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『図書』2022年5月号[試し読み]大澤真幸/永田和宏/青澤隆明 

◇目次◇

経済をめぐる本来の経験  大澤真幸 
高齢者の自覚  岸 惠子
「うた日記」の鷗外  永田和宏
プーチン、ウクライナ、日本国憲法  柳 広司
「健康」をめぐって  栗田隆子
一九三一年十二月十日の高田博厚  髙橋 純
写真のそばで  竹内万里子
ある音楽家の沈黙  青澤隆明
武満徹の『夢の引用』  司 修
Flowers in the Dustbin  ブレイディみかこ
ジュリー・ロンドンの紙ジャケット  片岡義男
来る者  岡村幸宣
五月、新緑の中を翔け回る  円満字二郎
明日から見る今日  時枝 正
たくらむ虚病姫  中川 裕
中村きい子の激しさ  斎藤真理子
こぼればなし
五月の新刊案内
(表紙=杉本博司)

 

◇読む人・書く人・作る人

経済をめぐる本来の経験
大澤真幸
 
 『経済の起原』という本を書いた。書いた理由は、過去の経済についての歴史的事実の解明にだけあったわけではない。それは、現在の経済について考えることの困難に関連している。

 私たちは常に経済について考えている。政治の中心は経済政策である。経済学は、社会科学の中で最も洗練された分野だ。それなのに、年率三%の経済成長やわずかな格差の縮小等のささやかな経済の改善さえも実現できない。他方で、私たちは、人間の知性や想像力の偉大さに感嘆する。生命科学は、死すらも克服しようとしている。小説やアニメの想像力は、現実を遥かに超えた世界に私たちを誘う。だが経済に関しては、ごく現実的な目標を達成する方法も思いつかない。

 経済をめぐる思考の無力には、根本的な原因がある。マルクスが教えてくれる。商品の物神性。私たちは、貨幣や経済システムを、私たちの意図に従う道具として思い描く。が、マルクスは、商品と貨幣のふるまいは、貨幣を神として崇める宗教を営んでいるかのようだと述べる。つまり、経済を実際に構成している経験の様態(宗教)と、私たちが経済を通じて経験していると思っていること(道具)との間には乖離がある。私たちは経済についての真の経験を、貨幣や商品といった物の上に転移し、いわば物たちに外注しているのだ。その上で、残り滓の経験を、経済現象だと思い分析し、操作してきた。

 資本主義経済では物の上に転移され、意識の外に出てしまった経済をめぐる本来の経験の総体とは何だったのか。その発掘が『経済の起原』の狙いである。
(おおさわ まさち・社会学)
 
 
◇試し読み①◇
「うた日記」の鷗外
――音韻定型詩の可能性拡大への挑戦
永田和宏
 
 森鷗外の『うた日記』は、論じるにきわめてやっかいな本である。論じる以前に、読み通すことにも少なからぬ苦を伴う詩歌集でもあると私は感じてきた。
 この『うた日記』を初めて読んだのは、まだ若い頃であったが、ついに最後まで読み切れず挫折してしまった。それは決してつまらないからというのではなく、この一巻がどこか途方もなく茫漠として、その詩歌を書いている森鷗外という一人の人格に、明確な焦点が結ばれなかったことに由来するように思われる。
 
 『うた日記』は、一巻のほぼ七割を占める主章「うた日記」の他に、四つの部から成っている。ドイツの詩人による戦争を題材とした詩の翻訳を収めた「隕石(ほしいし)」、自由な想像力のもとに書かれた詩歌からなる「夢がたり」、戦場と内地との書簡の往復の際に、消息文として書かれたと思われる「断章」的な「あふさきるさ」、そして明治三五年に再婚したばかりの妻しげになり代わって作ったとおぼしい詩歌からなる「無名草(ななしぐさ)」である。
 
