web岩波 たねをまく

岩波書店のWEBマガジン「たねをまく」

MENU

研究者、生活を語る on the web

医療的ケア児との生活と研究<研究者、生活を語る on the web>

中村聡史

明治大学総合数理学部

 情報系の研究者です。医療的ケアが必要な長男の病気の都合で専業主婦をしてくれている妻と、小学校4年生の長女、特別支援学校小学部2年生の医療的ケア児である長男、保育園に通う2歳の次男とともに、日々発生するいろいろなトラブルを楽しみつつ、また些細なことに喜びを見出しつつ、仲良く暮らしています。
 「医療的ケア児(医ケア児)」というのは聞き慣れない言葉かもしれませんが、首の気管を切開しており痰の吸引が必要だったり*1、人工呼吸器を使っていたり、)ろう)(お腹に開けた穴から通した管で、胃に直接栄養を送り届ける仕組み)を造っており経管栄養が必要だったりと、医療的なケアが日常的に必要な児童のことを指します。ちなみに長男は、気管を切開しており、夜間に人工呼吸器を使っており、胃瘻から経管で栄養を摂取しているというフルコースです。医療的ケア児をケアする側には、痰の吸引を中心としたケアのため、看護師免許やその他のさまざまな訓練が必要であることも多く、それによりさまざまなハードルが高くなっているのが実情です。

今の生活

 日によって大きく異なるのですが、基本的に、朝は長男の予定から逆算する形で動いていきます。

 長男が特別支援学校の小学部に通う日は、朝7時50分にお迎えのバス(基本的に親の付き添いが必須)が来るため*2、その時間までに全員が家を出られるように動いていきます。

 まず、朝5時半に長女がアニメを見るために起きてくるのと同じタイミングで長男の経管栄養の夜間持続注入が終わるため、そこから注入のセットを片付け、調薬・投薬をすることが、我が家の朝のスタートです。その後、長男の気管切開部のガーゼ交換をしつつ、起きてきた次男をあやしつつ、アニメを見た後の長女へ勉強を促し、長男の吸入*3をしながら、6時25分から長女とラジオ体操をします。ラジオ体操の後、長男の朝のケアの続き(ガーゼ交換や補助装置を用いた排痰ケアなど)をしつつ、のんびりする長女をせかしたり、暴れまわる次男の相手をしたりします。ちなみに妻はこのころ、次男のまとわりつきに対処しつつ、朝のヘルパーさんに長男の洗顔や体のケアなどの仕事を引き継ぎ、朝の食事の準備や、長男が学校に行くためのもろもろの準備をしています。

 次男と長女にご飯を食べさせつつ、自分もご飯を食べて、長女、長男、次男のそれぞれの連絡帳を書いて、朝7時40分に長女を小学校へ送り出し、45分に私が保育園に次男を連れて行き、50分に妻が長男をバスに乗せて特別支援学校に連れて行くことで、ようやく我が家の朝のバタバタが終了します。
 保育園へは歩いて10~15分程度、保育園から職場までも歩いて20~30分程度なので、いい運動です。その後、8時30分から17時30分までは集中して仕事をし、18時までに次男を保育園へお迎えし、帰宅後は長女に助けてもらいながら次男を適当に遊ばせつつ、長男の浣腸やオムツ交換(3~4回)、吸引などのケア。18時30分頃から次男に晩ごはんを食べさせつつ、私と妻、長女も晩ごはんをとり、19時過ぎに私が次男と一緒にお風呂へ。19時30分過ぎには次男を寝かしつけに行き、次男就寝後(20時前後)に、長男のケアをしつつ、家事と翌日の準備へと進んでいきます。

