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志賀理江子 波[『図書』2023年8月号より]


 

 二〇一一年三月一一日の午後二時過ぎ、私は宮城県名取市北釜地区の海辺の仕事場で、翌日から九州へ仕事に行く準備をしていた。近所に住むおばあさんから「煮物を炊いたからとりに来て」と電話があって、彼女の家に車で向かった。少し立ち話をして、タッパーに入った切り干し大根の煮付けをもらい、このまま名取市中心部にあるスーパーまで準備に足りなかったものを買いにいこうと思い立って、車で東北本線の線路を越え、スーパーへ向かった。買い物を済ませ、店を出た直後に地震が発生、地面が大きく揺れて思わず座り込んだ。しばらくそのまま、折れ曲がりそうになる電信柱や、建物から逃げ出る人達を見ながら、その場から動けなかった。とにかく早く仕事場に、家に帰ろうと車を走らせた。線路のところまで来ると、貨物列車が踏切で停止したまま動かず、少しすればまた動き出すものだと思って待っていた。友人からの電話がつながり「海の方に津波が来るらしいから戻るな」と言われ、電話を切った。しかし私は津波のことを全く重くとらえず、仕事場がどれだけぐちゃぐちゃになったか、なんてことを考えていた。しかし貨物列車はまだ動かない。もう待ってられないな、と私はルートを変え、渋滞が発生していた線路をまたぐ陸橋を抜けて、北釜へ向かった。すぐに小高い下増田地区の毘沙門橋があり、その橋を越えようと登ったとき、目の前に真っ黒な津波が、家や電柱や松の木を飲み込み凄まじい速さで目の前に現れた。津波の飛沫しぶきが車のガラスに噴きかかって、見ている光景が歪んだ。はっと我に帰って逃げなくては、と車を切り返し、途中水がまだ来ていない場所で幼い子を連れて歩いていた若い母親を車に無理やり乗せ、名取市役所まで逃げて渋滞に巻き込まれ、そのまま車の中で夜を明かした。

 あの時見た、真っ黒な波を、今でもよく覚えている。

 私は紛れもない「近代」の中に生まれ育った。それは空気も同然、魚にとっては水みたいなもので「近代」が何であるか、なんて全然わかってなかった。「ポストモダン」なんて言われてもピンとこない。「近代」とは「安心・安全・清潔・便利・快適」を人間が追い求め続けることなのだとしたら(というか、私は「近代」という時間の定義を今はそう考えている。)それは人が生きていく上でとても大事なことでもある。スイッチひとつで夜でも明かりがつく、レバーや蛇口ひとつで水が出る便利さ。でも、生身の体の持ち主でもある「私」というのは、どこかでは、少なからずその便利さに「違和感」を感じ、理由が定かではない罪深さのようなものを感じていた。この「便利さ」の裏には何かが隠されているような気がした。というか、これ以上この違和感について考えるのは辛いので、何かが隠されていることを、自分に隠していた。

 なぜ目の前の世界がこのような姿で出来上がっているのだろう、と不思議に思ったことはないだろうか? なぜこんなにもたくさんの「もの」がスーパーに並んでいるのだろう、なぜ学校に行くのだろう、どうして私はこのことを正しいとか、間違っているとか思うのだろう。この壁の向こう側には実は何もないのではないか……当たり前に思っているようなことが、時折、全部謎になる。そういう心情で見る光景は、全てが均一に写されて二次元になったような写真的な光景だ。でも、そういう疑問を寄せつけないくらい、人間社会の時間の流れは強力で、その謎は取り残されたまま日常に埋没して、そして、いつしかそれは大きなしこりとなって、私は大人になった。写真は真を隠すことができる、だから私はあそこまで夢中になったのかもしれない。私は世界の本当の姿を、隠すことに躍起になったのかもしれない。

 それらを踏まえて考えると、津波の体験は、近代が一瞬でも壊れるとどうなってしまうのか、という経験だった。「死」が剥き出しになって、素手で触れる距離にあったあの夜は、私に、恐怖のパニックを引き起こしながらも、これまでの「違和感」がなくなり、この事は絶対に覚えておく、と心に誓うような夜でもあった。

