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平野啓一郎が語る大江健三郎 政治と文学──『セヴンティーン』『ヒロシマ・ノート』『沖縄ノート』ほか

平野啓一郎が語る大江健三郎 政治と文学 ──『セヴンティーン』『ヒロシマノート』『沖縄ノート』ほか  01
岩波文庫『大江健三郎自選短篇』
「奇妙な仕事」「飼育」「セヴンティーン」「不意の啞」など、デビュー作から中期の連作を経て後期まで全23篇を収録。

 小社刊『死刑について』が大きな反響を呼んでいる平野啓一郎さん。その平野さんのナビゲートによって古今東西の世界文学を読む文学サークル「文学の森」で、岩波文庫『大江健三郎自選短篇』をテキストに『セヴンティーン』『不意の啞』について語るライヴ配信が開催されました。平野さんが特に衝撃を受けた2作品を語るなかで、大江健三郎の文学と政治の接点に関する深い議論へも話は展開しました。
 このたび、「文学の森」のご協力を得て、そのダイジェスト版を掲載いたします。

(岩波書店編集部)

大江文学との衝撃的な出会い

──大江健三郎さんが亡くなられた時はどういうお気持ちでしたか。

 関係者を通じて、どういうご様子かは伺っていましたが、命に関わるという話は耳にしていなかったので、ショックでした。日本の文壇にとって非常に大きな存在であり、僕にとっても、自分の属している文壇に大江さんがいるということが大きな意味を持っていたので、喪失感がとても大きかったです。

──大江さんの作品との出会いについてもお聞かせください。

 大江作品を読み始めたのは高校三年生の時です。国語の先生が、「次にノーベル文学賞を獲るとしたら大江健三郎だ」と力説していたのがきっかけで、『燃えあがる緑の木』を読み始めました。ですがこれは大江入門としては適切ではないというか(笑)、相当熱心な大江読者でないと読み通せないところがあり、歯が立ちませんでした。やや関心が薄れかけたのですが、大学に入学して、熱心な大江読者に会い、初期作品から読むべきだとアドバイスを受けたんです。それで、新潮文庫の『飼育』『死者の奢り』『不意の啞』が入っている巻から読み、大きな衝撃を受けましたね。

大江さんのデビューによって筆を折った文学青年が続出

 初期の短篇は、まず主題の選び方からはじまって、非常に緊迫感のある文体、豊かな詩的なイメージと瑞々しい感受性、社会との緊張関係を表現したところなど、才能に満ち満ちていて、圧倒されてしまいました。

 都市部で生きている青年たちが、自分の実存に確かなものを感じられなくて、“他人ども”(初期作品に頻繁に出てくる言葉)の眼差しに取り囲まれながら、結局は性のオルガズムくらいしか自分が生きている実感をつかむことができない。そういう青年たちの姿に非常に共感しました。これはニヒリズムを通じて三島由紀夫に共感したというのとかなり近くて、実際のところ、三島と大江さんは主題的にも重なっているところが多いですよね。

 ただ不思議なもので、三島を読み始めた時は「こういう文章や小説を書いてみたい」と憧れを抱き、小説家になりたいという気持ちを強くしたのですが、大江さんの初期作品を読んだときには、「小説とはこういう人が書くものだ、自分なんかが書くもんじゃない」という感じで、すっかり自信喪失しました。 これは僕だけじゃなくて、大江さんの小説をリアルタイムで読み、自分は駄目だと諦めた作家志望者がたくさんいたという話が、伝説のようになっています。古井由吉さんでさえ、大江作品を読んで小説家になるのをためらい、しばらく大学の先生をされていた、という話を聞いたことがあります。意外なところでは、最近亡くなったムツゴロウさんも、大江さんの作品を読んで小説家の夢を断念した一人だそうです。

偽善的な言葉に対する特別な嗅覚──『ヒロシマ・ノート』と『沖縄ノート』

 文学作品の中でいくつか印象的な兄弟喧嘩の場面がありますが、大江さんの代表作『万延元年のフットボール』で、主人公が弟の偽善的な態度を徹底的に追い詰めていく場面は、ちょっと衝撃的で忘れられないですね。大江さんは、偽善的な言葉に対する特別な嗅覚がある作家だと思います。

