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『図書』2021年8月号 [試し読み]紅野謙介/高橋ブランカ/渡辺惟央

◇目次◇

多様な学問のことば………紅野謙介
セルビアから遠く離れて………高橋ブランカ
「語り」ということ………石丸幹二
「新しい日本、万歳!」………三谷 博
「ドイツ史」における地域のポテンシャル………星乃治彦
カミュの『ペスト』をめぐって………渡辺惟央
歌詞を音符で理解する………片岡義男
王子さまのいない星(前編)………吉田篤弘
明るい静けさ………若菜晃子
サン=マルソー夫人………青柳いづみこ
動物誌………時枝 正
チワ ペッ兄弟との戦い………中川 裕
『血と霊』の映画化………四方田犬彦
安らかな死………長谷川 櫂
こぼればなし
八月の新刊案内

 (表紙=司修) 

 

◇読む人・書く人・作る人◇

多様な学問のことば
紅野謙介

 
 批評や研究に興味を持ちはじめたころ、雑誌『思想』を何度か手にすることがあった。一九七九年から八〇年にかけてのことである。近寄りがたいはずだが、表紙のそっけない美しさや活字の収まり具合に惹かれた。

 最初に買ったのは、「社会史」特集だったろうか。文学と歴史学のはざまでうろうろしていたときなので、アナール派の翻訳や紹介には目がさめる思いがした。つづけて見ていくと、井筒俊彦のイスラーム哲学の論文があるかと思えば、佐々木健一の『せりふの構造』にまとまる連載もあった。網野善彦の中世史論やアウエハント『鯰絵』をめぐるインタビューもここで読んだ。真木悠介『時間の比較社会学』の初出も『思想』である。八一年四月の「レトリック」特集で佐藤信夫や富山太佳夫、尼ヶ崎彬の名前を覚えた。

 ふりかえってみれば、『思想』は哲学、歴史学、社会学、美学、修辞学、文学、文化人類学など、実に多種多様な学問のことばを集めていた。だから、二十代の大学院生には魅力的に見えたのだろう。ポストモダニズムの影響もあったが、東欧・ソ連崩壊のかすかな予兆が学問的な変動を呼び寄せてもいた。

 のちに岩波書店の草創期を調べて『思想』の歴史的変転に驚いたことがある。しかし、硬直化したアカデミズムの軸をずらしていく点において、和辻哲郎の活躍期と基本は変わっていない。保守であり、革新でもある。創刊百年の伝統とは、そのような葛藤のなかで維持されるものなのかもしれない。

(こうの けんすけ・日本近現代文学) 

 

◇試し読み①◇

セルビアから遠く離れて
――セルビア語・ロシア語・日本語で書く

高橋ブランカ

 

