web岩波 たねをまく

岩波書店のWEBマガジン「たねをまく」

MENU

久野量一 ラテンアメリカの冷戦と文学[『図書』2023年4月号より]

ラテンアメリカの冷戦と文学

 

 新しい冷戦のはじまりだと言われてしまうと、では古い冷戦はどうなってしまったのか──ラテンアメリカの冷戦と文学に注目していたので、ここは焦らずに踏みとどまっておきたい。

 かつてコロンビアで、朝鮮戦争に行った経験のある男性と偶然知り合ったことがある。彼は筆者の出身がアジアだと知って、従軍した過去を教えてくれたのだった。コロンビアの兵士が朝鮮戦争に参加したことはその時すでに、記者時代のガルシア=マルケスが書いた記事を通じて知っていたのだが、そのとき話は別のほうに流れてしまった(鼓直・柳沼孝一郎訳『ジャーナリズム作品集』、現代企画室、一九九一年)

 ところがしばらく経ってから、コロンビアの日系移民の資料を通じて、彼は朝鮮戦争中、日本に滞在し、日本人と結婚式まで挙げていたことがわかった。妻はその後ひとりでコロンビアに向かい、夫の帰国を待っていた。ガルシア=マルケスの記事にはコロンビア兵が休暇で日本を訪れ横浜で遊んだと書かれてはいるが、筆者の知り合ったコロンビア兵のようなエピソードは書かれていない。

 記事の中心は、帰還兵の社会復帰の困難さである。彼らは一万数千キロも離れている、聞いたこともない国に行って戦ったあと、一旦英雄として迎えられたが、出発前に約束された経済的な報償は反故にされ、社会に適合できずに孤独、精神的不調に陥る。帰還兵という言葉によってコロンビアの人たちがはじめて内戦とは違う「戦争」を経験することになった、その状況を報告するものである。

 この記事が頭に残っていて、朝鮮戦争、広くは冷戦に関わったラテンアメリカの人びとに関する文学は気にしていた。ルイス・ブニュエルの映画『幻影は市電に乗って旅をする』に脚本家として参加したメキシコ人作家ホセ・レブエルタスの中篇『カインの動機』(José Revueltas, Los motivos de Caín, Era, 2018. 初版一九五七年、未邦訳)はその古典だろう。そして近年になり、冷戦をテーマに取り組んでいる作家が新たに現れた。

 例えば朝鮮戦争に関心を持っているのが、コロンビアの作家であるフアン・ガブリエル・バスケス(一九七三―)である。おそらくバスケスの周辺にも帰還兵がいるものと思われるが、長篇『廃墟の形』(寺尾隆吉訳、水声社、二〇二一年)の中では、作者自身を語り手として登場させ、その人物に朝鮮戦争について小説を書いていると告白させている。小説外の発言を確認しても、執筆中であることは額面通り受け取ってよさそうな話だが、いまだにその本は出ていない。しかし、準備していることをうかがわせる短篇はある。『火事のための歌』(Juan Gabriel Vásquez, Canciones para el incendio, Alfaguara, 2018. 未邦訳)所収の「蛙」である。

 コロンビアの首都には韓国が寄贈した朝鮮戦争の記念碑があり、この短篇は、帰還兵がそこに集まって昔話を語り合う一幕を描いている。毎年行われているその式典には軍のさまざまな階級の人びとが出席し、地位によって異なる、同じ戦争をめぐる複数の記憶が浮かびあがってくる。

 若者たちは村で食うに困って志願しただけで戦う気はなかったことや、占領軍として行くので戦闘には参加しないと聞かされていたこと、しかし実際にはポークチョップヒルの戦いやオールド・バルディの戦いに参加させられたり、雪の中の進軍で攻撃され負傷兵が出たこと、あるいは出発ぎりぎりになって思いとどまった兵士は、コロンビアにいて戦死者を報じる記事を見ながら「自分もこうなっていたのかもしれない」と思ったこと──こうしたことが語られたり、あるいは語られずに思い出されたりする。戦争は家族や友人、帰還兵たちの間でさえいまだ語られていないこと、語りたくないこと、あるいは語りたくて仕方ない武勇伝の入った箱である。

 一方、「冷戦最後の戦い」と言われるアンゴラ戦争に挑んだのがキューバのカルラ・スアレス(一九六九―)の『英雄の息子』(Karla Suárez, El hijo del héroe, Comba, 2017. 未邦訳)である。

 現代キューバ文学に筆者はできるかぎり目を配ってきたつもりだが、その特徴として、社会主義国キューバが置かれている厳しい、そしてある意味では特殊な状況を描こうと努めてきたことが指摘できるだろう。にもかかわらず、特殊中の特殊な経験とも言えるアンゴラ戦争について、これといった作品が生まれてきていないように思われる。もちろん皆無というわけではなく、アンゴラからの帰還兵の精神的不調や社会復帰の困難さをとりあげたものなどが頭に浮かぶのだが、これは朝鮮戦争に関するガルシア=マルケスの報告と同じ傾向と言って良い。

