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【岩波新書〈新赤版二〇〇〇点突破記念〉 この10冊】武藤香織 覚悟の人が描く、患者が医療を改善し、 支える社会[『図書』2024年1月号より]

覚悟の人が描く、患者が医療を改善し、支える社会

──山口育子『賢い患者』

 『賢い患者』の著者、山口育子さんは、認定NPO法人ささえあい医療人権センターCOML(Consumer Organization for Medicine & Law,コムル)の理事長として、「患者道」を考え、実践してきた求道者だ。COMLは、患者が自立・成熟することにより、患者と医療者が対立するのではなく、協働できる医療の実現を目指した団体である。

 一九九〇年、当時二〇代だった山口さんは卵巣がんと診断された。病名を告知されないまま、手術と抗がん剤治療に臨み、長期にわたる入院生活を経験した。自分の身体のことなのに、医療者から何も知らされず、主体的な意思決定もできなかったという経験は、山口さんにとって、「知ること」への強い希求につながり、知らされる内容を理解するための鍛錬を自らに課すきっかけとなった。今や、山口さんの活躍は、医療を志す学生や医療者への教育、医療機関の監査や医療事故調査、医療行政への助言など、枚挙にいとまがない。

 本書は、山口さんの切実な患者経験を土台にしながら、約三〇年にわたるCOMLの活動を紹介している。患者からの電話相談、『新 医者にかかる10箇条』、模擬患者、病院探検隊、患者塾、患者と医療者のコミュニケーション講座、医療を支える市民養成講座など、様々な活動が行われてきた。本書を通じて、こうした活動の背景にどのような思いや工夫があったのかを知ることができる。

 山口さんを今の立場に導いたのが、COML創始者である辻本好子さんだ。一九九〇年、辻本さんは、「賢い患者になりましょう」をキャッチフレーズとしてCOMLを創設した。本人への病名告知をしないことが当たり前だった時代に、COMLは患者が医療の消費者として自立できる時代への転換を目指した。私自身、誤診を受けたことがきっかけで医療の倫理に関心を持ったのだが、当時、辻本さんの講演を拝聴して、とても勇気づけられた。だが、二〇一一年、辻本さんは亡くなった。私は、辻本さんは全てを知り、自ら選択し、同意を与えられる「賢い患者」として最期を迎えられたものと思っていた。

 しかし本書の真骨頂である第七章を読めば、その思い込みは覆る。辻本さんの過酷な闘病生活、献身的に支える山口さんの決意、山口さん自身の二度目の闘病、そして辻本さんの旅立ちまでが克明に描かれている。患者が医療を支える社会の実現に心血を注いできた二人が、互いをおもんぱかりながら、時に感情的な諍いも孕みながら、必死に生き抜こうとする姿に、読み手はただ固唾を呑むしかない。

 本書の特徴は、山口さんや辻本さんの経験を追体験させながら、読み手に様々な覚悟を迫ってくることだ。それまで経験のない症状や治療が困難な病いに襲われた時、私たちは突如として「患者」になる。そして自らを脆弱な立場だとみなし、「賢い医師」を求めがちになるが、本書からは患者自身も賢明であってほしいという山口さんの願いが伝わってくる。とはいえ、恐怖や不安を抱えた患者が「賢さ」を備えるとはどういうことか。もっと「賢さ」をめぐる議論や葛藤が含まれていると、なおよかった。

 もう一つの特徴は、患者が自分の医療の主人公になるだけでなく、患者自身が医療をよくする側にまわって参画する時代になったと教えてくれることだ。

 COML設立以降の三〇年間で、日本の医療は様変わりした。医療者は、診察開始時に自分の氏名を名乗るようになった。病名告知は当たり前になり、カルテ開示請求やセカンドオピニオンの取得も可能になった。インフォームド・コンセントは、辻本さんが前提とした「医療消費者モデル」よりも「協働意思決定(collaborative decision-making)モデル」が主流となった。医療・ケアチームと患者や家族が互いの価値観を共有しながらよく話し合い、「ともに」決めることが重視されている。患者と医療者の協働は診察室内に留まらず、医療政策、診療ガイドライン策定や医学研究への「患者・市民参画(patient and public involvement)」も普及し始めている。多様な患者・市民が医療に参画し、活躍できる環境が整えられてきた。

 『賢い患者』という書名を見ただけで、自分には縁遠い話だと思って手に取るのをやめた人もいただろう。しかし、誰もがいつ患者になるかはわからない。本書を通じて、あらかじめ心構えをつくることは、まるで防災訓練のように、いざという時を支えてくれるはずだ。それに、少子化・多死社会の渦中にある日本の医療を、持続可能でよりよいものにするため、一人一人にできることも本書は示唆している。医療を支える市民としての自分に気づかされる一冊である。

(むとう かおり・医療社会学)


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