 ここでは明治三七年(一九〇四)から三九年一月までのほぼ二年の間に書かれた、「うた日記」に焦点を絞ることにしよう。鴎外が日露戦争で、陸軍第二軍軍医部長として満州に出征した間に書かれたものである。
 詩歌集には珍しく「うた日記」には序文もあとがきもないが、序歌というべき一首が、タイトルの横に刷られている。
 
  こちたくな 判者(はんざ)とがめそ 日記(にき)のうた
   みながらよくば われ歌(うた)の聖(せい)
 
 思わず頬が緩んでしまうような歌である。「こちたし」は「言痛し」、言葉が多くて煩いという意味、判者は批評家というほどの意であろう。「世の批評家よ、あんまりうるさく咎めてくれるな。日記の歌がみんな秀歌(柄(がら)良く)だったら、俺は歌の聖(ひじり)だろうよ」くらいの居直りである。居直りはまた言い訳でもある。すでに『於母影(おもかげ)』などの翻訳詩集は出していたにしても、詩歌集としては初めての出版。どこかで批判を躱(かわ)しておきたいという自己防衛本能でもあっただろうか。
 序歌に続いて、「自題」というタイトルの詩が続く。実はこれが序文に当たるものであろう。序文を、それ自体「詩」として提示したわけだ。四連からなるが、最初と最後の一連を示しておこう。
 
  情(じやう)は刹那を 命にて
  きえて跡なき ものなれど
  記念(かたみ)に詩をぞ 残すなる
 
  世の人焼かば 焼かれなん
  よべ敷寝(しきね)せし 高粱(かおりやん)
  まだき薪(たきぎ)と 燃ゆるごと
 
 「感情というのはその一瞬が命であって、跡を残さないで消えてしまうものだから、その記念として詩を残すのだ」「つまらないものとして世の人が焼いてしまうと言うのなら、焼かれてもよかろう。昨夜敷いて寝た高粱が、早くも薪として燃やされるようなものだ」と詠う。
 さらにこの一連の後ろには、三首の歌が置かれている。最初の二首は
 
  我歌は 野ぶり鄙(ひな)ぶり 調(しらべ)あらじ 
   歌に老いたる うまびと聞かすな
 
  我歌は 素(す)ごとただこと 技巧(たくみ)あらじ
   歌におごれる わかうどな聞きそ
 
 一首目では、「私の歌は野卑で田舎っぽくて、調べも良くない。長く歌をやってきた貴人は聞かないがよい」と言う。「私の歌は、まことにたわいないただ事で、技巧もなにもあったものじゃない。歌がうまいと思っている若者は、耳を塞いでおけ」というのが二首目。
 先の詩といい、これらの歌といい、自らの詩の才への謙遜、卑下の意識が露わであり、自嘲的でもある。しかし、一方で世間の「歌に老いたる」「歌におごれる」輩にはわからなくともいいといった、強い自負、自恃の思いが、これらの詩行の間には感じられるはずである。
 森鷗外は、自らの詩人としての歩を踏み出そうとする時にあたって、すでにある詩歌の価値観、評価基準へ果敢に挑戦するところから己の詩作を始めようとしたのではないかと、私は思っている。それが、あたかも日露戦争という、日常とかけ離れた世界に留まらざるを得ない状況と共役し(あるいは敢えてその時を択んで)、「うた日記」という形で実践することになったのではなかっただろうか。
 先に私は、『うた日記』は、どこか途方もなく茫漠としていて捉えどころがないと書いた。そのわかりにくさは、〈形式〉と〈内容〉との両面から来るものであるように思われる。
 
