように、あまりにも身近であるがゆえに従来の詩人が取り上げなかった事象を、宋の詩人はよく素材とする。食生活への関心もその一つである。北宋初期の詩人王禹偁(おううしょう)(九五四~一〇〇一)は、宋詩の先駆けとして時代の新しい詩風を開拓した人だが、その人の詩に杜甫の「槐葉の冷淘」の影響を受けた作品が見えるのは注目してよい。「甘菊の冷淘」(『小畜集』五)と題するかなり長い五言古詩である。すでに詩題からも想像できるように、これは杜詩の「槐葉」を「甘菊」に置きかえただけの、甘菊の葉の汁で捏ねた「冷淘」をテーマとする詩である。以下にその一部を抜き出して説明を加える。
 家の籬(まがき)に植えてある甘菊の新芽が伸びたので、摘み取ってきてその汁を絞り、冷淘を作った。
 
 俸麺新且細 俸麺(ほうめん)は新しく且つ細かく
 溲摂如玉墩 溲摂(そうせつ)すれば玉墩(ぎょくとん)の如し
 随刀落銀縷 刀に随いて銀縷(ぎんる)落ち
 煮投寒泉盆 煮て寒泉盆(はち)に投ず
 雑此青青色 此の青青の色を雑(まじ)
 芳草敵蘭蓀 芳草は蘭蓀(らんそん)に敵す
 一挙無孑遺 一挙 孑遺(げつい)無く
 空媿越盌存 空しく越盌(えつわん)の存するを媿(は)
 
 「俸麺」俸給としてもらった麦粉は、とれたてでまたきめ細かい。それを甘菊の葉の汁で「溲摂」する、すなわち捏ねると、玉のように美しく盛り上がった「墩」(かたまり)ができる。庖丁でそれを削げば銀の糸筋が次々と落ち、鍋で煮て、冷たい水を張った大きな鉢で冷やす。青々とした色に飾られて、蘭や蓀(しょうぶ)にも劣らず香ぐわしい。かくて冷淘はできあがったが、余りのおいしさに忽ちすっかり無くなってしまい、後には空のお椀が空しく残るばかりだ。
 「冷淘」の製法がきわめて具体的に描き出されている。「刀に随いて銀縷落ち」の句によれば、捏ねて伸ばした麦粉のかたまりを庖丁で細く切るのであり、これこそ正に「切麺」に他ならない。先に引いた『事林広記』の記す製法にも合致している。さらに興味深いのは、この詩が杜甫の詩の注としても役立つことである。杜甫の「槐葉の冷淘」に付された歴代の注釈は、宋から清に至るまで数多く存するが、そのどれを見ても、王禹偁の詩ほど詳しく製麺の方法を説明したものはない。
 この詩が杜詩のパロディを意識したものであることは、引用末尾の「一挙 孑遺無く、空しく越盌の存するを媿ず」が、実は杜詩の「飡を加えては無からんと欲するかと愁う」のいい換えであることを知るだけで充分であろう。引用箇所の後では、またこんなことも述べられている。「子美(しび)(杜甫)は槐葉を重んじ、直ちに至尊(しそん)に献ぜんと欲す」とは、この「槐葉の冷淘」が余りにも美味なので、天子にも献上したいという杜詩後半の内容。さらに「予(われ)を起こすに遺韻有り、甫や与(とも)に言う可し」。杜甫の遺したこの詩は自分を啓発してくれた、彼とは話の通ずる同志だ。
 
