原田宗典 目が悪い[『図書』2023年6月号より]
目が悪い
子供の頃から目が悪い。
お前の弱点は何かと問われたら、即座に「目だ」と答えるだろう。
原因は、いくつか考えられる。
ひとつは、本だ。幼い頃から、漫画を含めて、いつも本を読んでいた。暗いところで読むなと親に注意されても、お構いなしに読みふけった。それがために、視力はどんどんおとろえていった。が、このことに関しては、悔いはない。本は、視力以上のものを私に与えてくれた。だから本を読みすぎて目が悪くなったのは、仕方がないことだと今でも思っている。
もうひとつ考えられる原因は、テレビである。
小学四年生から六年生までの約二年間、私は妹と母と三人で、小さなアパートに暮らしていた。この時、家にあったテレビというのが曲者であった。あれは何インチというのだろうか、画面は単行本くらいの大きさで、もちろん白黒のポータブルテレビだ。何だか頼りない太さの伸び縮みするアンテナがくっついていて、受信状態は甚だ悪かった。このアンテナを精一杯伸ばして、あっちへ向けたりこっちへ向けたり。どっちへ向けてもクリアに映ることはない。色々と試しているうちに分かったのは、このポータブルテレビを抱いて立っている時が、一番受信状態がいいということだった。そして左手でアンテナの先っぽを掴み、右手を「ハイル・ヒトラー」みたいに挙げると、なお映りが良くなった。自分の身体がアンテナの役割を果たしているのだとはつゆ知らず、私はテレビを抱いて立ち上がり、右手を挙げて番組を視聴した。
「お兄ちゃん、何やってんの?」
と妹にしつこく尋ねられたが、私はこの独占的な視聴スタイルを変えなかった。文字通り、かじりついてテレビを見続けたのである。私は世間から“テレビっ子”と呼ばれる世代の子供だった。どんなに変てこな視聴スタイルでも、どんなに映りが悪くても、見ないわけにはいかなかった。それに当時のテレビ番組は、今と比べると、思いきりがよくて、面白かった。
そんなふうにしてテレビにかじりつくこと約二年。六年生になる頃には、私の目はすっかり悪くなっていた。黒板の字が、ぼやけて見えなくなったのである。
母は眼鏡をかけるよう勧めるのだったが、私はこれを頑なに拒んだ。当時、四十数名のクラスの中で、眼鏡をかけている子は一人か二人しかいなかった。そしてその子は例外なく、「メガネ」とあだ名されていた。それが嫌で、私は眼鏡を拒んだのだった。
そんな状況が一変したのは、中学に入って間もない頃だったろうか。眼鏡をかけなくても、目がよく見える方法があるというのである。コンタクトレンズの登場だ。母に連れられて行った眼科医が、何でもないことのようにこう言った。
「目の中にレンズを入れるんだよ」
「目の中にレンズを!?」
この時私の脳裏に浮かんだのは、眼鏡のレンズを無理矢理目の中にはめ込んで瞼が閉じられずに苦悶する自分の姿だった。そんなの無茶だ、絶対に嫌だと身構える私の目の前に差し出されたのは、意外にも小さい、瞳ほどの薄いレンズだった。色は薄いブルーで、真ん中に針の先ほどの穴が空いていた。これは涙の通る穴だと説明された。眼科医の指導のもと、鏡の前へ行ってこれを装着してみる。すると思ったよりも簡単に、コンタクトレンズは目の中におさまった。最初は多少の違和感があったが、その見えること見えること。しかも鏡の中の自分は、眼鏡をかけていない。まるで奇跡だ、と思った。
問題は、コンタクトレンズが非常に高価だということだった。私の記憶が確かならば、一個一万円。両目で二万円もしたのである。家は決して豊かではなかったのに、よく買ってくれたものだと思う。
こうして私は、通っていた中学で唯一人、目の中にレンズを入れてる中学生となった。最初のうちはそれが自慢で、
「おれ、目の中にレンズを入れてんだぜ」
と友達に吹聴して回ったものだ。
以来、コンタクトレンズは私にとって、なくてはならないものとなった。
もちろん何度も失くしたし、その度に親に小言を言われた。高価なものだから、小言を言いたくなる親の気持もよく分かる。高校二年の体育祭の時、落として踏んでレンズにひびが入ってしまったが、親に言えなくて、そのまま目に入れて数カ月過ごしたこともあった。
そんな無茶をしたせいもあってか、私の目はどんどん悪くなっていった。大学生の頃には、視力表の一番上のでかい文字も見えなくなっていたから、視力は0.1もなかったことになる。その上、何かの折に検査をしてみたら、
