佐藤至子 合巻は転生する[『図書』2024年5月号より]
合巻は転生する
合巻は、文化期(一八〇四─一八)の初めに江戸で誕生した絵入りの小説である。
美しい色摺りの表紙をめくると序文と口絵があり、それに続く紙面のほとんどすべてに挿絵がある。文章は挿絵の周囲に小さな字で書き込まれている。内容はさまざまだが、敵討ちや御家騒動、恋愛の顛末などを含むストーリーが多い。たいていは紆余曲折の末に悪人が滅び、善人が栄えてめでたく終わる。山東京伝や曲亭馬琴ら、江戸の戯作者の多くが筆を執り、膨大な数の作品が作られた。本の大きさは現代のB6判に近い。幅広い層の読者に愛され、娯楽として消費された読み物だった。
絵と文章を駆使して物語を表現する〈見る物語〉である点に着目すれば、合巻は絵本やマンガの仲間といえよう。人気作の長編化という現象も現代のマンガに通じる。最長の合巻は蜘蛛の妖術を操る若菜姫を主人公とする『白縫譚』で、嘉永二年(一八四九)に初編(柳下亭種員作)が出版され、明治十八年(一八八五)に七十一編(柳水亭種清作)に達した(明治三十三年刊の続帝国文庫第二十九編には九十編までの翻刻が収められているが、七十二編以降の版本や草稿本は確認されていない)。
合巻が作られていたのは近世の終わりから近代の初めにかけての約八十年間である。合巻の末期は近代文学の黎明期でもあった。坪内逍遙は『小説神髄』で合巻の文体を「草冊子体」と呼び、『白縫譚』の一節を例として引用している。「我将来の小説作者はよろしく此体を改良して完美完全の世話物語を編成なさまく企つべし」と述べており、合巻の文体に可能性を見いだしていたようである。
明治期に合巻が衰微した理由の一つは印刷技術の変化にあった。絵と文章を紙面に自在に配置できたのは版木を用いて印刷していたからであり、活版印刷で同様の紙面を作ることは難しかった。合巻を活版印刷で翻刻した本では、挿絵を省いているものが少なくない。
しかし、合巻を読む時に文章だけを読んで挿絵を無視することは、映画の音声だけを聴いて映像を見ないようなものだと思う。映像がそれでしか表せないイメージや情報を鑑賞者に伝えるように、挿絵もさまざまなことを読者に伝える働きをしている。例えば、文章では特定の人物を中心に場面が描写されていても、挿絵はその場の情景を見渡す視点から描かれていて、そこに文章に書かれていない事柄が含まれている場合がある。また、登場人物の顔が当時活躍していた歌舞伎役者に似せて描かれていることもある。合巻の挿絵は役者絵を得意とする浮世絵師が手腕を発揮する場でもあった。
『源氏物語』を中世の武家の物語に翻案した『偐紫田舎源氏』(柳亭種彦作)には工夫を凝らした挿絵が多い。例えば同書の二編(文政十三年〈天保元年、一八三〇〉刊)には、腰元の杉生と白糸が雷除けの守りとされる葵を足利義正に献上しようと先を争う場面がある。挿絵に描かれた杉生と白糸は、それぞれ葵を載せた三方を持ち、御所車と花車の模様の打掛を着ている(図1)。『源氏物語』を知る読者であれば、葵と車から葵巻の車争いの場面を連想するだろう。この挿絵は読者にそのような読みを促す見立て絵になっている(詳しくは鈴木重三校注『偐紫田舎源氏 上』〈新日本古典文学大系、岩波書店、一九九五年〉を参照されたい)。ここには、ストーリーを追うとか登場人物に共感するといった読み方とは別次元の、絵それ自体を味わう楽しみがある。
ちなみに、合巻の表紙も単に美しいだけではない。『白縫譚』十七編の表紙(図2)を見てみよう。若菜姫が刀を抜き、鳥山秋作が高く跳躍し、挑むように視線を合わせている様子が描かれている。若菜姫の中着は蜘蛛と蜻蛉の模様だが、若菜姫が蜘蛛の妖術使いであることをふまえれば、捕食者と被捕食者の関係にあるこの蜘蛛と蜻蛉は、今まさに敵対している若菜姫と秋作の隠喩のようにも思えるのである。
ところで、合巻は今でも古書店などで買うことができる。だいぶ前になるが、私は『白縫譚』の影印・翻刻書を作る準備をしていた時に、自分でも原本を集めていた。主に古書店の目録を見て注文するのだが、一人では気づかない情報も多い。ある先輩に教えられて、神保町の某店からまとまった数の『白縫譚』を購入できたこともあった。大阪の某店にあるとの連絡を受けた時は、当時住んでいた名古屋から新幹線に乗って買いに行った。
