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原田宗典 「ひまわり」を観よう【『図書』2022年6月号より】

 2月24日、ロシアのウクライナ侵攻が始まった。

 当初は、何が起きているのか、よく分からなかった。遠い国で戦争が始まったとしか思えなくて、対岸の火事を眺めるような気持しか抱けなかった。八年前、ロシアがクリミア半島に侵攻した時と同じ気持だ。この時点での自分の気持、態度を、今の私は深く恥じている。

 そんな恥ずべき私の気持が大きく変わったのは、一人のウクライナ人の老婆の言葉をニュースで知ってからだった。侵攻してきたロシアの若い兵士に歩み寄り、老婆は穏やかな声でこう言っていた。

 「息子よ、あなたはここで何をしているの? ほら、ひまわりの種をあげる。あなたの死んだ所で花が咲くでしょう」

 ロシアの若い兵士がこの言葉をどのように受け取ったのかは分からないが、少なくとも私の胸には深く突き刺さった。何という愛と勇気と機知に富んだ言葉だろう。もしも私がこの老婆の立場だったら、こんな言葉をロシア兵に投げかけることができるだろうか? いや、できない。せいぜいが罵詈雑言を浴びせかけるか、石を投げつけてその場から逃げ出すかだろう。

 この老婆の言葉によって、私にとってのウクライナはぐっと身近なものになった。対岸の火事などではない、私自身の身に関わっていることなのだ、と考えるようになった。しかしそうやって我が身に引き寄せて捉えようとすると、連日報道される戦争のニュースは、より深刻でより悲惨に感じられ、耐えがたいものになってくる。

 このままでいいのか? このまま何もしないで祈っているだけでいいのか? 何かできないのか? 居ても立ってもいられない気持が、じりじりと胸を焦がした。この気持は、今もなお続いている。

 そして3月半ば頃だったろうか、映画「ひまわり」の上映会が日本全国のミニシアターで広がっているというニュースを見た。同時に、この映画の中で描かれている広大なひまわり畑は、ウクライナの首都キーウ(キエフ)の南五百キロの地方で撮影されたことを知った。これは衝撃だった。私の中で、あの老婆が兵士に手渡そうとしたひまわりの種と、映画「ひまわり」とがリンクした。同時に、ヘンリー・マンシーニ作曲の「ひまわり」のテーマソングが頭の中に流れてきて、目頭が熱くなった。

 早速ネットで〈ひまわり 上映館〉を検索してみると、予想以上の数の上映会が全国で催されることが分かった。最初に目に飛び込んできたのは、新宿武蔵野館。3月25日から4月7日まで。9時半と11時50分の二回上映。料金は千五百円で、収益の一部はウクライナへの支援金に回されるという。これらを調べてから、私は止むに止まれぬ思いに押されて、「ひまわり」のポスターの写真を添付した上で、ツイッターに次のようなツイートを投稿した。

 〈この映画がウクライナで撮られたことを知ってから、頭の中で「ひまわり」のテーマソングが流れて止みません。僕らは無力で何もできないけれど、映画を観て感動し、考えることはできます。「愛の反対は憎しみではなく、無関心です」マザー・テレサ。#ひまわりを観よう〉

 老いぼれの自己満足に過ぎないが、これを投稿したことによって、自分を恥じる気持が少しだけ軽くなったような気がした。


 映画「ひまわり」がウクライナで撮影されたと知った時、もうひとつ思い出すことがあった。それは私自身がこの目で、東欧の広大なひまわり畑を見た経験がある、ということだった。

 もう四半世紀も昔、一九九七年のことだ。当時38歳だった私は、NHKの終戦記念番組「僕たちの戦争と平和」のナビゲーターに抜擢されて、世界中のキナ臭い場所を取材して回った。それは20日間で14回も飛行機に乗るような、実に目まぐるしい旅だった。出国前に接種した黄熱病ワクチンの副作用か、あるいは常に興奮していたせいか、旅の間中私は熱に浮かされているような状態だったように思う。

 旅は、アフリカ東部の小国、エリトリアから始まった。この国は、エチオピアとの30年にわたる戦争を戦い抜いてようやく独立を勝ち得た、当時アフリカで一番若い国であった。首都アスマラの郊外で私が目にしたのは、樹一本、草一本も生えていない、荒れ果てた荒野だった。戦争は、何もかもを破壊し尽くす。土地だけでなく、人の心もだ。疲弊し切ったエリトリアはその後、共産主義の独裁者によって支配され、現在は北朝鮮よりも自由のない国と呼ばれるようになってしまった。

 このエリトリアを三日間取材した後、私はスイスのジュネーヴに向かった。UNHCRで当時代表だった緒方貞子氏にインタビューをするためだ。矢継早の質問に対して、氏は丁寧に答えてくれたが、今でも印象に残っているのは、「日本の若者たちに足りないものは?」という質問に対して、

