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【岩波新書〈新赤版二〇〇〇点突破記念〉】南陀楼綾繁 岩波新書〈新赤版〉一〇〇一─二〇〇〇ななめ読み[『図書』2024年1月号より]

岩波新書〈新赤版〉一〇〇一―二〇〇〇ななめ読み

 

 二〇二四年一月、岩波新書の〈新赤版〉は、刊行点数二〇〇〇点を突破する。

 〈新赤版〉は一九八八年一月、それまでの〈黄版〉を切り替えてスタートした。最初に刊行されたのは八冊。一冊目は大江健三郎『新しい文学のために』だった。

 岩波新書の創刊は、一九三八年(昭和一三)。その装丁を赤に決めたのは、社主の岩波茂雄だった。岩波は「この双書が普及して、電車に乗ると、あの人も赤い本をもっている、この人も赤い本をもっている、と眼につくようにならなければだめなんだ」と云ったという(吉野源三郎「赤版時代 編集者の思い出」、岩波書店編集部編『岩波新書の50年』岩波新書)

 こののち、岩波新書はリニューアルするごとに表紙の色を変え、それによって〈青版〉〈黄版〉と呼ばれるようになる。創刊当時の〈赤版〉と区別するために、〈新赤版〉という呼称が生まれたのだ。

 それにしても、二〇〇〇点という刊行点数はすごいと、改めて思う。〈赤版〉一〇一点、〈青版〉一〇〇〇点、〈黄版〉三九六点の計一四九七点が刊行されるまでには、四九年間かかっている。それに対して、〈新赤版〉は三五年で二〇〇〇点に到達しているのだ。

 

 

 二〇〇六年四月、〈新赤版〉は一〇〇〇点を機にリニューアルした。

 この時に記された、「岩波新書新赤版一〇〇〇点に際して」では、次のような問題意識が示された。

 「社会や歴史に対する意識が揺らぎ、普遍的な理念に対する根本的な懐疑や、現実を変えることへの無力感がひそかに根を張りつつある。そして生きることに誰もが困難を覚える時代が到来している」

 鹿野政直はこの刊行の辞の核心は、「閉塞を乗り越え、希望の時代の幕開けを」だと指摘する(『岩波新書の歴史』)

 リニューアルにあたり、それまで表紙に使われてきたマークを、ランプから風神に変えた。一冊一冊から吹き出す風が多くの読者の元に届き、希望ある時代への想像力をかき立てるように、という思いを込めているという。

 装丁を担当したのは桂川潤。直木賞を受賞した佐藤正午『月の満ち欠け』をはじめ、岩波書店の本の装丁を多く手がけたが、二〇二一年に急逝された。このマークを見るたびに、桂川さんの笑顔を思い出す。

 リニューアル後、一〇〇一番として刊行されたのは、柄谷行人『世界共和国へ──資本=ネーション=国家を超えて』だった。

 今回、編集部から、一〇〇一番以降の〈新赤版〉についてのエッセイを書くよう命ぜられた。岩波新書については、鹿野政直『岩波新書の歴史』(二〇〇六年)という名著がある。鹿野さんがなさった仕事を、ただの本好きライターが引き継ぐのは荷が重い。

 しかし、やるしかない。刊行リストを見渡して、以前読んで印象に残った書目や気になる書目を選んでいった。そこから強引に三五点ほどに絞り、実際に読んで決めた三〇点を私なりに九つのカテゴリーに分類した。

 あくまでも私の関心に沿って選んだ三〇点なので、抜けてしまった分野(哲学や心理学など)はある。逆に、文学史に関する本は、梯久美子『原民喜 死と愛と孤独の肖像』など好きな書目が多く絞り切れなかった。また、現在品切れになっている書目からも選んでいる。なお、二〇一九年一二月刊行の一八二〇番までの書目は、『岩波新書解説総目録1938~2019』(二〇二〇年)で一覧できる。

 

 《国家》

 二〇〇六年、一〇〇二番として出たのは、長谷部恭男『憲法とは何か』。改憲論議が高まるなか、立憲主義とは何か、憲法を変えるとはどういうことなのかを、明晰な文章で説く。

 同年には、斎藤貴男『ルポ 改憲潮流』も刊行。著者はこのルポを通じて、ファシズム化する社会への警鐘を鳴らす。住基ネットによって監視社会が進むという予見は、マイナンバーカードの登場によって的中してしまった。

