思想の言葉:キャロル・グラック/梅﨑 透 訳【『思想』2023年4月号 特集|高校歴史教育】
【特集】高校歴史教育
〈討議〉転換期の歴史教育/歴史教育の転換
井野瀬久美惠・小川幸司・成田龍一
Ⅰ 改革のゆくえ
市民的資質育成における歴史教育
──高校歴史教育改革論の展開と実践課題
梅津正美
「歴史総合」がひらく,「歴史総合」をひらく
──その可能性と課題
石居人也
教員養成課程からみる「歴史総合」/歴史学
戸川 点
Ⅱ 歴史教育とジェンダー
歴史教育という実践
──ジェンダー視点から問う
三成美保
女性史・ジェンダー史と歴史教育
──「歴史総合」教科書分析から
酒井 晃
Ⅲ 研究と教育
ナショナル・ヒストリー批判のあとの「日本史」叙述
──「歴史総合」と「日本史探究」
成田龍一
歴史教育と歴史研究
──主題学習とアジア史をめぐって
岡本隆司
西洋史学からみたナショナル・ヒストリーにもグローバル・ヒストリーにも回収されない歴史
──集団の歴史と個人の歴史の関係を再考するために
小林亜子
Ⅳ 教室から
歴史総合 その学びの現場から
──資料・学び方・評価から見た課題と展望
大庭大輝
「歴史の扉」の向こう側
──教室と社会をつなぐ歴史実践
小川輝光
高校生はどのような「問い」を表現するのか
──「歴史総合」への試行錯誤
角田展子
グローバル・ヒストリーと「ローカル・ヒストリー」(地域史)の邂逅からみえるもの
──「グローカル・ヒストリー」としての歴史総合の授業実践から
林 裕文
「生徒が語る」歴史総合の授業展開
本間靖章
歴史総合の構想・授業・評価
──「私たち」を問い直す
矢景裕子
〈研究ノート〉「ネイティブ幻想」と「コミュニケーション英語」を乗り越える
逆井聡人
近代の学校制度が確立されて以来、歴史教育は論争を巻き起こしてきた。近代の学教教育は、まずは読み書き能力を、そして同時に国民意識を育むことを意図した。アメリカでは長らく教えられるべきは「三つのR」(reading, ‘riting, and’ rithmetic:読み・書き・計算)と呼ばれたが、それは国の過去を使って「少国民」を育成することほど議論を呼ぶものではなかった。「少国民」は明治の用語だが、どの国にも同じようなものが現れた。歴史教育がこれほどまでに熱い話題になって、今もそうあり続けるのは、おそらく主に次の三つの理由による。
第一に、ここで問われているのは、少なくとも証拠に基づいた事実と合理的解釈からなる記述と定義される厳密に言うところの歴史ではない。どんなに声高の批評家でも、歴史教育における事実や証拠の重要さには反論しない。何よりも問題なのは、事実ではなく、物語なのだ。国民の物語(ナショナル・ナラティヴ)、愛国的な話、文化的神話といった、フランス語でロマン・ナショナル(国民の物語)と呼ばれるものであり、国民としてのアイデンティティと誇りを育むものである。フィリピンの「自由で民主的な国家建設」、アメリカ合衆国の「個人的自由の発展」、中国の「百年国恥」、プーチンが現在の戦争を正当化するときに言う「「ロシア世界」におけるロシアとウクライナの統一」といったものである。これらは過去の事実というより現在のイデオロギーであり、市民的価値というより市民宗教である。それらは実際、私たちが記憶と呼ぶものであり、多くの歴史家が知る歴史とは関連しながらも異なるものである。
第二の点は、これも同じ理由から、歴史教育がつねに政治的であるということだ。歴史家は、国家や、分断された市民社会と、不和や集合的記憶の争いが際立つ舞台をしばしば共有しながらも、歴史教育を完全にコントロールすることはなかった。過去が選別され、取り込まれたり排除されるように、国内政治が物語を動かしていくのだ。それ故に政治が変われば、学校で教えられる歴史も変わる。プーチン、エルドアン、モディ、オルバーン、習近平らのような独裁的な指導者は、書き換えた国民の物語を使って政権の支えとする。記憶の及ばない遥か昔からの同質的な国民国家という伝説を喚起し、あるいは国の歴史的な過去を歪曲する例が少なくない。