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松本俊彦 「身近な薬物のはなし」

第1回 本当に有害な薬物とは?

【連載】松本俊彦「身近な薬物のはなし」(1)

最大規模の害を引き起こす薬物

 俳優やミュージシャン、あるいは、有名大学運動部の学生……社会で目立った活躍をする人々が違法薬物で逮捕されるたびに、テレビやネットニュースは連日その話題で持ちきりとなります。そして、必ず付せられる煽り文句は、「若者に薬物汚染拡大」「大麻が蔓延、検挙者増加」というものです。そうした報道に接するにつけ、いま日本における喫緊の薬物問題は大麻や覚醒剤であるかのような印象を抱く方も多いことでしょう。
 しかし、その印象は正しいのでしょうか?
 自らも回復した依存症当事者である米国の依存症専門医カール・エリック・フィッシャーは、著書『依存症と人類:われわれはアルコール・薬物と共存できるのか』(みすず書房、2023)のなかでこう述べています。
 「最大規模の薬害──依存症を含む──が、ほぼ必ず合法な製品により引き起こされるという事実は、くりかえし、そして『選択的に』忘れられている」
 似たようなことを、依存症史研究の第一人者デイヴィッド・コートライトも、著書『ドラッグは世界をいかに変えたか:依存性物質の社会史』(春秋社、2003)において指摘しています。彼は、人類に最も大きな健康被害をもたらしている薬物として、アルコール、ニコチン、カフェインの3つを挙げ、これにビッグ・スリーという名称を与えました。一方、ビッグ・スリーほど深刻な問題をもたらしていないにもかかわらず、厳しい規制の対象とされてきた薬物として、アヘン(オピオイド類)、コカイン、大麻の3つを挙げ、これらをリトル・スリーと名づけています。
 要するに、社会は、ビッグ・スリーが引き起こす健康被害を、フィッシャーの言葉を借りれば、「くりかえし、そして『選択的に』忘れ」ながら、さもリトル・スリーこそが優先すべき社会の最重要課題であるかのように喧伝し、人権侵害的な厳罰政策を許容してきた経緯があるわけです。

嗜好品と文化

 驚くかもしれませんが、実は、薬物の合法/違法の区別には明確な医学的基準は存在しません。むしろ文化的にメジャーな潮流にあるのかどうか、税収や大企業の後ろ盾があるのかどうか、さらにいえば、政治的に優勢な層がその薬物を気に入っているのかどうかの方が、はるかに重要な影響を与えます。
 ここで、本稿でいう薬物について、私なりの定義をしておきましょう。薬物とは、脳に作用する薬物全般を指していて、私たちの精神活動に影響を与える化学物質の総称です。それは、私たちの気分を高めたり、リラックスさせたりと、「気分を変える」効果があり、なかには、意識状態を変容させて私たちに「非日常」を体験させてくれるものもあります。
 いずれも、もともとは地球上の様々な植物のなかに含まれていたものであり、私たちの祖先はおそらく偶然そのような効果を持つ植物と出会い、発見したのでしょう。しかし、そこで終わらないのが人間です。私たちの祖先はそうした植物を集め、栽培して増やし、さらには有効成分を抽出・精製、人工合成し、様々な薬物を開発し、病気の治療に使ったり、宗教儀式に活用したり、単に「酔い」や「ハイ」を体験したるするのに役立ててきました。その意味では、人間とは「薬物を使う人ホモ・メディカメント(homo medicament: 原意は薬師。かつての医師や薬剤師の役割を果たしていた人を指す)」である、といってよいほどです。
 「酔い」や「ハイ」を体験するための薬物にかぎっても、世界の様々な民族や地域、文化圏には、生活習慣に根づいた、それぞれの「お気に入りの薬物」があります。穀物の収穫量が豊かなユーラシア大陸の国々、とりわけヨーロッパ文化圏で最も長く愛されてきた薬物は、何といってもアルコールでしょう。とりわけキリスト教文化圏ではそうです。なにしろワインは「イエス・キリストの血」なわけですから。
 一方、宗教上の理由からアルコールを嗜まないイスラム教圏やヒンドゥー教圏では、嗜好品として大麻が用いられてきました。北アフリカから中近東にかけての国々ではコーヒー、中国では茶、そして、アメリカ先住民たちのあいだではタバコ、南米ではコカが用いられてきました。ちなみに、アメリカ先住民の場合、特に宗教的な儀式ではペヨーテ(サボテンから抽出した幻覚薬)のようなサイケデリック系の薬物を用いる風習があり、ある部族では、成人式の儀式に際して部族の長老から「正しいペヨーテの使い方」を教わる伝統があったそうです。