 なぜ鷗外が、日記という形で詩歌集を発表しようとしたのか、そこに描かれている世界、就中、戦争という〈非常の景〉を詩歌として詠うことにどのような意味があったのか。そんな〈内容〉に関わる疑問は、何より大切なものではあるが、ここに許されたスペースでは、到底論じることができないものである。ここでは、〈形式〉という問題に絞ることにしたい。
 まず驚くのは、この一巻に用いられている形式の多様性である。『うた日記』は鷗外の著作としては、評論されることのきわめて少ない詩歌集であったが、最初に正面から論じたのは、佐藤春夫の『陣中の竪琴』であると言われている。その中で佐藤は、「古今東西のあらゆる詩法の集大成を夕空の星の如く追追に見出した筆者は、この軍医部長閣下の薬籠中に詩的妙薬の多いのに狂喜しここに先づ作詩術実例を豊富に見出しては己が作詩の教科書」としたとまで書いている。
 「古今東西のあらゆる詩法の集大成」という、最大級の誉め言葉に同意しつつも、その〈集大成〉ぶりがいっぽうで、定型韻文詩の一定の音韻に浸りつつ、心地よくそれらを読みすすむことに抵抗と困難を感じさせることも事実なのである。
 
 鷗外と言えば、私たちのように歌を作っている人間からすると、まず観潮楼歌会が想起される。日露戦争のあと、明治四〇年(一九〇七)から自宅観潮楼に、新詩社系から与謝野鉄幹、北原白秋、石川啄木、木下杢太郎ら、アララギ派から伊藤左千夫、斎藤茂吉ら、他に佐佐木信綱など当時の代表的な歌人たちを集めて、毎月歌会が行われた。鴎外が短歌を作っていたことはみんなが知っている。
 「うた日記」というタイトルからもそこに和歌が含まれていることは当然のこととして、また鷗外の翻訳詩などから五七調、七五調の定型詩が入ることも容易に想像がつくとして、しかし、本書に含まれる詩歌の形式の多様性は想像を超えるものである。
 
 「うた日記」の冒頭に置かれた詩篇は、「明治三十七年三月二十七日於広島」と日付がある「第二軍」という詩。
 
  海の氷(ひ)こごる 北国(ほくこく)
  春風(はるかぜ)いまぞ 吹きわたる
  三百年来 跋扈(ばつこ)せし
  ろしやを討たん 時は来ぬ
 
 こんな七五定型詩が九連続いたあとに、九首の短歌があたかも反歌のように置かれている。ロシアがいかに恣に、「我物顔に」振る舞ってきたかを縷々述べ、それを討つべく「見よ開闢の むかしより 勝たではやまぬ 日本兵 その精鋭を すぐりたる 奥大将の 第二軍」と終わる。すぐにわかるように、これは実は鷗外による「第二軍」の軍歌なのでもある。実際に「第二軍の歌」として印刷されたとのことである。
 五七五七が続き、最後七音で締める典型的な長歌形式もあり、その後ろに反歌として短歌を配するという万葉以来の形式を守っているものもある。そうかと思うと、長歌のあとの反歌が俳句形式になっているものもあって驚かされる。「我百首」や「奈良五十首」などから、歌人としての鷗外は知られていても、俳句まで作っていることはあまり知られていないだろう。
 
 さらに五七五七七七からなる仏足石歌までが試みられる。集中もっとも有名な「扣鈕(ぼたん)」がその一例である。
 
  南山の たたかひの日に
  袖口の こがねのぼたん
  ひとつおとしつ
  その扣鈕惜し
 
 この形式があと四連続く。気をつけないと仏足石歌であることさえも気づかずに読んでしまいそうだ。それでもいいのだが、鷗外のなかでは明らかに仏足石歌という古来の形式を現代的に生かしてみたいという挑戦の意識があった筈だ。
 
 おもしろい形式として、五七五を一行として続いていく詩もある。俳句が何句か並べられている一連もあるが、明らかにそれとは違って、五七五からなる定型を意識した詩がある。例えば「敵襲」。
 