例えばトルコでは、オスマントルコが「トルコの世界支配」の源泉となることで、一〇世紀にもわたるビザンツ帝国の歴史は視界から消えつつある。インドでは、政府が過去にも未来にもヒンドゥーのみからなるインドという物語をつくるために、歴史に名高いムガール時代をそしる。ボルソナーロの下のブラジル政府は、一九六四年の軍事クーデターを「力による民主政権」と語ることを好んだ。今日のアメリカ合衆国においては、共和党が、歴史教科書はアフリカ系アメリカ人に対する制度的人種主義やその他の社会問題を際だたせる「ウォーク・イズム」だと攻撃することで、その保守的支持基盤にアピールする。フロリダ州知事のロン・ディサンティスは「洗脳ではなく教育を」と訴えるが、それは左からの洗脳ではなく右からの洗脳が好ましいと言っているにほかならない。革新側では、カナダのファースト・ネーションの声がケベックで聞き入れられ、政府は歴史教科書における「アメリンディアン」という語を「先住民」に変えた。これは彼らを国民の物語に取り込む一歩だった。しかし右であれ左であれ、歴史教育に論争を巻き起こすのは過去の出来事ではなく、現在の政治なのだ。
第三に、驚くことでもないが、歴史教育はつねにナショナルである。この点においては、歴史教育が近代国民国家の下に始まった頃からなんら変わらない。女性、マイノリティ、植民地の人々などを包摂することで、その物語は長い間に変化したにもかからわず、つねに国民と国民のアイデンティティを再定義するためのものだった。EU諸国の多国籍な教科書、中国と日本、韓国と日本などの二国間の教科書など、ナショナルな違いを乗り超えようとする試みは学術レベルでは成功したかも知れない。しかし、それがそれぞれの国のカリキュラムに組み込まれることはほとんどなかった。ノーベル賞やワールドカップでの勝利、オリンピックのメダルと少し似て、国民の物語は、国民のアイデンティティと誇りの印として提供される。かつては「大量破壊兵器」とかけて「大衆教育の兵器」とも言われた教科書は、たやすく境界を超えることはなく、それゆえ国際関係において際だった痛み処となっている。それは、日本とアジア諸国の間ばかりではなく、ポーランド人とドイツ人、イスラエル人とパレスチナ人、ロシア人とウクライナ人との間などでも見られる。EU創設以来、いくつかの国の教科書は自国をヨーロッパの文脈にのせようと努めたが、当初はこの地域の歴史における自国の重要性を強調しがちだった。二〇二〇年に欧州評議会によって設立されたヨーロッパ歴史教育観測所(Observatory for History Teaching in Europe)は、和解と民主主義のために国を超えた歴史教育を促した。しかし所長は、歴史教育は「地雷原」だと認めずにいられなかった。独仏共同テキストにおいては、一九一八年一一月一一日をフランスにとって偉大な勝利の日でありドイツにとっての致命的敗北の日とする事実をめぐって衝突した、と付け加えた。同じような相違は、かつての帝国と今や独立した旧植民地の教科書においても現れる。事実「帝国の恩恵」をいかに扱うかという問題は、フランスやイギリスにおいて未だに議論が続く。歴史教育がこうした論争的問題であり続けることは、なんら不思議なことではない。
戦後の日本では、国内でも地域政治においても教科書論争がたびたび起こった。一九五五年の「憂うべき教科書の問題」、数十年続続いた家永教科書裁判、一九八二年の国際的な教科書問題をうけた「近隣諸国条項」の追加、一九九〇年代後半から二〇〇〇年代の右派による修正主義的教科書、そして日本の教科書における戦争と植民地主義の扱いに対する中国と韓国からの抗議は今日においても繰り返される。国史の日本中心主義的視角への批判には同意するが、日本の歴史教科書は、日本に批判的なアジアの国々を含めた他の多くの国と同じで、集合的記憶、国際政治、そして国民のアイデンティティをめぐって、たしかに同じように視野の狭い実践となっている。だからといって教科書をめぐる論争から撤退しようと言っているわけではない。むしろ、歴史教科書の内容を扱う人々、あるいはこれに反対する人々は誰しも、歴史教科書というジャンルの限界を受け入れなくてはならない。もちろん、こうした問題を避ける方法もある。国際バカロレアの高等学校プログラムには一国史は入っておらず、世界史や、アメリカ合衆国史よりましなアメリカス(南北アメリカ)史のような地域史が提供される。しかし、どの国の教育省も、例えば合衆国のどの州の教育委員会も、ナショナル・ヒストリーを捨て去ることなどありそうにない。