「乱視が入ってますね」
と指摘されてしまった。まったく予期してなかったので、これはショックだった。
この頃、女友達の部屋に泊まった時、起きぬけに、スリッパだと思って猫を履きそうになったことがある。それくらい目が悪くなっていたのである。
近視、乱視に加えて老眼が始まったのは、四十代終わりの頃だったろうか。遠くを見るのは苦手だが、近くを見るのは得意だったはずなのに、本が読みにくくなってきたのである。
「まあ年だから仕方ないか」
私は老眼鏡を買い求めた。
しかし何かがしっくりこない。我ながら不自然だなあという思いが拭い切れない。何しろコンタクトレンズをして、老眼鏡をかけているのだ。これでは下剤を飲んで下痢止めを飲むようなものではないか。どう考えたって不自然の二乗である。
そして五十歳になって間もない或る日。息子とキャッチボールをしていたら、一瞬、ボールが消えて、
「あれ?」
と後ろへ逸らしてしまった。すごいボールを投げるようになったな、と感心したのも束の間、これは自分の目のせいだということに気づいた。右目の視界の中に、見えない部分があるのだ。ボールはその見えない部分を通過する時に、一瞬消えてしまうのだ。
たかがボール、たかが一瞬、と最初のうちは気にもとめなかった。放っておいたのである。しかしこれがいけなかった。本当は、一刻も早く眼科に行くべきだったのだ。
一カ月、三カ月、半年、一年と経つうちに、右目の視野が欠けている部分がぽつり、ぽつりと広がってゆき、やがては左目の視野まで欠け始めた。しかしそうなってもなお、私は気楽に構えていた。眼科に行くきっかけとなったのは、古くからの友人Hの助言であった。
「おまえ、それはすぐに目医者に行かないとだめだぞ。紹介してやるから、明日にでも行け!」
Hは怒ったようにそう言って、お茶の水にあるI眼科クリニックを紹介してくれた。このクリニックは日本でも指折りの由緒ある眼科で、創設者I先生の名は、森銑三『明治人物夜話』の中にも登場するほどだ。
初めて訪れた時、驚いたのはその施設の巨大さだ。二百人も座れる待合室が四つあり、診察室は二十を超え、手術室はもちろん、「目の博物館」まである。もうひとつ驚いたのは、患者のほとんどが年寄りであるということだ。
最初に普通の視力検査をして、次に視野検査というのをやる。暗い部屋に視野検査機が置いてあって、座ると、
「はい、そこに顎をのせて下さい」
顔を固定され、コードのついた押しボタンを手渡される。左目を塞がれ、まず右目から検査する。白い、ドームのようなものが見える。中央にオレンジ色の円がある。
「真ん中のオレンジ色の円を見つめて下さい。まばたきはして下さって結構です。始まりますと、あちこちに星のような光が点滅しますから、光が見えたらボタンを押して下さい。では、始めまーす」
看護師は早口でそう言うと、カーテンの陰にさっと隠れてしまった。
視野検査機の中で何やら物音がしたかと思うと、中央のオレンジ色の円の近くで、チラッと光がまたたいた。針の先ほどの小さな点である。慌ててボタンを押す。間をおかず、また別の箇所がチラッと光る。慌ててボタンを押す。また別の箇所が光る。慌ててボタンを押す。光る。押す。光る。押す。この繰り返しだが、時々ずいぶん間があくことがあって、ハラハラする。光っているのに見えないんだ、と思うと、何やら絶望的な敗北感があるのだ。
視野検査が終わり、小一時間ほど待つと、ようやく名前が呼ばれた。診察室に入ると、目の醒めるような美人の女医が私を迎え入れた。一旦部屋を暗くして、私の目を拡大レンズで確かめてから、女医は言った。
「緑内障です」
きっぱりとした口調だった。私は少なからず動揺した。
「治るんですか?」
「治りません。緑内障というのは、眼圧が高くなって眼球の裏にある神経を圧迫し、視野が欠けていく病気です。一旦欠けた視野を元に戻すのは不可能です。目薬で眼圧を下げて、現状を維持することしかできません」
「そうなんですか……」
私はうなだれ、それ以上何か訊く気にもなれなかった。
あれから十二年。私の目はますます悪くなってしまった。二年めには「白内障が始まりましたね」と言われたから、現在私の目は、近視で乱視で老眼で緑内障で白内障である。つい先日も大相撲中継を見ていたら、
〈褌〉
ふんどし、という力士がいるのかと思いきや、よおく目を凝らすと、
〈輝〉
かがやき、だった。そんな体たらくである。
(はらだ むねのり・作家)