  南山(なんざん)の 砦(とりで)のさまを さぐらんと
  司令官 幕僚つれて ゆきませば
  のこれるは 楊家屯(やうかとん)にぞ やどりける
 
 一行一行は五七五だが、もちろん俳句ではない。こんな単位が六連続く。さらに同じ形式を踏んだ「唇の血」では、最後に短歌と俳句が反歌のように配されるという凝りようである。
 まだまだ多岐にわたる定型の模索が披露される。可能な形式をすべて試してみたいといった貪欲さが露わである。まさに医学者、自然科学者の面目躍如と言うべきであろう。これはいったい鷗外のどのような意図に基づく試みなのか。
 
 鷗外が二二歳(一八八四年)から二六歳までドイツに留学していたことはよく知られている。帰国直後に発表した『舞姫』は、留学時の恋愛経験に基づいた鷗外初期の代表作である。この留学経験が鷗外の著作、就中、詩歌に与えた影響は大きく、『於母影』などの外国詩の翻訳としてもそれは表れている。
 そのなかで日本古来の五七から成る韻文定型詩への興味が改めて浮上したとしても不思議ではない。それ以前に長歌、短歌を初めとする和歌の心得があったことは言うまでもないが、ソネット他の外国の詩形式に現地で接することにより、短歌、俳句といった形でわずかに残っている日本の定型詩に、どれほどの未知の可能性があるのか、その外縁拡大への興味と挑戦意識が目覚めたのではなかっただろうか。
 
 そんな鷗外の眼から見て、伝統詩として残っているわずかな形式だけに汲々としがみついているかに見える「歌に老いたるうまびと」や「歌におごれるわかうど」への挑戦が、この「うた日記」の動機であり、意味だったのではないか。
 そしてそんな大胆な試み、挑戦を、日露戦争という非日常のなかで、さらに軍医部長という現場のトップの業務を真摯にこなしつつ、毎日のように淡々と綴っていたことに、改めて森鷗外という存在の大きさを思うのである。
 (ながた かずひろ・歌人・細胞生物学) 
 
◇試し読み②◇
 
ある音楽家の沈黙
――ピアニスト、ラドゥ・ルプーを想う
青澤隆明
 
本誌の刷り上がりを待っていた4月17日、ラドゥ・ルプーはひっそりと旅立たれました。彼の遺した魂とかけがえない音楽が、遠く未来まで響いていくことを祈ります。(著者)
 ひとりのピアニストが舞台を降りた。二〇一九年六月二一日、金曜日の夜、ルツェルンでのコンサートで。翌日、ひっそりと彼の引退が報じられた。なんの予告もなく、それでおしまいだった。
 ルーマニア生まれの名ピアニスト、ラドゥ・ルプーのことである。一九四五年生まれ、そのとき七三歳だった。レコーディングは二〇年以上もまえにやめていたし、放送録音やコンサート収録も決して許さなかった。自分の演奏を残すことを頑なに拒んだ彼は、当然のようにインタヴュー取材なども断った。音楽について語るのは、演奏のさなかだけだ。そのほかに、音楽を生きるすべはない。
 それでも聴衆のまえから姿を消すことはなかった。一一歳でのデビューから六〇年、プロのピアニストとしては半世紀を超えて、コンサート活動を続けた。スケジュールをまとめて公表することもせず、点在する情報をたよりに集ってきた人々のまえで、ピアノを弾いた。それも多くはなじみの共演者、主催者やホールの友人たちのいるところだった。
 ルプーが舞台を去って、もうすぐ三年がめぐる。その間、どれだけ彼の音楽のことを想っただろう。数えきれない演奏会に通ううちに、その不在はいっそう強く訴えかけてくるのだった。
 時折は録音にも手をのばした。LPの全盛期に活躍したルプーだが、音盤は決して多くはない。レコードを手にとるたび、「そんなもの聴くなんてどうかしてる」と無言で戒めるように頭を振るルプーの表情が思い浮かんだ。嫌な虫でも追い払うような、頑とした拒絶の素振りを。厳しすぎる自己批判と、なおも音楽を追い求めて生きる姿勢の表れだった。
 音楽は情報ではない。データとして流通したり、ストックされたりするものでもない。マイクロフォンに捉えられるようなものでも、聴く人を欠く場所で起り得るものでもない。音楽は、楽譜の上に記されたものですらなかった。それは、生きるものだから。きわめて、脆く、儚く、壊れやすいものなのだ。
 そのことを、ルプーは身をもって示した。文字どおり、生身の演奏だけで、長年明かし続けたのである。生命というのは傷つきやすく、壊れやすいもので、演奏もまた意志を超えた生命そのものの、ひとつの自然なありようだった。
 ルプーがほとんど毎回の演奏に落胆し諦観を深めながら、失敗をくり返す自身に耐え続け、それを公衆の面前に晒し続けたのは、音楽という営みをも超えた、生への愛情以外のなにものでもないと私は思う。曲に向けた敬愛だけでなく、まして自我の主張や、楽器のうえでの出来事でもなく、ただ生きた現象として、個々人の間に起こり得る生命の方角に手をのばすこと。そっと吹き込まれるその息吹を一瞬でも感じることが、永遠ともみられる時の深層に触れる鍵だろう。ルプーの演奏が痛々しいほど率直な誠実さをもって謳ってきたのはそのことだ。
 
