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思想の言葉:内田隆三【『思想』2023年8月号 特集|見田宗介/真木悠介】

◇目次◇

【特集】見田宗介/真木悠介

思想の言葉 内田隆三

見田宗介=真木悠介の本願
──人間解放の比較=歴史社会学のために
佐藤健二

見田宗介/真木悠介の社会学を若者論として読み直す
浅野智彦

磁場のユートピア/圏域のユートピア
奥村 隆

現代社会論の課題
──消費化・情報化を焦点として
山本理奈

エゴイズムは克服可能か
──『自我の起原』の問いを継承する
大澤真幸

真木悠介はここ、、)にいない
今福龍太

有限,無限,永遠
──〈いま・ここ〉に〈あること〉を意味づけるもの
若林幹夫

贈与・所有・変身
──衣服をめぐる欲望の相乗性と相剋性から
小形道正

見田/真木は,なぜ「国際関係」まで展開しなかったのか
──いらだちと肩に背負うもの
酒井啓子

見田宗介/真木悠介と国際/グローバル関係
──研究・教育活動におけるある「継承」
芝崎厚士

身体・関係・憲法
石川健治

東大紛争と見田宗介=真木悠介
──転形期と上演する主体
吉見俊哉

 
◇思想の言葉◇

継承をめぐる断想

内田隆三

 クレーン・ブリントンは『一九世紀のイギリス政治思想』(一九三三)のなかで「いま、誰がスペンサーを読むだろうか?」と書いた。ハーバート・スペンサーは「個人の自由」の理論と「社会の産業化」を正当化する進化ないし進歩の理論によって、英米を中心に一世を風靡した人物である。日本でも自由民権運動の指導層から帝国憲法の草案作成者や政府の要人まで、多くの人々に影響を与え、彼の著作の出版や流行の時期が長く続いた。だが時を経て、ブリントンはスペンサーを思想のセールスマンと呼び、その市場での死を告げた。タルコット・パーソンズは『社会的行為の構造』(一九三七)の第一章で、ブリントンの論述を一種の検死報告のように受け止め、推理小説の時代の影響かどうか、スペンサーが死んだとして、ではスペンサーは誰によって、どのようにして殺されたのかと問いなおす。ブリントンの考えでは、スペンサー殺しの犯人はある奇妙な、そして充足を知ることのない神だった。それはスペンサーがその熱烈な信徒だった神、つまり「進化の原理」である。だがこの神が彼を裏切った。われわれはスペンサーを越えて進化したのだと。

 しかしパーソンズが向き合っていたのは、スペンサーの「継承」の可否という単純な問題ではなかった。それは英米人の知性の歴史で大きな役割を演じた社会理論が忘れ去られることの意味の重さだった。一つの知が無難に継承されているよりも、あるとき継承されなくなることが重要な事件だった例は少なくないが、パーソンズは「スペンサーの死」をそんな事件として、また、スペンサーの理論が属すとされる西欧の実証主義的・功利主義的な伝統に起きた事件として受け止めていた。パーソンズはさらに問題の射程を広げ、科学的で体系的な社会理論が消長していく概念化の空間を想定し、それらの諸理論の主成分や分布や連関を標定できる分析的な座標系=準拠枠を通して、行為の主意主義的理論の形成に焦点を合わせた諸理論の発展史を提示したのである。パーソンズの試みは継承というよりも、人間社会の経験的な解釈に生じた大きな変化を経て、彼の現在が果たしえた、歴史へのある応答の仕方だったように思える。

 スペンサーの理論では、第一に、神は人間の幸福を望んでおり、人間は神から与えられた能力を自由に行使して最大の幸福を実現する義務がある。第二に、他人の同様な自由を侵害しない限り、人間には自分の諸能力を自由に行使する権利があり、またこの原理から派生する諸権利がある。この場合、各人の自由は万人の同様な自由によってしか制限されず、他人や自分に苦痛を与えることもある。この形式主義的な、またその意味では公正にみえる自由の概念に、予定調和的で楽観主義的な危うさを、あるいは権力への批判や抵抗の源泉をみる人もいるだろう。ブリントンからみると、スペンサーの個人主義は極端であり、集団生活の現実から遊離していることになるが、いま考えてみたいのはこの種の争点ではない。

