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研究者、生活を語る on the web

タイミングをめぐる私たちの選択──出産・育児と研究のはざまで<研究者、生活を語る on the web>

大平和希子

東京外国語大学/ハーバード大学

 アフリカ政治の研究者です。昨年度に博士号を取得し、7年がかりの博士課程を終えました。理容師の夫との間に、6歳の息子と、まもなく1歳になる娘がいます。昨年の夏に娘を出産した後、夫と子ども2人を日本に残して単身で渡米し、ハーバード大学のアフリカ研究センターで研究をしています。

博士1年目で出産、リモート生活へ

 いったん社会に出て、青年海外協力隊としてウガンダにも行き、それから大学院へ進学しました。修士課程に入ったのが30歳のときです。進学以前に結婚はしていたし、子どもも欲しかった。でも、どのタイミングで子どもをつくるか、悩みました。
 修士課程は授業の負担も大きいので、「修士の間に子どもは難しいんじゃない?」と夫から説得され、修士課程2年目の12月、もう修士論文を出せる、という段階になって妊活をはじめ、第一子は、博士課程に入学してすぐに授かりました。
 ちょうどこの頃、ウガンダと日本の2国間の共同研究にお誘いいただき、第一子の妊娠がわかったのは、フィールドワークのためウガンダ行きの航空券をとろうとしていた矢先でした。初めての妊娠に、初めてのフィールドワーク。妊娠中にどんな体調の変化があるかもわからない中でフィールドワークを実施するのはリスクが高いと判断し、このときはフィールドワークを諦めました。
 そして、出産後は授業をとるのも難しくなるだろうと思ったので、博士課程の1年目で単位は全部とってしまおうと、キャンパスでできることを頑張りました。妊娠しながら授業をこなすのは精いっぱいで、つわりのときはフラフラになりながら……。貧血もひどく、授業の途中で1回倒れたこともありました。ただ、先生方がみなさん理解してくださったのがすごくありがたかった。身体を気遣ってくださった方も多く、なんとかその時期を乗り切りました。
 大学の授業が1月の末くらいに終わった後、2月に地元の富山で里帰り出産しました。それ以来、昨年の渡米まではほぼずっと、富山の実家で暮らしてきました。北陸新幹線はすでにできていて、東京まで2時間で行けたので、東京に通いつつ、富山に住み続けることにしたのです。
 第一子の息子が生まれたのが2017年の2月で、2018年の3月末までの1年間は育児を最優先し、休学しました。ただ、休学中も、ゼミとかにはちょこちょこ顔を出したりしていました。やはり育児経験のある知り合いの先生が、「続けることが大事」といつも言ってくださっていたので、休学中もとにかく何かを続けようと。研究はほとんど何もできず、フィールドにも行けないながらも、2国間の共同研究のプロジェクトだけは辞めずに続け、それで論文を書いたりもしました。

フィールドにいつ行くか、2人目をどうするか

 そして子どもの成長とともに、またウガンダでのフィールド調査ができないかと、考え始めました。私の研究では人に会って話を聞くのが基本のため、フィールド調査は不可欠なのです。
 黄熱病の予防接種を打てるようになるのが、生後10ヵ月からです。まずはそれを待って、息子が生後10ヵ月になったタイミングで、短期でウガンダに連れて行きました。といっても、私の調査地へ行くには首都からバスで4~5時間かかるため、そこには行かず、首都近辺で、以降のための予備調査をするという位置づけです。子連れのフィールドワークをやっぱり体験しておきたかったし、実はその少し前から、夫が単身でウガンダに行っていた*1というタイミングのよさもあって、「これはウガンダ行くか」と(笑)。
 帰国後、なんとか2018年5月から息子を保育園に入れ、それからやっと、研究らしいことができるようになりました。富山の市立図書館に週4~5日通いつつ、ゼミがあるときなど、1~2ヵ月に1回くらいは大学に顔を出していました。
 そして本格的にフィールドワークに出たのが、息子を保育園に入れた年度の2月です。今度は1ヵ月、息子を置いていきました。夫と、同居していた父と母にお願いをして。現地では本当に寂しくて、日本サイドでもたくさん苦労があったと思いますが、同時に、「やってしまえばこれはどうにかなる」ということを覚えました。その後はコロナ禍でなかなか行けませんでしたが、あと1回、どうしても行かないと博士論文が書けないということで、2021年の6月、ウガンダでの第一波が収まりかけていたころにもう1回、やはり単身で渡航し、2ヵ月ほど調査しました。
 2人目はずっとほしかった。でも、第一子の妊娠中には学校にもまともに通えなかった自分が、次にまた妊娠したら、フィールドには出られないのはわかりきっていました。そして、いざ産んだら、その後はいつ行けるかわからない。そこで、「フィールド調査が終わるまで、2人目の妊活は待ってほしい」と夫と話しました。そのフィールド調査がどんどんコロナで先延ばしになったので、妊活もどんどん先延ばしです。2021年夏の調査が終わって帰国して、博士論文を執筆しつつ、2人目の妊活をやっと開始することができました。