薬物文化のグローバル化と『サイコアクティブ革命』

 こうしたローカルな薬物文化が一気にグローバル化していったのが、コロンブスの新大陸発見につづく大航海時代です。この時代、ヨーロッパの人々は、コートライトのいう「サイコアクティブ(精神作用)革命」を経験しました。南米からはカフェインとカカオ(ここにも少量のカフェインが含まれています)が、北米からはタバコが、中近東からはコーヒー、中国からは茶がやってきて、それまでアルコールしか知らなかったヨーロッパの人々を狂喜させたからです。
 植民地政策と奴隷労働が、こうした新しいサイコアクティブ・サブスタンス(精神作用物質)の生産能力を一気に押し上げました。同時に、それを依存性薬物と分類すべきかどうか議論のあるところですが、やはり植民地での奴隷労働によって大量生産が可能となった「砂糖」の存在が、人々の新しいサイコアクティブ・サブスタンスの消費を一気に加速させたのでした。そのままでは苦味が強すぎるコーヒー、茶、カカオ、タバコも、砂糖の添加によって絶妙な味覚と口当たりを獲得したからです(意外に知られていませんが、実は、タバコにも味つけに砂糖が使われてきたのです)。帝国主義国家の多くが、植民地で茶、コーヒー、タバコという薬物、そして、薬物というべきかどうかはさておき、「薬物消費触媒」である砂糖を作っては本国に仕入れ、あるいは、他国に売りさばいて巨利を得てきました。
 こうした薬物が人々の生活に浸透していくと、あとは勝手に消費が加速していきます。というのも、これらの嗜好品は相互に薬理作用を打ち消しあって、それぞれの消費量を高めるはたらきがあるからです。コーヒーや茶、カカオ(チョコレート)に砂糖を添加することによってカフェインの消費量は増えますし、タバコはカフェインの代謝を早めるので、これもまたカフェインの消費を促進します。そして、カフェインの摂り過ぎで興奮した脳を冷却して眠りにつくには、大量のアルコールが必要となり、さらに翌朝、二日酔いのぼんやりした脳を覚醒させるためにカフェインが必要となる……。まさに「濡れ手に粟」のアディクション・ビジネスです。
 その最たる例は英国でしょう。19世紀前半、英国は、本国に茶を仕入れつづけるために中国にアヘンを売りつけ、返済困難となっていた茶の購入代金を帳消しにしました。その意味では、アヘン戦争の本質はアヘンの恐ろしさよりもカフェインの恐ろしさにあるといえるかもしれません。それから、タバコです。英国は、北米のアメリカン・インディアンからタバコを仕入れる一方で酒を売りつけ、彼らが酩酊している隙に土地を奪いました。それだけではありません。帝国主義の時代、列強諸国はこうした薬物貿易に課税して得た資金をもとに軍隊を強化し、ますます世界の植民地支配を強めていったわけです。
 こうして考えてみると、薬物に対する厳罰政策を唱える為政者がよく口にする、「薬物に対する戦争」(War on Drug)とは、結局のところ、薬物同士のあいだで行われる戦争、もっといえば、民族圏・文化圏同士の戦争にすぎないことがわかります。そして、少なくともいまのところは、そのほとんどの戦争の勝者はアルコールです。その勝利は、決してアルコールが最も害が少ないからではなく、単に愛好者人口が最も多いからにすぎません(なお、アルコールの健康被害や社会的弊害については、この連載で今後触れていくことになろうかと思います)。

