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花ちゃんと栗平の庭 ―「人生のレシピ」刊行に寄せて(神崎由起子)

『人生のレシピ 哲学の扉の向こう』神崎繁


 子どものころにリスや手乗り文鳥を飼っていたことがあると言っていたから、生き物は好きだったのだろう。驚いたのは、どんなに珍しい犬を見ても、たちどころにサモエドとかアフガンハウンドとか、犬種が口をついて出てくることで、家族に聞くと、小さいころ犬の飼い方について詳細に解説した図鑑のような分厚い本をお気に入りの他の数冊の本と一緒に風呂敷に包んで、どこへ行くにも持ち歩いていたという話だ。のちに院生時代の友人、桑子敏雄さんから、歩く辞書ならぬ歩く図書館(ウォーキングライブラリー)だと称された、こよなく本を愛する夫の逸話である。

 二人の実家のある姫路の小さな喫茶店で初めて待ち合わせをしたときも、手には一冊の本を携えていて、それは? と訊くと、精神現象学の本という。何か心理学のようなものかと聞いたら、哲学と言われた。自分には分かりそうにない難しいことに高校生の彼が興味を持ち、勉強しているのだと感心した。約束の時間にはいつも一時間近く遅れてやってきたが、私は辛抱強くコップの水を飲んで待っていた。大学生になった彼が仙台から夜行バスで私の下宿していた東京に来たら、必ず一緒に神田の古書店を廻り、歩き疲れると喫茶店に入って休んだ。時にはおにぎりとゆで卵を持って小石川植物園、たまには池袋の文芸坐や後楽園シネマで映画を観たこともあった。今思えば、私に会いに来ていたのか、神保町に本を探しに来ていたのか、どっちが主だったんだろう、半世紀も前の話である。

 新婚旅行に出発するのにボストンバッグを持って駅のホームに現われた時は、身体を傾げながら重そうにしていたので不思議に思ったが、まさか、ギッシリ哲学の原書が詰め込まれているとは思わなかった。おかげで楽しかるべき旅行には多少の不協和音が紛れ込むことになった。

 結婚以来、仙台、東京、水戸、再び仙台、そして東京都稲城市平尾へと転居した。勤務先に研究室という大きな書庫があるにもかかわらず、間に英国ケンブリッジへの短い留学期間を挟んで足掛け十年住んだ平尾のマンションの書斎の床がたわんできたので、娘の中学進学を機に神奈川県川崎市の栗平の中古の戸建てに引っ越すことになった。あとから建った二軒の隣家に南と東を塞がれたわりあいに広い庭があって、北道路の玄関わきにヤマモモの大きな木が植わっている間口の狭い二階建ての家だが、車庫の上に増築したらしい中二階があった。夫はそこにひじ掛け付きのソファと机と椅子とパソコン台、ギリシャ語の辞典専用の自作の書見台、沢山の本棚を運び入れ、レコードプレイヤーとオーディオセットを置いて、母屋から独立した理想の書斎を持つことになった。書斎から車庫の奥のスペースに降りていく急な階段もあって、その穴蔵は古本屋の物置のようになった。辰年生まれだからか臥竜窟と名付けて悦に入っていた。バッハのカンタータやブルックナー、マーラー、ブラームスなどの交響曲が時々、大音量で聞こえてくることがあった。

 夫は庭で雑草を抜いてくれるわけでもなかったが、しばらくして保護された雑種の犬を飼うことになった。ラブラドールの血が少し混ざっているのか、子犬の頃は真っ白だったがだんだん少し褐色がかってきて、耳の先がちょっと垂れていた。はじめは室内で飼うつもりで、書斎にも連れて行って、撫でまわして可愛がっていたが、トイレのしつけがうまくいかずに、私も育犬ノイローゼのようになって、仕方なく居間に面した軒下に犬小屋を置いて外で飼うことになった。その入り口に夫はペンキでHANAKOと名前を書き、出入り口の前にレンガを、雨で土がぬかるまないよう、陽が当たればそこで寝そべることが出来るように二人で敷き詰めた。子犬の頃にはよくゴムボールを投げて「取って来い」をして遊んだが、くわえては来るもののなかなか離さず、引っ張り合いになっていた。人懐こい性質だったので、近くにある小学校の登下校時に子どもたちが見に来たり、もう自分の家では犬を飼えないお年寄りが、時々おやつを持って会いに来たりしていた。家の中からもそれらの気配は手に取るようにわかり、二人でその日の訪問客のことをあれこれ話したりした。

 庭には前の住人が植えた様々な花木や宿根草が生えていて、蕗(ふき)の薹(とう)が顔を出す早春から次々と花開き、マンション住まいの時には味わえなかった季節の移ろいを犬の餌やりの前後に愛でるようになった。春、小さな桜に似たピンクの花をびっしり付けて咲く背の低い木は庭梅というが、それを、昔私がお正月に和服を着た時に羽織っていた「モヘアのショールみたいやなあ」と言ったのが印象に残っている。夏には穴から這い出てきたばかりの蝉や光るトカゲがいて、子犬の花ちゃんが見つけては追っかけて遊んでいた。晩秋、チューリップを花ちゃんのいるときに植えると、鎖から放したとたんに掘り返して食べてしまうので、夫に散歩に連れ出してもらっている間に球根を埋め、新しい土のにおいを嗅ぎつけられないようにプランターをその上に置いたりしたものだ。

