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【特別公開】ラーゲリの記憶(畑谷史代『シベリア抑留とは何だったのか』より)

畑谷史代『シベリア抑留とは何だったのか』(岩波ジュニア新書)

 強制収容所を生き延びた詩人・石原吉郎は、戦争を生み出す人間の内なる暴力性と権力性を死のまぎわまで問い続けました。彼はシベリアでいったい何を見たのでしょうか? 抑留者たちの戦後を丹念に追った畑谷史代さんによる著書『シベリア抑留とは何だったのか 詩人・石原吉郎のみちのり』(岩波ジュニア新書)は、シベリア抑留の実態と体験が彼らに与えたものを描きだします。本書の第2章「ラーゲリの記憶」より、一部を抜粋して掲載します。


 人間の本質は…

 〈最悪の一年〉に、石原は2度、命を落としかけている。1949年冬、収容所構内で、ほかの囚人2人とまき割りをしていたとき、その一人のモルダビア人が真っ青な顔で突然、もう一人のロシア人の肩におのを打ち下ろした。石原はそのすぐ隣りにいた。翌年六月には、作業中に逃亡の疑いをかけられ、警備兵に背後から銃で五、六発撃たれた。弾はわずかにそれた。
 しかし石原は、どちらのときも黙って立っているだけだった。周囲にだけでなく、自分自身にさえ、石原は関心を失いかけていた。

 〈一日が異常な出来事の連続でありながら、全体としては「なにごとも起っていない」〉ラーゲリの日常のなかで、人間の〈平均化〉が進んでいく、と石原は書く(「沈黙と失語」)。〈私たちはほとんどおなじかたちで周囲に反応し、ほとんどおなじ発想で行動しはじめる。こうして私たちが、いまや単独な存在であることを否応なしに断念させられ〉るのだと。
 1時間の強制労働の後に10分間与えられる休憩時間。石原は、近くを流れる河のほとりで一人、じっと〈猿のようにすわりこんでいた〉。

 復員後、ラーゲリの記憶を自身の内に封印していた15年の間も、石原はその記憶と向き合い、自らに問い返し続けた。シベリアのあの体験は何だったのか、と。それは、極限状況であらわになった人間の本質を見つめることにほかならなかった。そして、エッセーでそれを言葉にした石原が、記憶の底に見いだしたのは、〈単独な存在であること〉を放棄し、意志も、感情も、言葉も失って〈猿のように〉うずくまる自分自身の姿だった。
 その残像を、石原はこの後、振り払うことができなくなる。

「数としての死」

 1949年冬、シベリアのバイカル・アムール(バム)鉄道沿線のラーゲリ(強制収容所)で、生きる意志を失いかけていた石原吉郎を、生の側に引き戻したのは〈二つの死体〉だった。
 ある朝、食事中、石原の隣にいた日本人がふいに食器を手から落とした。石原が驚いてその体を揺さぶると、男は死んでいた。栄養失調の果てだった。〈すでに中身が流れ去って、皮だけになったりんをつかんだような触感〉が石原の手に残った。

〈「これはもう、一人の人間の死ではない」。私は、直感的にそう思った〉

(「確認されない死のなかで」) 

 森林伐採の作業中、切り倒された木の下敷きになって死んだルーマニア人は、そのまま放置され、夕方、営倉に投げこまれた。夜の使役を終えた石原が雪明かりのなかで見たその死体は、胴がねじ切れ、下半身がうつぶせに、上半身が仰向けになっていた。逃げるようにバラックに戻って、石原は思った。

〈人間は決してあのように死んではならない〉

 1977年にキリスト教文学の全集の月報に載った対談で石原は、自身ラーゲリで死を意識したときの心境をこう語っている。「石原吉郎という人間がここで死んだということを、だれかに確認してほしかった」と。
 カザフ共和国アルマ・アタでの抑留1年目に続いて、バム鉄道のラーゲリで、石原は再び多くの死者を目撃した。そこでは〈誰が生きのこるかということは、ただ数のうえでの問題〉にすぎなかった。しかし、〈死においてただ数であるとき、それは絶望そのものである。人は死において、ひとりひとりその名を呼ばれなければならないものなのだ〉(「確認されない死のなかで」)と石原は書く。

みな、固有の名前をもっている

 バム鉄道沿線では、課される強制労働によって、囚人がしばしば収容所を移動させられた。護送用の貨車「ストルイピンカ」に乗せられて行き来するうち、日本人のなかには〈特別な方向感覚〉が生まれていた(「詩と信仰と断念と」)と石原はつづっている。
 3000キロ以上離れた故国日本が、その感覚の基点だった。バム鉄道を北上する者は日本から遠ざかり、南下する者は日本へ近づく。護送途中にある中継収容所「ペレスールカ」ですれ違うわずかな時間、北へ行く日本人は、南へ行く見も知らぬ日本人に、自分の名を告げた。
 北へ向かう囚人がこの先〈誰にも知られない場所で死ななければならない〉としても、このときまでこの場所で、確かに生きていた証しとして、最後に残された「名前」。