 なお、その間に、妻は14~15時に長男をお迎え(自宅から遠いため、朝の送りからそのまま特別支援学校で待っていることが多い)、帰宅後に長男のケアをヘルパーさんや訪問看護*4さんに引き継ぎつつ、洗濯や夕食作りなどの家事をして、また長男を引き継いでケアをするといったことをしています。多忙です。
 20時30分頃に長男の吸入(長男は、この時間までには寝ていることが多い)、21時から夜間の経管での栄養持続注入開始、21時30分に妻が長女を寝かしつけに行ったタイミングから残りの家事などをして、怒涛の一日が終わります(長男は呼吸器や加温加湿器、持続注入機を使ううえ、夜間の吸引もあるため、妻・長女・次男は私・長男と別部屋で就寝)。ここで元気があれば(締切が迫っていれば)24時くらいまで仕事をしますが、夜間に長男がむせこんだときに痰を吸引したり、パルスオキシメーターのアラートや機器のトラブルなどに対応したりする必要があり、夜間に起きてすぐ正常な判断ができるようにするため、また睡眠時間を確保するために、できるだけ仕事はほどほどにして寝ています。なお、週末は翌朝が少しゆっくりになるため、次男を寝かしつけた後に晩ごはんをとりながら、妻と一緒にお酒を楽しんだりしています。
 長男が特別支援学校に行かない土日・祝日は、朝はやや遅めで、長女や次男の相手をしつつ、1~2時間かけて朝のケアをし、昼ごはんの注入、午後のケアをして、ヘルパーさんや訪問看護さんの力を借りつつ、夕方以降のケアに進んでいくことになります。
 ちなみに、気管切開している医療的ケア児は吸引が頻回であることが多く、長男の場合、特に調子が悪いときは5分に1回程度の吸引が必要で、むせこみの音を聞いては吸引するなどずっとバタバタしています。夜間も調子が悪いときは、数十分に1回起きて対応する必要があるなど、睡眠時間が十分にとれないことも珍しくありません。別の部屋にいるときであっても、また就寝中であっても音には常に気を配っており、むせこみの音が聞こえるやいなや、駆けつけて対応しています。我ながら、よく就寝中に起きられるものだと感心してしまいます。

 こうした日々の生活において、私の実家は長崎、妻の実家が沖縄と遠く、基本的に私と妻との二馬力で介護・看護と子育てをしていくことになるため、私が出張のときなどには破綻してしまうこともあり、出張の2カ月以上前にはレスパイト入所・入院(「レスパイト」とは介護者が休息するための、介護対象者の一時預かりのこと)のための予約をし、予約がとれれば5~10日程度、そこで長男を預かってもらっています。また、それが難しい場合にはどちらかの両親に助けを求めたりしています。そのため、夕方以降の業務や、急な出張、飲み会などへの参加はなかなか難しいのが現状ですが、出張のときには羽を伸ばさせてもらっています。

お医者さんの言葉に打ちのめされる

 博士号取得後、現職(明治大学)に採用されるまでは、情報通信研究機構や京都大学などで計9年間、いわゆる任期付きの職で働いていました。妻と出会って半年で結婚し、明治大学に新しくできた学部(総合数理学部)に着任してすぐの2013年に長女を授かりました。妻が不在の時に長女が熱性痙攣になって救急車を呼ぶなど青ざめる経験もしましたが、子育てに追われつつもあっという間に日々は過ぎていき、いろいろあったものの、2人目(長男)の妊娠までは順風満帆な生活でした。

 長男の妊娠がわかってしばらくして、お医者さんに不整脈や手足の短さを心配され、肥大型心筋症、軟骨低形成症疑いなど、まだ生まれてもいないのに不安なことをたくさん伝えられました。その後、妻が切迫早産となり、このままでは沖縄への里帰り出産の飛行機に乗れなくなると言われたため、予定日の4カ月前、2015年の2月下旬に急遽、妻は長女とともに沖縄の実家に帰省しました。そこから1年間は単身赴任の状態で、1カ月に1度、沖縄に行って家族に会うことを繰り返すようになりました。
 長男の出産は2015年4月。その前夜に、緊急の出産になると電話があったため、さすがに立ち会うことはできず、妻からの電話で、長男が生まれたことを知りました。ただ、電話口の妻は泣くばかりで、2万人に1人の疾患かもしれないことなどを少しずつ伝えてくれつつ、「ごめんね、ごめんね」と繰り返し、心をえぐられた覚えがあります。
 出産の4日後に沖縄に入り、NICU(新生児集中治療室)にいる長男と対面しました。我が子の姿を見てホッとしたものの、その後お医者さんから伝えられたのは長男の病気に関する重い話ばかりで、特に「今後一生笑わないかもしれません」という言葉はいま思い出しても泣けてしまいます。もう少し伝え方を工夫してほしいものです。なお、その後長男は成長し、笑いました! 笑った顔は本当にかわいすぎます。