 それでも、現実の時計の針はまわり続ける。ラドゥ・ルプーの姿の消しかたが、奇しくもコロナ・パンデミックによる人々の断絶を免れるように、ある場と時を共有して直接交わされる音楽への信にそってなされたことは、私にはどうしても偶々であるように思えない。
 翻って、二〇二二年。コンサートに目を向ければ、渡航制限と隔離措置により多くの演奏家の行き来が再び閉ざされている。ひき続き困難な趨勢のなかで、多くの国内演奏家に舞台が提供され、国際コンクールで成果を示した若手の起用も目立ってきた。優秀な技術水準を備えた、フレキシブルな奏者がいることは内外を問わず昨今の収穫だが、急場の代役には集客面での訴求力も期待されがちだ。クラシック音楽の話題が社会の出来事としてメディアに乗るのはいまだにコンクールの話題が大半で、二〇世紀後半から変わっていない。さみしい話だ。
 そもそも国際コンクールが隆盛したのは、第二次世界大戦後の社会のなかで、国家の威容を回復しようとする競争原理と密接な関係があった。東西の対立の象徴として捉えられたのはオリンピックやスポーツの国際大会だけではなく、芸術や文化、科学の上での優位も競われた。戦後の諸国の復興、過熱する米ソ冷戦の煽りを受け、音楽産業の市場拡大と同期し、さらには南米やアジアへと西欧音楽の覇権を拡張しながら、国際コンクールは効果的に影響力を強めていった。
 もっとも象徴的な〝事件〟は西側への優位を誇示すべく、モスクワで一九五八年に始められたチャイコフスキー国際コンクールのピアノ部門最初の優勝を、アメリカの若者ヴァン・クライバーンがさらったことだろう。一九六二年には彼の名を冠したコンクールがその故郷テキサスで開催され、ルプーは第二回に優勝したがこのときソ連は参加していない。一九四三年以来の歴史をもつパリのロン・ティボー国際コンクールでは五〇年代から日本人の活躍も目立つが、清水和音が優勝した八一年にも、前年に行われたモスクワ・オリンピックのボイコットに抗し、ソ連は出場者を送らなかった。
 さて、現存する国際コンクールでもっとも古いのは、ワルシャワのショパン国際ピアノ・コンクールで、初回は戦間期の一九二七年まで遡る。ショパンの作品を世界に改めて認知させるため、スポーツの熱狂と競合性を持ち込むことを創設者は考えたという。アスリート的な身体能力は奏者に欠かせないとはいえ、演奏と競技を直結させたことには確かに先見の明があった。本来は多様な価値を認め合うべき音楽を、わかりやすく順位づけてみせることで、大衆の時代に広く訴求力をもつイヴェントに仕立てた。そうして一〇〇年近くに亘り、その効果をともかくも保ってきたのだ。
 第一八回を数えるその最新回は、五年ごとのペースをパンデミックにより二度、結果一年延期するかたちで、二〇二一年一〇月にワルシャワで開催された。日本からの参加者も活躍し、反田恭平と小林愛実が本選に進み、それぞれ第二位と第四位の成果を得たことは大きく報道された。第一位はカナダのブルース・リウ。二〇一六年の仙台国際音楽コンクールにシャオユー・リウの名で参加して第四位に入賞したときは私も現地で聴いたが、その本選では最年少にしてもっとも才能を感じさせた。