〈それが、彼がこの世へ伝達すべきただ一つの証しであると知ったとき、彼は祈るような想いで、おのれの姓名におのれの存在のすべてを託すだろう〉

 ペレスールカの壁には、ひらがなやカタカナ、漢字で、日本人の名前があちこちに刻まれていた。
 エッセー「望郷と海」に石原は、〈七万の日本人が、その地点を確認されぬまま死亡した〉と記している。抑留者の誰が、いつ、どこで死んだのか。それどころか死者の数さえ、正確にはわかっていない。
 そして、石原は〈生きている限り、生き残ったという実感はどのようにしてもつきまとう〉(「確認されない死のなかで」)と書く。文芸評論家の小林孝吉さん(54歳・神奈川県)は、その石原の背後には「シベリアの死者から託された無数の名前があった」と語る。
 1970年代の半ば、大学生のときに読んで衝撃を受けた「確認されない死のなかで」を、小林さんは今も時折読み返す。「死者の記憶を考えるとき、石原の核には「固有の名前」がある。一人ひとりに名前があった、ということ。それは、石原が絶対に譲ることのできない一点だったのだと思う」

 1950年9月。石原をはじめ、バム鉄道沿線の収容所にいた日本人受刑者は、シベリア鉄道とバム鉄道の分岐点、タイシェトへ集められ、シベリア本線で極東のハバロフスクへ送られた。理由もわからない、突然の命令だった。石原は〈なかばこんすい状態のままハバロフスクへ到着した〉(「ペシミストの勇気について」)。

被害者であること、加害者であること

 1950年秋、シベリアのバイカル・アムール(バム)鉄道沿線のラーゲリ(強制収容所)から極東・ハバロフスクへ送られた石原吉郎ら日本人受刑者は、健康診断をした軍医が驚くほど、衰弱しきっていた。バム鉄道地帯での1年の囚人労働を経て、〈生きているという実感のようなものは、もはや誰の顔にもなかった〉(「終りの未知」)。
 ハバロフスクに着いて間もないころ、石原は、ウクライナから強制移住させられた人たちのコルホーズ(集団農場)へ収穫の手伝いに出された。男性はすべて強制労働に送られ、農場には女性と子どもしかいなかった。女性たちが小声で語る身の上話に、石原はしかし、ほとんど関心を向けなかった。

〈周囲が例外なく悲惨であった時期に、悲惨そのものをはかる尺度を、すでにうしなっていた〉

(「強制された日常から」) 

 昼時、女性たちから「ヤポンスキイ。おひるだよ」と声がかかった。食事に招かれたこと自体、信じられぬ思いでくるまざに加わり、注がれたスープを息もつがずに飲む石原を見て、女性たちは黙りこみ、老いた女性は目に涙をためて幾度もうなずいた。
 ハバロフスクのラーゲリでは、8時間の労働と1日3度の食事という「捕虜並み」の処遇になり、囚人たちの体力は回復していった。しかし、石原が、コルホーズの女性たちの沈黙と涙を〈痛みとして受けとめる感受性〉を取り戻し始めるのは、半年を経てからだった。
 翌51年の春、作業に出た建築現場の壁の陰で、年若い抑留者が声を殺して泣きじゃくる姿を、石原は目にする。

〈彼はやっと泣けるようになったのである。バム地帯で私たちは、およそ一滴の涙も流さなかった〉

 ハバロフスクで石原と同じ収容所にいた西尾康人さんによると、石原は健康を取り戻すにつれて、西尾さんのところへ話しに来るようになった。当初の思いつめた表情が次第に笑顔になり、陽気な一面も見せるようになる。「青磁」の俳号で、西尾さんと収容所内の句会に加わり、親しい何人かと連作小説を書いたりもした。ここでは、労働の成果に応じて金銭が支給されたため、石原は7弦のロシアギターを買った。
 収容所に「ダモイ(帰国)が近い」といううわさが流れた1952年の終わりごろ。何人かで雑談していた折、一人が「バム地帯での体験は悪夢としてすべて忘れ、新しい日本の生活に備えよう」と話した。西尾さんも「僕も忘れ去ろうと努力している」と言った。
 だが、石原はそれに同調しなかった。「ラーゲリの生活は、むしろ意義ある貴重な体験だ。肯定的にとらえて、根源的な意味を探るべきだ」。西尾さんは、石原の言っていることが理解できなかった。
 11年後の1963年、石原から第一詩集『サンチョ・パンサの帰郷』を贈られた西尾さんは、あとがきの一文に突き当たる。〈私にとって人間と自由とは、ただシベリヤにしか存在しない〉。あのときの石原の言葉がよみがえった。

 日本人が大半だったハバロフスクでの収容所生活を振り返って、石原は〈自由ということについて実に多くのさくをおかした〉と書く。〈最大の錯誤は、人を「許しすぎた」ことである〉
 バム鉄道地帯での一年を生き延びた日本人たちを近づけたのは、「おなじかまのめしを食った」という言葉だった。だがそれは、〈おなじ釜のめしをどのような苦痛をもって分けあったか〉を不問に付し、〈たがいに生命をおかしあったという事実の確認を、一挙に省略したかたちで成立した〉結びつきだった。〈私たちはただ被害的発想によって連帯し、バム地帯での苦い記憶を底に沈めたまま、人間の根源にかかわる一切の問いから逃避した〉
 石原は、シベリアのラーゲリで生き残ることを〈他者をしのいで生きる、他者の死を凌いで生きるということにほかならない〉と書いてもいる。そうやって生き延びた石原自身、一方的な「被害者」であるはずはなかった。しかし、「ラーゲリの生活の根源的な意味を探るべきだ」と語っていた石原もまた、3年近くに及んだハバロフスクの収容所生活のなかで、「被害者」に〈平均化〉され、集団に埋没した。

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