85万人に1人の病気

 生まれてきた長男は吸う力が弱く、授乳が困難で、栄養不足になり体重も増えないという問題がありました。また、1時間かけて哺乳瓶でようやく30~40ml飲ませても、その後すぐに吐いてしまうなどして、日々増えない体重の計測がストレスになっていきました。こうして生まれてから半年は、成長は進まず、首も座らないうえ、さまざまな診察をしても疾患名がわからないという状態で、妻の言葉を借りると「闇の中をただがむしゃらに匍匐前進している」ような心境でした。
 転機は、ふらっと入院中の長男を診にきてくれた先生に、「この子、知ってる疾患の症状に似ているから遺伝子検査してみては?」と言っていただいたことでした。そして東北大学の青木洋子先生のグループによる遺伝子検査の結果、出生から半年経って、ついに長男には「CFC症候群」という聞き慣れない病名がついたのです。85万人に1人くらいの遺伝子疾患とのことで、当然治療する方法はなく落ち込みはしましたが、それでも、疾患の名前がついたことで気持ちが一段落したことを強く記憶しています。わからないものに「名前がつく」というのは、本当に重要なことなのだと思います。また、その疾患名で検索してたどり着いた「おでこちゃんクラブ」という、ヌーナン症候群及び類縁疾患(CFC症候群・コステロ症候群)の家族会と、先述の青木先生たちが主導するその疾患のシンポジウムに参加し、同じような病気の子がどのような成長をしているのか、どのような家族の形があるのかなどの情報を収集することができ、真っ暗な闇が急に明るくなったような気がしました。
 おでこちゃんクラブはその後数年して閉会となったのですが、このクラブによって救われたのがまさに我が家だったので、当時の代表の方に名前を継承させていただくことをお願いし、私と妻とで新しい会として、おでこちゃんクラブを運営させていただいています。現在、会員は150家族程度で、世の中にはお仲間が多いんだなと思う日々です。

悩み、葛藤する日々

 さて、約1年の単身赴任生活を経て、そこから家族での生活がスタート。長男の疾患はてんかんの発作も伴うことが多いのですが、この発作が成長を妨げるものであるため、何とかしたいといろいろ試行錯誤したり(未だ解決をみませんが)、哺乳から経鼻胃管栄養(鼻から胃に管を入れて栄養を届ける)に切り替えて、ミルクや栄養剤を注入するものの、お腹が張って吐くことも多く、さらに管は嫌だと外され、再挿管するときにつらい思いをさせてしまう、といった問題に頭を悩ませたりしていました。
 それからもさまざまなことがあり、緊急入院なども多く経験しましたが、特に大きかったのが、2017年7月に肺炎で緊急搬送され、そこからICUへ入院したことでした。入院中に一度は一般病棟に移動できたものの、すぐに病状が悪化し、深夜到着した病院で、「呼吸状態があまりにも悪いので、手術室で気管内挿管(呼吸困難を改善するべく、口や鼻から気管へとチューブを挿入すること)をしますが、リスクが高いため今のうちに会っておいてください」と別れを覚悟するようなことを言われたことは、今でも忘れられません。

 また、気管内挿管には成功したものの、長男の気管が柔らかすぎることが原因で困難を極めたため、気管切開(喉と気管を切開すること。そこに専用のチューブ(カニューレ)を挿入することで、呼吸状態が悪い時にも、人工呼吸器を気管切開部につなぐだけで回復を図ることができる)を勧められました。さらに悪いことに、その後に長男が暴れて管を抜いてしまい、再挿管が必要になったため、改めて気管切開を強く勧められました。しかし、気管を切開すると、それまでに出ていた笑い声や、これから出ると期待していた言葉などが出なくなってしまいます。そのため、切開をするかどうか、妻と二人で数日にわたり、泣きながら話し合いました。これは本当に本当に忘れ得ぬ思い出です*5

