思想の言葉:普遍へのまなざし──関孝和がめざしたもの 上野健爾【『思想』2024年2月号】
技術圏のレシプロシティ
──土地をめぐる環境人文学的考察
結城正美
感性と創造性についての基礎情報学的一考察
原島大輔
〈複合国家〉論の可能性
──民主主義の危機と向き合う
白永瑞/金建佑訳/金杭監修
近現代日本における戦争責任論の展開
宇田川幸大
『差異と反復』第二章における無意識論の帰結(続)
──無意識の第一の受動的総合と第二の受動的総合の注釈
鹿野祐嗣
沖縄からサイードを読みなおす
我部 聖
普遍へのまなざし──関孝和がめざしたもの
関孝和(?―一七〇八)が江戸時代の優れた数学者であり、ヨーロッパの数学者に先駆けて優れた業績を挙げたことはよく知られている。しかし、関孝和が江戸時代の数学のあり方、考え方を根本から変えた数学者であることはほとんど知られていない。それは関孝和の数学に対する考え方を江戸時代の数学者が理解できなかったことにも起因する。関孝和は、自著の『発微算法』の解説書として高弟の建部賢弘が著した『発微算法演段諺解』の跋文の冒頭で「算学は何の為ぞや。難題、易題、盡く明めざると云こと无しの術を学ぶなり」と宣言し、数学の勉強では、理論を学ぶことの重要性を主張した。中国伝統数学もそれを受け継いで発展した江戸時代の数学でも、数学とは問題を解くことであると考えられていた。それに対して、関孝和は、数学では個々の問題を解くことが重要なのではなく、それらの問題の背後にある数学の理論を構築することが重要であると主張した。これは、それまでの伝統とは大きく異なる視点であった。関孝和はこのように主張しただけでなく、自ら一般論を構築し、数学の内容を豊かにしていった。
大変、奇妙に思われるかもしれないが、中国伝統数学では一般論は生まれなかった。数学とは問題を解くことであるという考え方は二千年以上前に著された『九章算術』以来の中国の伝統であり、その考え方は今日の日本の数学教育にも色濃く残っている。数学の学習では、理論を学び、一つの対象に対して視点を変えることによって異なる理論が適用でき、そうした作業を通して考え方を深めることができる。また、記号を使うことによって思考の見通しがよくなることも学ぶことができる。数学の歴史は先入観からいかに自由になって新しい見方、考え方を見出すことができるかの歴史でもある。こうした数学の重要な側面は、日本の学校教育では教えられることがなく、ただ問題を解くだけの無益な教育が行われて、多くの数学嫌いを産み出している。関孝和の考えは、こうした今日の日本の教育の数学に対してもつ古色蒼然とした考え方とは正反対の、当時としても破天荒の考え方であった。なぜ、かれがこのようなきわめて現代的な考え方を三百年前にもつことができたのか、それは今なお解明できていない。江戸時代の思想史の観点からも考えるべき課題である。
ところで、中国伝統数学は紀元前後に著された『九章算術』に始まる。『九章算術』はその名前の通り九つの章からなる数学の問題集で、問題の解き方に応じて章分けされており、問題と解答、解法のアルゴリズムが記されていた。漢数字は計算に不便であったので、竹や象牙や金属で作られた算籌と呼ばれる棒を使って数字を表し、計算を行った。負の数も取り扱うことができ、平方根や立方根を求める計算や、驚くほど現代的な処方で連立一次方程式を解いていた。解法のアルゴリズムは洗練されていて、問題が与えられればその手順に従って解くことができるようになっていて、計算アルゴリズムに関しては当時の世界で一番進んでおり、二千年前の数学とは思えないほどであった。
しかし、大変不思議なことに、『九章算術』では何故そうしたアルゴリズムで正しい答が得られるかなどの考察は数学の対象外とされていた。数学は暦の作成や徴税のための実用の学問と考えられたことが大きく影響していたと思われる。古典を尊重する中国では『九章算術』が数学記述の手本とされ、数学に関する考え方は変わらなかった。そのことを象徴するのに、一二、三世紀の中国北部、特に金で発達した天元術と呼ばれる紙上に式を書いて方程式を求める方程式論がある。元代には授時暦作成のためにも使われた。ところが、明代になると天元術は忘れ去られ、天元術を使った数学書を理解できなくなってしまった。数学は実用の学であり、数学を使うのは官僚であり、それを担った官僚組織が入れ替わってしまって伝承が途切れてしまったようである。幸いに天元術を記した数学書『算学啓蒙』は朝鮮に伝わり、再刻された。『算学啓蒙』は日本にも伝わり、翻刻され、関孝和も読んだと思われる。
天元術によって方程式を立て、それを解くことによって問題が解かれたが、方程式は問題を解くための手段と考えられ、数学の研究対象ではなかった。そのため、天元術が何であるかの説明は記されず、ただ、天元術を使った解法のみが数学書に載せられた。従って、『算学啓蒙』を読んでも天元術を正しく理解することは難しかった。江戸時代の数学者で天元術を初めて正しく理解したのは澤口一之であるとされている。かれは『古今算法記』を著し、解答をつけない難問をその中で提出した。澤口の問題が難しかったのは天元術を使って解くことができなかった点にあった。天元術は一未知数の方程式しか記述できなかったからである。
『古今算法記』の問題に解答したのは関孝和であった。彼の解答は『発微算法』として出版されたが、問題を解くための最終方程式しか記されておらず、それをどのようにして導いたのかは一切説明がされていなかった。関孝和は多未知数の方程式を記す記号を創案し、今日の数学用語を使うと、高次連立方程式を立てて、未知数を消去することによって、澤口の問題に対する最終方程式を導いた。これだけでも、素晴らしい業績であるが、関は問題を解くだけでは満足せず、高次連立方程式の未知数を消去する一般論を西洋数学に先駆けて構築した。同時代のライプニッツやニュートンが活躍した西洋数学では、記号も整備され、未知数を消去する理論の必要性は数学者の共通認識となっていた。そうした記号もなく、必要性を誰も感じなかった中での関孝和の業績であり、それはライプニッツも試み完成できなかった理論であった。関は、さらに方程式の一般論など、それまで数学の対象とされていなかったものを数学に取り込み、数学のあり方を根底から変えた。
関の数学的内容は江戸時代後期には一般の数学愛好者も理解できる程に普及し、問題を解くために利用されたが、関の数学に対する考え方は理解されることはなく、江戸時代には数学の理論的な研究では関を超えることはほとんどなかった。
私は、常々、関孝和が正当に評価されていないことを残念に思っていた。また、以前に編纂された『関孝和全集』は原文の翻刻だけであり、さらに私のような素人から見ても本文の校合が不十分であり、新しい全集の必要性を感じていた。幸いに、数学史の専門家と共に新しい『関孝和全集』を編纂し出版することができた。原文の読み下しだけでなく、現代語訳もつけることができたので、関孝和の考えを比較的容易に読み取ることができると思われる。時代をはるかに超えた関孝和への理解が深まることを期待したい。