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研究者、生活を語る on the web

在宅介護・16年と3カ月<研究者、生活を語る on the web>

本村昌文

岡山大学

 日本思想史の研究者で、大学の教員をしています。妻の病気をきっかけに2005年8月から在宅介護生活が始まり、2021年11月28日に終止符が打たれました。16年と3カ月にわたる在宅介護生活では、介護サービスを利用する以外はほぼ1人で介護を行っていました。以下で、そのころのことを振り返ってみます。

在宅介護生活のはじまり──最も大変な日々

 2004年9月、朝になっても目が覚めなかった妻は、救急車で病院に搬送されました。脳内で出血し、血腫ができて脳幹を圧迫し、昏睡状態になっているとのことでした。医師から「このまま手術をしなければ命を落とし、仮に手術が成功しても意識がもどる可能性はきわめて低い」と言われ、私は厳しい「選択」を迫られました。最終的に手術を行い、奇跡的に、妻は意識を取り戻しました。

 翌年の2月までは救急車で搬送された病院に入院していましたが、その後、リハビリのために転院し、2005年8月からは在宅介護生活がはじまりました。当時、妻は41歳、私は35歳。退院時、妻は要介護3(後に要介護3と4を行ったりきたりしました)、片目は失明、左半身に麻痺が残り、左手は拘縮(関節を動かしにくくなった状態)。自力でベッドから車いすへ移ることはできず、トイレに座ることもできず、排泄はベッドで行い、着替えは一部介助が必要、食事は用意すれば自分で食べることが可能、という状態でした。

 私のほうは、2000年4月からの任期3年の助手を退職したものの、次の就職先が決まらず、大学や予備校の非常勤講師、早朝の牛乳配達の仕事もしながら研究を続け、公募に応募する生活でした。この不安定な状況で、在宅介護の生活ができるのだろうか。またそもそも、在宅介護の生活のイメージがまったくつかず、そのことが大きな不安でした。

 そこで、まずは転院先の病院の看護師の方々に介護のしかたを教えてもらい、自分でも市が主催する介護教室に行き、ケアマネジャーにも相談しながら、何とか在宅介護の生活環境を整えていきました。デイサービス(通所介護)*1とデイケア(通所リハビリテーション)*2は週1日の利用からはじめ、残りの平日は自分で介護を担いました。週末はショートステイ(短期入所生活介護*3を利用し、研究の時間にあてるようにしました。

 しかし、在宅介護生活をはじめて半年ほど経過した2006年の1月と、同じ年の6月、私は耳鳴りやめまいなどに襲われ、身体的な不調をきたすこととなりました。がんばりすぎない介護を心がけてはいたのですが、実際にはかなり無理をしていたと思います。

 この時期、最も大変だったのは、夜の排泄ケアで睡眠が十分にとれなかったことです。約2時間おきに起きて、尿取りパッドを交換する生活でした。自分のペースで睡眠をとることができない生活がいかに人間の心身を蝕んでいくのか、実感した日々でした。

 デイサービスやデイケア、ショートステイは、自分の休養のためではなく、非常勤講師の仕事や研究のために利用していたため、まとまって休む時間を確保することは困難でした。アルバイト生活で収入も少ない状況のため、介護サービスは利用限度額をこえないようにし、自分で介護を担う時間が多い時期でした。次の職を得るために研究業績を上げなくてはならないものの、介護に時間と労力を奪われ、なかなか思うようにいかず、焦りと不安を抱く日々でもありました。

フルタイムの非正規雇用で、介護の生活が変わる

 2006年10月、私は非正規ではあるものの、フルタイムの仕事につくことができました。仕事の内容は、大学創立百周年の記念事業の一環で、大学百年の歴史を本としてまとめる編纂事業です。この仕事につけたことが、私の在宅介護生活に変化を与えました。

 まず、自分で担ってきた介護負担が減りました。フルタイムの仕事のため、毎日デイサービスとデイケアを利用し、日中の主な介護は出勤前の朝食の準備・後片付けや、デイサービスなどの送迎への送り出しとなり、介護負担は帰宅後の夜のケアが中心になりました。簡潔にいえば、介護から離れる時間が多くなったということです。相変わらず夜の睡眠は断続的にしかとれませんでしたが……。