 憲法についてはその後も、青井未帆『憲法と政治』(二〇一六年)、高見勝利『憲法改正とは何だろうか』(二〇一七年)などがある。

 半田滋『日本は戦争をするのか──集団的自衛権と自衛隊』(二〇一四年)は、集団自衛権行使を容認する政府見解が決定される二カ月前に刊行。ただちに増刷している。新聞記者として長年自衛隊を取材してきた著者が、戦争ができる国へと変わろうとする姿を鋭く描く。同じ著者で『「戦地」派遣 変わる自衛隊』(二〇〇九年)もある。

 島薗進『国家神道と日本人』(二〇二〇年)は、宗教研究の第一人者による国家神道の歴史。このテーマでは村上重良『国家神道』(一九七〇年)という定番があるが、本書では「国家神道とは何かを的確に理解し、近代日本の宗教構造への考察を深めていく」ことで、「現代日本における信教の自由や政教分離」を考える手がかりにしようとする。

 二〇二二年七月、安倍晋三元首相が殺害された事件で統一教会の問題がクローズアップされると、島薗進編『政治と宗教──統一教会問題と危機に直面する公共空間』(二〇二三年)が緊急出版された。ここでは、国民を統制する国家神道の時代に戻ろうとする動きに懸念を表している。

 末木文美士『日本思想史』(二〇二〇年)は、古代から現代までの日本の思想を、「王権」と「神仏」という二極の概念で読み解こうとする大胆な通史だ。

 

 《社会》

 鹿野政直は〈新赤版〉では、バブルの繁栄を背景にして「豊かさとは何か」という問いが押し出されたと指摘する(『岩波新書の歴史』)。一九八九年には経済学者の暉峻淑子による、その名も『豊かさとは何か』が刊行されている。

 しかし、リニューアル後の〈新赤版〉では、阿部彩『子どもの貧困──日本の不公平を考える』(二〇〇八年。二〇一四年に続編)、本間義人『居住の貧困』(二〇〇九年)のように、むしろ「貧しさとは何か」をテーマにする本が多い。

 その先鞭をつけたのが、橘木俊詔『格差社会 何が問題なのか』(二〇〇六年)だ。さまざまな統計から日本の貧困率が高まっており、所得や雇用において格差が広がっていることを明らかにする。その背景には新自由主義を推し進める政治があった。刊行から一七年経つが、格差がますます広がっている現状から、いまでも必読書となっている。

 二〇〇八年には、堤未果『ルポ貧困大国アメリカ』湯浅誠『反貧困──「すべり台社会」からの脱出』という、対をなすような二著が出ている。

 前者は、サブプライムローンや医療費負担による破産、低所得者をターゲットにした徴兵など、新自由主義やコーポラティズム(政治と企業の癒着主義)により貧困層が広がるアメリカの姿を描く。同書は四〇万部以上のヒットとなり、『ルポ貧困大国アメリカⅡ』(二〇一〇年)、『㈱貧困大国アメリカ』(二〇一三年)と続編が刊行された。

 後者は、ホームレス支援活動を行なってきた著者が、貧困を「自己責任」とする風潮に異議を唱えるもの。ダメージを吸収する人間関係の「溜め」が重要だという指摘には、深く共感した。

 

 《国際》

 この原稿を書いているいま、一番気になる国際情勢はイスラエルとパレスチナの間で行なわれている戦闘だ。パレスチナ自治区ガザではイスラエルの攻撃が続き、子どもを含む多くの民間人が犠牲になっている。

 私はいまだに、両者の対立の理由をきちんと理解しているとは云いがたい。そこで飛びついたのが、臼杵陽『イスラエル』(二〇〇九年)だ。ユダヤ人が拠ってきた「シオニズム」の論理、パレスチナ誕生の経緯、アメリカとの関係などが整理され、頭に入りやすい。

 その一方で、イスラエルが民族も宗教も異なる人々が同居する「人種の【坩堝/るつぼ】」であり、一色ではないとも語られている。

 日本は単一民族国家と思う(思いたい)人もいるが、実際には朝鮮人、中国人やアイヌもこの国に暮らしてきた。

 水野直樹・文京洙『在日朝鮮人 歴史と現在』(二〇一五年)は、戦後七〇年の節目に、「在日朝鮮人の今日に至る歩みを、それぞれの時代の文脈や精神を含めてできるだけトータルかつ簡潔に概観」したもの。関東大震災時の朝鮮人虐殺、強制連行・労働、日本人名に改名を強要した創氏改名や、終戦後の総連(在日本朝鮮人総聯合会)の誕生、帰国運動などのおおよその流れが理解できる。関連書として、趙景達『植民地朝鮮と日本』(二〇一三年)がある。