 「好奇心ですね」

 と即答してくれたことだった。

 ジュネーヴに二日間滞在した後、訪れたのが旧ユーゴスラビア(現セルビア)のベオグラードだった。当時のユーゴスラビアは、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争、コソボ紛争を経て、ハイパーインフレに見舞われた後で、国内はひどく殺伐としていた。ハイパーインフレの恐ろしさは、戦争の恐ろしさを想像するよりも難しいだろうが、当時のユーゴスラビアでは5000億ディナール紙幣が発行されていたという事実が、その理不尽を物語っている。

 初めて訪れたベオグラードの市街地は、焦げた土埃の臭いがした。それは数日前に訪れたエリトリアの首都アスマラの市街地で嗅いだのと同じ臭いだった。今にして思うと、あれは戦争の臭いだったのかもしれない。

 到着翌日、私は撮影クルーとともにミニバスに乗って、ベオグラード郊外の村に、セルビア人の難民を取材しに訪れた。その道中に、ひまわり畑を見たのだ。今、手元に、その時の日記が残っている。慌ただしい中で走り書いたものなので、文章は乱れているが、あえてそのまま、ここに書き写してみよう。

 〈朝8時15分起床。シャワーの後、準備をととのえて、下のレストランへ。T君来て、朝食を共にする。朝食はコンチネンタル・ブレックファストのバイキング。9時30分、Oさんとネーシャが来て、ミニバスで出発。ベオグラードから高速を使う。ネーシャはもとより、こちらのドライバーは皆すごく飛ばす。途中、信号や料金所で車が停まると、老若男女がスイカやミュージックテープを手に、近づいてくる。あるいは車の窓を拭いて、小銭を稼いでいる。高速の途中の風景は、実に絶景。どこまでも続く大平原。ドナウ川を渡り、トウモロコシ畑が延々と続き、信じられないひまわり畑が続く。ひまわりはスゴイ!〉

 〈ミニバスで一路ベオグラードへ。その途中、すごいものを見た。ふと窓外へ目をやると、大空に垂れ下がるような、覆いかぶさるような雨雲。その中が時折雷で光っている。まるで雲の軍隊が攻めてくるかのよう。車から降りて、Aさんこれを撮る。(その前にひまわり畑で一人、コメントも撮った。この時、雨が降り出した)ネーシャが車を飛ばしたおかげで、一旦雨雲を追い抜いたのだが、再び迫りくる雨雲のせいで、また激しい雨。あわててミニバスに乗り、走り出す。ネーシャまた飛ばして雨雲を追い抜く。「もう一回降りて撮るか?」とネーシャ冗談を言って笑う。それにしても本当に神の怒りのような雨雲だった。一面のひまわり畑とその上空の不穏な鈍色は、まるで戦争と平和を象徴しているかのようだった。〉

 そして3月25日、私は少し早起きをして、新宿武蔵野館に向かった。胸の裡には、あのウクライナ人の老婆の言葉と「ひまわり」のテーマソング、かつてこの目で見たベオグラード郊外のひまわり畑の光景を携えていた。あえて予約はせず、もし満席だったら喜んで出直すつもりだった。

 新宿武蔵野館に着いたのは9時10分。券売機の前には既に長蛇の列ができていて、私は嬉しかった。多くは年配の方だったが、若い人の姿も沢山あった。私の順番がきて、券売機のモニターを確かめると、百席ほどの座席はほぼ埋まっていて、最前列にしか空きはなかった。私は嬉しかった。

 9時30分、場内が暗くなって、「ひまわり」が始まった。冒頭、あの哀切なテーマソングとともにひまわり畑が映し出されると、それだけでもう私の胸は一杯になった。

 「ひまわり」がどういう内容の映画であるかは、あえてここでは語るまい。ただ、これは魂のこもった、永遠に色あせることのない、素晴らしい映画だ、とだけ断言しておく。

 映画を観終わって、胸が熱いまま家に帰り着いた私は、チケットの写真を撮って添付し、次のようなツイートを投稿した。

 〈満席だったら喜んで出直そうと決めて出かけたら、観ることができた。戦闘が終わっても、戦争の悲劇は長く長く長く続くことを改めて思い知らされる映画だった。上映してくれた新宿武蔵野館と観客の皆さんに心からの敬意を表します。#ひまわりを観よう〉

 仏教には「無財の七施」という考え方があるという。その筆頭に挙げられているのが、眼施(げんせ)だ。眼施つまり優しい眼差しで見ること。それはひとつの行動であり、施しである。施しは相手に与えることだが、それは巡り巡って、やがては自分に返ってくる。私はこの考え方が好きだし、信じている。

 (はらだ むねのり・作家) 

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著者略歴

  1. 原田宗典

    1959年,東京都新宿区生まれ.早稲田大学第一文学部演劇科を卒業.1984年「おまえと暮らせない」ですばる文学賞に入選. 以来,小説・エッセイを発表する一方,劇団東京壱組の座付き作家もつとめ,コピー・戯曲など多方面で文筆活動をしている.主な著書は『優しくって少しばか』『十七歳だった!』(以上,集英社文庫),『東京トホホ本舗』(新潮文庫),『百人の王様 わがまま王』(岩波書店)など多数.

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