大澤聡 出版の第二思春期?[『図書』2024年5月号より]
出版の第二思春期?
発売から九年、『批評メディア論』が「定本」と冠され岩波現代文庫に入った。
この間、出版界もそれをとりまく環境も劇的に変化した。「劇的に変化した」もテンプレートと化した。もう劇的ともいえそうにない。あのころ、全国の書店の数が一万を割るのではと危惧されたものだけれど、そののち毎年数百店ずつコンスタントに減少していって、いまでは八千店を割る勢いだ。
わたしもしばらく住んだ南阿佐ヶ谷の「書原」が消えたのはもう七年前のこと。最近、阿佐ヶ谷の「書楽」閉店がこれにつづき、かつて文士が集住した阿佐ヶ谷の街からとうとう本屋が一軒もなくなる……なんて冗談みたいな事態の到来を目前に、マスコミやSNSが騒いだ。こういう場合のお決まりで、ふだん本はアマゾンで買って配達業者を酷使している人間も、パロディでしかない読書好きキャラの自分を信じてうたがわない人間も、ここぞとばかりに残念がってみせた。
反響のおおきさも手伝ってか、あるいは出版文化にたずさわる者たちの意地と矜持ゆえか、詳細は知らないが、とにかく最終的に書楽のあとを八重洲ブックセンターが居抜きで引き継いでくれた。同店も一年前に東京駅の八重洲口にあった本店を閉めたばかりだった。
いま、わたしは大阪に住んでいる。通勤の乗り換えに地下街「なんばウォーク」を歩く。そこにあった「ブックファースト」と「リブロ」が、二〇二三年末から二四年あたまにかけてのわずか二ヵ月のあいだにつづけざまに撤退。これもちょっとしたニュースになった。全国あちこちで似た出来事が起きては、そのたびに嘆きの声がタイムラインを埋める。そんな光景もぜんぶ含めてテンプレ化した。
読者はどこへ行ったのだろう?
たとえばそう問うとき、東京にいたころNHKの朝ドラ「ゲゲゲの女房」で耳にしたセリフがわたしの脳内に決まって再生されるのだ。
神戸時代の水木しげるに紙芝居の仕事を教えた杉浦音松がひょっくり顔を出す。メディア環境の変化から稼業は立ちゆかなくなっていた。長年愛用した紙芝居道具一式をいっそ質屋に売り払おうとするが、どうしても決心がつかない。旧知の水木に吐き出したことばが「どこへ消えちまったんだろうなぁ……紙芝居に夢中になってた子どもたち……」だった。
放映は二〇一〇年で、「電子書籍元年」とも呼ばれたその年にさんざん叫ばれた「出版の危機」が二重写しになっているのはあきらかだった。ところが、電子書籍など脅威でも敵でもなかったことを未来のわたしたちは知っている。脅威ならもっとべつの場所にあった。
『批評メディア論』があつかうのは戦前の出版環境だが、言外にはそうした状況への折りかえしをたっぷり意識して書かれている。ここには現代のことが書いてあるといったコメントをいくつももらったが、もちろんそのように書いたのだ。どのレイヤーでも読めて、どのジャンルでも、それこそこの先の未来でも、ちゃんと応用が利かせられるよう、同書のタームでいえば「多重底」式にロジックを組み立ててある。「大衆化」をキーワードにしたのもそのためだ。問いかえしたかったのは、この国の奇妙な「近代」という時代そのものである。
ポスト関東大震災の転換期に、いくつものジャンルをまたいで新たな読者層が開拓された。知的読者たりえず、それどころかあらかたノンリテレイト層だったはずの大衆が、読書空間へとだくだく呑み込まれてゆく。そうやって、マスとしての読者はほとんど捏造されたのだし、出版物も急速にマス用へモード・チェンジしていったのである。既存の社会階級を縦横にぶち抜くかたちで「読書階級」が誕生する。根拠もなければ実態もない、ただ、いくつもの偶然の連なりによってのみかろうじて成立したイマジナリーな共同体だ。
新書にせよ文庫にせよ総合雑誌にせよ、世界的に類例の稀なメディアだが、そんな独自性も、奇跡といってかまわないこの読書階級を前提に設計されたことに由来する。一部の専門家むけではない。かといって、下卑たエンタメでもない。両極の中間帯に茫洋とひろがる知的中間層のリーディング・パブリック、それこそが何十年もの長きにわたって、この国の知的水準を底からささえてきた。
それが「消えちまった」。偶然の条件によっておよそ無根拠に成り立っていたそれは、だからこそ、あまりにも脆かった。
先日、ビジネス教養系の音声コンテンツを都内で収録する機会がたまたま三件つづいた。各社のコンセプトは微妙に異なっているが、新書に書きおろすような内容を著者にライブ感覚でしゃべらせることで、ユーザーが肩ひじ張らずに学習できるサービスを提供するところに狙いがあるらしいのは共通していた。そこに「読む」が入る余地はない。
十五年ほど前、雑誌がつぎつぎと廃刊してゆくなか、ひとむかし前なら巻頭論文や特集記事になったであろうオピニオンの居場所が、新書というワンテーマ独立型のパッケージに移ったと誰かが指摘していた(当時は何度目かの新書ブームで、新書の役割も大家の手になるガイダンスではなく、若手の腕試しの場へと変化していた)。事態はそこからもっと悪化(?)して、いまや文字ですらないというわけだ。
コンサマトリーな論説から、サプリメント感覚の新書へ、そしてサブスクリプショナルな音声へ……。読者は聴者へ転身した。かつてであれば雑誌や新書の読者になったかもしれない層のかなりの部分は、いまや無料の解説動画や、せいぜいが教養寄りの有料音声コンテンツへ、しゅるしゅるしゅるとものすごい勢いで巻きとられている。