 ここで注視したいのは、スペンサーが社会の進化の焦点をその成員の「協働」(cooperation)の質に見ていたことである。この協働の質は、それが成員に課す「規律」(discipline)の違いから、①集団への服従と外的な規律にもとづく軍事型、②個人の自由と内的な規律(自己規律)にもとづく産業型に分類される。人間の社会は軍事型から産業型へ進化するとされるが、この進化を変化として、つまり望ましい価値の水準を括弧に入れて事実の水準を見てみると、産業型の社会にも軍事型の側面が色濃く存在している。二つの型は協働の質(規律)が違うのに共在している。そこで浮上するのは、この共在関係(規律の異所形成)は果たして望ましい均衡状態(理想郷)へ到る過渡期の現象なのか、それとも人間の社会がある種の混在郷として存在することの兆候なのかという疑問である。これは進化論的な時間のアクチュアリティにかかわる問いでもある。

 アンリ・ベルクソンはコレージュ・ド・フランスその他の講義でスペンサーに触れているが、ここで関連があるのは第一次大戦が始まった年の一二月に行われた、道徳・政治科学アカデミーでの演説である。それはフランス政府と関係するベルクソンの活動や第一次大戦での彼の「戦争」の言説と共在しているが、『道徳と宗教の二つの源泉』(一九三二)での「産業」についての言説とも深い関係がある。第一次大戦では戦争と産業が〈機械〉を媒介にして融合するが、ベルクソンによると〈機械〉は人間の器官や身体機構の拡張である。〈機械〉がもたらす人間の身体とその能力の途方もない拡張は、その異変に即応できない魂とのあいだに空隙を生み、この魂を補塡し拡張する媒体として神秘的な精神が招き寄せられる。のちにマクルーハンが産業社会のフォークロア、あるいは「機械の花嫁」と暮らす産業社会の人間の行動を記述したのも、機械装置を代補された身体やその精神に浸潤する社会変容の深さに関心を持ったからだろう。この変容は人間の自由で主体的な適応を想定する進化論的な規律の過程とは異質な奥行きをもっている。この変容の深さを考慮に入れると、進化論の言説だけで戦争の政治的責任や産業主義の倫理的意味を捉えることはむつかしい。だがベルクソンが目の前の現実として見ていたのはこの変容の光景だった。ベルクソンは戦争を進めるドイツの行動に、プロシアの力と方法によって領導された、軍国主義と産業主義との不気味で持続的な共振作用を見ていた。

 ベルクソンによれば、かつてプロシアの王たちはその王国を築くために隣国とのあいだで一連の長い戦争を必要とした。だがいまドイツは、戦争による征服の行為を、選ばれた人種に天上から降された「神の意志」の啓示として、また同時に「新しい富の形式」(la nouvelle forme de la richesse)として見いだしたのだという。征服の精神はたんに「隣国の領土」ではなく、産業主義との共振作用を通じて、工業製品の原材料、船舶の寄港地、資本家の営業権、生産物の販路などが見込まれる「地球上のあらゆる地点」に対する無制約の権利を手に入れることを神聖な使命とする。この場合、軍事機構と産業主義の共振によって拡大した野蛮な力は、勝利や威信や物質的繁栄の情景をもたらすと同時に、神の意志の啓示という神秘主義的な観念によってその空白を補塡しようとする。征服の精神は産業主義を受肉することによって、征服の概念を更新したのであり、軍事機構と産業主義との不気味な共振作用は、科学的であると同時に神秘的な〈機械〉の軌道の上で「世界の征服」を志向する怪物的なハイブリッドを生みだしたことになるだろう。

 だがベルクソンの憤りや恐怖の描像に対しては、フランスの利害や彼の政治的な修辞学を割り引いて見る必要もある。彼が見ていた怪物的な複合体の出現は、英仏米などの敵国側にもその共振作用を転移させるだろうし、機械装置の途方もない拡張が問題であるなら、怪物的な複合体や神秘主義に憑かれるのはドイツだけに限らない。しかも、神秘主義的な諸観念を貯蔵する政治的な次元は、ホーエンツォレルン家の系譜や神聖な使命の幻想に限らず、民主的な諸国の側にも存在したはずである。『人間対国家』(一八八四:森村進訳『ハーバート・スペンサー・コレクション』筑摩書房所収)で、スペンサーは「王権神授説」に代わる「議会の権利神授説」(the divine right of parliaments)とでもいうべき政治的迷信への埋没を批判したが、聖なる塗油が知らぬまに王の頭から多数の議員の頭上に滴り落ちたかにみえるとき、議会は彼らの政治的利害と同時に神秘主義的な諸観念を最高に権威づけて表出する、それ自身、神秘的な機械となりかねない。

