思想の言葉:野田研一【『思想』2022年11月号 小特集|環境人文学】
【小特集】環境人文学
思想の言葉 野田研一
正常の終焉,思考の再調整──環境人文学への誘い 結城正美
流れる水の技法──オーストラリア先住民の「適合」の詩学 デボラ・バード・ローズ
ルカーチの物質代謝論と人新世の一元論批判 斎藤幸平
気候変動論におけるデジタル・フンボルト主義とデータレスキュー──地球システム科学における人文学の役割 塚原東吾
忘れられた〈素材化〉──農林省毛皮獣養殖所と〈生態系総動員体制〉 北條勝貴
「たかり」の思想──食と性の分解論 藤原辰史
〈鼎談〉イメージの脈動にふれる 中沢新一・川瀬 慈・末森 薫
樹上性マイマイ宣言(下) マイケル・ハッドフィールド+ダナ・ハラウェイ
思想対象としての20世紀中国──『世紀の誕生──中国革命と政治の論理』序説(上) 汪暉
印刷革命と〈近代文学〉の問題圏
マーシャル・マクルーハン『グーテンベルクの銀河系―活字人間の形成』(一九六二年)は、グーテンベルクの印刷術発明以降、「人間の声」(=声の文化)が抑圧されてきたと指摘するいっぽう、二〇世紀初頭の(英米)モダニズム文学は、「口語社会が残存する後進地域」からもたらされたものであるとする卓抜な見解を示している(森常治訳、みすず書房、三八〇頁)。モダニズムは「口語社会」すなわち「声の文化」の特性を色濃く残す地域に由来するというのである。モダニズムとは反近代の営為であり、印刷革命以降の「文字/活字文化」との闘争過程であったと。
そこで連想するのが石牟礼道子の文学である。たとえば赤坂憲雄は、石牟礼道子の小説『おえん遊行』(一九八四年)について、この作品には「さまざまな声が交錯する。これはまさしく声の小説である」と指摘している(赤坂憲雄『民俗知は可能か』春秋社、二〇二〇年、五六頁)。石牟礼文学の場合、往々にして標準語対方言という二項対立を以て、中心-周縁理論が展開されるのだが、私はかならずしも腑に落ちていなかった。むしろ、二項対立を言挙げするのであれば、ウォルター・オング的な「声の文化」対「文字の文化」のほうがより根源的かつ本質的だと考えられる(1)。そして、『おえん遊行』はもとより、『苦海浄土』(一九六九年)などもまた〈声〉の文学として、印刷革命と〈近代文学〉の問題圏において考えるべき作品であろう。
ヴァルター・ベンヤミンの「複製技術時代の芸術作品」(一九三六年)の次のような発言もまた同じ問題圏に属している。
木版の出現によって、初めて版画という複製技術が生まれた。その後長い時間を経て、印刷技術によって、文字もまた複製可能となった。文字の複製技術である印刷が文学にどんな大きな変化を呼びさましたかは、いうまでもあるまい。
(野村修訳、多木浩二『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』岩波書店、二〇〇〇年、一三七頁)
ベンヤミンの「複製技術」論は近代の深淵を私たちに覗き込ませてくれた。それが深淵である所以は、「文学を変える」ほどの問題だったからである。このベンヤミンによる一九三六年の発言に、マクルーハンの理路が呼応する。どちらも印刷革命=複製技術の意味、その深淵を近代世界の焦点として提示して見せたのである。文学研究にとってとりわけ重要なのは、印刷=文字の複製技術が「文学に大きな変化を呼びさました」とする指摘である。これは本質的に〈近代文学〉とは何かという問いに向かっている。ベンヤミンのいわんとするのは、〈近代文学〉の近代性を特徴づけているのは「印刷=文字の複製技術」だということであり、この問題をその後、飛躍的に理論化し、深化したのがマクルーハンによる一連の仕事であった。
さらに、ベンヤミンは、その理論に「アウラ」の議論を重ね合わせた。では、マクルーハンにとってこの消失した「アウラ」に相当するものは何であったか。おそらく印刷以前に存在したと想定された「声の文化」がそれであった。他方、ベンヤミンにとっては、近代以前の「声の文化」に根ざす「ものがたり」(storytelling)こそが、複製技術一般における「アウラ」に相当するものであったとされる(2)。