 王禹偁が没した翌年に生まれた梅堯臣(ばいぎょうしん)(一〇〇二~一〇六〇)は、宋詩を本格的な開花に導いた重要な詩人だが、彼の詩の最も大きな特色は、王禹偁以上に詩の題材を日常的なさまざまな事物にまで拡充したことである。もちろん食生活や食品もそこに含まれる。彼が「槐葉の冷淘」に関心を示したことはいうまでもない。彼に「官槐」(『宛陵先生集』五)と題する七言律詩があり、槐の木をめぐるいろいろなイメージを列叙した最後をこう結んでいる。「我が意は方(まさ)に杜工部と同じく、冷淘には唯だ葉の新たに開くを喜ぶ」。
 杜甫のくだんの詩に対する宋人の関心は、梅堯臣以後にも持続する。宋代最大の詩人と目される蘇軾(一〇三六~一一〇一)には、「二月十九日に白酒と鱸魚(ろぎょ)を携えて詹使君(せんしくん)を過ぎ、槐葉の冷淘を食す」(『蘇文忠公詩合註』三十九)と題する七律がある。杜詩が描くのとまさしく同一の「槐葉の冷淘」を食べたという詩である。ただ、その食品の具体的な形状に触れるのは、次の一句のみである。曰く、「青く卵椀に浮かぶは槐芽の餅(へい)」。「餅」とは、日本でいうようなもち米をつきかためて作ったものではなく、小麦粉を捏ねて作った食品である。日本でも普及している「月餅(げっぺい)」は、中国では中秋節に欠かせない菓子で、「餅」の一種である。
 蘇軾の詩を読んで、はたと当惑する問題にぶつかった。「餅」の語義から解釈する限りでは、「冷淘」の実体は小麦を原料として、団子状にまるめた食品だったのか。王禹偁の描くような「切麺」ではなく、戦中戦後の代用食でよく食べた「水団(すいとん)」のようなものだったことになる。小麦粉を捏ねるところまでは同じでも、その後の製法の違いによって大きくイメージが分かれる。
 
 では杜甫の作った「冷淘」は、団子状のものだったのか、それともうどん状のものだったのか。それについて杜甫は何ともいっていないので、どちらとも決めかねる。どちらの可能性もあるという他はない。
 うどんは古くは「饂飩」と記したが、「饂」は国字で、元来は「餛飩」と記していた。「餛飩」と呼ばれる食品は、現在の中国語では、雲呑(ワンタン)のように、小麦粉を薄く伸ばした皮に餡を包み、煮たあとスープに入れて食べる食品をいう。雲呑や餃子は、類別すれば「餅」に属する。また蘇軾の詩にいう「餅」が大づかみに小麦粉加工食品を意味しているとすれば、「切麺」がその中に含まれていた可能性もある。「餅」は確かに麺類の祖先に違いない。
 「餛飩」コン・トンは韻尾を同じくする畳韻(じょういん)の語で、歴史をさかのぼれば、うどんもワンタン・ギョウザもそこに包括される。そして語源的には同音の「渾沌」(『荘子』応帝王篇)に通ずる。目も鼻も耳も口もない、ノッペラボウの渾沌コントンである。「槐葉の冷淘」の実体も、煎じつめればまた渾沌としている。
(こうぜんひろし・中国文学) 
 

 

◇試し読み②◇

ドードーはどこへ行った? (下)
――飛べない鳥に魅せられた人びと
川端裕人
 
日本とドードーとの絆
 モーリシャス島の飛べない鳥で、絶滅動物のアイコンともいえるドードーが、絶滅間際の一六四七年、日本に来ていたことを前回紹介した。しかし、長崎の出島に到着したあとの行方は杳として知れない。徳川慶喜の孫で、ドードー研究で博士号を取った蜂須賀正氏が、「日本に来たドードー」の可能性に気づいていたものの、その証拠がきちんと示されたのは二〇一四年になってから、それもオランダの研究者によるものだった。日本の絶滅動物マニアとしては、忸怩たる思いを禁じ得ない。
 今後、日本のどこかで、行方不明のドードーの史料が見つかる可能性があり、そのためには「目を多くする」ことが大切だ。そこで、「日本とドードー」との間にある絆について、もう少し深掘りして説明しておきたい。
 
