『図書』2022年7月号 【巻頭エッセイ】宗像和重
写本と版本で織り成す和本の歴史 佐々木孝浩
婆さんと蛙の足し算 髙橋ブランカ
写真の芭蕉、薗部澄さん みやこうせい
いろいろつながる話 三橋順子
ブルーズの不思議に魅せられて 長濱 治
ことのおこり 時枝 正
青空 ブレイディみかこ
あらかじめ予想したとおり 片岡義男
七月、網を片手に追いかけて 円満字二郎
手の仕事 岡村幸宣
翻弄する虚病姫 中川裕
三人の女性の「敗戦日記」 斎藤真理子
こぼればなし
七月の新刊案内
(表紙=杉本博司)
宗像和重
六月は太宰の日、七月は鷗外の日。――毎年この時期になると、そんな言葉が口をついて出る。三鷹の禅林寺で向かい合って眠っている二人の命日のことである。一九二二年七月九日に没した鷗外は、今年没後一〇〇年、そして生誕一六〇年を迎えた。その節目の年に、これまで漱石・芥川・荷風と編まれてきた岩波文庫の「追想」シリーズに、『鷗外追想』が加わることになった。鷗外と同じ時代を生きた五五人による回想集である。
もとより、文学者の回想が多く、なかでも鷗外を「千駄木の先生」「千駄木のメエトル」と呼んだ小山内薫、木下杢太郎ら青年文学者の回想が生彩に富んでいるが、本来創作・批評の営みは、軍医として官僚としての務めを全うした森林太郎の業余の技であり、陸軍や宮内省の関係者も少なくない。それとともに、娘の茉莉(まり)や杏奴(あんぬ)をはじめとする女性の文章が数多く残されているのも、鷗外をめぐる回想記の特色といえるだろう。
その一人の岡田八千代が、「いつも少し首を曲げてニコニコしていらしたお顔が目に浮んでお懐かしく思います」というように、回想記のなかの鷗外は、軍服姿の厳めしい写真のイメージとはうらはらに、多く柔和な表情を湛えている。私たちは常に、先人の面影を遠い後ろ姿でしか追うことができないけれども、この回想集を編みながら、鷗外と対座してその風貌と謦咳に接した人々の、緊張や興奮、喜びや驚きの息づかいまでが伝わってくるようだった。
(むなかた かずしげ・日本近代文学)
◇こぼればなし◇
◎歴史学の入門書といえば、岩波新書青版のE・H・カー『歴史とは何か』を挙げる方が多いでしょう。清水幾太郎訳、刊行から六〇年、九〇刷超のロングセラーです。この二〇世紀の古典に新しい命が吹き込まれ、たいへん好評をいただいています。イギリス近世・近代史家の近藤和彦さんの全面新訳になる『歴史とは何か 新版』が五月に出ました。
◎元はカーの六回連続の公開講演。魅力あふれる語り口が、達意の訳文でいっそう鮮やかによみがえります。会場の知的興奮と熱気が伝わり、あちこちから笑い声が聞こえてくるようです。
◎たとえば第四講「歴史における因果連関」の「決定論と自由意志」のパート。新書で「「未練」学派」と表現される一群の人々は、新版では「たら・れば一派」に。なるほど、と胸に落ちます。自分が実際どれぐらいこの部分の議論を理解できているかはさておき、すぐ後の「クレオパトラの鼻、またはレーニンの死」のパートへ、さらにその先へ、ぐんぐん読み進んでいけます。
◎特筆すべきは、もちろんそれだけではありません。読解の導きとなり、それ自体としても面白く学べる懇切な訳註と訳者解説、補註。亡くなる二年前にカーが求めに応じて執筆したコンパクトな自叙伝と、訳者作成のカー略年譜。これらによって、「激動の二〇世紀をそのただなかで生き、考え、書いたE・H・カーの姿」(「訳者解説」)と照らして本書を味読することができるのです。
◎カーは生前『歴史とは何か』第二版を準備していたそうですが、完成したのはそれへの序文だけでした。新版では、その序文が新たに訳出され、また、カーの遺稿やメモ類から弟子のR・W・デイヴィスが未完の第二版の内容を構成した「E・H・カー文書より――第二版のための草稿」も収録されています。
◎「第二版への序文」の末尾に置かれるのは、「楽天的とまでは行かなくとも、せいぜい正気でバランスのとれた未来への展望を打ち出したい」という言葉です。「わたしはユートピアンの側につく」(「自叙伝」)との晩年のカーの宣言も噛みしめながら、四ヵ月めに入ったウクライナ侵攻の報道を見つめます。
◎岩波ブックレットが四〇年を迎えました。創刊の一九八二年はカーの没年です。それから一〇年も経たずに、冷戦体制は瓦解することになります。
◎次に引用するのは、四〇年記念小冊子に書店「Title」店主の辻山良雄さんがお寄せくださった文章の一節です。「……この社会のことを逃げずに考えてみたいと、心の底から願う瞬間だってあるのだ。/そんな時「岩波ブックレット」はあなたのそばにある」。
◎令和三年度土木学会出版文化賞を、伊東孝さんの『「近代化遺産」の誕生と展開』が受賞しました。
◎本号から、佐々木孝浩さんの連載「日本書物史ノート」が始まりました。また、時枝正さんの連載「あかちゃんトキメキ言行録」が最終回となります。ご愛読ありがとうございました。