 日本はいい匂いがする――
 一九九二年の七月に成田空港で飛行機を降りてそう思いました。この国に住める、と結論がすぐ出ました。国を見る、聞く、味わう、歩く、前に。空気の、湿気たっぷりのあの独特の匂いで、日本は私の中で合格しました。後には日本(東京)の夏の厳しさを嫌になるほど経験しますが、夏バテしても夏の日本はいい匂いがするという私の想いは変わりません。初来日はベオグラード大学日本語学科二年の時で、片言しか話せませんでした。後に、日本語で小説を書くとは夢にも思いませんでした。
 ましてや十六歳で、セルビアの小さな町ヴルニャチカ・バニャの新聞に高校二年生で書いた短編小説が掲載された時に! 考えてみたら、その短編も、私が日本語を専攻したこと(そして、結果的に、日本に帰化したこと)も亡き父と関係しています。
 このエッセイを読んでくださる女性の方! ご自分の十五、六歳のころを思い出してください! お父さんは「気持ち悪い」人ではありませんでしたか? 鬱陶しくなかったですか? 娘さんのある男性の方! 夢を壊して申し訳ありませんが、高校生の娘さんに恐らく嫌われているでしょう。これは万国共通です。私もその年頃に母に何度も「この人のどこが良かった⁉」と訊きました。父は厳しくて、自分には青春がなかったかのように私の遊びたい気持ちを理解してくれませんでした。そういう人と恋に落ちた母の気が知れませんでした。父みたいな男性を主人公に、朝から晩までの一日を面白おかしく書いて、故郷の新聞の短編小説コンクールに応募しました。賞は逃しましたが、力作として掲載されました。そしてたちまち周りで話題になりました。小さい町で唯一のドイツ語教師だった父を知らない人はいなかったので、娘が描いた人は他でもなくリューバ先生だと皆が分かっていた。仕舞に父も小説のことを知って読みました。今もその光景が映画のように目の前に流れている――父が居間で新聞を広げて私の小説を読んでいます。読み終えて、新聞を閉じました。同じ部屋にいる私に一言も言わずに。よほど傷ついたのでしょう。
 近しい人を傷つけないで書く――この大きなテーマはそれ以来私を放っておいてくれない。新しい小説を書く度に私なりの正解、或いは、正解は出なくともチャレンジするつもりでいました。その難事に手を付けるのにはある程度成長しないといけない、と分かっていて、焦らなかった。とうとう準備ができたと感じた時に「家の異人」という中編を、日本語で書きました。自分で言うのは厚かましいけれども、中々の力作です。大阪女性文芸協会のコンクールのベスト五作に選ばれました。その小説を《機関車》として五両編成の新作ができていますから、『東京まで、セルビア』と『クリミア発女性専用寝台列車』に続けて日本で出版されたら嬉しいです。
 《機関車》だけに、ここでちょっと脱線させてください。二、三年前に「鉄道機関士の花束」というセルビアの映画が日本で上映されました。その際に配給会社の方がパンフレットのテキストを書くのにセルビアに詳しい人を探し、私の本を読んで依頼してきました。電話がかかってきた時に、依頼の内容を聞きながら私の頭の中で延々と「信じられない信じられない信じられない」が流れていました。と言うのは、その前年に私はセルビアで「鉄道機関士の花束」を観て、物凄く日本の観客に観てもらいたくなったのです。やっとユーゴスラビアの崩壊と民族浄化をテーマにしない映画ができて、とても嬉しかったのです。ここ二、三十年のバルカン半島を思い描く外国人は、まず憎悪と殺し合いを連想します。幸いにも、その時代は終わりました。勿論、芸術はまだ暫くその痛々しい出来事を色々な方法で描写し続ける。しかし、もういい! 人生は止まっていない。戦争を経験した人や目撃した人は、いつまでも過去に生きていないといけないのですか? 一方、外国の映画視聴者(或いは文学なら、読者)はいつまでセルビア・クロアチア・ボスニアのこのような内容のみに興味を持つのでしょうか? あの国は他にいいものを沢山提供できます! 映画で言えば、「機関士」。ウィットに富んだ台詞、ちょっぴりブラックユーモアの設定、演技力抜群の俳優。ユーモアと言えば、我々ユーゴスラビア人のトレードマークです。エミール・クストリッツァの映画を観てみてください! 終始笑わずにはいられない。爆笑したり、クスクス笑ったり、涙交じりに微笑んだり……。戦争を扱ったとしても、巨匠は決して浅いメロドラマに陥らない。幾層も重なったボリュームのある映画です。セルビアを外国で紹介する時に、私はいつも三人の天才から始めています。科学の天才、ニコラ・テスラ。映画作りの天才、エミール・クストリッツァ。テニスの天才、ノヴァク・ジョコヴィッチ。それから、自分も天才であることをほのめかしながら、歴史と地理のレクチャーに入ります。