 次に、自分の専門とは違うものの、研究に近い仕事ができるようになりました。大学の歴史を本としてまとめる編纂事業では、大学に関する資料を集め、考察し、自分が担当執筆する章もあります。自分の専門とは異なるものの、学術的な研究環境のなかに自分の身を置くことができました。新たな研究テーマを見つけ、いまも共同研究を行う研究者と出会うこともでき、介護と、研究に関連しない仕事で一色だった生活に変化が生まれました。

 また、科研費*4にも申請することができ(それまでも、大学の非常勤講師として申請する資格はあったものの、非常勤先の方針で申請できませんでした)、3度目の申請では採択もされ、自分の研究をわずかながらも進展させる契機となりました。

 毎日の仕事や研究のため、介護から離れる時間が増えたことで、それ以前よりも精神的にはかなり楽になりました。ただし、介護サービスの利用が利用限度額をこえ、自費でのサービス利用が増加し、家計は非常に苦しい状況でした。

 ともあれ、この経験から私は、自費でのサービス利用を可能にする収入があることで、在宅介護の生活がかなりの程度円滑になると実感しました。仕事と介護の両立はたいへん難しい問題ですが、簡単に仕事を手放さないということは、長く介護を続けるうえで、とても重要な点だと実感しています。

正規の研究職の時期──使えるサービスは何でも使う

 2013年4月から、私は運よく今の大学に着任することができました(それまでに応募した公募は86回)。非正規雇用のときよりも収入が増え、かつ安定し、自費での介護保険サービスを利用しても、何とかやっていけるようになりました。私の介護負担は前の時期とほぼ同じとはいえ、経済的な負担はさらに緩和されたのです。お金で何でも解決できるとは思いませんが、それでも、お金で解決できる問題はかなりあるのも事実です。月~土までデイサービス・デイケア、夕方にそれらから戻るときには訪問介護*5を利用し、夕食から服薬までをお願いしました。ショートステイが予約できないときは、自費で1泊2日の訪問介護をお願いしたこともありました。

 出張がない日曜日は、サービス利用をせずに自分で介護をしました。裁量労働制での勤務なので、授業などはデイサービスの朝の送り出しに支障がないような時間に設定したりすることができ、大学教員であるからこそ、介護との両立ができた面もあります。ただしそれでも、さまざまな会議や学内外での業務があり、仕事と介護の両立は決して楽ではありませんでした。妻の介護は介護サービスに任せ、自分の時間の大半を仕事にあてていた、というのが適切な表現だと思います。

医療的ケアが増えてから

 妻は2015年ごろから人工透析をするようになり、最後には腸閉塞を起こして口から食事をとれなくなって、中心静脈ポート*6で栄養を摂取する生活になりました。腸が癒着したために排便ができなくなり、胃の中に溜まるものを外に出すために、)ろう)を造設することになりました。

 奇妙なことに、このような医療的なケアが増えれば増えるほど、利用できる介護保険のサービスは減っていきます。とくに中心静脈ポートをつけることで、それまで利用していたデイサービス・デイケア・ショートステイがいずれも利用できなくなりました。ケアマネジャーの方が何とか利用できるデイサービスを探してくれましたが、デイケアやショートステイができる場所は最後まで見つかりませんでした。血液透析を行うためのグラフト(人工血管)の管理、中心静脈ポートの管理や点滴交換、胃瘻の管理など、それまでとは違った介護負担が私に増えた時期でもありました。

 

在宅介護・16年と3カ月<研究者、生活を語る on the web>
このころの月・水・金(デイサービス利用の日)のスケジュール。火・木・土は人工透析の日で、介護タクシーで妻を病院へと送り出し、透析が終わる時間にあわせて訪問介護を利用した。いずれの曜日も毎朝、グラフトの音を聴診器で確認し、正常に血液が流れているかをチェックする必要があった。

 中心静脈ポートは定期的に交換する必要があり、交換のために一時的に入院することもありました。しかし2021年9月11日、定期的な交換で予定されていた入院よりも1日早く、グラフトの流れが悪くなり、妻は透析を終えて、そのまま入院することになりました。このときは、妻が自宅に戻ってくることができなくなるとは思ってもいませんでした。

 入院後、グラフトの流れは回復しましたが、中心静脈ポートからの感染により発熱。抗生剤の投与で感染はおさまったものの、もともと悪かった肝臓がさらに悪化しました。それでもその後、肝臓の状態は少し安定し、10月末にはまた中心静脈ポートをつけ直す手術を行いました。しかし、このときに動脈の一部が傷ついてしまい、出血がとまらなくなってしまったのです。授業中に病院から携帯に電話が入り、病院に駆けつけました。