イギリス、デンマーク、チェコ、そしてインド
 ドードーが一五九八年に発見された後、モーリシャスから出て、他の地域にもたらされた記録は驚くほど少ない。特に、その頃に生きていた個体に由来する標本はわずか三つだけだ。イギリスのオックスフォード標本、「コペンハーゲンの頭部」(デンマーク)、そして「プラハのクチバシ」(チェコ)である。
 最も「完全」なのは、オックスフォード標本で、かつては全身の剥製と骨があったという。『不思議の国のアリス』の著者でオックスフォード大学の教師だったチャールズ・ドジソン(ルイス・キャロル、一八三二―一八九八)は剥製を見ていた可能性がある。しかし、標本があまりに古くなり保存状態も悪かったため、一九世紀までには頭部と脚を除いて廃棄されてしまったそうだ。今は、顔と脚の骨と乾燥した皮膚がオックスフォード大学博物館に残るのみである。
 
 
 オックスフォード大学博物館の展示
 
皮膚が残るオックスフォード標本
 
 「コペンハーゲンの頭部」は、オランダ経由でもたらされたもので、詳しい由来はわからない。それでも、一時、存在を忘れられていたドードーという生き物(一七世紀の船乗りの「創作」だと思われていた時期がある)が、ちゃんと実在しており、飛べないハト目の鳥だったことを明らかにするきっかけになった。
 「プラハのクチバシ」は、博物学史に興味を持つ人なら誰もが知っている神聖ローマ帝国の驚異王ルドルフ二世(一五五二―一六一二)のものだとされている。ルドルフ二世のドードーについては、宮廷画家ルーラント・サーフェリー(一五七六頃―一六三九)が描いた絵が残っており、それが今でも一般に流通しているドードーの姿の原型となった。生きて到着したのかは不明だが、もしそうならルドルフ二世の動物園で飼育されただろう。
 いずれの標本も博物館の中で「一等地」に展示され、「近代の絶滅」というテーマを語る主役としての扱いを受けている。そして、これらの三標本にかかわりがあった国々、つまり、オランダ、イギリス、デンマーク、チェコが「ドードー史の当事国」といえる。
 では、欧州以外では、となると、実は、インドが名乗りをあげる。
 ムガール帝国の第四代皇帝ジャハーンギール(一五六九―一六二七)の城にドードーが来たことが宮廷画家ウスタード・マンスール(一五九〇―一六二四頃に活躍)の絵から確実視されている。ジャハーンギールが居を構えていたのは、タージ・マハルで有名な都市アグラ(ただしタージ・マハルは息子の代の建築物)で、城塞の一郭には世界中の動物たちを飼育している、いわば「アグラ動物園」があったとされている。実際に城塞を訪ねたところ、とても広い敷地があるため、ドードーがどこに放し飼いにされていたとしても不思議ではなかった。
 
ウスタード・マンスール画
 
  そして、こういったドードー当事国の最後の一つとして、二一世紀になってから脚光を浴びたのが日本、ということになる。生きた状態でモーリシャス島からもたらされた確実な例は、イギリス、インド、日本であり、また、日本への渡来はドードーの絶滅に近い時期だったこともあって、「最後にモーリシャスを出たドードー」であった可能性すらある。
 ぼくらが〈世界史〉と認識する大航海時代、インド洋のモーリシャスで見出されてまさに歴史の荒波に洗われたドードーが、ぼくらが〈日本史〉と認識する長崎出島に「南蛮船騒動」のさなかにやってきて、江戸か、松山か、福岡に旅立った、というようなことを頭の中でイメージすると、とたんに世界史と日本史の垣根が融けてしまう。そして、ぼくたち個々人が歴史として認識できるよりもはるかに複雑で多様で絡まりあった、総体としての歴史みたいなものがあって、それはおそらく人の認識能力をはるかに超えたものでありつつ、時々、様々な断面で違う輝きを見せてくれることを思い知る。
 ドードーはそのような触媒になりうる存在だ。
 一七世紀という時期に、西はローマ帝国の末裔(を自称する)王たちの国々、東はモンゴル帝国の後継帝国のひとつムガール帝国の宮廷、つまり、東西両巨大帝国の残照の中にドードーが配置されたのは、大変おもしろい事実だ。一方で、かつての枠組みを超えて、大西洋・インド洋・太平洋を股にかけた人々が、日本とドードーを結んだ。
 こういった絡まり合いの中で、ドードーは非常に強力な文化的アイコンを後世に残すことになった。一九世紀のルイス・キャロルがまず大きな貢献をし、同時にやはりイギリスでドードーの科学的研究が始まった。そして、二〇世紀半ばに日本の蜂須賀が学術的な関心をつなぎとめた。そうこうするうちに「出島」を通じて交流が深いオランダで、「ドードーが日本に来ていた!」との証拠が出てきたわけで、「ドードーを通して見る世界の中の日本」というのは、びっくり箱のような新たな含意が節目節目で飛び出してくる魅力的なテーマだとぼくは感じ続けているのだった。
 