 物書きなのにもう少し映画の話がしたいです(脱線の続きなのか本題なのか、自分も分からなくなっていることはばれているかしら?)。映画は私の大きな片思いです。作ることができないなら、何らかの形で携わりたい。岩波ホールで何度か芸術性の高い映画を観た時に、私の国から来る映画の字幕を誰が作っているのか、知りたくなりました。ひょっとして、自分もできるかもしれないと思って、岩波ホールに電話をしました。自己紹介をしてお邪魔している理由を説明している間、電話の向こうの男性は延々と「信じられない信じられない信じられない」と繰り返していました。どうも、その方はカンヌ映画祭でボスニアの映画「パーフェクト・サークル」を購入して、和訳は誰に依頼すればいいか悩んでいるところだそうでした。お互いに嬉しかったのは言うまでもないです。
 日本に、残念ながら、旧ユーゴスラビアの映画はそう頻繁には来ません。映画字幕ではありませんが、テレビ番組用の字幕が日本にいる間私の主な職業でした。しかし、テレビの世界でもユーゴスラビア不足です。ロシアとなると、話は違います。それでスポーツ(アリーナ・ザギトワ選手と愛犬のマサルについて何度訳したでしょう⁉)から政治(プーチン大統領のスピーチ、プーチン首相のスピーチ、プーチン大統領……)まで、十年間はテレビ局に入りびたり。セルビア人ならロシア語もできる、のですね? と思われてしまう前に言います――できません。セルビア語とロシア語はスラブ系の言語ですが、習わないと、お互いの言っていることは分かりません。私は猛烈に勉強しました。
 《あのぉー、日本語学科ではなかったのですか……?》――はい、日本語学科を卒業して、日本人と結婚しました。外務省の職員の夫について現在ドイツのフランクフルトにいますが、その前の赴任先はベラルーシのミンスク、ドイツのミュンヘン、ロシアのウラジオストクでした。私のロシア語はミンスク生まれです。《えーっと、ベラルーシはぁー……?》――はい、大体の人は分かりません。旧ソ連が崩壊してベラルーシ共和国も一応独立しましたが、未だにロシアと余り変わらないところです。地理的な位置と言えば、ポーランドの右隣で、バルト三国の下です。ベラルーシ語も存在していますけれども、ほとんどの住民はロシア語を話しています。ベラルーシ語は言うまでもなく、ロシア語すらできない私は英語で生活する予定でしたが、現地の人は――インテリの一部を除けば――英語は全く話せません。市場で卵とかジャガイモを買おうとして、ロシア語以外にできない農家の老人と意志の疎通がスムーズにいかなかったのでやむを得ずロシア語講座を受講しました。
 今となっては母語とほぼ同じくできるロシア語ですが、当時はベラルーシにいる間に最低限、生活に困らないレベルだったら十分だと思いました。しかし結果は大分違うものになりました。
 このエッセイの最初に、デビューの短編と日本語学科への入学は父と関係のあることだ、と書きました。父の存在を、それなりに、私なりの愛情を込めていながらも、ある意味で否定した苦い経験はもう紹介しました。ドイツ語の教師の父と、娘の日本語学科の関係はと言うと、後に学校教師をやめて、ある大きな会社でドイツ語の通訳として勤めた父と大学受験が迫る娘は、お互いを受け入れるようになりました。日本と違って、旧ユーゴスラビアの大学はみんな最初から専攻が決まります。私も人生を決める選択肢に直面していました。文学好きで語学が得意なので、翻訳家になりたいとはっきり分かっていましたが、学校で習ったフランス語……? 何となく違うと感じました。できれば一から学びたいと思っていました。中国語? ペルシャ語? 日本語? 決めかねる娘を見て、父はこう言いました。「中国語のことは何とも言えない。言葉とも人とも出会ったことはない。ペルシャ語も、どちらかと言えば、同じく分からない。でもイスラムの世界だと女性は仕事を見つけるのが難しいような気がする。日本語もまた言語のことは分からないけど、職場で日本人を見ることがある。微笑んだりお辞儀をしたりして、とても感じが良い。これら全てのことを考慮した上で決めたら?」
 同様に全く未知である三カ国語の中でニコニコしている日本人のイメージが勝って、私は日本語学科に進学しました。その前に面白いエピソードがあります。父の同僚が出張で日本に行ったことがあります。娘が日本語の勉強をしようと考えている、と父から聞いたその優しい女性はお土産に新聞を持って来てくれました。読売新聞を広げた私は不思議の国のアリスそのものでした。写真がなければ上下を逆さまにしても気が付かない。何一つ分からないけれど、根気よく見る。そのうちにあるものの繰り返しに気づく。プレッツェルのようなもの。見つけては鉛筆で記す。まぁ、プレッツェルだらけの言語だな、と思いました。確かに、日本語で「の」は出番の多い文字ですね。