新書ブームのころは各レーベル、毎月の新刊ノルマが決まっていて、著者の仕事が弾になぞらえられもしたものだけれど、いまとなっては一発二発と数えられる弾ですらない。スポティファイでも独自のプラットフォームでも、サブスクのサービスを肥らせる一コンテンツに、書き手としての自分の思考をコンバートしつつあるその決定的な瞬間をまざまざと体感しながら、わたしはマイクを前にほとんど泣き出しそうだった(もっとも、それぞれのディレクターの眼には嬉々としてしゃべっているように映ったろうし、じっさいコンテンツ自体は自信のあるものに仕上がった)。
音松のあの「どこへ消えちまったんだろうなぁ」を脳内の浅いところに反響させながら、必死にユーザーに語りかけていた。ちなみに、音声コンテンツは紙芝居に通ずるところがある。音声から文字へ、そしてまた音声へともどってきたことになる。
わたしの世代でこれなのだから、出版の黄金時代(そんなものなかったというのは詭弁だ)を謳歌したひとたちの落胆ぶりたるやいかばかりかと案じもする。けれども、そそくさと消化試合へ横滑りして、省エネで業務を淡々とこなしている先輩方も少なくはない。出版時代の最後尾で人格や趣味を形成したわたしたちの世代にしてみれば、やっとこれからというタイミングでハシゴを外されたように感じられてならない。それが本音だ。彼ら彼女らが逃げ切る算段でいるこのフィールドで、わたしたちはこの先やっていかなければならない。だから消化試合になどつきあっている場合ではないのだ。音声でもなんでもつかえるものはつかいながら、出版への回路を再起動させるつもりではいるけれど、それでも……。むかし思い描いた未来はやっぱり手に入りそうにもない。
心理学でいう「ミッドライフ・クライシス(中年の危機)」なんだろうか?
ところで、ことし二〇二四年は二葉亭四迷生誕一六〇年にあたる。じつは文庫版のあとがきでひと言だけ触れた。
二葉亭が「予が半生の懺悔」と題した談話記事を『文章世界』に発表したのは一九〇八(明治四十一)年六月のことだ。掲載誌が書店に並ぶころ、二葉亭は朝日新聞社の特派員として念願のロシアへむけて出航する。ところが入国直後から体調すぐれず、翌年四月、ペテルブルグを発った。なにも果たせぬまま帰国の途につくのだ。五月十日、ベンガル湾洋上で逝く。さぞ無念だったろう。
船上での様子はこれまで何人もの書き手が空想をまじえ劇的に描いてきた。書くことを生業にする人間であれば、そこに自分の未来や、ありえたもうひとりの自分を重ねずにはいられない。
死ぬ一年前の談話の二葉亭はまるでこの最期に備えるかのような饒舌さを見せる。キーワードは「進退維谷」だ。なにかをなそうとすれば、たちまち「実際的と理想的との衝突」に直面してしまう。それをやりすごす欺瞞とひたすら格闘しつづける半生だった。その苦悩を二葉亭は理路整然と告白している。
軍人をこころざし、陸軍士官学校を受験するも三度も落ちたこと(視力不足という「早よ気づけよ!」とツッコミたくなる理由だ)。路線変更して入った東京外国語学校が卒業まぎわに東京商業学校へ合併させられるのに腹を立てて退学したはよいが、金が必要になるため小説を書いたこと(それが『浮雲』だ)。その出来に納得がいかなかったこと。文学を棄てて職業を転々としたこと。初心にもどって大陸で活躍しようと張りきるも成果が出なかったこと。『大阪朝日新聞』の東京出張員となるがボツの連続で使いものにならなかったこと。けっきょく周囲のすすめもあり文学の世界へ実質十七年越しで舞いもどって新聞連載小説を書くはめになったこと(『其面影』『平凡』)……。つくづく「理想」の前に「実際」が敗北する人生だった。談話は過度の自虐と自己神話化の企みに満ちている。
世界情勢や現実政治にコミットする「理想」の自分の姿をいつも夢見ながら、「実際」にはたまたま講義でかぶれた文学の方面での成果が世間の評判を呼ぶ。そればかりか後世の日本語を決定づけ、歴史に名がのこる。それは二十三歳から二十五歳にかけてと、あまりに若いころの仕事なのだ。のこりの人生はどうも居心地の悪いその栄光から逃れるための苦闘の連続だった。
その時どきの仕事に真剣に打ち込みながらも、ずっと「思ってたんとちがう!」という焦燥感は拭えなかったと思う。あの二葉亭四迷ですらそうだったのだ。偉業をなしとげ、外からは満たされているかに見える人間も、むしろ、そんな人間だからこそ、理想と現実のギャップに思い悩んでいる。そう思うと、いくらか慰めになるし、勇気も湧いてくる。
二葉亭が没した四十五歳もこえて、ことしわたしは四十六歳になる。彼が生きなかった四十代後半を生きる。これまた死の前年に発表したべつの談話記事にある彼のことばに勝手に背中を押されている――「何うすりや好いかと云ふに、矢張りそりや解らんよ。たゞ手探りでやつて見るんだ」(「私は懐疑派だ」『文章世界』一九〇八年二月号)。
ミッドライフ・クライシスは俗っぽく「第二の思春期」ともいうのだとか。出版の世界も最晩年ではなく、第二思春期をむかえたのだと思いたい。いや、思春期になるかどうかはわたしたちしだいなのだろう。そうやって歴史的な現在をメタ視点で俯瞰しつつ、おなじ思いの書き手や読者といっしょにやってゆきたい。そう「手探り」で。実年齢は問わない。
(おおさわさとし・批評家)