ふたたび、モーリシャス
 さて、もう一度、ドードーの生息地だったモーリシャス島に目を移す。二〇一七年六月、ロンドン自然史博物館のジュリアン・ヒュームの「ドードーの骨探し」に参加した際、新たな「びっくり箱」を見出したので、その報告をしておきたい。少し回りくどくなるけれど、モーリシャス島オリィ山の中腹を徘徊してドードーの骨探しに勤しんでいた時のことから。
 ぼくたちは、その発掘計画に従って、ひたすら地面にはいつくばり、ぽっかりと開いた小さな穴を見つけては中に堆積したものを掻き出した。気が遠くなるような作業だった。岩の下の空間につもっている土には、毛細血管のような根っこが縦横無尽に走っている。つまり、木の根っこに抱かれて、もともとはあったはずの骨もすぐにボロボロになってしまうのではないかと思えるような状態なのである。もちろん数年は、骨は残るだろう。しかし、数世紀の単位で形を保つことなどできるのだろうかと疑問を抱かざるを得なかった。
 そんなことを考えていると、ジュリアンが「これはよい徴候だ」とぼくに掌の上のものを見せた。ごくごく小さな陸生の貝の殻だ。
 「これはもう絶滅している貝で、絶滅の時期はドードーと近い。このあたりは見込みがある」
 そう言われるととたんにやる気が出てきて、しばし懸命に掘り続ける。しかし、そう簡単に見つかるわけもなく、ぼくはひたすら空振りを続けるのだった。もちろん、小さな骨、たぶん数年内に死んだのであろうネズミや、それよりも古いであろう陸生貝の殻といったものは見つかる。それらは、小分け袋にきちんと分類して、貴重な標本として持ち帰るのだが、この調査の最大の目的であるドードーを見つけることはできなかった。
 ぼくにとっては、この森で過ごした時間の記憶の方が大切だったと言える。往時のドードーは、こういった山腹のかなり急な斜面を、バタバタ羽を羽ばたかせてバランスを取りながら行き来したことだろう。そして、たくましい両足と、がっしりしたクチバシも使いつつ移動する姿は……本当に「野生生物」だった。ぼくはここにきてしみじみとそう感じた。
 『不思議の国のアリス』のディズニーアニメに出てくるタキシードを着た擬人化されたドードーではなく、ルドルフ二世の宮廷画家が描いたずんぐりむっくりしたドードーでもなく、ましてや、近代の絶滅動物のアイコンですらない、まさに等身大のドードーがかつてこの斜面で、ぼくたちと同じようにどろんこになりながら歩きまわっていたのである。発掘に参加してぼくが得たのは、まさにそのような確かな実感だった。
 そんなふうに、発掘への参加の意義を自分なりにまとめていたところ、ジュリアンからこんなふうに言われた。「私たちもそうだが、日本人もなぜドードーの骨を見つけたがるのか」と。
 