 日本語の勉強をしていた四年間は物を書く余裕はありませんでした。卒業後は再び魂の痒みを覚えて、ある短編小説が頭の中で丸みを帯び始めました。しかし、ちょうどその時に夫はセルビア勤務を終え、日本に帰ることになりました。一九九五年から私にとっても日本が「帰る」ところになりました。
 東京に着いて少し慣れてきて、ベオグラードで思いついた「我が老後のマリアンナ」を日本語で書いてみました。勿論、うまくいくはずはなかったのです。途中でセルビア語に変えました。日本語で書くのは完全にあきらめたのではなくて、表現力をより身に着けるまで棚上げしただけです。
 夫について東京からベラルーシに移りました。猛烈にロシア語の勉強と翻訳をして、翻訳だけでは物足りなくなりました。東京で書いた「我が老後のマリアンナ」を読み返して、所々でロシアの要素を入れて少し書き直しました。「マリアンナ」は私がそれから書くストーリーのスタイルの基礎となりました――登場人物はセルビア、ロシアと日本の《バミューダトライアングル》で生まれたり、死んだり、愛し合ったり、裏切られたりする。「我が老後のマリアンナ」をあるセルビアの文芸雑誌に送ったら、早速掲載されました。次はロシアでした。自分で簡単に訳せました。数年後、今度は日本を征服する! と決めて和訳を始めました。でも、セルビア語に比較的近いロシア語と訳(わけ)が違って、日本語とセルビア語の間の距離を埋めるのはまだまだ容易なことではなかったのです。最終的にはロシア語のできる日本人の知人に訳してもらいました。母語ではない言語へと訳すのは本当に難しいです。難しいけれど、やるしかありませんでした――「マリアンナ」の他にセルビア語とロシア語で書いた作品を、夫を始めとして他の日本人にも読んでもらいたかったのです。その次に出版社に送りました。一社から即座にレスポンスが来ました。それから編集長と《ブランカ風の日本語》を《ちゃんとした日本語》にするのに一カ月ぐらい頑張りました。数カ月後にはもう一冊の短編集も同じ出版社で出していただきました。他に持っていた短編を日本語に訳した上で何編かは最初から日本語で書きました。その時に大事なことに気が付きました――日本語で書くべき。日本語へ訳すより、日本語で書く方が、楽です。「日本語で書くのは楽です」と言っているのではありませんよ! 決して楽ではありません。しかし最初から脳を日本語にセットアップすれば、和訳をする時のような《壊して・建て直す》作業がなくて、私もその方が早く進むし、編集者も直す箇所が少ないのです。それ以来、日本語で書いては、セルビア語とロシア語に訳します。私にとって一番合理的なやり方です。これが日本人でしたら(多和田葉子さんはそういう風に書いていらっしゃるかしら?)外国語で書いた後で日本語に訳すのが一番体に合った手法でしょう。
 二十年前にミュンヘンに住んだ時には、覚えかけのロシア語を失わないように意識してロシア人に囲まれて生活しました。読み書きも、努めてロシア語にしていました。その分ドイツ語は大して上達しないでミュンヘンを後にしました。そのことがずっと悔しかったです。ドイツ語がとても好きですし、父にも認めてもらいたい。ですから今回の二度目のドイツ、このフランクフルトにいる今は一生懸命に勉強しています。一日十時間を目指しています。
 人間の脳は素晴らしいものですが、巷で思われるようにその能力は無限大ではありません。何かを積極的に使うと、使わない物を失ってしまいます。私たちは皆、次のような選択を突き付けられています――ある分野でトップまでいって、他は全部ちんぷんかんぷん、にするのか、それとも幅広く色々なことについて少しずつ知る、にするのか? 選択肢と言いながらも、レストランのAランチセットか、Bランチセットにするようなその場で自由に選ぶものではありません。生まれた時から様々の要素が重なり、自分の歩む道は選択というよりも成り行きです。外国語を職業にする時点で《あれもこれも、少しずつ》コースに入ります。ましてや国際結婚しようものなら。でもそのコースの欠点を補うものが私はとても好きです。違う言語と異なる文化を知れば知るほど、自分が豊かになる。したがって、自分の書いている物も他の作家にできないディテールが多い――
 ――川っ縁であろうが、銀行の前であろうが、アヒルがのこのこ歩くフランクフルト。
 ――立つだけで体中の弦が振動している、モスクワの赤の広場。モスクワより大きい、ロシアより大きい、赤の広場!
 ――子供が置き忘れた、補助輪の付いている自転車の上に桜が散っていく東京……
 そうでしょう?――私が日本語学科に進学しなければ、セルビアとロシアの読者は東京の夏の匂いがどうして分かるのでしょうか⁉