綱渡りの挑戦、そして出国

 ただ、その妊活再開と同じくらいのタイミングで、ハーバード大学で若手アフリカ研究者向けのトレーニングプログラムの募集があったのです。アフリカの歴史や言語の授業を聴講しつつ、メンターのもとで自身の研究も進められるということで、とても魅力的だと感じました。
 応募期限は11月です。応募案内がゼミのメーリングリストで回ってきた時には、「行けないなあ」と思いました。2人目も欲しいし、しかも1年も息子を置いて、家族を置いて……。
 でも、指導教員の先生がゼミの終わりにボソッと「まあ行きたくても行けない人もいるとは思うんですけど、なかなかない機会ですから」みたいなことをおっしゃったときに、何か、その言葉が脳内でいい感じに変換されました。「あ、行きたくても行けない人って私かも」「でも応募してみるだけだったら誰でもできるじゃん」「受かってから考えればいいや」と。要は、ああやっぱり挑戦したい、と思ったのです。
 とはいえ、もし受かったとしたら、渡航日は8月と決まっていました。アメリカでの、9月からの新学期がはじまる前には渡航する必要があったのです。そこから逆算すると、どんなに遅くとも7月末までに産んで、1ヵ月は休んで、8月末に渡航するのが現実的です。7月末までに産むにはいつまでに授からないといけないか……とまた逆算すると、いよいよあと1回か2回のチャンスです。もしそのタイミングで授からなかったら、ハーバードの結果が出るまでは妊活は休もう、と夫と話しました。
 そして、応募を終えた後、これ以上後にはずらせないというそのタイミングで、第二子を授かったのです。これは本当に奇跡的でした。そして、ハーバードのほうも無事に選考を通過しました。となればいよいよ、産んですぐに渡航しなければなりません。
 実際の出産予定日は、8月10日ごろでした。でも8月10日に産んでいては遅いので、産科に相談をして、少し早めに計画分娩することにしました。
 産科ではものすごいプレッシャーを受けました。「え、アメリカですか?」「え、1人で行くんですか?」「赤ちゃん置いてくんですか? え!?」と……。言葉の端々に、厳しさがにじむのです。
 でも一番近くにいる夫は、「他の人はなんだって言えるんだから」「そう言われて当たり前のことをやろうとしてるんだし」といって、逆に私を納得させてくれました。そもそも夫は最初から、このプログラムを「受けた方がいい」と言ってくれ、受かったあとも「これは絶対に行った方がいい」と言ってくれていました。理解者が隣にいるのは、本当にありがたいことです。
 幸い、第二子の娘は無事に産まれてくれて、産んだ翌日に航空券を予約しました。そして計画通り、産んでから1ヵ月で、アメリカへ渡りました。最初は授乳したかったので、1ヵ月は母乳をあげて、あとは母乳を止める薬を飲みました。もちろん母乳はすぐには止まらないので、飛行機の中でも、渡航してからも夜中に搾乳していました。
 ただ、何かの転機を迎えるということが、当時の私にはとてもうれしかったです。それまでは、いろいろなことがコロナ禍で停滞して、まだ博士論文の執筆も終わっておらず、何か進んでいるという感覚をなかなか持てませんでした。そんな中で、やっと新しい環境に身を置けて、新しい人と何かできる、というエキサイトメントの方が、不安を上回っていました。
 実際に、ハーバード大学の研究環境は素晴らしく、あのとき応募してよかったと心から思いました。博士論文執筆過程の最終段階をここで過ごせたことは本当に幸運なことで、先行研究として参照していた本や論文の著者と博論の内容について議論できたときは、嬉しくて涙が出そうになったくらいです。各国からやってきた素晴らしい研究者との交流が持てたことも、一生ものの財産です。それでも、冬になって陽が照らない日が続くと、家族と会えない寂しさばかりが募り、精神的に苦しい日々が続きました。
 日本に残した息子は、やはり最初は泣いたようですが、これまでの経緯もあって、私が長期的にいないことに少しは慣れているのと、家には夫も、生まれたての娘も、母もいるというのとで、わりに早く順応してくれたようです。おおよそ息子が日本の保育園に行くくらいの時間がアメリカの夕方にあたるので、そのくらいの時間帯に、ほぼ毎日のようにビデオチャットしていました。