モーリシャスで日本人と出会う
 斜面を降りる方向に一五分くらい進むと、地元の人が使うテニスコートがあって、コンクリートの観客席に座ることができる。そこで、宿で作ってもらった昼食を食べる。ジュリアンがぼくに「日本人もなぜ?」と聞いたのはその観客席でのことだ。そしてさらに、「かつて、モーリシャスでドードー化石を探した日本人」について語り始めたのである。
 「ドクター・コンドーを知っているか? モリオン・コンドー。二〇〇〇年代に我々が発掘をしたサイトは、一九世紀にたくさんドードーの化石が出たところをモリオンが再発見したんだ」
 一九世紀、とある沼でドードーの骨を大量に産出した時期があり、実は今、世界の博物館が持っているドードーの標本は前述した三標本を除くと、大半がその沼に由来する。蜂須賀正氏が購入し、現在、山階鳥類研究所が所蔵する、日本唯一の標本もそうだ。
 それらは、モーリシャス島の愛好家が発掘し、イギリスに送られたものだった。ロンドン自然史博物館の初代館長で「dinosaur(恐竜)」という言葉の生みの親でもあったリチャード・オーウェンが、まずその中で最良のものを選び、一羽分の復元骨格を作り、さらにケンブリッジ大学も別の一羽分を作った後で、残りがオークションにかけられた。二一世紀になって、ジュリアンたちが同じ沼で再度発掘をするなど、ほかにも化石を探す努力がなされるようになるまで、一八六六年のこの一回のオークションで売られたものが、世界中の博物館や愛好家が持っているドードーの化石のほとんどを占めていた。そして、一度は忘れ去られていたこの沼を再発見したのが、実は日本人だというのである。
 
ジュリアン・ヒュームとロンドン自然史博物館の標本
 
 帰国して調べたところ、ジュリアンが指摘した人物は、モリオンではなくノリオ、近藤典生(一九一五―一九九七)のことだと分かった。東京農業大学名誉教授で進化生物学研究所を創設したナチュラリスト系研究者の巨人である。動物園のランドスケープデザインの分野でも先駆者で、伊豆シャボテン動物公園、長崎バイオパーク、鹿児島の平川動物園、沖縄県名護市のネオパークオキナワなどの基本計画を策定したことでも知られている。
 ジュリアンによると、近藤は一九九三年、モーリシャス島北部の沼地で、ドードーなどモーリシャス島の過去の生き物の骨を得るための試掘をした。五箇所で、六~九メートルの深さまで円柱状に土を採取し、その中のひとつから、ドードーの骨の破片を複数見つけた。近藤はさらに発掘を続けることを推奨したが、九七年に亡くなってしまった。二〇〇〇年代に入って、この沼での発掘を再開したイギリスのチームに、ジュリアンも参加していたため、近藤のエピソードを覚えていたのだった。
 やはり、ドードーは遠いインド洋の絶滅鳥類であることをはるかに越えて、日本に住むぼくたちにも迫ってくるところがある。言い方を変えれば、ドードーが織りなす地球の生命とヒトとの関わりのタペストリーの中に、ぼくたちは念入りに織り込まれている。
 近藤のエピソードは英語のドードー関連書籍の中に見出すことができるものの、今のところ日本語資料では見出せずにいる。また、よく知っている関係者にも出会っていない。今後、なんとかこの件を掘り起こして、知らないうちに深まっていた、我々とドードーとの「絆」をさらに確認したいと思っている。
 そして、そういった認識が、近い将来、日本のどこかから「出島に来たドードー」のその後の痕跡を明らかにすることに繋がらないか、と願う。世の中にドードーをめぐる関心を持つ人が少しだけ増えて、可能性がある各地でそのような目で史料を見たり、標本を見たりしてもらうだけで全然違ってくるはずだ。
 一九三九年に翻訳された『オランダ商館長日記』に出てくるドードーの記述が、その後七七年間にわたって見逃されてきたことを思い出そう。「そんなこともありうる」という目で見るだけで、これまで埋もれてきた文書の中にドードー的な飛べない鳥が登場することに気づく人が出てくるかもしれない。あるいは郷土資料館に残っている変な鳥の骨に気づく人が現れるかもしれない。目が多くなれば、まだまだ可能性があるんじゃないかと、ぼくは期待を捨てていないのである。
(かわばた ひろと・作家) 
 