 (たかはし ぶらんか・作家・写真家) 

 

◇試し読み②◇

カミュの『ペスト』をめぐって
――呼びかけのジレンマ

渡辺惟央

 

フランスでの『ペスト』の読まれ方
 今春、三野博司氏による『ペスト』新訳が刊行された。これまで宮崎嶺雄訳(新潮社)が親しまれてきたが、これからは三野氏の長年のカミュ研究に裏打ちされた、的確かつ平明な訳文で『ペスト』を楽しめるようになった。とりわけ訳注と解説がたいへん充実している。『ペスト』執筆中にカミュが残した書簡、創作ノートが豊富に引かれているだけでなく、舞台となるアルジェリアの都市オランが図版付きで紹介され、オランの市街図まで添えてある。新型コロナウイルス感染症(Covid-19)の流行をきっかけとする『ペスト』の一連の盛り上がりに、三野訳の刊行が新たな展開をもたらすだろう。
 フランスでも、この一年は『ペスト』がよく読まれた。二〇二〇年初頭にコロナウイルスの猛威がフランスを襲うと、瞬く間に『ペスト』がベストセラーとなった。当時の報道によれば、二〇二〇年一月末からの一週間の売り上げは前年の四倍に膨らんだという。感染症を題材にした小説が注目を集めるのは当然の流れだとしても、『ペスト』の売り上げの上昇は驚くべきものだ。ヨーロッパには、ボッカッチョの『デカメロン』やデフォーの『ペストの記憶』といった感染症文学の伝統があり、現代でも、ポルトガルのジョセ・サラマーゴによる『白の闇』、フランスではル・クレジオの『隔離の島』などの魅力的な作品がある。しかしこれらの作品と比べて『ペスト』への関心の大きさは際立っている。カミュ文学を研究する留学生としてパリに暮らす筆者の目から、現地で本小説がどう読まれてきたかをざっとまとめてみよう。
 コロナ禍のもとで『ペスト』はどう読まれたか。まず、コロナ禍の社会を考えるための手引きとして読まれたことは間違いないだろう。『ペスト』は感染症に襲われた街を題材にしつつ、一種の社会批評として書かれた小説である。感染のリスクや外出制限など、終わりの見えない不安のなかで日々を過ごさなければならなかったという意味では、小説の登場人物たちと現実の私たちの間に共通の境遇が見いだされる。そうした不安から『ペスト』は手に取られ、コロナ禍の社会を生き延びるためのよすがとなった。この点は日本と同じだが、とりわけフランスでは、「コロナ禍を予見した感染症文学『ペスト』」といった文言を掲げた評論や新聞記事が数多く見られた。
 次に、『ペスト』を作品が生まれた背景から理解しようとする向きが挙げられる。『ペスト』は、伝染病という隠喩を用いた戦争文学でもあるのだ。カミュはこの小説を第二次世界大戦、とりわけナチス・ドイツに対するレジスタンス経験を経て書いたのであり、疫病が蔓延する社会を戦時下のメタファーとして捉えることは彼自身も肯定している。このような複雑な背景は、フランスでは今日も忘れられていない。たとえば、フランスで昨年十月から実施された夜間外出禁止令について議論が起きた際に、しばしば『ペスト』が引用された。「夜間外出禁止令」を意味するCouvre-feuという言葉は中世から存在したが、それがとりわけ広まったのは第二次世界大戦中、フランスがナチス・ドイツの占領下にあった時期に、ドイツ占領軍がレジスタンス運動を抑止・摘発するために実施した夜間外出制限のためだ。実際、本小説には夜間外出禁止令を描いた箇所がある(三野訳、二五五、二六三頁)。そして今回のコロナ禍に直面して、政府が様々な市民活動の制約を正当化するときにも、「私たちは戦争状態にある」という比喩は何度も繰り返された。つまりフランス人にとって、大戦の記憶をもとに書かれた小説『ペスト』を読むことは、決して遠くない過去と出会い、現在の歴史性を考えるための手がかりとなっているのだ。
 最後に、多くの読者の手に届いたことで、コロナ禍には直接関係しない作品の多面性について現代的な関心のもとで議論されたということがある。たとえば、二〇二〇年五月、コロナ禍をうけてカミュ文学の専門家を中心に『ペスト』に関するリモート講演会が開かれた際、一般の視聴者から次のような質問が出た。
 「『ペスト』は男性たちの小説なのでしょうか。リユーの母親以外には女性が出てきませんよね」。
 たしかに、作中で女性が活躍する姿はほとんど見られない。唯一の例外は主人公の医師リユーの母親だが、彼女も二次的な役割に留まっている。また、アルジェリア人も不在である。『ペスト』の舞台であるアルジェリアは、作中の一九四〇年代には宗主国フランスの領土であったが、言うまでもなくそこには、現在「アルジェリア人」と呼ばれるアラブ系・ベルベル系住民たちがフランス占領以前から生活していた。それにもかかわらず、彼らは作中ではほとんど姿を見せない。研究者たちの間では、カミュ作品における女性やアルジェリア人の不在について一九九〇年代頃から様々に議論されてきた。それが今日、新たに『ペスト』に触れた読者たちによって再度取り上げられ、性や人種というアクチュアルな側面からの読み直しが進んでいるのである。
 同じ講演会では、環境問題との関わりが指摘されていたことも目新しい点だった。登場人物のタルーの言葉――「自然な状態とは病菌のことだ」(同三七二頁)――をめぐって、自然と人間の関わり方が議論された。人間の社会活動の行き過ぎが伝染病の蔓延を引き起こしたのではないか。さらには、人間の環境破壊に対する自然からの自浄作用のようなものではないか、という意見も出た。フランス文学史家のアントワーヌ・コンパニョンは、二〇二一年五月の『ラ・クロワ』紙上の記事において、エコロジーの観点から『ペスト』を読むことについて一つの示唆を行っている。近年、「人新世」という言葉に向けられた大きな関心が示しているとおり、人類とその社会活動が地球規模の環境変動と密接に関わっていることは明らかであり、もはや「人為と自然」の区別は自明なことではない。この点からみて『ペスト』は、今こそ、人間の本質を自然との関わりのなかで捉え直す作品として読むことができるだろう、とコンパニョンは述べる。こうした現代的な視点によって、作品は新たな生を得たと言えるが、これは『ペスト』の再読が決して一過性には終わらない可能性を示しているだろう。