 今回のショパン・コンクールで最大の特徴となったのは、公式YouTubeチャンネルによるライヴ配信が推進され、各種SNSを駆使した情報も広く発信されたことだろう。インターネット・メディアの活用はパンデミックの時期に臨んで、国際イヴェントとしての聴衆の視聴参加を著しく促進した。出場者やその周辺で発せられる多種多様な情報は、ワルシャワで行われるコンクールを世界規模の熱狂へと駆り立てるのに役立った。当人の発信力が人気や興行的な成功に直結する有効な資材とみなされる昨今である。もっとも、大半のメディアが批評や評論よりも、アーティストの発言を率先して掲載するのは、SNSが浸透するはるか以前からの傾向ではあった。
 ルプーの名を知らしめた一九六九年、第三回のリーズ国際ピアノ・コンクールは、当時すでにBBCでのラジオ中継やテレビ放送で人気を博していた。続く一九七二年にはマレイ・ペライアが優勝、七五年は第二位に内田光子、第三位にアンドラーシュ・シフが入賞するなど、才覚をもつ演奏家も続々と登場。ロンドンが名実ともに音楽マーケットの中心地となりつつあり、コンサート・プロモーターやレコード会社も勢力を広げる時代のさなか、メディア活用も含む先駆的な成功例ともなった。同コンクールは演奏活動の支援も行ったし、英国メディアの力が大きいのは当時からの特徴である。
 それでも、情報的な主義主張ではなく、あくまで個的な性格に貫かれたルプーの信条が、時代の趨勢に反動的な姿勢をとったのはひときわ象徴的に映える。彼の良き友人のペライア、内田やシフにしてもまた、隆盛する音楽ビジネスのなかで、各自のスタイルを周囲に理解させ、長く活躍する地歩を独自に保っていった。ルプーもまた時代の子であることは免れなかったが、しかしそのなかで彼にしか護れない静謐な場所をつくり、いわば聖域のようにして音楽を置いた。
 昨冬に出た『ラドゥ・ルプーは語らない』(板垣千佳子編、アルテスパブリッシング)を読むと、ルプーという音楽家が時代のなかでどう生き、音楽を愛する心にいかに慕われてきたかが、じんわりとわかる。本人は黙して語らず、周囲の音楽家や関係者が語る不思議な本だ。
 長年マネージャーとして寄り添った編者の声がけに快く応じ、ルプーを慕うさまざまな個人が、特別な親愛、ほとんど畏敬にも近い尊敬をもって思い思いに語っている。まるで友愛の花束のようだが、そこには人間と芸術を想うまなざしが一貫してある。私も末尾に小論を寄せたが、言葉で語ることを頑なに拒む人の寡黙に、敢えて語ることでどれだけ敬意を払えるかということを終始考えていた。どうやら、それは二〇人の語り手すべてと共有していた想いでもあったようだ。だから、この本は、私をまず読者として、しあわせな気持ちにする。信頼に足る音楽がまだこの世界に残っているということを、細くつよい絆のように、しかし謙虚に証しているからだ。
 