 
 ◇こぼればなし◇

◎ 二〇一九年一二月、中国は武漢を中心に発生したCOVID-19は、短期間で世界中を席巻しました。アメリカや、ブラジルといった南米諸国だけでなく、インドやヨーロッパの各地域でも爆発的に拡大。イギリスやフランス、ドイツやチェコでも再びロックダウンが広がっています。感染者数が世界第四位のロシアをふくめ、多くの地域が第二波に見舞われているというのが現状でしょう。

◎ 本邦では、新規感染者数は急増しているようにはみえませんが、減少することなく微増のまま推移している、というところではないでしょうか。

◎ 二〇二〇年は、新型コロナウイルス感染症パンデミックの幕開けとして、世界的には回顧されることになるのはまちがいありません。しかし、列島に傷跡を残した自然の猛威は、新型コロナだけではないでしょう。豪雨による河川の氾濫をはじめとして、様々な自然災害に見舞われた地域の方々のことも思い起こされます。被害に遭われたみなさまには、心からお見舞い申し上げます。

◎ この一年、みなさまもそれぞれの感慨をもってふりかえっていらっしゃることでしょう。同時に、来たる年がどのような時代の幕開けになるのか、不安とともに思いをめぐらせていらっしゃる方も多いのではないかと思います。

◎ これまで「来年はおだやかな年でありますように」と本欄で祈念してまいりましたが、年ごとに自然環境が列島にもたらす脅威はきびしいものとなっているように感じられます。願いも空しく、本欄を担当する最後の月を迎えることになりました。長きにわたって拙い文にお目通しいただき、ありがとうございました。

◎ ふりかえってみますと、本欄でご紹介した、個人的にも親しくおつきあいいただいた方々――たとえば、俳優の今井雅之さんが長逝されたときのこと、また本誌連載中に急逝された加藤典洋さんのことなどが、まず思い出されます。

◎ もちろん悲しいことだけではありません。佐藤正午さんの『月の満ち欠け』が第一五七回直木賞を受賞されたこと、佐藤卓己さんの『ファシスト的公共性――総力戦体制のメディア学』が第七二回毎日出版文化賞を受賞されたことをはじめとして、本誌にご寄稿いただいた多くの方々に届いた吉報を本欄でみなさまにお知らせできたことは、喜ばしい思い出です。記念となる本誌の八〇〇号を担当できたことも、望外のことでありました。

◎ また、毎年の三月号の本欄では、三・一一後の現状についてふれてまいりました。来年は震災から一〇年。そのあいだにも様々な災害が列島を襲いました。その爪痕が未だ癒えぬのは東北だけではありません。しかし二〇二一年に問われるのは、未曽有の悲劇の節目にどうむきあうかということではないでしょうか。それは東京五輪の行方よりも遥かに大切なこと、忘れてはならないことでしょう。

◎ これからも本誌をご愛読いただきたく、心よりお願い申し上げます。来たる年が、みなさまにとりましてよい年になりますよう祈念いたします。

◎ 少年文庫七〇年目のキャッチコピーは、「冒険してる?」――これはいまを生きる子供たちと、かつて子供だったみなさんへの問いかけであると同時に、この叢書がもつ広大で多彩な世界への旅立ち、その誘(いざな)いでもあります。

◎ 全国の協力書店で記念フェアを行うほか、「心ゆさぶる さし絵の世界」パネル展も各地の図書館、書店で開催中。小社HPの特設サイトでは、少年文庫にまつわるエッセイをご寄稿いただくなど、その魅力を紹介しています。どうぞ岩波少年文庫の七〇年に、ご注目ください。

 

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