 ここまで、コロナ禍以後に見られた『ペスト』の新しい読み方を紹介してきた。とはいえ、『ペスト』がこれほどまでに受け容れられたのは、つまるところ作品が持つ普遍的な魅力ゆえであろう。小説内の虚構の世界が、コロナ禍を予言しているかのような強い現実味を読者に感じさせる。登場人物たちの不安や葛藤が、私たちの抱いている不安と共鳴する。そしてなにより、作中で描かれる「誠実さ」や「勤勉さ」のテーマが、虚構と現実の壁を越え、時代を越えて、コロナ禍を生きる人々に強いメッセージとなって届いたのである。決して特定の価値観やイデオロギーのうちに安住せず、英雄主義を斥け、ただ自分の職務を全うする医師リユーの姿に、勇気づけられた人も多いはずだ。そこで次に、『ペスト』が描く誠実さのテーマに新たな角度から光を当ててみたい。

「ペストの医師たちへの勧告」
 二〇二〇年四月、カミュの全作品を出版するガリマール社が、コロナ禍をきっかけに、『ペスト』に関する作品をオンライン上(電子ファイル形式)で無料公開した。「ペストの医師たちへの勧告」(以下「勧告」)と題する、カミュが残した小文である。このたび拙訳で岩波ウェブマガジン「たねをまく」に掲載予定なので、そちらもあわせて読んでいただければ幸いだ。なお、この作品には既訳があり、新潮社『カミュ全集』第四巻の「『ペスト』拾遺」の中に宮崎嶺雄氏の訳で収録されている。
 「勧告」は、もともと一九四七年の『ペスト』刊行にあわせて、同年四月に雑誌「カイエ・ド・ラ・プレイヤッド」に掲載されたものだ。その執筆時期は実際のところ、『ペスト』刊行より六年前にさかのぼる一九四一年頃とされている。カミュ作品に親しんだ方には、この年が『異邦人』と『シシュポスの神話』(一九四二年)刊行の前年であることを記せば、『ペスト』構想に注いだカミュの長きにわたる努力が伝わるだろう。
 版元のガリマール社によれば、この小文で「作家(=カミュ)は、感染症と日々闘う医師たちに助言を送っている」のだという。「勧告」という題名のとおり、語り手は医師たちに「みなさん」と語りかけ、感染予防のための対策をレクチャーしている。しかし、冒頭で診察に関する技術的な注意喚起をした後は、全体にわたって医師としての「心構え」が語られている。感染症を乗り越えるために、「恐怖」をはねのけ、心の節度を保とう、と語り手は訴える。
 「恐怖によって病の影響を受けやすくなるので、体が感染に打ち克つためには心を厳格に保つ必要があります」。
 現在、これを読む私たちは、コロナ禍のもとで献身的な努力をつづける医療従事者に対して、あらためて思いを馳せることが求められているだろう。ガリマール社もそのような狙いから無料公開を行ったようだ。とはいえ、ややもすれば説教くさいのではないかという印象も受ける。書かれていることは麗しいが、現実にコロナ禍と闘い、今まさに苦しんでいる人々の心に、このような教訓が果たして届くのだろうか。
 カミュのこの道徳的な態度には、小説『ペスト』刊行時からすでに批判があった。自制心を強く持って「勤勉」に生きる態度は、『ペスト』でも医師リユーの姿を通じて描かれている。批評家ロラン・バルトは、『ペスト』が第二次世界大戦の体験を下敷きにした物語であることを重視し、カミュが戦争を「伝染病」によって寓意化したことを強く批判した。戦争や虐殺を、自然がもたらす偶発的な災害であるかのように語ることで、カミュは加害者の歴史的責任を追及せずに済ませている、というのだ。 作家・哲学者のボーヴォワールも、『ペスト』を「感動的」であると称賛する一方で、ナチスによるパリ占領を疫病になぞらえることは歴史の問題を回避することだ、と同様の批判をしている。
 この批判は『ペスト』の特徴をうまく言い当てている。作中で伝染病は、ただ説明のつかないものとして(「不条理」なものとして)突然発生するものであって、その発生源と終息理由は最後まで分からない。しかも奇妙なことに、主要な登場人物たちの誰もが、ペストの原因を究明する気がないように見える(唯一の例外が、ペストの原因を神の裁きだと唱える神父パヌルーの第一の説教である)。医師リユーや仲間たちは、ペスト発生の原因を突き止めようとせず、保健隊の仕事にひたすら専念している。
 市民生活の危機を前にして、問題と責任の所在をはっきりさせず、ただ日々の職務を全うして勤勉に過ごす……カミュの呼びかけは、あえて意地悪に言うなら、現実の社会問題に目を向けない近視眼的な理想主義に見えかねない。今回公開された「勧告」にも同様の指摘をすることができるだろう。危機(ペスト)の原因を問うのではなく、それに立ち向かう姿勢にのみ注意を促しているからだ。カミュはこのような道徳主義をただ素朴に説いただけなのだろうか。