 大木毅『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』は、一九四一年から四年間続いたドイツとソ連の戦争の全貌を描くもの。両国はそれぞれの「世界観」に基づき、あらゆる手を使って相手を絶滅させようとした。その結果、両国で三〇〇〇万人以上の戦死者を出した。著者は、作戦の失敗、捕虜の虐殺、国民の総動員など細部の検証を積み重ねたうえで、「絶滅戦争」の実態を明らかにする。

 戦史としての迫力とともに、戦争の愚かしさを存分に伝えてくれる。同書は刊行直後から話題となり、「新書大賞二〇二〇」を受賞した。

 

 《災害》

 新書は、書籍の中では「いま」読まれる意味を重視する「速い」メディアだと思う。しかし、中には時間をおいて評価が高まる書目もある。

 二〇一一年に刊行された山本太郎『感染症と文明──共生への道』は、二〇二〇年の新型コロナウイルス禍をきっかけによく読まれた。医師である著者は、天然痘、ペスト、エイズなどに人類がどう立ち向かってきたかを明らかにする。

 エピローグでは、感染症と人間の「共生」が(コストはあるにしろ)進むべき道だと述べている。

 著者は『抗生物質と人間──マイクロバイオームの危機』(二〇一七年)でも、「共生、共存の考え方は、究極的には、ヒトがヒトという種として生きていく上で大きな利益をもたらす」と書く。コロナ禍を経て、この考えを自然に受け入れる人は多いだろう。

 二〇一一年の東日本大震災後、〈新赤版〉は関連本を立て続けに刊行した。同年六月には復興の現場に入る人や作家らが寄稿した内橋克人編『大震災のなかで』。その後の三年間で刊行した関連本は、一五冊以上にのぼる。

 なかでも、外岡秀俊『3・11 複合被災』(二〇一二年)は、被害に遭った人たち、救援する人たち、政府や東京電力に入念な取材を行ない、この「複合被災」の様相を描き出す。

 発生時、著者は朝日新聞を辞めていたが、フリーになってからの一年間、取材に没頭した。本書は震災から一〇年後に中学・高校生になる読者が、事実を調べようとする時に「まず手にとっていただく本のひとつにすること」を目的としたという。外岡さんはまさに震災一〇年後にあたる二〇二一年に亡くなったが、本書はいまでも必読の書だ。

 河田惠昭『津波災害 増補版──減災社会を築く』(二〇一八年)の旧版は、震災の三カ月前に刊行された。その「まえがき」では、二〇一〇年二月に発生したチリ沖地震津波での低い避難率を見て、「こんなことではとんでもないことになる」と著者は危機感を示した。その予感は不幸にも的中してしまったのだ。

 増補版では「東日本大震災の巨大津波と被害」「南海トラフで予想される巨大津波と被害」の二章を加える。将来、ふたたび増補版が刊行されるような事態を迎えないことを祈りたい。

 災害との関係で興味深く読んだのが、藤原辰史『給食の歴史』(二〇一八年)だった。本書では学校給食を論じているが、その普及のきっかけになったのは関東大震災や東北の凶作だったという。キッチンカーの誕生が給食と関係していたなどの小ネタも含め、発見に充ちた一冊だ。ちなみに、著者は島根県出雲市の小学校で「鯨の竜田揚げ」を食べたと書くが、歳は違うものの同郷の私もアレが好きでした。

 その藤原さんが二〇二〇年四月に岩波新書のサイト「B面の岩波新書」に寄稿した「パンデミックを生きる指針──歴史研究のアプローチ」は、心が落ち着かない日々に、学ぶこと、考えることの意味を伝えてくれるエッセイだった。

 その文章は村上陽一郎編『コロナ後の世界を生きる──私たちの提言』(二〇二〇年)に収録されている。同書には医師、作家、ジャーナリストらが寄稿。〈新赤版〉の著者も多く、その前月に出た同種の企画、『仕事本──わたしたちの緊急事態日記』(左右社)の書き手とは対照的なのが興味深い。

 