原本を見れば、摺りの状態や色の具合、紙の質などを確かめることができる。初摺りに近い本と後摺り本ではどこがどう違うのかといったことも、だんだんとわかるようになった。判断がつかないものは合巻研究の泰斗である鈴木重三先生に教えを請うた。鈴木先生がご所蔵の『白縫譚』を見せてくださり、初摺り本の見極め方などを懇切丁寧にご教示くださった日のことは忘れられない。私も架蔵本を数冊持参してお目にかけた。鈴木先生は丹念に目を通され、質問に答えてくださった後、そのうちの一冊をてのひらに載せて「この本、湿気てるね。重い」とおっしゃった。あらためて持ってみると、その一冊は確かに他の本より少し重かった。その時、私は湿気を帯びた本の重みというものを知ったのだった。
『児雷也豪傑譚』の諸本調査をしていた時は、五編(美図垣笑顔作)の初版本になかなかめぐり会えなかった。この合巻は児雷也こと尾形周馬弘行が仙素道人から伝授された蝦蟇の妖術を使って活躍する物語で、天保十年(一八三九)から慶応四年(明治元年、一八六八)にかけて全四十三編が出版された。作中には大蛇を母に持つ大蛇丸と蛞蝓仙人に武芸を学んだ綱手も登場し、児雷也・大蛇丸・綱手の関係は蝦蟇・蛇・蛞蝓の三すくみになっている。五編の表紙は児雷也と大鷲の図像を描いたもので、初版本は多色摺りが施され、書名は「児来也豪傑譚 五編」となっている。見返しには天保十五年(弘化元年、一八四四)の新版とわかる刊記がある。
だが、現存する本の多くは書名を「緑林豪傑譚」に改めた改題改修本で、表紙の色は濃淡の薄墨や藍鼠(藍色がかった鼠色)などを基調とした地味なものである(図3)。見返しと序文も作り変えられており、見返しの刊記から弘化三年版であることがわかる。
こうした改変の背景には、天保十三年六月から始まった合巻への規制があった。この当時、江戸は天保の改革の最中であり、奢侈を禁じる政策が進められていた。合巻も、手間のかかる多色摺りの表紙は無用とされ、曲亭馬琴が知人に宛てた書簡によれば、二編以上の長編も禁じられたという。書名が「緑林豪傑譚」と改められた本に編数の表示はない。読み切りの短編のように装い、規制に抵触しない体裁に仕立てたのである。
確認できた初版本のうち、天保十五年の刊記のある見返しが残っている本は、韓国のソウル大学中央図書館古文献資料室に所蔵されている本だけであった。撮影と掲載の許可をいただき、図版を『児雷也豪傑譚』の影印・翻刻書(服部仁・佐藤至子編・校訂、国書刊行会、二〇一五年)に収めることができたのは幸いだった。
合巻の影印・翻刻書を出版することは、現代の読者が読める形のテキストを作り、作品そのものを再生させる営みである。一方で、作品や登場人物それ自体が別のジャンルや媒体に受容され、新たな作品が生み出されることもある。これは再生というより、ジャンルや媒体を越えて生まれ変わるという意味で〈転生〉と呼ぶのがふさわしい。
『児雷也豪傑譚』は最も多様な〈転生〉を果たした合巻でもあった。そのジャンルは歌舞伎、講談、映画、マンガ、小説など多岐にわたる。『幕末の合巻──江戸文学の終焉と転生』(岩波書店、二〇二四年)のなかで詳しく述べたが、ここでは歌舞伎とマンガにふれておきたい。
最初の歌舞伎化は、嘉永五年(一八五二)七月に江戸の河原崎座で上演された二代目河竹新七(河竹黙阿弥)作の「児雷也豪傑譚話」だった。以後もたびたび舞台にかかり、最近では二〇二三年六月に歌舞伎座で「児雷也」が上演されている。児雷也と山賊の夜叉五郎、狼の皮をかぶった男(高砂勇美之助)が妙香山の藤橋の上で挑み合う場面は、歌舞伎では「藤橋だんまりの場」として見せ場になっている。
福田三郎『児雷也』(一九五三年、図4)と杉浦茂『少年児雷也』(一九五六─五七年)は、コミカルなマンガの世界に児雷也が〈転生〉したものである。蝦蟇・蛇・蛞蝓の三すくみをふまえつつ、それぞれ独自の筋立てやキャラクターが加わっていて楽しい。合巻の児雷也は歌舞伎役者の似顔で描かれた美男だったが、これらのマンガの児雷也は愛嬌のある顔立ちをしている。
現代のマンガでは、岸本斉史『NARUTO-ナルト-』に歌舞伎「児雷也豪傑譚話」に由来する人物が登場している。『NARUTO-ナルト-』自体も歌舞伎になり、二〇一八年八月に新橋演舞場で上演された。その舞台を観た時、紙面で見ていたキャラクターが俳優の身体を通して生き生きと出現したことに感動を覚えた。
歌舞伎などに〈転生〉した合巻は『児雷也豪傑譚』だけではない。合巻は、絵本やマンガなどの〈見る物語〉の歴史を考える上でも見過ごせないジャンルであるが、現代の娯楽文化の源流の一つとしても再評価する必要がある。それは現代が江戸と地続きであることをあらためて発見する考察になるはずである。
(さとうゆきこ・日本近世文学)