【岩波新書〈新赤版二〇〇〇点突破記念〉 この10冊】松沢裕作 統治者たるの覚悟はあるか?[『図書』2024年1月号より]
統治者たるの覚悟はあるか?
──三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』
日本近代政治史の泰斗である三谷太一郎が、「私なりに日本近代についての総論的なものを目指し」て執筆したのが本書である。扱われている主題は政党政治、資本主義、植民地、天皇制。「大家」が、「大問題」について、簡にして要を得た「総論」を書いた。そうした本書への評価が間違っているわけではない。
しかし私は、それだけではおそらく本書の意義を語ったことにはならないのではないかと思っている。本書は、そうした通りいっぺんの紹介ですませるには、良くも悪くも、異形の書物である。
本書は次のように書き起こされる。「日本の近代は、日本が国民国家の建設に着手した一九世紀後半の最先進国であったヨーロッパ列強をモデルとして形成されました」。ごくありきたりの文章だと思われるだろうか。しかしもう一度読んでみてほしい。主語は、「日本の近代」であり、「国民国家の建設」に着手したのは「日本」である。日本の「誰」が列強をモデルにしたのか、「誰」が国民国家の建設に着手したのか、一切語られていない。
本論に入っても、主語「日本」は頻出である。そして、具体的な記述で語られるのは政治家と知識人の構想と行動である。政党政治を論じる第一章は言うに及ばず、資本主義を扱う第二章でも、焦点は大久保利通から井上準之助に至る経済・通商政策の指導者に置かれており、産業の発達等々はほとんど語られない。植民地が論じられる第三章のかなりの部分は、枢密院の議事の説明に充てられている。
私はなにも「民衆が不在だ」などと本書を非難しようというのではない。むしろ、あえて資本主義や植民地を論題に含めながら、なお政治家や頂点的知識人について語ることが「日本」について語ることだという本書の姿勢が、何に由来するのかを考えてみたいのである。
本書の序章では、一九世紀イギリスの同時代観察者であるウォルター・バジョットの「議論による統治」という概念が、「近代」のメルクマールとして採用される。複雑化する社会の諸問題を、時間をかけて、議論によって解決してゆくこと、そこに三谷は「近代」の特徴を見るのである。そしてこの「議論による統治」の貫徹こそ、三谷が本書の読者に期待しているものにほかならない。
その点、本書の特徴は、バジョットの基準が当てはめられないと著者自らが述べる、天皇制を扱った第四章によく表れている。三谷によれば、既存の近代を機械のように輸入した日本では、個人もまた全体への機能を持つものとして位置付けられ、「機能主義的思考様式」が一般的となる。そこでは、現実のヨーロッパ近代が持っていた伝統的な文明による統合が存在しない。そのため、伊藤博文ら明治の指導者たちは、ヨーロッパ伝統文明の核であるキリスト教に代わるものとして、天皇を神聖化して、天皇制に過剰な機能を負わせようとする。その表現が教育勅語である。立憲主義と矛盾しかねない教育勅語の内容と形式に関する法制官僚井上毅の苦心を述べたのち、三谷は「象徴天皇制は将来に向っていかにあるべきなのか、天皇は自らの意思を主権者である国民に対して直接に伝えることが可能なのか」という問題を提起する(いうまでもなく退位問題が背景にある)。そしてかつて井上毅が「脳漿を絞った」問題は、今や「現天皇の直面する問題であるとともに、主権者である国民全体の問題でもあるのです」と三谷は言う。これは恐ろしくハードルの高い要請である。明治政府最高の頭脳といわれた井上毅が考えたことを、主権者たる「国民」が考えよというのだ。
終章において三谷は、現在私たちが直面している問題を整理しつつ、「デモクラシーにとっての平和の必要を知る「能動的な人民」(active demos)の国境を越えた多様な国際共同体の組織化」の重要性を説く。ここまで来て、初めて読者は、なぜ三谷が伊藤博文や井上毅や福沢諭吉を語るだけで「日本」を語ることができると考えているのかを知ることができる。つまり、三谷は、現在の日本国民一人ひとりに、伊藤や、井上や、福沢となって「議論による統治」の担い手となることを求めているのだ。
そのハードルを、本当に、日本国民「全員」が超えられると三谷が思っているのかどうか、私にはわからない。日本の近代化が「モデル」にもとづく計画的なものであったという本書の前提にも私自身は懐疑的である。ただ、「統治者たるの覚悟はあるか」という三谷の突き付ける問いに、せめてたじろぐことができるぐらいの読者ではありたいと思っている。
(まつざわ ゆうさく・日本近代史)