 《科学》

 中村桂子『科学者が人間であること』(二〇一三年)は、東日本大震災を経て、科学者は「人間は自然のなかにある」という原点に立ち戻るべきだと主張。その方法として、著者が提言してきた「生命誌」の考え方を解説する。

 池内了『科学者と戦争』(二〇一六年)は、終戦後、軍事研究と決別したはずの日本で、「デュアルユース」の名のもとに、軍事目的に転換しうる研究が進められていると述べる。こういう安易な論理に、著者は警鐘を鳴らす。続編『科学者と軍事研究』(二〇一七年)や、科学者の社会的責任を問うた共著『日本学術会議の使命』(岩波ブックレット)も併読したい。

 

 《歴史》

 村井康彦『出雲と大和──古代国家の原像をたずねて』(二〇一三年)は、奈良の三輪山をはじめ、各地の神社に出雲系の神が祀られていることや古墳の分布から、大和朝廷以前に出雲王国が成立していたことを明らかにする。邪馬台国の新解釈などスリリングな指摘の連続で、「出雲びいき」の私でなくても、古代史の面白さを存分に味わえるはずだ。関連書として、三浦佑之『風土記の世界』(二〇一六年)、平野芳英『古代出雲を歩く』(二〇一六年)などがある。

 歴史の面白さといえば、平岡昭利『アホウドリを追った日本人──一攫千金の夢と南洋進出』がすごい。幕末以降、小笠原諸島で多くのアホウドリが捕獲され、金に換えられた。味を占めた連中は、探検を名目に他の島にも進出する。日本政府はその動きを追認し、それらの島々を「帝国」に編入したのだ。

 鹿野政直は〈新赤版〉において、「いわば、大文字の議論だけでなく、これまで新書には少なかった小文字の分野の書名が著しく増加した」(『岩波新書の歴史』)と指摘するが、本書は「小文字」を入り口にしつつ、「大文字」の歴史へと接続する。その手法が見事だ。

 近年、「聞き書き」の手法を使ったノンフィクションに、注目すべき著作が多い。その意味でいま読んでほしいのが、大門正克『語る歴史、聞く歴史──オーラル・ヒストリーの現場から』(二〇一七年)。幕末明治の回顧、戦争体験、女性の経験など、さまざまな聞き書きの実践を通じて、声による歴史学の可能性を論じる。

 聞き書きと関連して、菊地暁『民俗学入門』(二〇二二年)も必読。民俗学は人々の「せつなさ」と「しょうもなさ」に寄り添う学問だと、著者は述べる。そして、専門用語をほとんど使わず、衣食住、生業、コミュニティなどの実例を紹介する。普通の人々の日々の暮らしの「これまで」を解明する民俗学が、いま必要とされる理由がよく判った。

 

 《暮らし》

 地域やまちづくりについては、本間義人『地域再生の条件』(二〇〇七年)など何点かあるが、ここでは大月敏雄『町を住みこなす──超高齢社会の居場所づくり』(二〇一七年)を挙げたい。著者は「時間」「家族」「引越し」「居場所」をキーワードに、多様性のある町をつくっていくにはどうしたらいいかを論じる。

 一方、地方の厳しい現実を突きつけるのが、宮﨑雅人『地域衰退』(二〇二一年)だ。政府が進めてきた農業や林業の大規模化や市町村合併は、効率化につながらず、人口減少への歯止めにならない。著者はコロナ禍以降を見据え、地方分権と地方分散に期待をかけるが、果たしてどうだろうか?

 

 《私的な語り》

 「新赤版の最大の特徴は、(略)人生が主題となったことであった」「「公」は「私」を通してでなければ語りにくくなったという状況が出現してきていた」と鹿野政直は指摘する(『岩波新書の歴史』)

 鶴見俊輔『思い出袋』(二〇一〇年)は、まさに私的な回想を手がかりに、歴史や思想へと接続するエッセイ集だ。「自分で定義をするとき、その定義のとおりに言葉を使ってみて、不都合が生じたら直す」「温故知新は、新知識の学習とともに、私たちの目標として現れる時がくる」など、さりげない一言にどきっとさせられる。

 一〇月に刊行された、大江健三郎『親密な手紙』は、旧友の伊丹十三やサイード、井上ひさし、安部公房らとの思い出を通して、彼らの著作の魅力を語る。手紙やメモなど私的に記されたものが、回想のきっかけになっている。

