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研究者、生活を語る on the web

遠隔地介護と育児のダブルケア体験記<研究者、生活を語る on the web>

福山隆雄

長崎大学教育学部

 物理学の研究者です。プラズマ波動中で観測されるカオス現象の解明など、プラズマ物理学における基礎研究と並行して、物理教育の研究にも取り組んでいます。現在は、妻・長女・長男・妻の両親たちと一緒に暮らしています。
 14年前に認知症を発症した実母は、遠隔地介護や在宅介護の期間を経て、今ではグループホームに入所して、所員さんたちのサポートのもとで生活しています。以下では、実母の介護を中心として、これまでの経緯を振り返ってみます。

往復生活のはじまり

 実母は長い間、熊本県北部の小さな町に暮らしていました。配偶者とは別れており、私が一人息子です。
 2009年の秋ごろ、その実母が認知症(進行性失語症)の診断を受けた、との電話を私の伯母からもらいました。ただ、本人はその診断について周りに知られたくないということで、しばらくは様子を見ることになりました。
 当時の私の職場は、愛媛大学教育学部です。妻と1歳になった長女とともに、熊本からは遠い、愛媛県松山市で暮らしていました。
 実母の認知症は徐々に進行し、2011年ごろには、料理ができなくなったり、読み書きを忘れてきたりと、自立生活が難しくなってきました。それでいて自家用車の運転をやめようとしなかったことも、不安の種でした。
 そこで、週末などを利用した遠隔地介護生活が始まります。2週間に1回程度、22時ごろに松山市を出発して、しまなみ海道を通り、翌朝8時ごろに博多駅に到着する夜行バスを利用して、熊本の実家まで通いました。病院に付き添ったり、身辺整理などを手伝ったりということを終えて、また愛媛に戻るという生活でした。
 そうした中、2011年12月には長男が誕生し、子どもたちの育児と実母の介護というダブルケア生活に突入しました。子どもたちは体が丈夫なのは幸いでしたが、それでも、当然のことですが、手はかかりました。私は無我夢中の状態で、育児についてはかなりの部分を、専業主婦である妻にお願いすることになりました。妻は長崎生まれ博多育ちのため、頼れる身内が近くにおらず、妻の両親などには頻繁に愛媛まで来てもらい、サポートしてもらいました。また、当時勤務していた愛媛大学教育学部では、介護や育児に係る業務減免が制度化されており、ずいぶんと助けられました。

同居、そして施設へ

 ただ、遠距離で介護できている時期は、まだ1人でどうにかなるレベル、時折手助けすれば1人で暮らせるというレベルなのです。遠隔地介護が始まって約1年後、ついに実母は、自立生活が不可能となりました。こうなると、同居するか、施設に入れるかしかありません。
 そこで、松山市内に中古の一軒家を購入して実母に来てもらい、同居を始めることとなりました。妻・長女(当時3歳)・長男(当時0歳)・私、そして実母との生活になりました。松山市はとても暮らしやすい土地で、永住するつもりでいました。ただ程なくして、私と妻の故郷近くの長崎大学で物理学の教員公募があり、幸いなことに採用されて、異動することになったのです。そして、およそ半年間の長崎における単身赴任の生活を経て、松山に暮らしていた家族を呼び寄せ、長崎に完全に移住しました。
 その間にも、認知症の症状は進みました。しかしその一方で身体は元気だったので、長崎に移住してからは、あちこち歩きまわって、転んで傷だらけで帰宅したりするようになりました。もうこれは手に負えないと、自宅近くの施設へ、強制的にショートステイ*1に入ってもらいました。
 その後、実母は5年間程度の待機期間*2を経て、このショートステイ先と同じ団体が運営するグループホームへ入所することになり、現在に至ります。遠隔地介護の時期に乳幼児だった子どもたちも、今ではすっかり大きくなり、少しずつですが、平穏な日々が戻ってきた気がします。