 引っ越して数年が経つと、夫は受け持つ授業を減らしてもらった代わりに学系長という耳慣れない中間管理職に任命され、石原都政の方針で大学を統合し、すぐには(経済的な)結果が出ない(例えば文学や哲学など)学部学科の人員を削減するべく強く迫ってくる都庁の事務方と折衝を始めた。慣れない背広にネクタイ姿で都庁にでかけ、その足で南大沢に戻ると、意見のまとまらないこと甚だしい終わりの見えない教授会に出席する。そんな神経をすり減らす毎日が続いていたころ、幸い家から通勤圏内にある専修大学の大庭健教授から声を掛けていただき、定年にはまだかなり間があったが、都立大学から首都大学東京と名前まで変わってしまった大学を辞めた。送別会が終わった夜、花束を抱えて帰宅した時の彼の疲れ切った土気色の顔は忘れられない。

 夫が大学を移ると同時に一人娘が就職を機に都内に部屋を借りて引っ越していってからは、夫婦の話題はもっぱら花ちゃんのことになった。休みの日に、都県境の尾根道を随分遠くまで散歩の足をのばして、あそこの角のラブちゃんとは相性がいいらしいだの、新しくトンネルが出来た先に建った家の犬は苦手らしいだのと、報告しあった。通勤時間も短くなり、環境が変わったのも良かったのか、彼は、専修大学の教師であることを楽しんでいるようだった。その頃、NHK出版の池上晴之さんから依頼されて、これまで書いたことのない誰にでも読めるようなエッセイ「人生のレシピ」を『きょうの健康』誌に連載した。一方では、岩波書店からアリストテレス全集の新訳を発行するという記念事業にも関わり、そのうちの『ニコマコス倫理学』の訳を担当することになっていた。自分の好きなように書く仕事とは違って、大きな責任と重圧があったに違いない。その矢先、定期健診で肺がんが見つかり、患部の摘出手術後には、抗がん剤治療が始まった。

 何度目かの入院中の見舞い帰りに、地下鉄のホームで電車を待っていると、いきなりゆらゆらと大きな揺れが来た。状況がわからず病院までとって返すと、余震の中、夫はベッドわきの枕頭台と点滴のポールを倒れないように両手で押さえて、眉をつり上げていた。テレビが点いていたので、しばらく一緒に病室で、大津波が、若いころ住んでいた東北地方の海岸に襲ってくる映像を前に、ただ言葉を失くしていた。帰宅は出来そうにないのでその夜はシンガポール赴任中で留守だった娘のマンションに向かい、徒歩で帰宅しようと道路一杯に広がる人の群れとすれ違った。翌日も病院に行き、ずっとテレビを観ていたが、花ちゃんの世話をしなければならないし車を車検に出してもいたので、電車を乗り継いでようやく夕方に帰宅した。庭に居たはずの花ちゃんは車庫の辺りに震えてウロウロしていて、よく、どこかに走り出て行ってしまわなかったと、可哀想に思った。そのあと、頻繁に余震があるたびに怯えて足を震わすようになった。福島原発の建屋の爆発があり、とうとうこの世の終わりが来たと思ったが、被災した人たちのためにできたことはあまりに少なく、廃炉への道も想像できないほど険しい。一方、私たちの日常はつづくのである。

 その後、骨転移のため人工股関節への置換手術も受けて杖をつくようになったが、夫は最後まで教師としての仕事を諦めなかったので、授業の合間をみては入院するというつなわたり生活が続いた。岩波書店の押田連さんから、翻訳の進捗状況を尋ねる電話があるたびに、言い含められていた私が受話器を上げて、「本屋に出かけました」とか、「さっき、大学に行きました」とか、「犬の散歩に出かけています」とか、苦しい言い訳で居留守を使った。散歩に行ってしまっていないはずの花ちゃんの鳴き声が庭の方から聞こえて冷や汗をかいたこともあった。翻訳の仕事はなかなか進まなかったが、疼痛のある時は、机に向かって考えたり書いたりしている方が痛みを忘れていられると言っていた。又、別の依頼を受けて抗がん剤治療のベッドの上で子どもの素朴な問いに答える原稿を書いたこともある。

 夫繁が六十三歳で亡くなってから丸四年が経ち、この度、あちこちに発表してきた文章が纏(まとま)って本となった。エッセイには、少し世相が移っていて旬ではないところもあるが、哲学の専門家でなくても読める、初めてのそして最後の本である。間に挟まれている結構難しそうな文章も、夫が哲学の道で考え続けてきたテーマが集めてある。論文が形になるたびに、すぐ私に手渡してくれてはいたが、その時にもっと集中して読んでいれば良かった、と心を入れ替えて頁をめくった。哲学を学んでみたい若い人や、退職して時間の余裕もできた人生の先輩がたにも手に取っていただけたら嬉しいなと思う。

 花ちゃんは夫の亡くなったあと一年、残された私の傍に居て十六年余りの犬生(人生があるなら犬生もあるだろう)を全うした。それ以来書斎の机のスタンドを点けっぱなしにしているが、お盆になるとその明かりの照らす道路際のアスファルトの隙間から茎を伸ばして白い高砂百合が毎年咲くようになった。今年は去年より少ないが五つの花が咲いた。

 亡き夫の書斎の灯照らす塀際に
  高砂百合の白き花むら
 (かんざき ゆきこ) 
このエッセイは『図書』2020年12月号に収録されたものです

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