思想の言葉:鈴木忠志【『思想』2024年1月号 特集|磯崎新】
【特集】磯崎新
超都市の始まりにおける建築
藤村龍至
国際的文化人としての磯崎新
日埜直彦
文化としての建築をつくる
五十嵐太郎
「JīQí Xīn」としての磯崎新
──中国における仕事と受容
市川紘司
妹島和世を語る磯崎新
──『日本建築思想史』を読む
松井 茂
磯崎新と1950年代サークル運動・文化運動の接点
──リアリズムの系譜から読み直す戦後美術史・建築史の可能性
町村悠香
点滅する廃墟、あるいは戦後思想家としての磯崎新
山本昭宏
協同と創造の論理
──磯崎新とビューロクラシーの問い
印牧岳彦
重力と歴史
──新宿ホワイトハウスの歪んだ立方体
大村高広
明滅する中心
──《つくばセンタービル》と現代建築のヒストリオグラフィー
江本 弘
ラディカリズムの行方
谷繁玲央
篠原一男経由 磯崎新の「作品」論
小倉宏志郎
磯崎新年譜(2015年7月以降)
廃墟からの励まし
私の演劇活動歴は今や六五年以上になる。そのたいへん長い期間には、多くの人たちが、私の演出した舞台作品のみならず、私の主宰する劇団の活動の仕方などについて言及している。そのなかで、磯崎新が語った言葉ほど、私を驚かせたものはなかった。私の演出作業の特質についての言葉の当て方が、意表をついていたからである。演劇界の同業者以外の人の言葉だったからかもしれないが、彼の原稿を読み終えた時の驚きは、今なお鮮明に思い出す。その原稿は岩波ホールの公演『バッコスの信女』のパンフレットに書かれたもの、一九七八年のことである。
私は当時、岩波ホールの芸術監督であった。高野悦子さんがホールの支配人で、映画と演劇の専門館にする計画を立て、私を演劇公演の企画立案をする演出家に起用した。ギリシャ悲劇の『バッコスの信女』はその岩波ホールの演劇シリーズ、第三回目の公演、私の演出作品である。彼の原稿は、大江健三郎、井上ひさし、中村雄二郎などと一緒に、私の稽古を見学した後の感想として書かれている。
私の鈴木忠志にたいするシンパシーは、彼が演劇のありとあらゆる様式を、廃墟とみたてて、その残骸である形式をひろい集め、独自の組み合わせのなかから、演劇が発生以来ただひとつの本質として所有してきた「劇的なるもの」の構築をこころみていることである。これはあるいは私の現代建築の置かれた状況への対応からの類推かも知れないが、定型化した個別の様式をささえる序列が解体してしまったという状況認識は、すぐれて今日的であるようにみえる。とすれば、様式の廃墟と渡り合うことだけが残されているとみてもいい。その具体化は、複合や折衷、本歌取りや地口やブリコラージュと、多様な手法としてあらわれているが、鈴木忠志は、それを演劇の領域において、もっとも明確に意識化して独自の世界をつくりつづけているといえるだろう。今回の『バッコスの信女』は様式の廃墟を下敷きにしながらも、たんなる実験を超えたものとして、新しい形式に到達しているようにさえみえる仕事となっている。(「様式の廃墟のうえに生まれるもの」)
この原稿の書かれた後、私は彼と協同の事業を展開することになる。富山県の利賀村、茨城県の水戸市、静岡県の静岡市、これらの地に建つ劇場群はすべて私の発案によるものだが、彼は自称〈座付き建築家〉として私の活動を助けてくれた。
磯崎は私の演出手法や活動の理念について、自分の建築手法と対比しながら二つの論文を書いている。一つは、私が新国立劇場の要請により、一六年ぶりに東京で作品の上演をすることになったことをめぐって、もう一つはイタリアのヴィツェンザに建つ劇場「テアトロ・オリンピコ」で、『バッコスの信女』を新演出で上演した『ディオニュソス』についてである。この二つの論文は私を芸術上の同志と見なして書かれていて、状況認識を踏まえた見事な論理展開にはずいぶんと励まされた。
古代の野外劇場を小規模な室内劇場に再現したとされるパッラーディオ設計の「テアトロ・オリンピコ」、私はこの劇場で一九九四年と九五年に二作品を上演している。舞台奥から空間の中心に向かって伸びてくる三本の放射状の街路の特異な美しさには感心したが、それだけではなく、一五八五年にこの劇場を訪れた天正の少年遣欧使節団の歓迎式典の様相が描かれた壁画がロビーにあり、なんとも親しみを感じたのを思い出す。私は帰国するなり、日本にもこのような劇場がほしいと思い、磯崎に相談した。ただし、水戸芸術館の劇場や利賀の野外劇場は円形を基本としているので、楕円形の劇場空間は造れないかと注文をしてみた。私が静岡県舞台芸術センターの芸術総監督をしていた当時、こういう経緯で一九九七年、静岡県舞台芸術公園に出現したのが、「楕円堂」と呼ばれる珍しくも素晴らしい劇場である。建築家としての磯崎新が全力投球した傑作だと思っている。
構築すること、すなわち建築物をつくりだすことは、コーラ(場)におけるデミウルゴス(造物主)の役割でもある。十五世紀フィレンツェの思想家フィッチーノはミケランジェロのごとき芸術家がすなわちデミウルゴスだと語ってもいる。ブルネッレスキの直観的な力業も、パッラーディオの冷静な均衡も、いずれも事物主義の根源に接続している点では同様な役割である。私はあらためて、〈建築〉をデミウルゴスによる形式の生成と定義して、これを造物主義(デミウルゴモルフィスム)と呼ぶことにした。鈴木忠志がみずからの方法をつきとめるため、ギリシャ悲劇まで遡行し、おそらく、ニーチェの振舞いに触発されながら、その背後にディオニュソスが在ることを確認したプロセスが、私には理解できるように感じた。その頃私も遡行をしながらプラトン立体(たとえば利賀山房ホール、あるいは半円形野外劇場)にこだわりながら、デミウルゴスに行きついていたためでもあった。形態が生成されていくコーラ(場)での振動は、絶え間ないギャップをうみだしつづける。純粋結晶体は、ここでは溶融し、流動している。
〈中略〉
それぞれは、二十年あまり、近代的なものの廃墟を視たあげく、遍歴し、試行をつづけた。あげくに、近代を壊すといったこれまでの切実な使命感からさえ自由になっていた。それでも廃墟をみすえたうえで、そのうえに次の何かを創りださねばならないことは自覚していた。(「ディオニュソス ― 「テアトロ・オリンピコ」と「楕円堂」」)
磯崎は芸術的文化的な視角から、我々は様式の廃墟の内を生きているという認識を、建築家として私に示してくれたが、芸術文化の世界だけではなく、政治的経済的な位相においても、いまや地球それ自体が廃墟であるというのが実際であるようにも思える。
最近の新聞報道によれば、岩波ホールは閉館になったという。もちろん、高野悦子さんはとうに逝去されている。そして磯崎とともに、私の稽古を岩波ホールに見にきた諸氏もこの世を去っている。一〇年近く毎月のように集まっては、勉強会をした仲間である。
私より年長の人たちだから、その死は当然と言えば当然のことだという想いもするが、日本のオピニオンリーダーとして活躍した人たちだけに、岩波ホールの閉館と同じように、もう二度と会えないことを思うと、ことさらな寂しさを感じる。