ベンヤミンの「アウラ」が文学に適用されるとき、それは「ものがたり」になる。この点に、〈近代文学〉の本性を看取する必要がある。「アウラ」なき文学としての〈近代文学〉という定位である。「ものがたり」なき文学としての〈近代文学〉といっても同断であろう(3)。マクルーハン、そしてウォルター・オングによって明確に概念化された「声の文化」(orality)と「文字の文化」(literacy)という対立図式と、ベンヤミンによる「ものがたり」をめぐる問題意識とのあいだに迂路はあっても大きな懸隔はない。
言語の視覚化と遠近法
活字印刷とはベンヤミン的な「複製技術」の問題圏なのだが、ただし、マクルーハンが注目したのは、少し手前の局面であった。「複製技術」から大量生産に至るそのやや手前に「言語の視覚化」という技術が介在する(4)。「声の文化」にあっては、言語の中心はあくまで音声であり聴覚であり「耳の文化」である。しかし、音声から文字、さらに活字へと「視覚化」の方向へ遷移したとき、その果ての近代において大きな顚倒が起こる。言語とは文字であるとする錯覚である。これが、マクルーハンが『グーテンベルクの銀河系』の副題として掲げた「活字人間」の形成であった。
古典学者エリック・ハヴロックはその著『プラトン序説』(一九六三年)で、マクルーハンにも大きな影響を与えた学者だが、後年、『詩神が文字を書く』(一九八六年)の第三章「近代における声の文化の発見」と題する章で、口誦文化研究に関する興味深い評価を提示している。ハヴロックはそれを「声の文化問題」(orality problem)と名づけ、一九六二年から一九六三年春までの期間に、五名の研究者が相次いでこの「声の文化問題」をめぐる著作を刊行したと指摘する。クロード・レヴィ=ストロース『野生の思考』、ジャック・グディとイアン・ワット「文字文化の帰結」、マクルーハン『グーテンベルクの銀河系』、エルンスト・マイヤー(Mayr)『動物種と進化』、そしてハヴロック自身の『プラトン序説』である。
補足すれば、これらの研究者の周辺に、一九五〇年代のハロルド・イニス(コミュニケーション論)、I・J・ゲルブ(言語学)、ウィリアム・アイヴィンス(美術史)、ジョン・ホワイト(美術史)、イアン・ワット(英文学)、七〇年代のサミュエル・エジャートン(美術史)、ジャック・グディ(文化人類学)、八〇年代のウォルター・オング(英文学)、さらには『想像の共同体』のベネディクト・アンダーソン(政治学)などの仕事を配することもできよう。
活字=印刷文化は、声の文化の抑圧あるいは消滅(すなわち目の専制支配)をうながした要因であるが、同時に遠近法の転移形態でもあった。この点にアイヴィンスなど美術史家が関与する理由がある(5)。マクルーハンは、一見無関係に見える二つの指向(活字文化と遠近法)を同一の事態の両面、重なり合いとして提起した。
心理的に見れば、印刷本は視覚機能の拡張したものであるから、遠近法と固定した視点を強化することになった。視点と消失点とを強調すると、そこに遠近法の幻覚が出来上がる。これに結びついて、空間が視覚的、画一的、連続的なものであるという、もう一つの幻覚が生ずる。活字が線条をなして正確に画一的に配列された姿は、ルネッサンス期に経験された偉大な文化の形態および革新と切り離せないものである。印刷の最初の一世紀に、視覚と個人の視点とがはじめて強調されたのは、活字印刷という形をとった人間の拡張によって自己表現の手段が可能となったからであった。
(マクルーハン『メディア論』、栗原裕・河本伸聖訳、みすず書房、一七五頁)
「言語の視覚化」の極たる印刷本の機能の焦点は、遠近法的な固定された視点にあり、活字本とは「画一的で連続的な視覚効果」に支えられた「表現の革命」だという(同、一八一頁)。遠近法が前提とする固定的な視点は、まさに視点であるがゆえに不動の、「絶対的観察者」としての〈主体〉を生成する(6)。つまり、視点すなわち〈主体〉が、デカルト的均質空間という虚の空間とともに浮上する。その結果、〈近代文学〉そのものに、固定された視点に基づく線条的な言語世界、「線的思考」すなわち「直線の覇権」(ティム・インゴルド)が構造化される(7)。固定された視点を内包する「言語の視覚化」こそは印刷革命の原因であり、また結果でもあり、〈近代文学〉が不可避的に抱えこんだ深淵にほかならないのである(8)。