「人間7回目」の夫、それでも

 ここまで述べてきたように、夫は「人間7回目くらいかな?」と思ってしまうようなよくできた人で、一貫して私を応援してくれています。1人目の里帰り出産についてきてくれたばかりか、実家の近くの理容室に就職してくれ、今は、数年前にオープンした自分のお店を営みながら、私の実家で母とともに育児を担ってくれています。基本的に、育児も大好きな人です。ただ、それでも大変だろうと思います。
 夫と子ども2人はこの4月にアメリカに来て、1ヵ月ほど滞在したのですが、その1ヵ月で、夫の大変さをつくづく実感しました。2人の育児というだけでも大変ですが、そのうえ、生後8ヵ月の娘がものすごくパワフルで、上の子の乳児期とは、子育てにかかる手間がぜんぜん違うのです。よく動くし、叫ぶ。お風呂ひとつでも大変で、「こんなんだったっけ、育児って?」と思うほどです。
 半日だけでも夫に楽をしてもらおうと思い、一度、自分としてはかなり無理をして、午前中に夫と息子に出かけてもらい、娘を1人でみていたことがあります。たった6時間くらいでしたが、私は一瞬も何もできず、昼食をつくるのが精一杯でした。せめて翌日の研究発表のスライド1枚でも作ろうと思っていましたが、無理でした。
 短期間ではありましたが、この1ヵ月は本当に大きかったと思います。大変だと話できいていたものが、実際に自分も参加することで、どれだけのものかわかりました。
 私が博士課程を乗り切れたのは、間違いなく家族の応援と協力があったからです。今回は、私の渡米のために夫が全力を尽くしてくれました。結婚して10年近くが経ちますが、思い返せば、何か大きな選択に直面した際に、夫から「それは無理だよ」「できないよ」といった言葉は聞いたことがない気がします。もし私が逆の立場に立ったら、どんなに難しい選択であっても最初から決めつけることはせずに、パートナーの葛藤に向き合い、応援できる人でありたいと思います。

広い世界を見てほしい

 夫と娘は4月末に帰国して、いまは息子とアメリカで二人暮らしをしています。
 渡米を決めた当初から、これを私だけでなくて、家族みんなにとっていい経験にしたい、と思っていました。その一環で、こちらに来る当初から、息子が3月末に日本の保育園を卒園したら、4月からはアメリカで幼稚園に通わせよう、と計画していたのです。日本の保育園を卒園しても、アメリカの新学期は9月に始まるので、9月前に6歳であれば、まだ幼稚園に入れるのです。
 息子の通う幼稚園では、登園後、まず外に並んでから教室に入ります。初日に一緒に連れていって、並ぶところで泣くかなあと思ったら、振り返りもせずに教室へ入っていきました。毎日笑顔で登園し、その順応性の高さに先生も驚いていたほどです。
 とはいえ、大好きな父と妹が帰国したときには、息子は毎日泣いていました。そこで、以前アフリカに行ったときに、アフリカ中心の世界地図を買ってきていたので、息子にそれを見せました。「世界はこんなに広くて、いまは日本を飛び出してここにいて……」と。
 アメリカに来てからたった数ヵ月で、息子はたくさんの国の人たちと出会うことができました。中国、ブラジル、ドミニカ共和国、南アフリカ、フランス、ガーナ、ルーマニア……。今では、自ら地図を広げて「◯◯の国はここだね!」と楽しんでいるようです。
 息子がアメリカに来たのは私がアメリカにいるからであって、一言で言えば「親の都合」です。それでも、「親の背中」を見て育ってくれたら嬉しい。自分のやりたいことをやって、生きたいように生きる姿を子どもたちに見せたいというのは、夫婦共通の認識として持っています。まだ6歳とはいえ、今しかできない経験をして、広い視野をもって、生きる土台を築いていってくれたらと考えています。(談)

 

*1 夫とはウガンダでの青年海外協力隊時代に知り合った。本職は理容師だが、大のウガンダ好きであり、この時期は、現地でNGOを立ち上げるべく、夫が単身でウガンダへ行っていた。

 

大平和希子 おおひら・わきこ
1983年富山県生まれ。ブリティッシュコロンビア大学卒業後、青年海外協力隊でウガンダへ。帰国後、NGOインターン、桜美林大学助手を経て、進学。2023年に東京大学大学院総合文化研究科で博士号(国際貢献)を取得し、現在は日本学術振興会特別研究員(RPD)として東京外国語大学に所属しながら、ハーバード大学アフリカ研究センターで研究を続けている。専門はアフリカ政治研究/ウガンダ地域研究。


 

※「研究者、生活を語る」は雑誌『科学』でも同時進行で連載しております。『科学』では理系分野の方に、『たねをまく』(on the web)では文系分野の方もまじえて、ご登場いただいております。どうぞ併せてご覧ください。

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