このような背景から、私は新しい日本の高校の近現代史教科書(『詳述歴史総合』実教出版、二〇二〇年)を歓迎したい。とりわけそれが、これまで長らく日本史と世界史を分け隔てていた既存の教育枠組みを押し返すものだからだ。自国史と世界史の分離は世界中の近代学校カリキュラムに共通してみられる。過去数十年の間に、多くの国で自国史の教科書にグローバルな視角が盛り込まれてきた。しかし、例えばアメリカでは、「アメリカと世界」というような表現になりがちで、実際にはアメリカは世界のなかにあるのにもかかわらず、あたかもアメリかのどこか外側に世界が置かれているようだ。統合された日本の新しい教科書では、日本と世界の歴史が常に絡み合い、文字通り「世界とそのなかの日本」になっている。これは国家中心主義的な歴史から離れる第一歩で、多くの章でそうであるように「世界」が「日本」の前に置かれることで、全体の物語が異なった読み方をされる。この並びは、ヨーロッパが先行して近代化し、アジアや日本の近代化がそれに続くという意味で、年代順的にも正確だ。もっとも、必ずしもここでは含意されていなくても、最近の欧米の教科書が、ヨーロッパ中心主義的で「後発」近代化国がそれに追いつくような印象をあたえる物語を避けようと腐心していることを考えると、やや皮肉でもある。この教科書では、ユーラシアとそこから現れた世界秩序に偏ってはいるが、近代化、大衆化、グローバリゼーションといったテーマの連なりは、日本にも世界の多くにも当てはまる。そこでの日本の物語はなじみ深いもので、帝国主義、世界恐慌、冷戦といった大きな歴史が扱われる。沖縄戦に光を当て、ジェンダーや戦争の記憶といった最新のトピックを含む配慮も見られる。日本によるアジアの植民地化が論じられるが、「帝国」よりも「植民地」という言葉が頻繁に登場するようだ。強制労働や慰安婦が省かれたことに対して韓国が抗議したのはおそらく避けられなかった。しかし、国家検定のある日本の歴史教科書でありながら、三世紀にわたる世界と日本の歴史を統合する記述において、執筆者はやれるだけのことをやったと言えるだろう。この教科書は、他の類似したテキストと同じように、魅力的な視覚資料や、側面記事、カラフルなハイライト、文章の上や横に添えられた気の利いた付加情報などがちりばめられた賑やかなページレイアウトとなっている。シヴィライゼーションのような歴史物のビデオゲームが得意な根っからのデジタル・ティーンエイジャーにうってつけだ。文字だけに埋め尽くされたページだと退屈してしまうだろう。だたし、あまりの情報量の多さに、時間が足りないくらいだ。
国家中心主義的や、内向きの一国史を避けようとしたこの新しい教科書は称賛に値する。私の国で公正で事実に即したナショナル・ヒストリーへの反動的な動きがあることを鑑みると、この日本の教科書は明らかに啓発的で、日本の教育における官僚主義を考えるに予想以上の出来ですらある。もちろんそれは完璧ではないが、教科書は現代社会において歴史観を形成する情報源の一つにすぎない。ポピュラー・カルチャーやソーシャルメディアはより影響力が大きく、様々な人が自身の経験が反映されるべくナショナルな物語を修正し、何か付け加えようと競い合う。記憶、政治、国民のアイデンティティという領域において、論争はじつに有益である。それでは、歴史教育に万歳二唱を贈ろう。
(訳=梅﨑 透)
Carol Gluck “Two Cheers for History Education”
Copyright © 2023 Carol Gluck