日本でも、印刷技術と遠近法が重畳する地点を探り当てることによって〈近代文学〉の本質を浮き彫りにした研究は少なくない。代表的なものとして、柄谷行人『日本近代文学の起源』(一九八〇年)、これに先立つ、前田愛『近代読者の成立』(一九七三年)、外山滋比古『近代読者論』(一九六三年)などがあるが、いずれも基本的にはマクルーハン理論がベースとなっている。とりわけ前田の「近代文学と活字的世界」や「もう一つの『小説神髄』―視覚的世界の成立」、あるいは外山の「黙読の問題」や「グーテンベルグ革命」といった一連の仕事は、日本近代文学の成立期が西欧のそれと比定される「視覚の革命」の時期であったとする点で、マクルーハン的認識をあきらかに共有している(9)。
日本の〈近代文学〉という観念の根底にも印刷革命および「言語の視覚化」の問題は作用している。「アウラ」なき文学としての〈近代文学〉、あるいは「ものがたり」なき文学としての〈近代文学〉。かつて私自身が行ったインタビューで、石牟礼道子は、代表作『苦海浄土』を念頭に、「近代文学の概念では表現できないと決意していました」と語ったことがある(10)。まさに〈近代文学〉の本性を反転させうるものとして、石牟礼道子の文学はその〈声〉と「ものがたり」の沃野を通じて、〈近代文学〉に向けた根源的な問いを突きつけ続けている(11)。
(1)ウォルター・オング『声の文化と文字の文化』(桜井直文・林正寛・糟谷啓介訳、藤原書店、一九九一年、原著一九八二年)。
(2)Judith Stamps, Unthinking Modernity(p.163)参照。また、ベンヤミン「物語作者」(浅井健次郎編訳『ベンヤミン・コレクション2』、筑摩書房、一九九六年、所収)も併せて参照されたい。
(3)日本古典文学研究者の立場からこの対位関係を鮮明に指摘しているのが、兵藤裕己の一連の著作、なかでも『物語の近代 ― 王朝から帝国へ』(岩波書店、二〇二〇年)所収の泉鏡花論などである。兵藤は一貫して、近代小説と「ものがたり」の差異を描写と語りの差異として論じている。
(4)文字/活字の問題を、オングは「言葉の技術化」(technologizing of the word)と呼び、その先達たるハヴロックがプラトンに見いだしたのも「言語技術」(verbal technology)の問題意識であった。まさに近代印刷術がもたらしたものは、言語の徹底した技術化であり、それを可能ならしめたのが活字印刷という空前のテクノロジーであった。
(5)たとえば、アイヴィンスの『版画と視覚コミュニケーション』(William M. Ivins, Jr., Prints and Visual Communication, 1953, pp.55-56.邦訳タイトルは『ヴィジュアルコミュニケーションの歴史』晶文社、一九八四年)。なお、一九五〇年代日本の文学批評を代表する服部達『われらにとって美は存在するか』(一九五六年初版)が、早々にアイヴィンスの遠近法をめぐる議論を応用していたことは注目に値する。
(6)モーリス・メルロ=ポンティ『知覚の哲学 ラジオ講演1948年』(菅野盾樹訳、筑摩書房、二〇一一年)、二三頁ほか。
(7)ティム・インゴルド『ラインズ ― 線の文化史』(工藤晋訳、左右社、二〇一四年)、二三八頁参照。
(8)マクルーハン、オング理論に関する最近の評価として、マーティン・ジェイ『うつむく眼 ― 二〇世紀フランス思想における視覚の失墜』(法政大学出版局、二〇一七年)、五七―六二頁を参照されたい。
(9)「視覚の革命」という評言については、前田愛『近代読者の成立(前田愛著作集第二巻)』(筑摩書房、一九八九年)、三三一頁参照。
(10)石牟礼道子『石牟礼道子対談集 ― 魂の言葉を紡ぐ』(河出書房新社、二〇〇〇年)、四〇頁。
(11)野田研一「石牟礼道子の銀河系 ― 「直線の覇権」(インゴルド)に抗して」(『たぐい Vol.4』亜紀書房、二〇二一年)を参照されたい。