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【岩波新書〈新赤版二〇〇〇点突破記念〉 この10冊】古田徹也 哲学が始まる場所へ[『図書』2024年1月号より]

哲学が始まる場所へ

──熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』『西洋哲学史 近代から現代へ』

 ビッグバンが宇宙の始まりだとするなら、その前はどうだったのだろう。「その前」などないのだろうか。もしそうなら、先行する出来事が存在しない出来事なるものを、我々はどうやって理解できるのだろう。あるいは、世界の始まりなど存在せず、過去は無限に遡るのだろうか。しかし、過去が永遠に続く、とはどういうことなのだろうか。

 同様のことは未来にも言える。世界に終わりはあるのだろうか。あるとすれば、世界が終わった後に、世界はどうなっているのだろうか。世界がもはや存在しないとはどういうことだろうか。あるいは、世界に終わりは来ないのだろうか。だとすれば、未来が永遠に続くということを、我々はどう理解すればよいのだろうか。

 「果て」というものが問題になるのは、時間だけではない。空間に果てはあるのだろうか。宇宙の外側は一体どうなっているのだろうか。それとも、「宇宙の外側」などないのだろうか。だとすれば、文字通り果てしない空間というものを、我々はどう理解できるのだろう。

 それにしても、そもそもなぜ、宇宙なんてものが存在するのだろうか。なぜ世界があるのだろう。なぜ、何もないのではなく、何かがあるのだろう。「ある」とはどういうことだろう。そして、そのようなことを問うてしまう私とは、我々人間とは、はたして何者なのだろうか。

 人はどこかのタイミングで、こうした「永遠」や「存在」などをめぐる問いのどれかを――あるいは、すべてを――抱く。そして、どこか透明な澄んだ驚きとともに、深い谷底を覗き込んだときのような畏れを感じる。哲学という営みは、おそらくこの種の驚きや畏れとともに始まったのだろうし、昔も今も、人が永遠へと思いを馳せ、世界や人間という存在の不思議に立ち止まるたびに再開され、繰り返されてきたのだと思われる。

 しかし、人はまたどこかのタイミングで、こうした「無駄」で「役に立たない」問い、「考えても仕方がない」答えの出ない問いに蓋をするようになる。そして、問いに対する感受性を失い、やがては問い自体を忘れることもある。哲学の研究者ですら、そういう場合がある。

 熊野純彦氏による『西洋哲学史』(全二冊)は、哲学が始まるその原初の場所へと、また、哲学が命脈を保ち続けるその根本の地点へと、我々を連れ帰る。古典からの引用をふんだんに散りばめ、それぞれの哲学者の言葉の手触りを示しながら、やみがたく繰り返し人々が立ち戻ることになる謎と、そこから抑えがたく展開されていく思考を跡づけ、その長い歴史を丹念に編んでいく。

 ただ時系列に従って諸学説を均等に並べていくような、のっぺりした通史と異なり、本書には固有の表情がある。「一」や「一者」をめぐる叙述、それから、懐疑主義の方策トロポスについての解説などが、類書に比べて特に手厚いといったこともそうだが、二十世紀以降の現代哲学の紹介が、あっけないほどあっさりしているのも特徴的だ。永遠や存在などの「語りえないもの」をめぐる思考が、そこで何らかの極点を迎えたような、独特の寂しさを感じさせる終盤である。

 本書を繙けば、これが尋常ではない知識と知性の持ち主による仕事であることがすぐに分かる。他の学問分野と同様に専門分化が進んだ西洋哲学の歴史すべてを相手に、それぞれの哲学者の思考の核を輪郭づけながら、しかも全体に緩やかなまとまりと流れを与えつつ、詩情さえ宿した一書を紡ぐことなど、少なくともいま、この著者以外には不可能だ。

 本書をかたちづくる言葉のうち、私自身がずっと反芻しているのは、上巻の「あとがき」末尾近くの次の一節である。

 哲学とは哲学史であるとはいえないかもしれませんけれども、哲学史は確実に哲学そのものです。テクストとともに思考を継続することなしに、それぞれの哲学者が考えたこと思想を理解することは不可能であるからです。

 この一節に触れたとき、私は博士課程に入ったばかりの学生だった。いまは私自身が大学で哲学史を講じるようになったが、授業やその準備の際にこの言葉を忘れたことはない。あえて付け加えるなら、哲学史と呼ぶに値するものは確実に哲学そのもの、ということだろう。「哲学史」の看板を掲げていながら、実際にはテーゼのアルバムやアイディアのコレクションにすぎない本は山ほどある。しかし、「哲学とは学説ではなく活動」(ウィトゲンシュタイン)であって、「ひとは哲学を学ぶことはできない。学びうるのは哲学することのみだ」(カント)。先人の思考の跡を辿り、追体験し、それを引き継ぐ以外に、哲学の歴史を理解する道はない。そして、その道がいかに面白く畏ろしいものであるかについて、この『西洋哲学史』ほど鮮やかに、幅広い読者に向けて示している本を、私は他に知らない。

(ふるたてつや・倫理学)


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