 先述したルツェルンのコンサートを、私は聴けなかった。直前まで飛行機を押さえていたにもかかわらず。それが最後の機会になるのを怖れながら、まだ信じる気にはなれなかったこともある。直前の演奏会はキャンセルが続いていたが、「引退」という言葉を誰も発してはいなかった。音楽は一期一会でしかない、その場で生まれて消えていくものだ、ということは、ルプーの演奏がその都度明かしていた事実ではあったのだけれど。
 だから、チェロのスティーヴン・イッサーリスとのシューマンの「ロマンス」も、彼が指揮したルツェルン交響楽団とのモーツァルトのイ長調協奏曲K四八八も聴けていない。最後のお別れに弾かれたアンコール、ブラームスのイ長調のインテルメッツォ作品一一八-二も――。
 聴けなかった演奏のことは、どうにもならない。それでも、私はずっと耳をすまして、その音楽を静寂のうちに探り続けるだろう。これまでに聴いたラドゥ・ルプーの生の音楽の記憶を蒸留するようにして、内なる音楽を夢みていくしかない。だがそれは、悲しむことではない。音楽が終わったあと、静けさに帰るのはとても自然なことなのだから。
 (あおさわ たかあきら・音楽評論) 
 
 
◇こぼればなし◇

 ◎ロシアのウクライナ軍事侵攻から、本稿執筆時点でひと月が経過しました。なすすべもなく、何を読んでも何を見てもジリジリ焦るばかりの日々、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチさんの諸作を手に取る時間が増えています。

◎実際、『戦争は女の顔をしていない』『ボタン穴から見た戦争――白ロシアの子供たちの証言』など岩波現代文庫収録の代表作に加え、昨年六月刊の『アレクシエーヴィチとの対話』も今また熱心な読者を得ているようです。

◎ウクライナ人の母とベラルーシ人の父のもとにウクライナに生まれた同氏は、ベラルーシで教育を受け、ジャーナリストとして活動してきました。現在はドイツに拠点を移しているそうですが、今回の事態をうけてNHKが三月九日におこなったインタビューでは次のように語っています。「何が起きているかを理解しようと努めています。人々の話を聴き、それについて書こうとしています。何が人を人でなくすか、何が人を人たらしめるかを」(NHK NEWS WEB 三月一八日配信)。

◎ウクライナでは幼い子どもたちも日々、命を奪われています。ウクライナで、また自由が殺されたロシアで、子どもたちはどのような光景を目にし、やがて戦争が終わった後、どのように生きていくことになるのか。『ボタン穴から見た戦争』に出てくる、一九四一年当時五歳だったある少年の言葉がよぎります。

◎「僕の仕事となったのは「怖がること」だった」「家の前を、焼けこげた軍服を着た人が素足で、両手を針金で縛られて連れて行かれた。なぜか、真っ黒だったなという憶えがある。その人だけでなく、その頃のことはみんな黒い色で憶えている」(同書「子供時代は戦争までだった……」四六頁)。

◎もちろん、軍事力と暴力による子どもを含めた殺戮はウクライナだけで起こっているわけではありません(たとえばウェンディ・パールマン『シリア 震える橋を渡って――人々は語る』)。長年、戦争体験の語り部として積極的に行動してきた俳優の宝田明さんの訃報に接し、次の言葉を紹介したいと思います。

◎「国民投票をして戦争始めます、なんて国はない。戦争なんて一握りの政治家が決定すれば、開始できてしまう」「戦争を防ぐこと、起こさないようにすることは戦争を始める以上にエネルギーと努力が必要です」(「満州でソ連軍の侵攻をうけて」『私の「戦後70年談話」』所収)。

◎詩の世界で最も権威のある国際的な賞とされる「ストルガ詩の夕べ金冠賞」を、谷川俊太郎さんが受賞することが決まりました。同賞は一九九六年に大岡信さんも受けています。

◎児童書関連の受賞報告です。第七回JBBY(日本国際児童図書評議会)賞 翻訳作品部門に『青い月の石』(トンケ・ドラフト作、西村由美訳)が選ばれました。また、二〇二二年 国際アンデルセン賞の画家賞を、小社刊『せん』の作者でもある世界的絵本作家のスージー・リーさんが受賞しました。

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