 大江は『ヒロシマ・ノート』(一九六五年)、『沖縄ノート』(一九七〇年)などで、岩波新書を代表する著者のひとりだった。その彼は、高校生の時、のちに師となる渡辺一夫の岩波新書『フランス ルネサンス断章』(一九五〇年)を「ポケットれするまで持ち歩」いたという。渡辺から大江へと、岩波新書の系譜が受け継がれてきたのだ。

 「私語り」の領域では、小沢昭一/神崎宣武(聞き手)『道楽三昧 遊びつづけて八十年』(二〇〇九年)、むのたけじ『99歳一日一言』(二〇一三年)など、元気な老人の言葉が聞けるのもいい。

 

 《メディア》

 吉見俊哉『大学とは何か』(二〇一一年)は、中世以降のヨーロッパの大学や、西洋の輸入からはじまった日本の大学の歴史をたどり、現在の日本の大学が抱える問題を論じる。続編『大学は何処へ 未来への設計』(二〇二一年)では、より苦悩の色が深まる。

 著者は「大学はメディアである」と定義する。「メディアとしての大学は、人と人、人と知識の出会いを持続的に媒介する」。この意味で、大学と出版は対抗的連携で結ばれてきたが、出版にデジタルが入り込むなかで、大学の位相も劇的に変化しているという構図には納得する。

 言葉もまたメディアのひとつであり、〈新赤版〉では大野晋『日本語練習帳』(一九九九年)、マーク・ピーターセン『日本人の英語』(一九八八年)が売上部数の二位と三位を占めている(ただし、一位はぶっちぎりで永六輔『大往生』〈一九九四年〉だ)

 今野真二『百年前の日本語──書きことばが揺れた時代』(二〇一二年)は、明治期には、字体や言葉のルールが確立された現代からは考えられない「揺れ」があったことを、数々の実例と図版で示す。著者の『日本語の考古学』(二〇一四年)、『『広辞苑』をよむ』(二〇一九年)なども発見の愉しさを味わえる。

 佐藤洋一、衣川太一『占領期カラー写真を読む──オキュパイド・ジャパンの色』(二〇二三年)は、占領期日本でアメリカ人が撮影したカラー写真を満載。これらの写真が、インターネットの普及によって発掘され、さまざまな人たちの集団知によって解明が進んでいるところに、希望を感じる。

 最後に取り上げるのは、津野海太郎『読書と日本人』(二〇一六年)だ。『源氏物語』を読んだ一一世紀の少女の姿を冒頭に置き、音読から黙読へ、平仮名の登場、手書きから印刷へと変化していく、日本人の読書のかたちを描く。

 一九五〇年代後半から八〇年代はじめの「読書の黄金期」に、編集者として数々の本をつくった著者は、最終章「〈紙の本〉と〈電子の本〉」で、限定を付けながらも、次のように書く。

  「たぶん人びとは読書をつうじて新しい表現、新しい思想を求めることをやめないでしょう。同様に古い表現や思想とつきあう術を捨て去ることもないにちがいない」

 

 最後に個人的な話を。

 私は一九九七年から二〇〇五年まで、津野さんが編集長の雑誌『季刊・本とコンピュータ』の編集スタッフだった。

 出版業界の売上のピークは一九九六年で、以降は右肩下がりになっていく。その一方で、デジタルの世界は急速に広がっていった。

 二〇〇五年、私は仲間たちと、東京の谷中・根津・千駄木で「不忍ブックストリートの一箱古本市」をはじめた。誰でも一日だけの「本屋さん」になれるというこのイベントは、その後、全国に広がった。その中から、個人が営む小さな本屋をはじめた人も多い。

 『読書と日本人』には「戦前からつづく教養主義的・権威主義的な〈読書の階段〉の秩序が、ようやくこの段階になって、ほぼ完全に崩壊したのです」とある。私も含め、一箱古本市に集まる本好きは、そういった「古いしばり」から自由だった(そのことがいいかどうかは、ここでは置く)

 リニューアル後の〈新赤版〉の編集者たちは、そんな揺れ動く本の世界を見据えて、企画を立てているはずだ。彼らの鋭いアンテナに敬意を表したい。

 二〇〇〇点到達後も、このまま〈新赤版〉は続くという。これから五年、十年の間に、どんなテーマや著者が登場するか。読者のひとりとして、楽しみに待ちたい。

(なんだろう あやしげ・ライター)


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