 現在の日本も民主的な制度を聖別し、享受しているが、スペンサーのいくつもの小片がなお考えるべき歴史の寓喩に思えるときがある。若い時期のスペンサーは『政府の適正領域』(一八四三)で、①「戦争」を大きな悪とし、②国家から「戦争を行う権能」を取り除くべきであり、③侵略に対する「抵抗」は認めるが、それを恐れる必要はほとんど生じない……と主張していた。このうち、①と②の主張は「戦争の放棄」を記した日本国憲法の第九条とほぼ同じ内容である。③の抵抗権は、日本では国家の機構による自衛権として容認され、その仕組みが高度化され変容しつつある。他方、一九三七年の秋、ルーズベルト大統領はいわゆる「隔離演説」で戦争の惨害に巻き込まれる危険を最小化するには、征服の野望に走る病的な主体の隔離が必要だと訴えていた。野望の主体は殺人の技術を携え、スペンサーの第一原理である自由やその他の権利を侵害している。戦争という疫病の拡大を防ぐには、超然とした中立の原則論ではなく、国際的な連帯や相互依存にかんする生々しい情況論が必要だというわけである。この情況は出口のないまま、やがて進化論の原理に準拠したような「文明の生存」のための戦いとなるが、ここにも見つめるべき歴史の寓喩がある。

 日本国憲法の公布に先立ち、同じ年の一月に「新日本建設に関する詔書」が宣布されるが、その重要な部分には「朕と爾等國民との間の紐帯は……天皇を以て現御神あきつみかみ)とし、且日本國民を以て他の民族に優越せる民族にして、延て世界を支配すべき運命を有すとの架空なる観念に基くものにも非ず」とある。この部分は、天皇を天上から直系の現御神とし、その神意を奉承する日本人は選ばれた民族であり、世界を支配する神聖な運命をもつという「予定説」(prédestination)を神秘主義的な観念として否定している。前後の情況からみると、それは連合国側の可能な告発に対する──ジョセフ・グルーのシカゴ演説やポツダム宣言の第六項などを踏まえた──弁明の形式をもつことに実質的な意味があるのだろう。この「弁明」は第一次大戦でのベルクソンのドイツに対する「告発」とほぼ同じ内容の、時を超えた倒立像になっている。

 こうして聖なる神秘主義はその影をひそめていった。この社会は戦争の現実から距離を取る平和の修辞学のもとで、産業の成長と連動した進歩の時間を仮想して生きていく。しかし国際的には湾岸戦争、国内的にはバブルの崩壊が起こる一九九〇年代の前半頃から、社会の二つの基軸である、①平和と戦争の関係、②経済成長と進歩の関係に重要な変化が生じる。一方では平和の修辞学が弛んでいき、戦争の仮想が曖昧なまま膨らんでいく。他方では成長が長い迷路のなかで停滞し、進歩の概念はそれと離れて多様で小さな変化の概念に収斂していく。これらの解離現象は曖昧でごく薄い未来の影像しかない、それ自身のうちで間延びする時間を生みだす。その間延びした時間のなかで、出口の見えない、失われた一〇年は二〇年、三〇年と延びていった。他方、危機や不安の言説群はその一括購入版のような持続可能な成長の言説に変形され、失わない何十年かが語られる。ここに見られるのは、ある有限性の内部で進歩の夢の減衰を反芻させる、あるいはより安定的な均衡の可能性を仮想させる時間感覚である。歴史の天使が不在のまま、つまり歴史の概念を曖味にしたまま、この時間感覚に同調する言説がある一方、工学技術の黙説法的な実践を通して、近代的な人間の有限性を支えとしない、多形的な時間感覚が社会に広く浸透していることについて、改めて考えてみたいと思う。

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