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畑 浩一郎 シベリアのパリでの邂逅──ヤン・ポトツキと大黒屋光太夫[『図書』2023年3月号より]

シベリアのパリでの邂逅
──ヤン・ポトツキと大黒屋光太夫

意外な組み合わせ

 ヤン・ポトツキ(一七六一―一八一五)だいこくこうゆう(一七五一―一八二八)。これほど思いがけない組み合わせもあるまい。かたやポーランドの大貴族マグナートとして生まれ、フランス語による教育を受けた後、十八世紀末のヨーロッパの動乱に翻弄されながらも、生涯の多くを旅に送った人物。今日にその名を伝えるのは、大伽藍のような小説『サラゴサ手稿』(一八一〇)による。他方で、伊勢から江戸に向かう海路で大嵐に遭遇した廻船の沖船頭。漂着したアリューシャン列島の小島からカムチャツカ半島に渡り、シベリアを越えて、はるかサンクトペテルブルクまで赴き、九年半の歳月の後に日本に帰国する。十九世紀の初めに、実はこのふたりが意外な土地ですれ違っている可能性がある。

西へ

 天明二年(一七八二)十二月、紀州藩の蔵米二百五十石などを積載したしんしょうまるは、伊勢国しろうらを出帆する。乗員は、沖船頭の光太夫を筆頭に十七名、目的地は江戸である。途中、鳥羽のはまで日和を見た後、外海へと向かうが、強い北西の風が吹きつけ、やがて大となる。沈没を避けるため、船中一同は帆柱を伐り倒す決意をする。かじをも波にさらわれた神昌丸は漂船となり、この後七か月余りの間、北太平洋海流に乗って北東へと流される。ようやく島影を認め、上陸した土地はアリューシャン列島のアムチトカ島であった。

 この地には、ラッコなどの毛皮獣を求めるロシア人が進出していた。光太夫たちは彼らと交流する中で、少しずつ言葉を覚え、五年ごとにロシア本国から到来するという人員交代の船を待つ。三年後にようやく船が姿を現すが、接岸に失敗し、無情にも座礁、沈没してしまう。帰国を間近に望みを絶たれた当地在留のロシア人たちの嘆きは深い。だがここで彼らは気概を見せ、光太夫らに、露日共同で新たな船を建造しようと提案する。翌年、彼らはついに島を後にし、カムチャツカ半島へと辿り着く。だがこの時点で、光太夫一行はすでに八名を失っていた。

 当地の要衝ニジニ・カムチャツクで、光太夫はフランスの探検家バルテルミ・ド・レセップスと出会う。後にスエズ運河をかいさくする外交官の叔父に当たるこの人物は、コーダイユ(Kodaïl)についてかなり詳しい報告を残している。それによれば、光太夫はこの時点でほぼロシア語に不自由はなく、どこにでも出入りをし、「西洋であれば無礼とまでは言わずとも、無作法と取られかねない」図太さを見せていたという。この地で伊勢漂民は一冬を越すが、厳しい寒さと食糧不足によりさらに三名が落命している。

 一七八八年、光太夫他五名は、ニジニ・カムチャツクを出発、オホーツク、ヤクーツクを経て、イルクーツクに到着。シベリアのパリと呼ばれるこの地で、さらに二年を過ごす。その間、三度にわたり、サンクトペテルブルクのロシア政府に対し、帰国請願を出すが、いずれも却下される。一度目は「帰国の義は思ひとまり、このくににて仕官いたすべき旨」(桂川甫周『北槎聞略』)を告げられる。つまりロシアに留まり、役人になれというのである。二度目の返答は、一見寛大に思えて、実は強硬である。すなわち商人になりたいのなら税を免除し、家も与える、仕官が望みなら、カピタン(大尉か?)にまで取り立てる、というのである。だが帰国は認められない。三度目の請願に対しては、返答すらなく、代わりにそれまで役所から支給されていた生活費が止められる。「是は費用にさしつかへなば、仕官する心にもなるべきかとての事なるよし」と後に光太夫は回想するが、ロシア政府は頑ななまでに伊勢漂民の帰国を禁じる。

東へ

 一八〇五年六月、ヤン・ポトツキはサンクトペテルブルクを出発する。ロシア政府が清国に使節団を派遣することになり、それに随行する学術グループのリーダーに任ぜられたのである。三百人からなる大使節団は、いくつかのグループに分かれて帝都を発ち、はるか六千キロメートル先の目的地、北京を目指す。

 若き日のポトツキは、積極的に政治に携わっている。領土分割の危機にさらされる祖国ポーランドを救うべく、全国議会に立候補し見事当選する。だが二年の在職中に登壇する機会は一度もなかった。実は彼はポーランド語が不得手で、議会で演説をするだけの語学力を持ち合わせていなかったのである。

 一七九五年に第三次ポーランド分割が行なわれると、ポトツキはロシア政府に接近する。彼の領地ポドリア(ポジージャ)はロシア領に編入されたのだ。一八〇四年に、ポトツキの最初の妻のいとこに当たるアダム・イエジィ・チャルトリィスキがロシア外務大臣に就任する。このチャルトリィスキが、旅ばかりしていて落ち着かず、しばしば金銭的困難にも陥る親戚ヤンに、陰に陽に手を差し伸べてくれる。