勧告と演説
 じつは、「勧告」には姉妹編となる作品がある。一九四七年刊行の雑誌に同時掲載された、「被治者に対するペストの演説」と題された小文(以下「演説」)である。こちらも、新潮社の『カミュ全集』第四巻に「勧告」と共に宮崎嶺雄訳が載っているので読んでみてほしい。
 この小文は、全体主義的社会を統べる「ペスト」という名の支配者が、支配下の市民たちに行う演説を描いたものとなっている。カミュの戯曲作品『戒厳令』(一九四八年)に登場する同名の独裁者ペストの原型である。
 「わたしは支配している。これは一つの事実であり、従って、一つの権利である。しかし、これは論議を許さぬ権利だ。諸君は順応せねばならぬ」(『カミュ全集』第四巻、二五五頁。以下引用は同書より)。
 ペストは市民たちに対して、自分が支配する社会のなかで従順に働き、文句一つ言わず、死ぬときですら規則にしたがって死んでいくよう要請する。しかしペストは、自分は暴君ではない、社会秩序を維持する統治者としての「職務を全うして」いるだけなのだ、と主張する。彼は官僚主義的に、とにかく「勤勉」に市民を管理しているのだ。
 「今日以後、諸君の問題は秩序正しく死んで行くすべを覚えることだ」。「諸君は統計に組み入れられるのだ」。「わたしは、諸君の積極的な協力を要求する」。
 さて、「演説」と「勧告」を比較してみよう。全体主義体制を擬人化した支配者ペストの演説と、それに対抗する医師たち(レジスタンス)への激励。このように対比させれば、「勧告」と「演説」はそれぞれ正義と悪が描かれた二つの作品のように読めるかもしれない。だが、二つとも、市民に対して「職務を果たせ」「順応せよ」と要求している点では、同じことを書いている点に注意する必要がある。カミュはこの二つの作品を並べることで何を伝えようとしているのだろうか。
 ふたたび「勧告」に目を向けよう。そもそも、医師たちに「勧告」し呼びかけているこの人物は誰なのだろうか。ガリマール社によればこれは「作家」本人だというが、ことはそう単純ではない。語り手は、医師たちにレクチャーしているだけあって、古今の医学書・歴史書に通暁した人物であることが分かる。さらに、ペストに襲われた街の凄惨な光景を克明に語っていることから、自身も現場を目の当たりにしてきたのだろうと推測できる。つまりこの呼びかけは、この人物が(医師なのか学者なのか、その身分は曖昧だが)自ら現場で働き、多くのリスクと犠牲を払うことで得た教訓なのである。
 このことを念頭において両作品を比較すると、「勧告」では語り手が、共に戦う同志として医師たちに心構えを伝えているのに対して、「演説」では、支配者が市民に対して一方的に、有無を言わさぬ形で自分の考えを押しつけている。二人とも、社会をより良くするためにスピーチを行っているが、語りかける人物とそれを聞く人々との関係が、「勧告」と「演説」では大きく異なる。この違いは、「勧告」の語り手が、文末で一度だけ自分のことを「私」と呼ぶまで自己主張を慎む謙虚さを持つのに対し、「演説」の支配者ペストが、何度も「私は諸君に~する」と独善的な言葉遣いを繰り返すことにも表れている。
 呼びかけをする側も、それを聞く側も、二つの視点を持つべきだとカミュは言おうとしているのではないか。社会全体を襲う危機を前に、みんなで協力していかなければならないことは言うまでもない。だが、一致団結を求める呼びかけは、合意の強要、不一致や不和の隠蔽、他者の排除といった危険を孕んでいる。強制力のないはずの呼びかけが強制力を持ってしまうこのジレンマを、「勧告」と「演説」は描いていると言えよう。
 コロナ禍のもとで、自宅待機、公共空間での行動制限、各種施設の営業時間短縮など、「自主的な」協力が様々なかたちで要請されている。日本政府をはじめ、各国政府のコロナ禍対策(緊急事態に関連する政策)が後手に回り、様々な不備が批判されているにもかかわらず、自粛を呼びかける空気はほとんど有無を言わさぬものがある。誠意ある呼びかけとは何なのか、その呼びかけにどのように耳を傾けるべきか、『ペスト』や「勧告」を読みながら考えることができるのではないだろうか。