 同じように気管切開をしているお子さんの親御さんに相談し、また今後のリスクをお医者さんに相談した上で、長男の命のことを考え、最終的には「肺が強くなり、呼吸に問題がなくなったら気管切開部を閉じる」ということを前提とした気管切開手術をお願いすることになりました。

 残念ながらまだ気管は切開したままですし、切開部のカニューレが外れて息が止まり、大変な騒ぎになったこともありました。しかし、その後も調子が悪くなったことが何度もあり、もし気管切開をしていなければ、そのたびに上記のように葛藤し、また挿管できなかったらと祈らなければならなかったことを思うと、気管切開はいい判断だったと思っています。また、コロナ禍における呼吸器系の問題を考えると、もし気管切開をしていなかったら、刻々と悪化する感染状況に恐怖を覚えていたかもしれません。

 さらに、気管切開の後には特に吐き戻しが多かったことから、経鼻胃管栄養から経鼻腸管栄養(管を直接、腸まで通し、栄養を直接腸に届けるもの。吐き戻しのリスクが小さくなる)にした方がよいといった話も、お医者さんから勧められました。しかし、腸まで通す管は、もし抜かれてしまった際には家庭で入れ直すことができず、病院まで連れて行かなければならない(タクシーで片道6000円程度)から厳しいこと、また我が家がもともと胃瘻造設に前向きだったこともあって、経鼻腸管栄養にはせずに手術をお願いし、今の気管切開と人工呼吸器、胃瘻というフルコースな状態になった次第です。胃瘻造設に加え、胃の入り口部分を軽く縛って吐きにくくする手術をしたこともあり、吐き戻しもなくなって、親子ともにずいぶん楽になりました。

コロナ禍で次男を授かる

 さて、そうして迎えたのがコロナ禍です。医療的ケア児は健常児に比べてリスクが高いため、コロナ禍においては当然、そのケアで大変でした。職場や学校で感染者が出たり、家族が発熱したりすると、ヘルパーさんや訪問看護さんが来訪することができず(または来てくれても短時間限定)、またレスパイトにも預けられなくなるなど、とても大変でした。

 しかしその一方で、コロナ禍で在宅の仕事が増え、妻との時間も増え、「子どもは3人欲しい」という結婚当初からの互いの希望を再確認することになりました。そして、長男の障害が重いからと3人目を諦めないようにしたいよねという話をして、幸いなことにコロナ禍の中で、3人目を授かりました。

 コロナ禍での出産はいろいろと注意する点も多く、また長崎に住む私の父母や、沖縄に住む妻の父母に来てもらうなどして助けてもらいましたが、次男はすくすく成長し、家に多くの笑顔を振りまいてくれています。次男は長女や長男に対する愛が強いこともあり、特に長男は、次男の急なアプローチにうれしそうにしたり、びくびくしていたりしてかわいらしいです。

研究と生活は続いていく

 こんな状況でどうやって大学の仕事をしているのかですが、学部や学科の教員および事務職員の皆様に助けられているからできているだけです。基本的には8時半~17時半の間しか大学にいることができないため、夕方以降の委員会については、対面参加が必須なものを免除いただき、他の仕事を担当させてもらうなどしています。

 また、以前は締切の力で仕事をすることが多かったのですが、採点や評価、査読といった手間のかかる締切仕事も、仕事をもらってすぐにこなすようになりました。おかげで、締切に追われて焦るということがずいぶん少なくなりました。さらに、依頼される仕事については、将来にかかってくる時間および働き方の見積もりをし、やりたい仕事であっても、見通しが厳しいと思ったら断るようにしています(まぁ、自分にとって、家族と天秤にかけることができるような仕事がないというだけなのかもしれませんが……)。