米国が体験した2つのオピオイド危機

 ところで、フィッシャーのいう「最大規模の薬害を引き起こす合法な製品」という観点から考えてみるならば、嗜好品だけを問題とするのでは不十分です。違法薬物の対極にある薬物として、一般に「よい薬」とされている、処方薬や市販薬などの医薬品を避けることはできませんし、医薬品の依存症問題を深掘りしていけば、依存症という現象の本質に迫ることができる――そう私は確信しています。
 ご存じの方もおられるかもしれませんが、最近20年あまり、米国は未曾有のオピオイド危機に瀕しています。オピオイドとは、ケシの実から抽出されるアヘン、もしくは、その精製成分や人工合成された類似成分のことを指し、そのなかには、ヘロインのような違法薬物もあれば、医療機関で鎮痛薬として処方される合成オピオイドも含まれます。そして、北米におけるオピオイド危機の発端は、違法薬物ではなく、合法的な医薬品によって引き起こされたのです。
 オピオイド危機は、鎮痛薬オキシコドンの不適切な使用から始まりました。やがてオキシコドンの処方が制限されると、オピオイド独特の激しい離脱症状に耐えかねた人々は、しかたなく違法なヘロインを密売人から購入して禁断症状を鎮めるほかなくなりました。しかしまもなく、不正な手続きで入手された医療用麻薬フェンタニル――ヘロインの数十倍も強力なオピオイド――が流通するようになると、その健康被害は爆発的に拡大し、いまなお大量摂取事故による多くの死亡者を出しつづけています。
 北米のオピオイド危機を引き起こした直接的な原因は、製薬企業による、安全性に関する不正確なプロモーションにあるといわれています。もちろん、そのプロモーションを鵜呑みにして安易にオピオイド鎮痛薬を処方した医師たち、さらには、慢性疼痛に対する心理的ケアを軽視し、薬物療法を偏重した米国の医療保険制度にも部分的な責任はあるでしょう。
 しかし、製薬企業や医療システムを糾弾し、責任を押しつけても、しょせんは表層的な解決にとどまります。ここは一歩踏み込んで、オピオイドの乱用に陥った人たちが置かれていた状況、その人たちがオピオイドを必要とした背景を考えてみる必要があります。
 オピオイド危機は、米国中西部~五大湖周辺のいわゆる「ラストベルト(錆びた工業地帯)」から始まり、いまなおそのエリアでの乱用が最も深刻な状況となっています。もともとこのエリアは米国屈指の工業地帯でしたが、1980年代後半以降、米国の対中国貿易赤字が増大するなかで次々に工場が閉鎖となり、その結果、多くの人々が職を失い、生活が行き詰まる事態となりました。そして90年代以降、このエリアにおける中高年男性の自殺が増えるのと同期して、オピオイド危機が勃興していったわけです。
 こう言い換えてもよいでしょう。このラストベルトの人々は、仕事を失い、生活に行き詰まり、屈辱感や絶望感のただなかで、いますぐ自殺するか、さもなければ、オピオイドによって心を麻痺させて何も感じないままゆっくりと死に向かうかの二択を迫られた、と。
 実は、米国がオピオイド危機を体験するのは、これが最初ではありませんでした。19世紀後半、米国本土において国民を二分して行われた南北戦争後、米国は最初のオピオイド危機を経験しています。その戦争は、自国民同士が奴隷制をめぐって行った、米国において最初で最後の内戦であり、あまりにも多くの死傷者を出しました。戦死者は両軍合わせて50万人をゆうに越え、民間人の死者も含めると70~90万人に達したといわれています。いうまでもなく、これは今日に至るまで、合衆国史上最大の戦争関連死亡者数です。
 南北戦争は、戦死者のみならずモルヒネの消費量でも米国史上類をみない出来事でした。もちろん、戦時中において負傷者の鎮痛治療のために大量のモルヒネが消費されたのは事実ですが、それをはるかに凌ぐ量のモルヒネが、むしろ戦後において消費された点に注意する必要があります。男女を問わず、大切な家族や恋人、友人を戦争で失った民間人が、心の痛みを鎮めるためにモルヒネを用いたからでした。ちなみに、自身もモルヒネ依存症に陥った元南軍兵士にして薬剤師ジョン・ペンバートン(1831~1888)が、自身と人々をモルヒネ漬けの生活から脱却させるべく、様々な香辛料とともにコカインを混ぜて開発した薬用飲料が、コカコーラの始まりです。
 まとめると、過去2回米国を襲ったオピオイド危機の背景には、絶望感や喪失感といった心理的な痛みがあるといえそうです。