 岩波新書の『ヒロシマ・ノート』という原爆についてのルポルタージュでも、もっともらしい言葉に含まれている偽善に対して鋭い嗅覚が発揮されていて、憤りが非常に生々しく書かれています。

 同じくルポルタージュの『沖縄ノート』では、それがさらに先鋭化しています。沖縄で集団自決を強制した軍人が、「おりがきたら、一度渡嘉敷島にわたりたい」という発言をしている記事を読んで、その「おりがきたら」という言葉に大江さんは激しく憤っているんですね。どういう意味でその言葉を使っているのかと。

三島由紀夫との対照性──“自己批判”を通して日本人を批判した

 大江さんの政治的な思想と文学作品の関係については、いろんなことが言われてきました。大江さんは戦後の民主主義を支持する進歩的知識人のような立場で、加藤周一も大江さんもみんな「九条の会」で同じ、というようなイメージを持たれることもあり、実は僕も大学生になってしばらくはそういうイメージを持っていました。

 文学というのは何かもっと複雑で、特に大江さんの初期作品を読むと、とてもそんな話には収まらないような複雑な矛盾を描いていて、この矛盾に満ちたものにこそ人間の姿があって、それを書いている大江さんに対して非常に強い共感があった。政治的な発言に関しては、非常に正しいことはよくわかるんだけど、大江文学の持っている複雑さが捨象されてしまってると感じていました。

 ただ、やっぱり『ヒロシマ・ノート』や『沖縄ノート』を読むと、大江さんの文学と政治的な言動がいかに深く結びついてるかということがわかってくるんです。特に『沖縄ノート』の中で繰り返し言っている、「このような日本人ではない日本人に、自分を変えることができるか」というのは、大江さんの一貫したテーマでしょう。

 大江さんは、返還前の沖縄で本土の人間から差別されている人たちに、「自分だけは正しい善人として、沖縄県民に共感し、連帯する」という書き方を決してしないんですね。自分自身も沖縄に強いている構造的な暴力に加担している日本人の一人なんだという立場から、「自己批判」を通じて日本人を批判するんです。

 そこが三島と異なっていた点でもあります。現代の日本人を否定するという意味では同じなんだけど、三島は、真の日本を体現している「天皇」というのを奉じていて、「本当の日本人」という立場から、「あるべき姿じゃない日本人」を批判する。

 一方で大江さんは、まず自分もそのような日本人なんだという自己批判から始める。それは自分自身が沖縄に行って、当事者から話を聞く時に否応なく痛感させられた経験から生まれてきた政治的立場だと思います。そして、その「自己批判を通じて日本人を批判する」という発想は、『セヴンティーン』などでも一貫しているんです。

『セヴンティーン』の主人公は、大江それとも三島?

──『セヴンティーン』はどこを切り取ってもパンチのある文章で、『不意の啞』とはまた全く違う作風ですね。

 1961年、大江さんが26歳の時の作品で、やっぱり傑作だと思います。戦後世代の若者が天皇主義者になっていく過程が、徹底的に戯画化されて描かれています。滑稽を極めて書かれているんだけど、クラスメイトから笑われたりとか、議論で負けてしまって涙が出てくる場面などは、共感してしまう。読者の心を捉えて離さないような人物像でありながら非常に生々しく戯画化されています。

 また、三島が1965年以降に主題化しようとした問題が、この作品で先取りされています。

 三島は実際、この時期の大江さんの作品にかなり刺激されたと思われます。ノンポリだった三島が、急激に天皇主義へ反動化してゆくのには、『セヴンティーン』の主人公にも通じるところがあります。戦後世代の若者が右翼になってしまうことに対する認識は、大江さんと三島でかなり近接しているところがある。

 生々しい描写から、主人公は大江さん自身をモデルにしているのではと思われた向きもありましたが、「このような日本人でない日本人に自分が変われるのか」という『沖縄ノート』で見られるような戦後民主主義を通してなされた自己批判が、右傾化する思想の克服という本作で見られるのだと思います。この違いは、三島と大江さんとの生まれた時期が10年違うことが大きく影響しています。終戦時三島は20歳で、多くの同世代が戦死したため、大日本帝国の加害者責任を問うのが難しかった。対して、大江さんは終戦時10歳で、幼心に「天皇陛下のために死ねるか」と問い質された恐怖感を抱いていたので、大日本帝国が終わった安堵とそれに戻ってはいけないというストレートな批判が実体験としてあったのだと思います。