 研究については、理工系の研究室という特性を最大限に活かし、徹底的に研究室を組織化して、研究室に所属する約30人の学生が学年を超えて助け合って成長し、私が急遽対応不可となってもなんとかなるようにする工夫を徹底しています(詳細はこちらのnote*6や研究室の記事*7をご参照ください)。私の一研究者としての成果は怪しいもので、周りの方々の活躍を見て勝手に焦りを覚え、落ち込むこともなくはないですが、優秀な学生さんたちに助けられていることもあり、研究室を一つの集団としてみれば、それなりに成果を出せているのではと思っています。また、成果をサービス化したり、共同研究先にも恵まれたりし、集団として研究に取り組む面白さを享受しつつ、研究成果を世の中に届ける喜びも覚えることができています。

 さて、親の介護とは異なり、子どもの介護・看護には終わりがなく、私が先に寿命を迎えることも十分に考えられます。子どもには長生きしてほしいと思いつつも、私がこの世を去ってしまった後にどうなるかといった心配は絶えません。また、医療的ケア児の兄弟姉妹(よく「きょうだい児」という表現をします)の抱えるストレスは当然大きいものであるため、長女や次男が精神的に参らないようにするにはどうしたらよいかというのも悩みの一つです。

 ただ、そうした状況ではありますが、常にともにある素敵な妻は、最高の戦友であり、美味しいもの大好きな飲み仲間で、いつも私を含めた家族を楽しませてくれますし、長男は普通の人が経験できないこと(さまざまなケアを身につけるだけでなく、行政へ働きかけをするきっかけになるなど)を私にさせてくれているだけでなく、笑顔や泣き顔もとてもかわいく、ほっこりさせてくれます。もちろん長男に比べると恐るべき勢いで成長していく長女や次男も反応豊かでかわいく、家族をいつも笑顔にしてくれる存在のため、いろいろなところに連れ回しては楽しませてもらっています。また、学生さんたちにも恵まれ、それ以外にもさまざまな縁に恵まれているので、なんと幸せなのだろうかと噛みしめることも多い日々です。

 そんなこんなで、医療的ケア児との生活について、大変だけれど研究者として、そして家族の一員として、素敵な妻とともにいろいろと楽しめているというのろけ話でした。

 

*1 気管を切開して専用のチューブ(カニューレ)を入れることで、血中酸素濃度が下がったときに人工呼吸器を直接つなぎ、回復を図ることができる。ただ、カニューレに対し体が異物扱いの反応をしてしまい、これを排出しようとして痰が増え、気管やカニューレ、肺にたまるため、必要に応じて吸引して除去する必要がある。

 

*2 東京都では医療的ケアバスが予算化されたものの、そのバスに同乗してくれる看護師さんの数がまったく足りておらず、我が家だと1カ月に朝の2回分しか確保されていないため、基本的に親の付き添いが必須となっている。

 

*3 吸入薬を、吸入器を用いて霧状にし、気管切開部に5~10分程度噴霧すること。

 

*4 看護師が居宅を訪問し、療養生活中の人に対して病気や障がいに応じた看護を行うこと。

 

*5  このあたりの詳細にご興味がある方は、妻のブログをご覧ください:https://ameblo.jp/miwa11401982/entry-12307940519.html

 

*6 https://note.com/nkmr/m/m1e776a5aa1de

 

*7 https://nkmr-lab.org/docs/management2020-2023.html

 

中村聡史(なかむら・さとし)
1976 年生まれ。明治大学総合数理学部先端メディアサイエンス学科教授。2004 年大阪大学大学院工学研究科博士後期課程修了。独立行政法人情報通信研究機構専攻研究員、京都大学大学院情報学研究科特任助手、特定准教授を経て、2013 年より明治大学総合数理学部准教授、2018年より現職。インタラクションやネタバレ防止、平均手書き文字等の研究活動に従事。また、BADUI(使いにくい・わかりにくいユーザインタフェース)の収集と発信などもおこなう。博士(工学)。


 

※「研究者、生活を語る」は雑誌『科学』でも同時進行で連載しております。『科学』では理系分野の方に、『たねをまく』(on the web)では文系分野の方もまじえて、ご登場いただいております。どうぞ併せてご覧ください。

タグ

バックナンバー

ランキング

  1. Event Calender(イベントカレンダー)

国民的な[国語+百科]辞典の最新版!

広辞苑 第七版(普通版)

広辞苑 第七版(普通版)

詳しくはこちら

キーワードから探す

記事一覧

閉じる