わが国の医薬品乱用・依存

 それでは、翻って日本はどうでしょうか?
 ここであるデータを提示したいと思います。私が所属する国立精神・神経医療研究センター精神保健研究所薬物依存研究部では、全国のおよそ1550におよぶ有床精神科医療施設(精神科病院や大学病院、あるいは、入院病棟を持つ総合病院の精神科医療施設)を対象として、薬物(ただし、アルコールとタバコは除く)関連障害患者の実態調査を行っています(「全国の精神科医療施設における薬物関連精神疾患の実態調査」。以下、病院調査と略します)。
 この調査は1987年以降ほぼ隔年で実施されつつづけており、わが国唯一の薬物関連精神障害患者の悉皆調査です。毎回、調査年の9~10月という2ヶ月間を定点観測期間として、その期間中に外来もしくは入院で治療を受けたすべての薬物関連障害(依存症や薬物誘発性精神病、後遺症など)の患者データを収集しています。最近10年間ほどは医療機関の協力率は75~80%と高水準で安定し、わが国の精神科医療現場における薬物問題を反映する基礎資料として、これまでも様々な薬物政策の企画・立案に際して引用されてきました。
 さて、図1の円グラフを見てください。

図1 2022年 病院調査:全2468症例における主乱用薬物別の割合

 この図は、現時点における最も直近の病院調査、2022年9~10月の2ヶ月間に収集された薬物関連障害患者を、主な乱用薬物別に分類したものです。
 一瞥してわかるように、患者の半数は覚醒剤を主たる薬物としています。しかし、このなかには、もう何年も薬物使用をやめているものの、「断薬メンテナンスのために通院している」とか「後遺症の治療のために通院している」という患者がかなり含まれています。やはり薬物依存症臨床の最前線は、「やめられない、止まらない」との戦いなので、その最前線の状況を反映すべく、最近1年以内に薬物使用がみられた患者だけに限定して主乱用薬物別の比率を示すとどうなるでしょうか?
 その結果が図2の円グラフです。

図2 2022年 病院調査:最近1年以内に薬物使用が見られた1063症例における主乱用薬物別の割合

 先ほどとは一変しているのがわかるかと思います。最も多い薬物は、医療機関で処方される睡眠薬・抗不安薬(ほぼすべてがベンゾジアゼピン受容体作動薬。以下、処方薬と略します)であり、僅差で覚醒剤関連障害患者数がつづいているものの、その次に多いのは市販薬です。そして、処方薬と市販薬を合わせると全患者のおよそ半分に達するのです。ちなみに、昨今、メディアで逮捕報道が過熱している大麻については、意外にもわずかな比率にとどまっています。
 次に、図3を見てください。2014年以降、10年間で5回行われた病院調査のデータを使って、過去1年以内に薬物使用がみられた薬物関連障害患者に関して、主乱用薬物の経年推移をグラフにまとめてみたものです。

図3 病院調査:最近1年以内に薬物使用が認められた症例における主乱用薬物の割合の推移


 2014年は、まさに「法規制の網の目を巧みにかいくぐった脱法的薬物」、すなわち、危険ドラッグ乱用拡大のピークであり、グラフでは危険ドラッグが最も大きな割合をしています。しかし2014年11月末に、薬事法が改正され、「あやしげな製品」を販売する店舗に対して検査命令や販売停止命令を出せるようになりました。その結果、実質的な営業が困難となった販売店舗が次々に撤退し、危険ドラッグの市中流通は途絶えていきました。
 以上のような経緯により、2016年の病院調査では、危険ドラッグ関連障害は激減しましたが、なぜかその後、この病院調査で報告される全薬物関連障害患者の数は減少するどころか、皮肉なことに増加傾向を示してきました(図4)。それはそうでしょう。その後の病院調査では、処方薬や市販薬を主乱用薬物とする患者が年々増加しているからです。


図4 病院調査:各年調査の回答率と全症例数の推移

 こうした傾向は、精神科医療現場にかぎった話ではありません。救命救急医療の現場では、もう四半世紀あまり、処方薬を過量服薬して救急搬送される精神科通院患者はずっと大きな問題となりつづけてきました。もちろん、危険ドラッグ乱用禍の際には、危険ドラッグ使用による様々な身体合併症を呈して救急搬送されてくる患者が急増しましたが、それが鎮静化した後には、急性カフェイン中毒による救急搬送患者の増加、そしてコロナ禍以降、市販薬の過量摂取で救急搬送される10代、20代の女性が大きな問題となっています。
 これらの調査結果からいえるのは、こういうことです。すなわち、わが国において国民に最も多くの健康被害を引き起こしているのは、危険ドラッグをはじめとする捕まらない薬物、逮捕されない薬物であり、さらに最近10年間に限っていえば、「1回使っても人生破滅になんてならないことを自ら体験済み」の身近な医薬品である、と。