『セヴンティーン』の死の捉え方に強く共感した

 僕は元々『セヴンティーン』がすごく好きでした。特に、この作品に書かれている大江さんの死生観に非常に強く共感しました。僕が少年時代に抱いていた死に対する感覚は、それをいくら人に説明しようとしてもなかなか通じなかったのですが、大江さんの作品を読んで、「まさに自分が感じていることだ」と思いました。それが大江文学に強い関心を寄せた一つの大きなきっかけになっています。

 自分が死ぬ瞬間、肉体の痛みへの恐怖ではなくて、死に続ける時間の長さが何億年と途方も無いことを考えるのが恐ろしい、という感覚。今でも、死を考えたときの恐怖感の一番大きいものはこれですね。

 死の恐怖心を克服するために、主人公は、「おれが死んだあとも、おれは滅びず、大きな樹木の一分枝が枯れたというだけで、おれをふくむ大きな樹木はいつまでも存在しつづけるのだったらいいのに、とおれは不意に気づいた。」という発想に至る。天皇と自分が結びつき、私心をなくして大義のために生きれば、自分という個体が滅びても、自分の存在は、日本あるいは天皇と結びついたまま生き残り続けるんだという発想になっていきます。死後、自分の存在の受け止め先があると思うと、現実世界の規範が無効化されてしまうというのが、この後の展開です。木と関連づけられた死と生のイメージは、まったく違う形で『燃えあがる緑の木』でも確認できますし、この恐怖感自体も改めて作中で出てきますが。

 コンプレックスまみれだった若者が、右翼の制服を着た途端、社会から恐れられて、一目置かれ、自尊心を回復していく。彼とその世界を一体化させていくプロセスが気持ち悪いぐらいの生々しさで描かれていますね。

大江作品、おすすめの一冊目は?

──今回の読書会を機に、大江文学を読み進めていこうとしている方に向けて、平野さんのおすすめ作品を教えていただけますか?

 誰もが好きな大江作品というと、『芽むしり仔撃ち』だと思います。閉鎖的な空間に閉じ込められた受難者としての少年たちの物語ですが、後世のドラマなどにも影響を与えている素晴らしい作品です。

 あとは、『新しい人よ眼ざめよ』ですかね。世界中で評価された大江作品といえば『個人的な体験』ですが、今となっては『新しい人よ眼ざめよ』の方が好きですね。

(構成・ライティング:田村純子)

平野啓一郎の「文学の森」

「平野啓一郎の文学の森」は、平野啓一郎をナビゲーターとして、古今東西の世界文学の森を読み歩く文学サークルです。3か月毎に定めたテーマ作を、月に一度のライブ配信で読み解く、小説家による小説解説。ご参加後は過去のライヴ配信もアーカイヴ視聴可能です。
文学を考える・深める機会をつくりたい方、ぜひこちらをチェックしてください。
https://bungakunomori.k-hirano.com/about

平野啓一郎

1975年、愛知県生まれ。北九州市出身。1999年、京都大学法学部在学中に投稿した『日蝕』により芥川賞受賞。数々の作品を発表し、各国で翻訳紹介されている。2020 年からは芥川賞選考委員を務める。主な著書は、小説では『葬送』『滴り落ちる時計たちの波紋』『決壊』(芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞)『ドーン』(Bunkamuraドゥマゴ文学賞受賞)『空白を満たしなさい』『透明な迷宮』『マチネの終わりに』(渡辺淳一文学賞受賞)『ある男』(読売文学賞受賞)『本心』等、評論・エッセイ・対談集に『三島由紀夫論』『本の読み方 スロー・リーディングの実践』『小説の読み方』『私とは何か 「個人」から「分人」へ』『「生命力」の行方──変わりゆく世界と分人主義』『考える葦』『「カッコいい」とは何か』等がある。

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