 瓦礫だらけの光景になった集落を歩くと、たくさんのものが落ちていた。この集落に住む人をほとんど知っていたので、誰のものか特定できるものがたくさんあった。ああ、これは誰々がいつも着ていた服だな、とか、誰々が乗っていた自転車だ、とか。その中でも、特に写真は各々の家に眠るアルバムから解き放たれて、大量にばら撒かれたような状態で見つかった。皆すでにデジタルカメラで写真を撮り始めていた頃だったが、見つかった写真の殆どは三五ミリのフィルムカメラで撮影されたであろう、家族や友人を写したスナップ写真で、風景のあちらこちらに散らばっていた。そして、その多くがカメラ目線のまなざしだった。写真の外を、瞬きひとつせず見つめる表情が、瓦礫の中で異様な存在感を放ち、私は本当に一体写真とは、イメージとは、記憶とは何なのだろうと、その場に立ち尽くすしかないような気持ちに何度もなった。最初はその写真を、たとえ知った顔でも、拾ったり触れることはできなかった。個人的なものすぎる、と思った。しかし次第に、遺体が次々と発見され、瓦礫が片付いていく時間の中で、集落に戻って周辺を歩き、私物を探す人は、写真を見つけるたびにそれを拾って、集会場へ届けるようになった。捜索に来ていた自衛隊の人も同じだった。

 次第に私はその写真を洗浄して持ち主へ返す、ということを窓すら壊れて駆体だけになった吹きっさらしの集会場で始めた。その写真に触れることすら躊躇していたのに、そんな繊細なことに構っていられないくらい、それらを持ち主へ返すことが日課になった。

 写真が、紙切れになって大量に廃棄されるその傍で、時に、写真一枚が、大事な人の生身の「体」と同じ意味を持って残された人と再会する、という光景を何度見ただろう。その写真は過去の一瞬を写したものだが、その中に広がる空間は、私が生きる時間軸を寄せ付けない、写真だけにしかない独自の空間だった。これをなんと言ったらいいのか。失われゆく体の代わりに、せめても、その面影を己の目に残したいという強い気持ちが、写真には無意識にも宿る。幼い頃に感じた、世界への違和感=写真的世界=全てが均一に写された二次元の世界とは全く違うイメージの次元がそこにはあった。

 あれから一二年が経つ。北釜地区には北はゆり)あげ)、南は岩沼につながる長い防潮堤が建設され、陸からは全く海が見えなくなった。それでも北釜へ行くと、必ずその防潮堤を越えて、その日の波や空を見る。震災直後、津波の恐怖に震える足で海岸で向かい、それでも海の様子を見るんだと気負っていた頃とは違って、今日の海はどんなだろうと胸を高まらせて毎回防潮堤を登る。

 波をずっと見ていると、そこには「時間」の、過去と現在と未来が、掴みようのない「今」が、ありありと「見えている」ような気がすると、津波から一〇年経った頃からふと感じるようになった。目前の波の姿は全て「今・現在」の光景なのに、そこには常に予測不可能で、一つとして同じ姿はない「今」が、不意に広大な「過去」と「未来」から現れては消えていく。

 そうか、この私の体は、小さなひとつの海なのだ。その底には誰にもたどり着けない古い記憶、たとえば赤子だった頃見た色や光のような、忘れ去って二度と思い出せない、いや、思い出すことになんの意味もないような、そんな光景が無意識にたくさん沈んである。なぜ突然、何のきっかけもないまま昔のことをふと思い出すのだろう、それは私に「風」が吹いて海底が揺らぎ、波が現れるようにその記憶が水面に浮き出てくるからだ。その波の姿形、それこそが、私が自分の内深くに追い求め続けた、イメージの動的な姿なのかもしれない。

 避難所で共に震災後の日々を過ごした、生きながらえた人たちの証言の中には、海水に浸りながら低体温症によって己の意識が遠のく中で「光り輝く星を見ていた」とか「海が今までとは違う美しさになった」など、見る景色が変わったような言葉が多数あった。人間が死に近づけば近づくほど、もしかしたら絶望とは別の「知覚」の変化が訪れるのではないか、一人の体という器から己の「感性」が溶け出して、世界に素手で触れるような体験をしたのではないか。

 何かを能動的に、積極的に見る、見続けること。例えば、空や海を見続けることでどれだけのことが想起されるのか、ということなのだ。集会場に集められた膨大な写真のことを思い出せば、それらは己を映し出す鏡のようでもあった。だとするならば、あの写真の中の眼差しは、私と写真を繋ぐトンネルのような意味があったのかもしれない。目で見ることが、自分の内と直につながり、私を支えている。今こうして、やっと自分の目を信じることができるような気がする。

「波」志賀理江子|『図書』2023年8月号

(しが りえこ・写真家)


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