 そうした中、スアレスのこの作品はアンゴラ戦争に正面から取り組んだ稀有なものと言える。主人公に据えたのは、作者と同じ年に生まれ、エルネスト・ゲバラにちなんで名付けられたエルネストだ。妹の名前はタニアで、こちらもゲバラとともに暗殺された女性兵士からとられている。キューバ人のこの世代には、武器の匂いが染みついた名前が一定数存在し、子どもたちもまた冷戦を戦わされていた。

ある日の午後、学校を出たらぼくたちは冷戦の真っ只中にいた。

(『英雄の息子』より。この作品からの訳文はすべて拙訳)。

 ここで言う冷戦とは、道端で売られている氷菓子を子ども同士でぶつけ合う他愛もない遊戯のことである。

 この兄妹が幼少の頃から、キューバはアフリカ諸国との関係を深めていき、第三世界の同胞を助けるサンタクロースのようにソ連の駒として若者たちをアフリカに送る。ギニアビサウ、シエラレオーネ、赤道ギニア、南イエメン、ソマリア、エチオピア……送られた兵士の中には、自分たちの血管にアフリカの血が流れていると自己を再確認した者もいる。 アフリカからの要人来訪も相次ぐ。語り手の少年が小学生の時、父はアンゴラに行く。

[戦争という]モンスターはなにもかもを汚して進み、ついにぼくたちのドア、当のぼくの家のドアまでやってきた。

 周囲にはアンゴラからの帰還兵もいて、子どもたちは帰還兵が目を輝かせて語る武勇伝(あと少しで地雷を踏むところだった、銃弾がかすめていった)を聞いて育つ。新しい国を作っていこうという理想や夢を追い求めた時代だが、父がアンゴラで戦死してから時代は暗転する。

 物語では、父の死によって戦争の日常に放り込まれたこの少年が成長し、大人になる時期と冷戦の終結が重ねられる。その後ネルソン・マンデラが出獄してキューバを訪問し、最後の派遣兵がキューバに帰国する。小説によれば、「三十五万人の兵士とおよそ五万人の民間人がその戦争に参加し、二千人以上が死んで戻ってきた」のだった。

 筆者の知るかぎり、アンゴラ戦争についてここまで詳細に書かれたキューバの小説はほかにないと思われる。バスケスの短篇と同じように、戦争に関わるさまざまな人びとを登場させ、公式に明らかになっていること、伝わっていること、思い出されることを交錯させている。

ぼくは調べれば調べるほど袋小路に迷い込み、(中略)書けば書くほどいろんな声が出てきて、間違っている、正確にはそうではなかったとか、あるいは、その通りだったのだから異論はないと言われた。

 あるいは、

戦争で厄介なのは、複数の真実が一緒になっていることだ。

 こういう表現は作者自身の声ではないかと思えるが、小説という複数の視点を放り込める形式は結果的にうまく働いている。

 アンゴラでの戦争を経験したキューバ人が登場し、脱走兵なのかと思えば、この人物は戦争で偶発的に起きる出来事の隙間に入って生き延び、戦中から戦後、そしてなんと二十一世紀に至るまで二重の人生を生きている。事実としても作り事としても読めそうな、こんな人物を登場させることができるのも小説である。

 用意される舞台には、キューバとアンゴラだけでなく、アンゴラの旧宗主国ポルトガルが加わる。ヨーロッパ(ポルトガル)―アフリカ(アンゴラ)―ラテンアメリカ(キューバ)の三角関係を意識すると、通常冷戦でイメージするものとは異なる世界が描き出されてくる。

 ポルトガル語ではアンゴラ戦争を書いた作品が出ている。例えば、ジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザ(一九六〇―)の『忘却についての一般論』(木下眞穂訳、白水社、二〇二〇年)である。アグアルーザは「物心ついたときから、戦争はつねに身近にあった」と言っている(同書、「訳者あとがき」より)

 これまでアンゴラに行ったというキューバ人には、たとえその人の友人や親戚にまで話を広げても、会ったことがない。こちらも聞きづらいような気がしているが、まだ言葉にならない戦争なのかもしれない。スアレスのこの小説が突破口となって、今後、書きはじめられるのではないかと予想している。

(くの りょういち・ラテンアメリカ文学)


『図書』年間購読のお申込みはこちら

タグ

関連書籍

ランキング

  1. Event Calender(イベントカレンダー)

国民的な[国語+百科]辞典の最新版!

広辞苑 第七版(普通版)

広辞苑 第七版(普通版)

詳しくはこちら

キーワードから探す

記事一覧

閉じる