 一命をとりとめたものの、傷ついた血管の処置をするために、別の病院に転院しました。そこで血管の治療はでき、11月18日にもとの病院に戻ることはできたものの、このとき主治医の先生からは、大量に出血したせいか肝臓に負担がかかり、妻の肝臓はもう限界をこえてしまい、治癒の見込みがなくなったことを伝えられました。

 それから4日ほど、妻とは会話ができましたが、次第に妻の意識は混濁し、意思疎通を図ることができなくなりました。そして2021年11月28日、穏やかに晴れた日曜日の夕方、看護師さんたちが病室を出て、妻と2人になったとき、脈拍が20くらいまで急に落ち、妻はあえぐように2度、3度呼吸をして、脈拍はすぐに0になりました。ナースコールを鳴らすと、看護師、医師の方々がすぐに駆けつけてくれました。看護師さんに言われ、手を握り、何度も声をかけました。この間、2度ほど妻は息を吹き返すような感じはありましたが、もう二度と目覚めることはありませんでした。医療的なケアが増えてから、妻との生活がそう長くはないことを覚悟してはいたものの、別れのときは本当に突然やってきました。

おわりに──人生にも「余白」を

 これまでの在宅介護の生活を振り返ると、私は、自分のもっている時間と労力を100%以上使って、仕事と介護の両方を何とかこなしていたと感じます。

 育児や介護など、それまでの生活とは異なる局面に向き合うときには、それまで以上に時間と労力を使う必要が生じます。このときに、すでに100%近くの時間と労力を使って生活していたら、育児や介護に直面したとき、私たちはつねに100%以上の時間と労力を使いながら生活せざるを得なくなります。常に100%以上の時間と労力を使う生活──これは、たいへん過酷な生き方なのではないでしょうか。

 私は、70%程度の時間と労力で生きていることが大切なのではないかと感じています。車のハンドルに「あそび」の部分があるように、人生にも「あそび」のような余白の部分がある生き方を許容する社会の構築が、仕事と介護、仕事と育児の両立を可能にするのではないでしょうか。

 在宅介護の生活が終わり、私の生活における人間関係の多くが、妻の介護に関わるものであったことに気づかされました。妻を介護する生活が終わることで、病院の先生方や看護師のみなさん、さまざまな介護サービスに関わる方々との関係が断ち切られることになりました。

 私は自分の職場の同僚などに、介護をしていることを話してはいましたが、直接妻と会ったことがある人はいませんでした。妻を看取った後、私は、生前の妻のことを話せる人が、自分の身近にいないことに愕然としました。仕事と介護以外の場で「余白」の部分をつくり、そこでさまざまな人間関係を構築することが、介護を終えた後の人生においてとても大切になるのではないかと思っています。

 

*1 利用者が施設に通い、自宅において自立した日常生活を営めるよう、生活上の世話や機能訓練を受けられるサービス。

 

*2 利用者が施設に通い、リハビリなどの医療的ケアを受けられるサービス。

 

*3 利用者が短期間、施設に宿泊し、その間、生活上の世話や機能訓練を受けられるサービス。

 

*4 日本学術振興会の科学研究費助成事業。競争的研究費であり、ピアレビューによる審査を経て、独創的・先駆的な研究に対して助成が行われる。


*5 訪問介護員(ホームヘルパー)が自宅を訪問し、日常生活の支援を目的として、身体介護や生活援助を行うサービス。 要介護認定を受けており、利用限度を超えていなければ、介護保険が適用される。

 

*6 点滴のための、皮下埋め込み型の機器。主に直径2~3cmのタンク(ポート)と、静脈へ薬液を送り出すチューブからなり、通常の点滴よりも血管への負担を小さくできる。

 

本村昌文 もとむら・まさふみ
1970年東京都生まれ。博士(文学)。専門は日本思想史、とくに近年は老い・看取り・死をめぐる思想史的研究を行っている。東北大学大学院文学研究科助手、岡山大学大学院社会文化科学研究科准教授等を経て、現在は岡山大学学術研究院ヘルスシステム統合科学学域教授。


 

※「研究者、生活を語る」は雑誌『科学』でも同時進行で連載しております。『科学』では理系分野の方に、『たねをまく』(on the web)では文系分野の方もまじえて、ご登場いただいております。どうぞ併せてご覧ください。

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