 手始めにチャルトリィスキは、かつてコーカサスを広く旅した経験を持つポトツキに対し、ロシア政府が東方で取るべき施策について意見を求める。ポトツキは詳細な回答を返すが、それによれば、政府は直ちにアジア・アカデミーを設立し、そこで東洋の言語──トルコ語、ペルシア語、モンゴル語、チベット語、満州語、中国語など──を教授する体制を整えなければならないという。「言語を知らぬ土地を統治できないのは明らか」だからである。

 当時、ヨーロッパとアジアとの交易は、主に海路を通じて行なわれ、東インド会社を構える英国とオランダがしのぎを削っていた。ロシアは陸路を整備することで清国との通商路を確保し、これらの国々と対抗すべき、というのがポトツキの主張の根幹をなす。一八〇四年十二月、ポトツキは直接、皇帝アレクサンドル一世に手紙を書き、アジア・アカデミーの創設を提言しつつ、自らにロシア外務省のアジア部門のポストを請願し、翌月、その職を得ている。

 一八〇五年九月、ロシア使節団はイルクーツクに集結する。ここから南下してバイカル湖を渡り、キャフタを経由して、露清国境を目指す。だがここで雲行きが怪しくなる。北京からの入国許可が下りないのである。実は、清国政府はロシア使節団長のゴロフキンに対し、国境を越える人数を減らすよう再三要請するのだが、使節団の威容を重視する団長はその都度、それに難色を示す。ようやく彼らが国境を越えたのは十二月十八日、厳しい寒さの中でであった。

 ウルガ(現在のウランバートル)に着いた使節団は、新たな問題に直面する。ウルガ王(清朝のけい帝の甥)は、ゴロフキンに対し、中国皇帝の前でさんきゅうこうとうの礼、すなわちひざまずいて三回地面に頭を打ちつけるという動作を三度繰り返すことを求めるのである。ゴロフキンはロシア皇帝の名代として北京に赴くのであり、とうていそのような屈辱的な要求は受け入れられない。ロシア使節団長とウルガ王の交渉は決裂し、怒ったウルガ王は直ちに当地から去るようにと告げる。ゴロフキンはその言葉に従い、一行は北京に向かうことなく、サンクトペテルブルクに引き返す。

ポトツキと日本人漂民

 不首尾に終わったこの清国への旅について、ポトツキはいくつかの報告を残しているが、その中に興味深い記述がある。彼はイルクーツクの町で日本人漂民に出会ったというのである。漂民は蝦夷(Jesso)で刊行された日本語の辞書を有しているともいう。また旅行中に書かれた書簡でも、その描写が見られる。それによると、イルクーツクには日本語を教える日本人漂民がおり、正直で熱心な男だが、母国では水先案内人に過ぎなかったので、自国語の語彙について十分な知識を持ち合わせていないという。

 この漂民は、大黒屋光太夫の一行なのだろうか? 史実を確認すると、光太夫はイルクーツクで出会った博物学者キリル・ラクスマンとともに、一七九一年にサンクトペテルブルクへ赴き、皇帝エカチェリーナ二世に拝謁、帰国の許可を得る。そして翌年、キリルの次男アダム・ラクスマンに伴われ、生き残った漂民三名は北海道の根室に帰着している。したがってポトツキが出会った日本人漂民は残念ながら、大黒屋光太夫ではない。

 しかし神昌丸の乗員の生き残りが全員、日本に帰国したわけではない。凍傷により片足を切断した庄蔵、ロシア人女性と結婚した新蔵というふたりのは、ロシア正教の洗礼を受け、現地に残ったのである。いずれもイルクーツク日本語学校の教師となり、庄蔵は一七九六年、新蔵は一八一〇年、同地で没している。つまりポトツキがシベリアのパリを訪れた一八〇五年には、新蔵はこの地でまだ健在だったのである。

 東方進出を図るロシア政府は、一七三六年にロシア科学アカデミー付属の日本語学校を開校している。このとき教鞭を取ったのは、さつわかしお丸の漂民二名である。その後、日本語学校はロシア東方経略の前線基地イルクーツクに移され、細々と日本語通訳の養成に当たっている。光太夫の帰国請願が三度にわたって却下されたのは、この日本語学校の教員として漂民が不可欠だったからである。

 ポトツキが再三、アジア・アカデミーの創設を提唱したのは、こうした事情を反映している。いつ現れるか分からない漂民を待つのではなく、ロシア政府自らが学術機関を組織し、安定した語学教育を行なわねばならない。そこで養成される通訳こそが、東方に進出するための足がかりとなる。イルクーツクでの邂逅は実現せずとも、大黒屋光太夫とヤン・ポトツキは、ロシア東方拡大における現地語教育という問題においては共通の土俵にいる。

(はた こういちろう・フランス文学)


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