『図書』2024年5月号 目次 【巻頭エッセイ】今野真二「非ソシュール的言語学」
戦時下の詩人……沼野恭子
合巻は転生する……佐藤至子
出版の第二思春期?……大澤聡
誕生会、偶然居合わせる、言葉の音……長島有里枝
路上より(上)……柳広司
知られざる子規俳句の一面……復本一郎
すべて成り行き任せ……木村榮一
北方謙三さんとの邂逅……山田裕樹
正平さんのベクトル……川端知嘉子
「俺のネイションってなんだ?」……前沢浩子
文化人類学者アントワーヌ・ガラン……西尾哲夫
宗教からナショナリズムへ……前田健太郎
谷中永久寺「猫塚供養碑」その他……金文京
さよならバイジー……川端裕人
こぼればなし
五月の新刊案内
現在の言語学の基礎を築いたソシュール(一八五七―一九一三)の理論は、構造主義や記号論に多大な影響を与えたと考えられている。ソシュールは、主に表音文字を使う「正書法」がある言語を、観察対象としていたと思われる。語の文字化のしかたが一つに定まっているのが、「正書法があることば」だ。
九世紀末頃に仮名がうまれてからの日本語では、表意文字である漢字と表音文字である仮名とで、語の文字化が行なわれてきた。「スガタ」という語は漢字「姿」で文字化することもできるし、仮名によって「すがた・スガタ」と文字化することもできる。漢字と仮名とを使って文字化を行なっているのだから、一つの「正しい書き方」があるということではない。加えて、過去においては、漢字「形」や「容」によって「スガタ」を文字化したこともあったし、『万葉集』においては、漢字列「光儀」「容儀」が使われている。日本語は「正書法がないことば」といってよい。
表音文字は語の発音と対応しているようにみえるから、発音が一次的なもので、文字は発音を写す二次的なものという感覚をうみやすい。表意文字である漢字は、視覚に訴えるだけの形を備えていることに加えて、五万字もの文字数をもった文字体系を形成している。そうした文字体系を背後に、漢字は語を文字化することを超えて、日本語そのものに深く関わり、日本語へはたらきかけてきたのではないか。そう述べたのが、四月に刊行された『日本語と漢字──正書法がないことばの歴史』(岩波新書)だ。
(こんの しんじ・日本語学)
〇 今年の一月から三月にかけて放送され、反響を呼んだテレビドラマ「不適切にもほどがある!」をご覧になった読者の方も多いと思います。印象的だったシーンの一つが、バス型タイムマシンで一九八六(昭和六一)年から二〇二四年に戻ってきていた社会学者のサカエが、平成生まれの渚に「どうでした? 昭和」と尋ねられる一幕でした。
〇 サカエの答えは、「なんか全体的にうるさかったな、人が」。昭和の昔は人びとが無駄なことを語り合っていた。対していまは、街でイヤホンを着けている人が多く、わからないことがあっても人に聞かずに検索するから静かだよね、というのです(第九話)。
〇 チャットアプリで進行する文字の会話が、映画やドラマのストーリー展開に必要不可欠になったのはいつ頃のことでしょうか。それをいまのメディア表現と呼ぶのであれば、昭和の映画やドラマでは当たり前の、公衆電話越しの恋人同士の会話も、ハガキや電報や書き置きも、友人の家を突然訪ねてみるのも、当時における「いま」のメディア表現です。
〇 令和も数年を経て、既に生成AIとの共生の時代ともなりました。ほとんどのコンテンツやサービスがそれと無縁ではなくなり、「エンタメ」表現もそのなかで独自の変容を遂げていくのでしょう。
〇 さて、出版科学研究所の発表によれば、二〇二三年一月から一二月の紙と電子を合算した出版市場(推定販売金額)は、前年比二・一%減となりました。紙書籍は同四・七%減、紙の雑誌は同七・九%減、紙の出版物全体としては同六・〇%の減です。本号の大澤聡さんエッセイには、出版をとりまく状況の厳しさが、その歴史的な文脈のもとに記されています。「雑誌や新書の読者になったかもしれない層のかなりの部分は、いまや無料の解説動画や、〔…〕有料音声コンテンツへ〔…〕ものすごい勢いで巻きとられている」(一三頁)。
〇 言葉や思考、表現のあり方そのものも、人びとのお金と時間の使い方も、何か未知のものになっていきそうな文化・ビジネス・メディアの生態系変化の時代にあります。私どもとしましても、出版という営みの可能性をもっと意識的に見出していかないといけません。そこから逆に、どんな「かたち」になったとしても魅力と必要性を失わず、むしろそれらを強めていけるような「本」の姿を模索していきたいものです。二葉亭=大澤さんの言葉を借りれば、読者の皆様をはじめ、出版に関わる方々と「手探り」で、できることから。
〇 受賞報告です。中村哲也さん『体罰と日本野球』が第三三回高知出版学術賞を、吉岡桂子さん『鉄道と愛国』が第四九回交通図書賞奨励賞を受けました。
〇 本号からの新連載は川端知嘉子さんの「御粽司 川端道喜──手の時間、心のかたち」と前沢浩子さんの「シェイクスピアとイギリスのナショナリズム」です。また、前田健太郎さんの連載「政治学を読み、日本を知る」は最終回となります。ご愛読ありがとうございました。