苦しみの末に

 これまでの介護および育児のダブルケア経験を通じて、一番つらかったのは、遠隔地介護の時期でした。研究者は勤務地を選り好みできないため、こうして遠距離でのケアが生じるケースは多いのではないでしょうか。
 当時は今より若かったこともあり、身体的なつらさは、まだどうにかなりました。それよりも、精神的なつらさのほうが大きかったです。介護ではよく言われることですが、「未来がない」と感じていました。これからどうなるのだろう、と。
 さらに、親が弱っていく様子もまた、なかなか受け入れられないものでした。認知症といっても、当初は「まだどうにか回復するだろう」という望みをもっていたのです。施設に入れるということにも、当初は自分・実母側の双方に抵抗がありました。
 しかし、公的なサービスを受けるようになり、時間とともにそれを受け入れたとき(回復を諦めたとき)に、精神的には楽になったように思います。親の介護は育児と異なり、当人の将来に向けた教育はありません。そして、私自身にも生活があります。「介護は家族で責任を持たなければならない」という考えを改めて、介護される者・介護する者ともに、快適で楽な形を模索するのがよいと思いました。介護で苦しい気持ちでいても、その苦しさには必ず終わりが訪れると思います。

生活あってこその仕事

 介護中(ダブルケア中)は、やはり時間の捻出が課題になりました。残業や遠方への出張は思うようにはできず、平日昼間の時間帯も、頻繁に通院に付き添うなどの時間的な制約がありました。これにはやはり、周囲の理解が重要になると思います。特に、管理職の立場である方々には、必ず理解いただきたいと思います。育児や介護にあたって非常に重要である「休日」に、研究とは関係のないサービス業務が平然と入る(または、サービス業務をせざるを得ない状況に追い込まれる)という風潮は、組織として変えていく必要があると思います。「生活あってこその仕事」です。
 現在の勤務先である長崎大学では、全国に先駆けてダイバーシティ推進センターが整備され、介護支援の体制も整いつつあります。あとは、全学的に介護と育児にかかわる業務減免の制度化がなされれば、生活と仕事の質を、いっそう高めることが可能になるでしょう。また、コロナ禍においてオンライン化が広がりましたが、対面業務のオンラインへの置き換えの推進も、時間捻出の面からは有意義なことです。オンライン化によって仕事の質が高まる場合も多いものです。オンライン化が進むほど、逆に、対面の価値も高まるでしょう。

 コロナ禍のため、施設に入所した実母とは長期間にわたって面会できない状態でしたが、ようやく少しずつ面会できるようになりました。半年間に1回程度、面会に行っています。本人は認知症が進み(要介護5)、面会に行っても、もうあまり私を認識することもできなくなりました。時期がきたら、このまま静かに眠るのだと思います。
 実母が施設に入所してだいぶん負担が軽減されたとはいえ、介護・育児と研究・教育の両立は決して楽ではなく、現在の私には、まだ精神的・時間的な余裕があまりありません。新約聖書には「人はパンのみにて生きるにあらず」とありますが、正直に申し上げて、今はパンを得るためだけに生きているような気がします。しかし、そのような中でも些細なことに幸せを見出しながら、介護と育児の卒業を迎えた暁(ポスト・ダブルケア)のことを考えて、過ごしていきたいと思います。

 

*1 利用者が短期間、施設に宿泊し、その間、生活上の世話や機能訓練を受けられるサービス。

 

*2 施設にもいろいろあり、選ばなければすぐにでも入所できたが、信頼できそうな施設を選んだ結果、長い待機期間となった。

 

福山隆雄 ふくやま・たかお
1976年に熊本県で生まれる。長崎大学教育学部准教授。専門はプラズマ物理学と物理教育。九州大学で理学の博士号を取得後、日本学術振興会・海外特別研究員に採用されて、ドイツのマックス・プランク研究所に勤務。その後、愛媛大学教育学部講師・准教授を経て、2013年4月より現職。長崎ではプロテスタント教会に所属。趣味は合唱(ベースを担当)、好きな作曲家は J. S. バッハ。


 

※「研究者、生活を語る」は雑誌『科学』でも同時進行で連載しております。『科学』では理系分野の方に、『たねをまく』(on the web)では文系分野の方もまじえて、ご登場いただいております。どうぞ併せてご覧ください。

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