医薬品乱用の背景にあるもの

 実は、日本が経験した2つの市販薬乱用エピデミックにも、その背景に米国のオピオイド危機非常によく似た共通点を見いだすことができます。
 すでに述べたように、コロナ禍以降、10代、20代の女性を中心に市販薬乱用・依存、過量服薬が精神科医療や救急医療の現場を多忙にさせていますが、これに同期して、児童生徒の自殺者総数も大幅に増加しています。とりわけ高校生女子では、2019年の80人から2020年には140人と倍近くに増え(厚生労働省「自殺の統計: 地域における自殺の基礎資料」より)、現在もなお高止まりしています。ここからわかるのは、若い女性たちが市販薬を本来の用途・用量から逸脱した使い方をするのは、決して規範意識の欠如からではなく、自殺を考えるほどの何らかの心理的痛みや絶望ゆえからではないでしょうか?
 わが国の薬物乱用史を紐解くと、過去にも同様の事態があったことがわかります。1950年代後半、10代を中心に広がった「睡眠薬遊び」です。これは、「ハイミナール」(現在は販売中止)などの市販睡眠薬の乱用エピデミックであり、酩酊下での強盗傷害、窃盗、暴行といった事件が相次ぎました。「昭和39年版 犯罪白書」によれば、当時、全国の少年鑑別所被収容者のおよそ1割に市販睡眠薬の乱用経験があったようです。そして、「睡眠薬遊び」エピデミックの時期と重なるようにして、1950年代半ば、若者を中心とした、戦後最初の自殺急増のピークがありました。
 日米双方の医薬品乱用エピデミックから、私たちは何を学ぶことができるでしょうか?
 私はここで次の2つをあげておこうと思います。
 1つは、薬物には「よい薬物」も「悪い薬物」もなく、「よい使い方」と「悪い使い方」があるだけだ、ということです。ともすれば薬物政策は、薬物を「よい薬物」と「悪い薬物」とに分け、前者の逸脱的使用はないものと考え、後者のみを法規制と刑罰によって犯罪化する、という方法をとってきました。しかし、ここまで見てきたように、病気による苦痛を緩和する医薬品もまた、使い方いかんでは依存症をはじめとする様々な健康被害を引き起こす危険性を孕んでいます。その意味では、「絶対に安全な薬物」など存在しないといえるでしょう。
 それからもう1つは、「悪い使い方」をする人は何らかの困りごとを抱えているかもしれない、ということです。処方薬や市販薬の乱用・依存は、単なる逸脱的使用として簡単に片づけられるものではなく、自殺しないための選択肢、一時的に苦痛を緩和し、ほんのわずかな期間、自殺を延期するための対処――しかし反面、「ゆっくりと死に向かう」ともいえますが――という側面から考えていく必要があるということです。
 今回の連載では、依存性薬物のなかでも、もっぱら誰もが多少とも使用経験を持つ嗜好品と医薬品を取り上げ、それらの薬物と人類とのかかわりの歴史、依存症などの不適切使用による健康被害について論じていくつもりです。
 それは、「こんなにも身近なものが実は非常に危ない」とことさらに派手に警鐘を鳴らし、そうした嗜好品や医薬品に対するモラルパニックを引き起こしたいからではありません。これら身近な薬物が引き起こす問題を取り上げた方が、法制度の影響を排して、人類と薬物との関係、あるいは、依存症の本質に迫ることができると思うからです。
 少し長い旅路となりますが、どうぞおつき合いください。

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著者略歴

  1. 松本 俊彦

    精神科医。国立精神・神経医療研究センター 精神保健研究所 薬物依存研究部 部長/同センター病院 薬物依存症センター センター長。1993年佐賀医科大学卒。横浜市立大学医学部附属病院精神科、国立精神・神経医療研究センター精神保健研究所司法精神医学研究部、同研究所自殺予防総合対策センターなどを経て、2015年より現職。第7回 日本アルコール・アディクション医学会柳田知司賞、日本アルコール・アディクション医学会理事。著書に『自傷行為の理解と援助』(日本評論社 2009)、『もしも「死にたい」と言われたら』(中外医学社 2015)、『薬物依存症』(ちくま新書 2018)、『誰がために医師はいる』(第70回日本エッセイスト・クラブ賞、みすず書房 2021)他多数。訳書にターナー『自傷からの回復』(監修、みすず書房 2009)、カンツィアン他『人はなぜ依存症になるのか』(星和書店 2013)、フィッシャー『依存症と人類』(監訳、みすず書房 2023)他多数。

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