 (わたなべ いお・フランス文学・思想) 

*web岩波 たねをまく 「ペストの医師たちへの勧告」は、こちらから

 

◇こぼればなし◇

 ◎ 「出版界には不思議なことが起こる。そして、不思議なことを起こす力がある。」本の仕事に従事する人の背中を、ポンと押してくれる一言ではないでしょうか。みすず書房の編集者として、長く読み継がれる数々の書籍を手がけた加藤敬事さんの言葉です。

◎ 同氏の回想録的エッセイ集『思言敬事』が、五月に小社から刊行されました。人文書のベル・エポックとも言える一時代が、作り手の視点で淡々とかつ滋味豊かに描かれた、出版文化史の貴重な証言です。冒頭に引いた言葉は、それまでみすず書房とは縁のなかった稀代の芸術家にして人類学者のシリーズ『岡本太郎の本』(全五冊)を、一九九〇年代後半に同社から刊行するに至った「運命」を綴る話に出てきます(「ゆで卵とにぎり飯――岡本敏子さんとの物語」)。

◎ アーレント『全体主義の起原』、シュミット『政治的ロマン主義』、丸山眞男『戦中と戦後の間』、『藤田省三著作集』……。人文書読者なら一度は手に取ったことがある本を数多、世に出した加藤さん。「不思議なことを起こす力」が直接語られることはありません。それでも、著者が本の完成を見ることなく遺著となったこの小さな一冊を通して、大事なことをたくさん学びます。

◎ 出会った人々、出会った本、それらから織りなされる出来事への、そして自分自身に対する、加藤さんの距離の取り方。それと通底する歴史の見方。蒐めて俯瞰し、比較する眼。出版にとってとても大切な、「時機」ということ。等々。

◎ 効率化を実現しながら、長く読まれる本、世代を越えて読み継がれる本を作り、届けていくにはどうすれば? この簡単ではない問いと日々取っ組み合っている出版関係者には、とりわけ、じわじわ効いてくるエッセイ集でしょう。

◎ 加藤さんは、担当する藤田省三さんの前で決して正体を現さないようにしていたところ「幽霊」というあだ名をつけられたそうで、「それは藤田さんの言うdistanceの感覚を大事にした結果」であるとか(『思言敬事』四一頁)。加藤さんのはにかんだような笑顔が目に浮かびますが、「全集や辞書の凡例を好んで読む」「他の読者にはない嗜好」(「あとがき」)をもつ編集者ならではの書誌学的考察が収められているのも本書の魅力です(「三つの『保元物語』」など)。

◎ 合わせてお読みいただきたいのが、六月に刊行した『本の森をともに育てたい――日韓出版人の往復通信』。韓国の出版社社長のカン・マルクシルさんと、小社元社長の大塚信一さんが一〇年以上にわたり交わした通信の記録です。加藤敬事さんも発足と運営に深く関わった「東アジア出版人会議」と「坡州(パジュ)ブックアワード」の挑戦を知り、未来の東アジアの出版文化を築くための土台ともなるドキュメントとしてお届けします。

◎ みすず書房さんは今年、創業七五周年を迎え、一年間、全国の書店で記念フェア「みすず書房の本 宝探し」を展開中。棚前で、社員の皆さんの手書きPOPをつい一枚一枚読んでしまうのです。

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